ダイスキで、ダイキライ

 ジェシカ先生。
 ジェシカ・エドワーズ先生。
 やさしくて、凛としたカッコよさを持った、花束と笑顔が似合う美しい女性の名前である。
「軍人の奥さんなんてやめたほうがいいです」
 先輩の卒業式が終わった後、東洋のサクラ――様々な人種が混在する自由惑星同盟において、誰が最初に持ち込んだか不明な木――の下にいたジェシカ先生に懇願した。なぜならもうすぐ先生は結婚してしまうからだ。
「そうね。私も思うわ」
 春風に攫われた横髪を耳にかけながらジェシカ先生は頷いた。でもその艶やかな唇から結婚しない選択肢が紡がれることはついぞなく、化粧も知らない唇を噛み締めることしかできない。結局彼女にとって自分は子供で、それ以上でもそれ以下でもない存在だとまざまざと突きつけられた。
 でも幸せを願った。だって好きなひとの門出だから。幸せにする人間が自分でないことが悲しくて悔しいけれど、先生の手を取り先生を笑顔にして、幸せにしてくれるならそれだけで。子供みたいなどうしようもない気持ちと減ることのない好きという感情に折り合いをつける算段を拙いながらも整えて。
 だから先生が軍人と手を取って式典を抜け出したのをテレビ越しで見たとき、私がどれだけ狂ったか先生は絶対知らない。
 ねえ婚約者をついこの間の戦争で亡くしたんでしょう。いっぱい泣いたでしょう。気丈な先生だからきちんと授業をしてくれたけど、質問したい生徒向けにいつも昼休みに開放していた教室を閉めてたでしょう。それなのにどうして別の男と駆け落ちまがいのことができるの。
 しかもよりによってまた軍人。
 許さない、ゆるさない、ユルサナイ、許サナイゆルさなイ許サナいユるサナいゆるサなイ許さナイ――
 怨嗟が身体中を駆け巡り、堪えようのない奔流に支配される。気づいたらテレビにスイセンが挿された花瓶を叩きつけていた。
 私の方がジェシカ先生の悲しみに寄り添える。ジェシカ先生がどんな料理が好きか知っている。どれだけ生徒思いか身に染みている。どんな話題でちいさな笑い声をあげるのか、どんな手で触れてくれるのか、どんな字を書くのか。
 こんなにも狂ったのは相手の男を知っていたからかもしれない。
 ねえ先生。あのひとでしょ? 職員室のデスクに飾ってある写真の、先生の婚約者じゃないもう一人の男のひと。エル・ファシルの英雄と多くの人々から呼ばれながら軍人に程遠いのほほんとした、先生の婚約者だったひとの――親友。
 ジェシカ先生がわからない。また置いていかれる悲しみに苦しむの? 本当はあのひとが好きだったの?  婚約まで渋っていたのはあのひとが原因? 二股?
 根も葉もない憶測が思考を凶暴なものへと尖らせる。いや、いつも理性が抑え込んでいてくれただけでずっと燻っていたものが爆発したのだ。
 リビングの惨状に悲鳴をあげた母親の横をすり抜けて、防音室に飛び込む。荒々しく閉じた重厚なドアに体を預け、唸る息をなんとか整えようと大きく深呼吸した瞬間、譜面台に寄りかかる白が目に入る。もう自分ではどうしようもできないくらいの激情に突き動かされ、手を伸ばす。それはジェシカ先生の字が書き込まれた譜面。恋しいひとの残香が漂う何もかもが憎悪の対象になっていた。
 粉々に破り捨てようと手にかけた刹那、ジェシカ先生の悲しむ表情が暗闇に浮かぶ。獣が如き息が噛み締めた歯の隙間から零れ、力なく床にへたり込む。
 可愛らしい猫が励ますイラストが滲む。望んだものではなかったけれど、確かに自分へと向けられた感情がそこにはあった。
 前髪と譜面の両方がひしゃげる音が響き、どこにも行けない慟哭が防音室を劈いた。
 そうやって打ちひしがれてしばらく楽器も触れられずにいた間に先生は学校を退職した。
 ふたたび火花が弾けた。あの男かと、天国で飛んでいる蜻蛉みたいな軍人への怒りが込み上げた。
 お前が、お前が。
 あのパッとしない男が政治家に転向した理由に関わってるかは知らない。でも少なからず影響を受けたことは容易に想像でき、幼稚な偏見は邪推ばかり枝葉を伸ばす。
