うらもなく去にし薔薇へ

「お前さん、生きて帰ったらいの一番に彼女に謝ることだな」
 別行動していた間の報告を終えた途端、雑談の入口に手榴弾が投げ込まれる。リンツは目を瞬かせるしかなかったが、すべてを悟って視線をつま先に落とした。
 メルカッツに随行するにあたり、リンツの他数名も書類上行方不明扱い――つまり世間で言うところの戦死者になった。どういう経緯で恋人がいることが上司の知るところになったのか深く尋ねないでおくが、ヤンの命令とは言え家族にすら隠匿している真相を血縁上でも書面上でも何ら関わりのない人間に話すことはできない。どうすることもできない事実ゆえに置いてきた彼女への罪悪感が抑えていた蓋から顔を出した。
「……甲斐性のないこんな男、さっさと忘れてくれるといいんですけど」
「無理だろうよ」
 仮の死者であっても、死者が生者の道を定めることはできないし、してはいけない。だからせめてと願った自分勝手な気持ちを間髪入れずに否定され、リンツは何故と少し鋭くした目で尊敬する上司に答えを求めた。
「彼女、お前さんの生死を薔薇の騎士ローゼンリッター連隊の宿舎まで訪ねに来てまともな回答を得られないと知ったら、俺の家に押しかけてきたんだからな」
「え」
 リンツに当惑の波が広がる。自分の知る恋人はそんな大胆な行動を起こす性格ではなかったからだ。
「女は時に好いた男のためなら何でもできてしまう。世界を転覆させることだって夢じゃない」
「……貴方がそれで納得されたとは到底信じられません」
 使い古された言い回しでこの色男が納得したわけがないとリンツは確信していた。自分にもたらされていない出来事のなかで、シェーンコップに根拠を与えたのだ。
 リンツの瞳に応じてシェーンコップは記憶からその時のすべてを引き摺り出す。
「イイ女だったよ」

 □□□

「ワルター・フォン・シェーンコップ中将のご自宅でしょうか」
 もう捨てた階級をシェーンコップは玄関にて久々に受け止める。
「ええ。それよりも私とマドモアゼルとはこれが初めてお目にかかる機会だと――」
「カスパー・リンツは無事なのですか」
 切羽詰まったソプラノが遮り、シェーンコップは色を正す。
「失礼ながら彼とはどういう間柄で」
 ドアの縁に体重を預け、声のトーンを落とせば上下していた華奢な肩が身じろぐ。それでも怯えて引き下がることはなかった。
 改めて訊かなくとも彼女の立ち位置についてシェーンコップはこの到来以前にとうに把握していた。リンツ大佐を訪ねに女性が薔薇の騎士連隊の宿舎に来たと、小一時間ほど前にブルームハルトから連絡を受けていたからだ。
 家族であればすでに通達が飛んでおり、わざわざ隊舎に赴いて再確認するはずがない。もし御母堂であれば元部下たちの仕事の粗さを叱責していたであろう。しかし姿を見せたのは妙齢の女性。髪や瞳の色からしてもリンツの血縁たる要素は拾えなかった。
「……恋人、です」
 少なくとも私のほうは、と続けられた自信のない弱々しい声にシェーンコップはふむと警戒を一段階ほど緩める。恥じらいなどは一切含まれておらず、瞳は揺れたものの嘘を下地とした狼狽ではなかった。けたたましく何かの地位を主張する者より、一方通行ではないことを推し量れた。
「突如押しかけてきた見知らぬ人間を信用なされない気持ちも十二分に承知しています。ですが彼が生きているかどうか、ただ知りたいだけなのです」
 甘やかな鈴に焦燥が滲む。しかし繊指は眼前の男に掴みかかることなく、震えを潰すように胸の前で握り締められている。まるでシェーンコップを神と崇める姿に普段であれば口説き文句の一つや四つ滑らせていたが、相手はリンツのわりなき相手。不安と、わずかばかりの期待に潤む水鏡はシェーンコップと視線を交わしながら、リンツのみを映していた。
「リンツとの関わりを示せるものは?」
「……あ」
 綺麗に四つ折りされた紙が渡される。鉛筆で描かれていたのは眼前の女性。それもおそらく一番いい笑顔の。時機があざといと勘繰ってもいいが、これは決定打であろう。
「リンツは何にも替え難い男でした」
 残酷なことを押しつけやがってと、今この場にいないリンツを詰る。八つ当たりなのだけれどこれから自分に待ち受ける未来を考えれば至極当然のように思えた。現にオペラカラーに彩られた唇がわななき、薄く引き結ばされた。
「……各所に多大なる迷惑をお掛けし、大変申し訳ありませんでした」
 泣くかと身構えるもその前にちいさな頭が深々と下げられる。少しばかりシェーンコップが呆気に取られてしまったその隙に、わずかに乱れた髪が翻る。
「薄情な男だとアイツを嫌いにならないでやってください」
 去ろうとした細腕を思わず引き留める。
 実は生きていると政府にすら秘匿しているというのに一般人の彼女に打ち明けることなど況やである。待っていてくれと暗に生存を匂わせるような言葉もかけられないのも心苦しい。だがそれによってリンツが見放され、傷つく資格なぞないと一蹴されるのを彼とともに戦い抜いてきたシェーンコップは許容できなかった。
「――嫌いになれるものなら最初から好きになっておりません」
 半身振り返った拍子に、はらはらと薔薇の花弁が一枚ずつ散るように大粒の夕露が零れる。
 女性の涙は星の数ほど見てきた。それに心を痛めるも刹那、個々の流れ星に思いを馳せることはなかった。
 なおも気丈に振る舞おうとした相貌は不敵な笑顔を上手く整わず、不格好に成り下がる。しかし剥がれたメッキも裸足で逃げ出す光景を前にして、 シェーンコップは言葉もなく佇むしかなかった。

 □□□

 リンツは片手で頭を抱えている。待っていてくれるかどうか、こればかりは予測不能である。九割がたは健気に待っていてくれると話を聞いた誰もが信じるだろうが、残りの一割は人間故に何が起こっても不思議でない。横からかっ攫う不埒者の不存在、遠い想い人より近い友人の拒絶を断言できないのがこの世の難しさであると、多少なりとも生きてきた二人は承知していた。
「なに、生きて帰ったあとで誠心誠意謝って慰めれば許してくれるはずだ」
「……ちなみに手は出してないでしょうね」
「愚問だな」
 部下の恋人に手を出すほどシェーンコップは落ちぶれていない。それを了承しているはずのリンツからの確認に、理性は残っているが狭量になっているなと口角を上げる。彼女のことになるとリンツも一端の男に戻るみたいだ。
 室内に飾られた薔薇の騎士連隊の紋章を見上げる。一輪咲く鮮烈な赤は気高さの象徴とも言え、そういうものだとシェーンコップは先の一件まで考えていたが付け加えなければならないだろう。
 薔薇が赤いのは弱さを隠すためなのだ、と。

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Boy Meets Lady