ツバメの情

 彼女にはじめて会ったとき、自分はショベルと腐葉土の袋を持っていた。次は同級生に踏みつけられた学校指定の鞄。
 そして今は赤い薔薇をひとつ。
「好きです」
 すみれ色の瞳がわずかに見開かれる。どこからか狼狽する気配がしていたが、それを掻きくらすほど心臓は爆竹よろしく脈打っていた。
「ありがとう」
 柔らかな声が少年の体躯をぶわりと春の陽気のごとく昂揚として包み込み、
「でもごめんなさい」
 優しく、躊躇いなく少年の期待を絶った。
「ウォルフを愛しているの」
「……貴女を寂しくさせているのに?」
「ええ」
 寂しくしていたというのは少年の願望と思い込みだらけの主観であった。そんな素振りをエヴァンゼリンが他者に見せたことは一度としてなかった。それでも彼女は否定せず、往生際悪く追い縋って声を震わせた少年の言葉を肯定した。
「受け取れなくてごめんなさい」
 なにをと問うのはこの場面を傍観している者であれば現実的なものと比喩的なものと理解出来たはずであろう。
 沈黙が狼の花園を支配する。見守っていた人間は気が気でしょうがない。思春期真っ盛りの少年が告白を断られたことに乱心し、息子の伴侶へ危害を加える行動に出たらどうしようと壮年の男は腰を浮かす。息子の不在中は嫁を守ると決めていたのに虫をつかせてしまった不手際を自分で後始末しなければならなかった。
「……いいえ、謝る必要なんてないです」
「え?」
「貴女は受け取ってくれた」
 凪の声は柵の向こうにいるツバメを見つめながら、これまでの日々を思い返していた。
 周りからはそれとなく忠告されていた。彼女には愛する旦那がいるからお前の恋はどう頑張っても実らない、不毛だと。はたまたこの感情は恋ではないと説得してきた大人もいた。年上の女性に憧れを持つ、男が生涯に一度は通る道だと。
 そんな大人たちのように宥めることだってできたはずだ。だがこの女性は否定しなかった。どんな形であろうとも少年の感情を恋だと認めて、そして恋のまま手折ってくれた。それだけで十分だ。
 そもそも彼女が誰かの所有物だから好きになったわけではない。彼女が彼女であったから好きになったのだ。
 おはようございますと声をかけたら、彼女はおはようと返してくれた。学校の話を嫌な顔ひとつせず聞いてくれた。なにかしらと小首を傾げる仕草が可愛らしかった。意欲のなかった学校への足取りは軽くなり、世界は彩りを帯びた。
「ありがとうございます、ミッターマイヤー夫人フラウ・ミッターマイヤー
 何度か話すようになってからエヴァさん、と愛称に敬称をつけて呼んでいた。それは近所の年下の、庇護すべき子供だから許されていたのだ。もう親しさと、ほんの少しの慕情を込めて呼ぶことは許されない。すでに譲歩されていた一線を侵したのは自分である。自分なりのケジメであった。
 少年の感情は雨だった。一時の降水は慈雨になるが、降り続ければ暴力へと変貌する。少年が大人びていたのが幸か不幸か。今少し彼が年相応の精神年齢であれば、自分を見てほしい、自分のことで頭をいっぱいにしてほしいと駄々を捏ねて叫んでいたであろう。でもそれは独り善がりであることを少年はエヴァンゼリンと交わした日々から学んでいた。
 好きだから傷つけたくない。水のやりすぎで腐った恋を渡したくない。燕のように軽やかな彼女に重石をつけたくない。巣へ帰る燕を引き留める傲慢を、番でもない外野が振りかざしてはいけないのだ。
「どうか体には気をつけて」
 優しすぎる彼女の餞に下手くそな笑顔と敬礼で応える。少年は此度士官学校に入学した。暫く会うこともない。
 初恋は実らなかった。でもそれだけが愛し方ではない。彼女の日常を守る術を学びに行く。それくらいは疾風ウォルフに許してほしかった。

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Boy Meets Lady