It ain't me.

 吐息すら騒音へ格上げされる深夜。わずかな街灯のみが浮かぶ通りに愛車をゆっくりと徘徊もとおらせていれば手を挙げる人影が見え、歩道に四輪の巨躯を寄せる。
「すみません、ここの住所までお願いします」
 今夜の客は泥酔した男性と、介抱人の二人組であった。
「おーいミュラー。大丈夫か? 一人で自分の部屋まで行けるか?」
 受け取った紙に書かれた住所から最短ルートを組み立ている後背で、座席シートに放り投げた男に付き添いが声をかける。ミュラーと呼ばれた砂色を持った髪の好青年は泥酔しているせいか、ドアに頭と体を預けたきりまともな反応は返ってこない。これは無理だと肩を竦めた付き添いを乗せて、アクセルを踏んだ。
 酒精が静寂しじまと入り交じった夜特有の匂いとともに駆けながら、運転手の男はちらりとバックミラー越しに後部座席を一瞥する。介抱していた青年は随分と中性的な容姿で、声を聞いても男なのか女なのか数多の乗客を運んできた者にすら判別がつかなかった。
 転瞬、鏡越しに猛禽類を彷彿とさせる鋭さと目が合い、運転手は息を呑む。
「酒臭くてすみません」
 だがそれはほんの一時の出来事で、奇術師が掌を返すがごとく鮮やかに変わった付添人の表情に、詰まってしまった息をひっそりと吐く。耳の奥で心臓がいまだにいやに五月蝿く脈打っている。
 見ていたのはほんの一瞬だったのにコンマ一秒もなく捉えられたのは運転手という職にしがみつく覚悟をして以来初めての出来事で、ハンドルを握る手のひらに冷たい汗が滲んでいる。
「いえいえ。今日はいいことがあったんですか?」
「その逆で」
 なんとか話題をと目敏い青年(そう呼ぶことにした)に振った男であったが、薮を啄いてしまった。
「すみません」
「いいんですよ。どうせ寝てるから聞いてやいません」
 ふたたびバックミラー越しに、今度は真後ろの人間を見やる。窓ガラスに頭を預ける好青年は安らかな寝息を立てていて、原因が酒でなかったら微笑ましい光景であったことは容易に想像がつく。いや、この場合は残念な風体になっているのにも拘わらず好青年の欠片が拾える、と表現したほうが正しかった。
「どうも手痛い失恋しちゃったみたいで、久々に連絡があったと思えば行きつけの酒屋に突然呼び出されるわ、すでにこんな形で出来上がってた彼とさっきまで付き合わされるわで」
 そりゃ災難でしたねと、付き合ったと言いつつもそこまで飲んでいないであろう青年に相槌を打つ。
「――こんなに傷つくくらいならしない方がよかったのに」
 運転手は絶句し、勢いよく視線を前へと戻す。
 隣で眠る好青年に向けられた、ありふれた色の瞳の奥。見逃してしまいそうなほど小さな熱。忌々しいからと消したくて、そのくせ一息に消すには憚られる、熱とも光とも言い表せない小さな灯り。
 今夜かぎりの客の関係性を、それも一方通行の感情を決めつけるのはよくない。しかも男同士の。
「運転手さんは恋をしたことがあります?」
 嫌な跳ね方をした心臓を誤魔化すように、頭の中にない抽斗を無意味に出したり閉まったりを繰り返す。
「喋ってないと私も寝てしまいそうで」
 頭を掻きながら青年が理由を付け加える。ご大層な高説を垂れるほどの経験がない不得手な分野でどう答えたモンかとこちらの困惑を汲み取った、彼の気遣いであった。
「まあ、それなりに」
「楽しかったですか?」
 また頭を悩ませる難しい問いが投げられる。
「どうですかね……こっちが傷つけられたこともあれば、知らないうちにこっちが傷つけたこともあるので楽しいだけでなかったことは確かです」
 待ち合わせ時間に少し遅れたとか、記念日を忘れたとか、直してほしいところを直してもらえなかったとか。些細なことですれ違い、でもそれが相手にとっては重大で、二人の間には決定的で。いつか、いつかと放置しておいたら腐って、ほどけ落ちていた。
「後悔していませんか」
「……してないです」
 幾ばくか間を置いたものの、しっかりと答える。
 終わりは苦く、痛みを伴った。だがそれまでの過程や始まりは甘く幸せで、こんなにも人を想えるのかと知らない自分を見つけることができたし、今の家内を大切にする術も得られた。
 青年の望む答えではないかもしれない。おそらくこの洞察は当たっている。それでも答えるのが礼儀であった。
「それは良い恋をしましたね」
 パチリと瞬きを弾いて、穏やかに微笑む。つい先程まで恋を知らない子供のようだったのに一転、数多の恋を積んできた名うての教師のように褒めるものだから目まぐるしい変化に追いつかない。
「あ、そのへんで大丈夫です」
 ほら起きろと、酔っ払いに対してなかなか煩雑かつ残酷に揺り起こす。友人だからこその気安さだろうが、聞いているこちらが痛いと錯覚するような音で背中を叩き始めたときは車内で吐かれる未来に肝が冷えた。
 提示した料金より多く貨幣がトレーに載せられ、自分よりも華奢であるのに危なげなく逞しい体躯を持ち上げた背中を運転手は呼び止める。
「あのっ」
「不躾なことを話させてしまったお詫びです」
 子供同士が他愛のない秘密を共有するように、青年は人差し指を唇にあてる。その仕草がかつて愛した女性に似ていて。
Schönen Abendよい夜を
 背中越しに振られた手の軌道は蝶の舞踊を辿り、淡く一夜に消える。かつての恋人もそんなヒトであった。彼女は今幸せだろうか。悪いことをしたと思っている。だからこそ幸せになってほしいと祈る。
 そうして先程の青年を思い返す。口には出さなかったが、中性的な青年はもう一人の友人にたしかに恋をしていた。
 傷つくのなら恋などしなければよかったのにと青年は零した。今しがたの彼の、酔い潰れた好青年を見つめる友人の表情はたしかに傷ついていた。ぞもそも恋はするものではない、落ちるものだ。それが世間に敷衍している常識である。運転手もその説に異論なく、青年を恋知らぬ稚児と思った所以でもあった。だがその後――恋をした後について誰も口にしないことだけは引っかかっていた。
 恋でなくとも、落ちれば予想だにしないところで傷つく。無傷のままではいられないことは大人も子供も知っているのに誰も彼も目を逸らす。
 この先ふたたび会うことはないだろう。軍人は転属が多いと聞く。この夜が特別だったのだ。
 それでも二人が訣別することのないよう、運転手は虚空の星々に祈ることしかできなかった。

top
Boy Meets Lady