残映

 ブザーが鳴り響き、片付けの手を緩めて玄関へ向かう。この時間帯ならば宅配ではないことを知っていたのでドアスコープを覗き込むこともせず、扉を押し開いた。
「待ちくたびれたぞ」
 夕照を反射し、視界を柔く包み込む砂色の瞳と髪がたたずむ。その手には年代物のウイスキーがあった。
「酒がか?」
 好物である土産を諸手を挙げて受け取るとミュラーが苦笑を零す。
「どっちもだよ。地上に降りているときにしか飲まないようにしている上に、しかも誘いに乗ってくれるような悪友殿は海鷲行くと他の僚友の方々といつも飲んでいらっしゃるからな?」
 靴の踵を揃えたミュラーに中へ入るよう促し、小躍りのままキッチンへ向かう。
「なんだこの山は」
 この間ふらりと寄った古市で見つけたグラスを探していると、ミュラーが先程まで片付けて放置していた山に興味を示す。
 アルバムよりも薄く、色紙よりも厚い2Lのキャビネット。良質の紙のところどころに施された装飾が小さな家の壁や天井に煌めいて、小汚い部屋をさながら昼のプラネタリウムへ変える。
「ああ、それ全部見合いの釣書」
 あったあったと探していたグラスを手に取る。無駄のないフォルムが気に入って二つも購入してしまった代物である。すでに用意していたアイスロックを硝子の厚い底へ投げ、ミュラーに渡そうとして手を止める。ミュラーの反応がなかったからだ。
「男か?」
「女性だよ」
 ようやく紡ぎ出された言葉が誘った悲惨な未来は、今そのとき手に殺傷能力の高い業物を持っていなかったことにより回避された。
「一応今日まで男として通っているんだ。周りが男性を勧めてくるわけなかろう」
 この性別不詳な顔立ちのおかげで、前線勤務に女性がいない帝国軍において本来の素性を現軍部内で心得ているのはミュラーのみである。
「お前がなかなか所帯持たないからって、外堀から埋めようとはよく考えたものだ」
 感嘆の混じったボヤきに形のよい眉が顰められる。
「どうして俺が結婚していないことと、お前のところに見合いが舞い込むことが繋がる」
「ミュラー提督が結婚しないのは、悪友たる私がいつまで経っても伴侶を見つけないからだそうだ」
 ミュラーは開いた口が塞がらない様子で、だろうなと同意とともに肩を竦める。
 軍人が身を固めない理由には、近くに気心知れた同性がいるからだというのが噂好きな世間サマの相場だ。優しくて温厚なミュラー提督ならば選り取りみどり、両腕に花束いっぱい夢いっぱいだというのに一向に女性の気配がチラつかないのは交友関係のせいだ、と。
 それを真に受けたか真偽は定かではないが、お偉方各所から押し寄せている現実は変わらない。将を射んとすればまずは馬を射よ、との囁きにそれを言うならミュラーと階級が同じで過ごす時間が圧倒的に長い付ビッテンフェルト提督にも、と完全なる巻き込み事故は胸中に押し留めておいた。
「結婚する気はないのか」
「ない」
 一も二もなく答えを返す。
「そういうのはいいよ」
 酒を一口煽り、心の底に溜まり続けた澱みと向き合う。
 軍人なんてものは、特に前線に出ている者は将官下士官問わず人殺しだ。国のため、生きるため。それらしい建前で、さも自分に生き死にを左右する権利があるように他人の人生を屠る。もちろん人殺しが結婚してはならないという法律は現時点で銀河帝国にもこの世のどこにも成文されていない。しかし倫理的、感情的には許容しがたいのが人としての性であろう。
 ――人殺しに幸せな生活を望む権利なぞあってはならない。
「俺たちが幸せになっていないからと、死んでいった者たちが大手を振って天上ヴァルハラから帰ってくるわけでもないだろう」
 心を読まれたかと肝が一気に冷えた。ミュラーを見やると、ミュラーも琥珀色の水面を眺めていた。
「……手厳しいな」
「軍人に業を洗い流す免罪符はないし、未来を軽視する贅沢もない」
 こういうところが自分とミュラーとの分水嶺なのだろうと、わずかに劣等感が頭を出す。覚悟ができているから今の地位に就いていることも頭で理解しているし納得もしている。それでもやはり綺麗な道ばかりを生きてきた方々の言うことは違うと僻んでしまうところまでがワンセットなので、ミュラーにこのことをぶつけたことは一度としてない。
「女に戻る気はないのか」
 酒を注ぐ手が止まる。
「……何故」
「退役して元の性別に戻ればお前が軍にいたことを知る者はいなくなる。女として、幸せな人生をやり直したっていいはずだ」
「口が悪く、腕っ節は立つ行き遅れを拾ってくれる心の広い方がいればいいけどな」
 帝国における女性の結婚適齢期はとうの昔に過ぎ去っている。田舎など特に毛嫌いするだろう。
「なんなら、ミュラーが引き取ってくれるか?」
「それは――……」
 閉口してしまったミュラーに馬鹿正直者めと心の中で悪態をつく。
「意地の悪い質問だったな。少々図に乗った。心配してくれたんだろ?」
 ありがとうなと小首を傾げ、笑いかける。ミュラーのような友人を持てたことは人生にとって得がたい幸せで、それで満足しているべきなのだ。
「そっちこそ結婚についてどうなんだ。ミッターマイヤー閣下が回してくれていると風の噂で聞いたが」
「……まだ結婚はいいとお断りしている。仕事で家庭を顧みられる自信がない」
「そんな卑下するほどか? 子供も嫌いじゃないうえにマメだ。以前ほど転戦しないのだからそんなに家を空けないだろう」
 この女性辺りはお前の好みなんじゃないかと何枚か抜き取り、ミュラーの前に滑らせる。そうすると瞬く間に形のよい眉が歪み、間違えたと悟るに時間は要しなかった。
「……なんて、こんなこと言うのはお前にも彼女たちにも失礼だったな。忘れてくれ」
 横流しの真似をした自分の白々しさに、嫌悪の混ざった自嘲が零れて体温を奪う。女性にだって意思があることは自分自身で証明しており、幼馴染みの件で身に染みるほど傷ついたはずなのにどうやらあの頃から成長していなかったようだ。
「とにかくお互い事案だけはやめよう、ぐらいでいいな」
「弟と妹を誑かしたお前にだけは言われたくない」
「あんなの小さい頃の憧れで」
「二人の気持ちが本気じゃないって?」
「自分だってそう思ってるのに突っかかるなよ」
 唸る小火を慌てて宥めすかす。しばらく時間経てば、いつもの他愛のない話で盛り上がりを見せ、そのタイミングでチェイサーを胸郭に流し込む。
 この関係から抜け出したいかとの問いに、きちんと返せる自信がない。自分の中に答えがないからだ。ミュラーの隣に自分以外の女性がいる光景を想像したときに感じたのは逃げ出したくなる痛みよりも、空いた穴に隙間風が吹き付ける寂しさ。
 ただひとつ、瞭然としているのは変わったら元に戻れなくなる、そんな予感だけ。
 この曖昧な関係を誰よりも願っているのは、はたしてどちらか。
 寄り添った二つの空のグラスは何も答えてれない。

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Boy Meets Lady