遙か彼方のきみ

「ダスティおにいちゃん」
 そう呼んでいたあの頃の少女は明かりを付けず、喪服を纏ったままベッドに腰掛けていた。
 幼馴染みはアッテンボローより数年遅れてこの世に生を受けた。姉たちの暴虐に晒されていた末弟のアッテンボローが彼女を妹のように可愛がったのは当然の帰結、にしては奇怪な道程であった。
 ただアッテンボローが彼女を異性として見たことは一度としてなかった。自分の後ろを健気にも追いかけてくる姿にいじらしさを感じたことなど認めるが、己より力が弱い対象に対して誰もが抱く庇護欲にも似た感情で、それ以上でもそれ以下でもなかった。
 士官学校に入学する直前に告白された。震える手と唇。十年ぶんの勇気を振り絞った、ありったけの心。しかしアッテンボローは受け取ることもできず、持ちうる限りの誠意を持って明確な断りを選んだ。
 付け足したそれらしい事実――軍人の奥さんはやめておいたほうがいいとか、きっとそんなことだった――を聡い彼女は建前だと理解していただろう。最後まで聞き届け、そっかと俯いた拍子に紗幕が頬へ滑り落ちる。きゅっと瑞々しい唇が引き結ばれたのは一瞬。勢いよく上げられた大きな瞳がアッテンボローを貫いた。
 軍人のお嫁さんなんてこっちからお断りよと笑顔を咲かす。目元には涙がうすく滲み、口の端は震えていて、誰の目から見ても強がっていることは明らかだった。
 でも気高かった。潔さを体現した凛とした佇まいに、やはり異性としては見られなかったが人として好ましいことこの上なかった。
「……ダスティ、さん」
 そんな彼女なら引く手あまただろうと道行きを祈り、手を離したのが最後。楚々とした腰や儚げな雰囲気、よそよそしい呼び方などは思い出の中の彼女と何一つ重ならず、お互いの間にどれだけ断絶があったか天岩戸を開けたアッテンボローは実感する。慰霊祭が終わった今もなお戴かれているトークハットの灰色のヴェールが宿主を覆い隠し、部屋の暗さに相俟って最奥の表情を窺い知ることを許さない。
「どうしてここに」
「おばさんが心配してたから」
 扉のすぐ傍で、祈りと不安が綯い交ぜになった青い顔で指を組んで見守っているのは彼女の母親。昔から似ていたのだから、今は瓜二つになっているのかもしれない。
「旦那さん、死んじまったんだってな」
 お隣の娘さんが旦那の戦死報告を受けてから食事に手をつけていない、と自分の母親から話をされたのは一昨日。可愛がっていたんだから何とかしてこいと無茶ぶりを寄越した母親に、こういうのは時間がなんとかしてくれるものだとは持論で返したけれど軍人の理で考えるんじゃないと雷が撃ち返された。
 不承不承に十何年ぶりに隣の門をくぐったアッテンボローは、廊下から漏れた光を反射する写真立てに目をやる。
 丸テーブルの上に飾られた写真にはタキシードとウェディングドレスに身を包んだ男女。女性はもちろん幼馴染みで、その横で自分と真反対の優しげな偉丈夫が佇んでいた。
 軍人の嫁なんて嫌だと言った彼女だったが、結局軍人と結婚した。姦しい声伝いに知らされる馴れ初めに後方支援だという情報があった気がする。今回の戦闘に運悪く巻き込まれ、帰らぬ人となった。
「酷い、よね」
 ぽつり、音が落ちる。
「約束したのに」
 拒絶の気配はなく部屋に踏み込めば、アッテンボローの瞳に秘された彼女のかんばせがようやく映し出される。
 ひび割れた唇に、色が落ちて痩せこけた頬。決して美しいとは言えない状態の彼女に発破をかけようとして、それは叶わなかった。
 薄いヴェールの向こう、瞳の奥に燃え盛るは凄絶な悲憤。己に触れようとする不逞な輩を焼き尽くさんばかりの激情が彼女を今の彼女たらしめていることにアッテンボローは気づいてしまった。
「――軍人なんて大っ嫌い」
 拳をきつく握り締める幼馴染みを見下ろしながら、皮肉だなと自嘲する。悲嘆に暮れていたら、なりふり構わず泣き縋ってきてくれたらどれだけよかっただろう。まだ何者でもなかった自分と、その後ろを追いかけるあどけない妹分が脳裏をぎる。
 年下の幼馴染みを、アッテンボローははじめて女性として綺麗だと思ってしまった。

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Boy Meets Lady