ズルい蕾

「さっきは何を描いていたの?」
 日常の水面をつま先で軽やかに跳ねるような声でそう尋ねられ、リンツはあーと隣に座る視線から目を逸らした。
「なあに、その反応。如何わしいものでも描いてたみたい」
 えっちと瑞々しい唇が尖る。
「そういうわけじゃないんだが」
 じゃあなに? と訝しむ瞳に言葉を詰まらせる。久しぶりの逢瀬での暗雲だけは避けたかったのに、手の中でくるくると無意味に鉛筆は回る。
「怒らないか」
「私が怒るようなもの描いたの?」
 そうではない。ただ誰かに、それも彼女に見せる予定なんてなかったから一抹の恥ずかしさに二の足を踏んでいるだけで。
 あーとかうーとか数度呻き、ようやくリンツは先程描いていたスケッチの一枚を破く。そうしておずおずと彼女の手へ渡した。
「――あなたの目には私はこんなふうに映っているのね」
 噛み締めるようにひとつひとつ紡がれた声音に、俯いていた顔が上がる。恋人からうつくしい花を贈られたように、宝物を見つけたように。喜色に満ちた表情の上でつぶらな瞳は細められていた。
「怒らないのか?」
「黙ってモデルにしたこと? そんなことで怒らないわ」
 オルゴールが転がり、虚をつかれていたリンツは更に言葉を失くす。自分の描いた絵への反応が怖いと思ったのは久しぶりで、秩序ムライにバレたときとは別の緊張感にあちこち跳ねていた心臓はゆっくりと安堵の味を覚えていった。
「……ごめん」
「いいよ。これをくれたらね」
 彼女からのお願いにリンツは目を瞬かせる。彼女に渡したのは取り留めもなく描いたラフであったからだ。
 ちゃんとしたのなら次に、描くと言いさして口を噤む。次とは一体いつの話だ・・・・・。この逢瀬が最後になるやもしれないのに、果たされるか不確かな約束をして、無責任に期待を抱かせて。そうして一人にして置いていく側のくせに。
「本当にそれでいいのか」
「うん」
 目の前にいるリンツ自身を求めず、リンツの残滓散らばる紙一枚を後生大事に胸に抱き留める。駄々を捏ねないその聞き分けの良さがどうしようもなくもどかしかった。
「だってこんなに綺麗に描いてもらったのはじめてだもの」
 なんでこのタイミングでめちゃくちゃに可愛いことをぶん投げてくるんだと、色々と湧き上がる感情と欲望をリンツは喉奥に無理矢理押し込める。白旗はほとんど挙げられていると表現しても過言ではなかった。
 リンツはこの噴水公園で出会った彼女のことを憎からず想っている。彼女も自分と同じ気持ちだろう。でなければハイネセンに戻るたびに連絡を取り、二人が初めて出会った場所で幾重にも逢瀬を繋いでいることへの説明がつかない。
 彼女への想いが浮かんでは消えていく。その呆気なさはシャボン玉のようで、自分の意気地のなさをリンツに突きつける。
 今日までに膨らんだ慕情を彼女に伝えたことは一度としてない。いつでも自分を忘れられるように、酷い男だったと前に進めるように、彼女のためと唱えて曖昧な関係のままにした。一方で他の野郎の隣で笑うことは許せないでいるのだから自分勝手にも程がある。
「この後の予定はどうしますかお嬢さん」
「そうね――」
 自分とは対照的な華奢な手を取り、子供のはしゃぐ声満ちる日向へエスコートする。どうか彼女の笑顔が損なわれないよう、ただひたすらに願うことしかリンツにはできなかった。

top
Boy Meets Lady