西に行くあなたへ

「よっ」
 三つドアをノックしてから覗くと、部屋の主は目の下に薄いクマを携えながらデスクの上に広がった書類と対峙していた。
「……帰ってたの」
「そ。これ土産な」
 盟約同盟の街で見繕った焼き菓子を手渡す。もちろん好物の甘いやつにしておいた。紙袋の中を見た顔にぱあっと生気が戻ったので、どうやらお気に召すものを選べたようだ。
「ありがとう」
「タイミング悪かったな。研修とかぶるなんて」
 第一機甲と入れ替わるように彼女に仕事が回ってきたというのを連邦に戻ってきてから聞かされた。当然彼女も休暇に来るもんだと信じて疑わないでいたから、いないと知ったときは少し肩を落としたのは秘密である。
「仕方ないもの。ここには勉強で来ているのだから私だけこのタイミングで休暇取りたいですとは言えない」
 エルンストに言えば調整してくれただろうに真面目なこったと、自分と話しながらも作業の手を緩めないで仕事と向き合う少女をちらりと窺う。
 着ているジャケットが草臥れていないのがせめてものプライドだろうが、乱れた髪には気づいていない。手ぐしで直せる程度だからと見逃しているのか。様子を見てきてくれとエルンストが心配していたのも頷ける。何かに没頭すると目の前のもの以外見えなくなる連中がどうしてこうも自分の周りには多いのだろう。
 仕方ないと息を吐くと勝手知ったる顔で流し台にあったカップをひっくり返し、戸棚から取り出したココアの瓶から目安量より多く粉を掬う。コンロの上で鎮座しているポットの水はどうせ二日以上前のものだ。中身は勿論捨てて、新しい水に取り替えた。
「ほい」
 出来上がったココアを彼女の顔の前に突き出す。資料で埋め尽くされたデスクに置かなかったのは、集中して置いてあったコップに気づかずに肘で倒すのを防ぐためであり、根詰めている彼女に休憩を強制的に取らせるためだった。
「……コーヒーがよかったのだけれど」
「どうせ眠気吹き飛ばして仕事やるつもりだろ。やめとけ」
「でも」
「それで終わらせろ。そんで家まで送る」
「……」
 澱みなく走らせていたペンを一旦止まらせ、渋々と受け取ると彼女は息を何度も吹きかける。水面に落ちた影に、睫毛が長いんだなと浅く腰掛けた机の端から観察していれば、何かを思い出して彼女は勢いよく顔を上げた。
「おかえりなさい」
 放たれた言葉に自分用に作っていたコップに口をつけようとしていた手が止まる。怪訝そうにこちらを覗き込む。
「どうかした?」
「……そういやお前はずっと『行くな』とは言わなかったよな」
 思えば、連邦に来てから周囲が口を揃えて言ってきた常套句を彼女がライデンに告げたことはなかった。
「パン屋さんにパンを焼くなと言える?」
 それと同じことよとカップを握り締めたまま少女は続ける。
「戦う覚悟もない人間が戦ってるひとたちに行くなって言うのは失礼でしかない。だったらここで待って、おかえりなさいって言うの」
 スタンドライトがデスクとくゆる湯煙をあわく照らす。
「枷になるよりも、帰る場所になりたい」
 西日は沈み、今来た廊下も人の出入りがほとんどなく静かだった。二人しかいない部屋に夜の寂しい気配が漂うのと対照的に、部屋の外では街灯がぽつぽつと灯されていく。
「……もう一回」
「え」
「もう一回おかえりって言ってくれ」
 さっき言ってもらった言葉に何も返していないし、──何も返せていない。そんな関係にはなりたくなかった。
 もっとも、彼女からは貰いっぱなしで、返したいと言いながら貰いたいとも願っていることは内緒だ。
「おかえり、ライデン」
 瞬かせたあと、彼女は目尻を下げて当たり前の言葉と自分の名前を紡いでくれた。たったそれだけ、ただそれだけが他に喩えようがないほどに、心を満たす。
 今ここで自分が返せるものが一つしかないことがとても歯がゆいが、ひとつずつ返していけばいい。いつ終わるかわからないこの戦争を戦い抜いて、この言葉を返せるように。
「ああ。──ただいま」

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Boy Meets Lady