 いつまでジェシカ先生の心に棲みついているのよ。心はひとつなの。ジェシカ先生の心は婚約者さんのものなの。もっと言えばジェシカ先生の心はジェシカ先生のものなの。あなたの入る隙も、私のつけ入る隙もこれっぽっちもないの。先生の心から出ていってよ。
 婚約者だったひとは善性という概念を人間にしたようなひとで、このひとならジェシカ先生を幸せにしてくれるんじゃないか、生きて帰ってきてくれるんじゃないかと思えたから許した。でもそのひとだって結局死んでジェシカ先生の美しく強い心に傷をつけた。あの男だってきっとそうだ。もう誰もジェシカ先生を傷つけないでほしかった。
 唯一許せたのはジェシカ先生があの男の手を取って、でも追いかけなかったことだけ。あの男の姿に焦がれず、軍人になろうなどと血迷わなかった。それだけが嬉しくて、それだけで嬉しくなってしまう自分が虚しくて、それだけしか縋れない自分の無力さがどうしようもなく嫌いだった。
 卒業してからもジェシカ先生の動向だけは追い続け、そうして先生は星になってしまった。
 否、軍人が殺した。救国軍事会議とやらと宣う狂った軍人がスタジアムで無惨に殺した。決定的な瞬間を中継は捉え、あの男がジェシカ先生を連れ去った時の比じゃない絶叫が喉の奥から迸る。
 どうして軍人どもは私から、ジェシカ先生から全部奪うの。ジェシカ先生が何をしたっていうんだ。自分のような人間をこれ以上生み出したくないと願って行動しただけなのに、何故市民を守るその拳を振り下ろした。戦争ばかりしている政府に向けるべき銃口を市民に向ける。
 液晶の向こうで血が踊り、肉が舞う。銃声が不定期な拍を叩き、怒号と悲鳴が唱和を奏でる。先生が望んだものと正反対のこの世の地獄に耐えきれず、パスポート一つ掴んで空港へ駆ける。丸腰のジェシカ先生を銃床で何度も殴打して殺したあの畜生を殺さなければならなかった。
 ゲートに駆け込もうとしたのを保安員に止められる。惑星間の航行が禁止されていると伝えられ、あの阿呆共が宣言していた気がするがそんなこと今はどうでもよい。尋常ではない様相に保安員が取り押さえにやって来た。何度も抵抗し、何かを叫んだ。おそらく抱えていたすべてだろう。
 気づいたら実家の玄関に立っていた。懐かしい床のタイルに心を奪われていると久しぶりに見る父が家の奥から現れる。こうして無事なのは一部始終を見ていた周囲が解放してやってくれと、その当時各地で起きていた反乱を平定し寄港していた艦隊司令官に陳情を奏上し、受け入れられたからだと。
 また自分は何も出来なかった。ジェシカ先生のために何かしたいのに。ずっとジェシカ先生の助けになりたかったのに。
 泣きじゃくる母の腕の中で無力感は変質し、行き場のない憤怒は生きているある男にすべて向かう。
 お前がいなければジェシカ先生は死なずに済んだ。音楽が大好きな、私たちのジェシカ先生でいられた。今でも音楽の好きな子に音楽の素晴らしさを伝えていたはずなのに。お前に出逢わなければ。
 憎い。
 でもこんな時に限って引き留めるのはいつだってジェシカ先生だった。
 ――あなたはどこにいるのか。
 守ってもらっている分際で、助けてもらった分際で。
 仇を取ってもらった分際で。
『軍人にもマトモで、頑張っているひともいるのよ』
 最高評議会議長と、白の正装に包まれた軍人が液晶に映し出される。今回のクーデターを収束させた英雄は今までの人生で見た軍人のなかで一番軍人らしくない容貌をしていて、ジェシカ先生の隣に立っていた彼から何ら一つ変わっていなかった。
 墓地でその姿を見かけたとき、言葉が出なかった。声をかけようとしてではなく、彼がいた場所に虚をつかれたのだ。そのヒトは寄り添った二つの墓碑の前に腰を下ろしていた。私の大好きで大嫌いなひとと、その婚約者さんの墓の前に。
 後ろ姿を陰に隠れながら見送ったあと、目的の場所へ駆け寄る。センスのない白一色のスプレーマムの花束がひとつ置かれていた。
 嗚咽が醜い嫉妬を喰い破り、己の感情に終止符を打つ。
 恋でした。
 恋をしました。
 恋をしていました。
 どこまで行っても愛にならない恋を。

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Boy Meets Lady