a hell of the lady

 月に照らされて、暗がりの廊下に人影が映される。天鵞絨ビロードであつらえられた絨毯は周りにあるすべての音を吸い込んでいく。
 扉が音もなく開かれ、夜闇に包まれていた部屋と顔を合わせる。窓際では女が一人、ひとつの灯りのもとで本を読んでいた。
 来訪者の男は無言で部屋の主人を見つめる、部屋の主人である女もページをめくっていた手を止めたので男の存在に気づいているはずだが、言葉を発しようとする気配はなく、ただ漫然と沈黙が流れていった。
「賭けは伯母上の勝ち、か」
 火蓋を切ったのは女のほうだった。
「久しぶりだな、モラン少佐」
 今は大佐と呼ぶべきか? と悪げもなくあげつらう表情は知っているものより年季が入っていて、会わなかった間の長さをまざまざと思い知る。
「そっちは老けたんじゃねえか?」
 彼女の右手が触れているのは銃。一応人の少ない時間帯にやって来たとはいえ、今銃声が響いてしまえば捕まる確率はなきにしもあらずだ。それにこの距離で目の前の軍人――正確にはついこの間まで現役だった軍人が外さないことは誰よりも知っていた。
「賢明な判断だ」
「……相変わらずおっかねぇオンナだな」
「ま、冗談はこれくらいにしておいて。久々の再会を祝して一杯引っ掛けようじゃないか」
 掛け声を小さく落として、女は近くの棚をがさごそと漁り始めた。先程まで張り詰めていた緊張感を冗談と言ったことには少々疑問を持ったが、本土にいた頃の気を置かなくても済む空気へと変わったのでそういうことにしておこうと距離を詰めた。
「アンタらは何の賭けをしてたんだ? 結婚式前日に誰かが攫いに来るって?」
「正しくは『死んだ男』が、だ。ロマンチストの伯母上に神は味方したようだ」
「我らが女王陛下はリアリストだと思ってたんだが」
「政治が絡む場面では、な。私的なことになると口やら頭やら手加減なく挟んでくる。一種の厄災みたいなものだ、っと。あったあった」
 棚から顔を出したのはワイン瓶。
「年代ものだろ。いいのか」
「伯母上との賭けに使った担保だ。どうせ気軽に嫌がらせもできなくなるんだから飲むくらいの意趣返しをしたっていいだろう」
 彼女は富国強兵にお熱なことで名高い、海向こうの皇太子のもとに嫁ぐ。近年イギリスとドイツは仲が悪くなっているにも関わらず、だ。
「元を辿れば今の王朝にはドイツの血が流れている。ある程度は雑に扱われることはないし、私なら簡単に死なないという伯母上の非常にわかりにくい信頼だ」
 簡単に言うと人質である。両国が戦争になったとき、敵国の人間である彼女が真っ先に殺されることは避けられない。上流階級の人間は勿論のこと、ちょっとばかし隣国との情勢を知っている人間であれば想像できる。
「たとえ殺されたとしても生き残れなかった自分に責がある。誰も恨まんよ」
「連れ去ってほしいか」
「まさか」
 間髪入れずに女は答える。
「世間知らずの生娘が描きそうな夢を行動に移す度胸を私は持っていない」

『ねえ、逃げ出さない?』

 そう訊いたくせにこちらの答えなど無視してパーティーから引き摺りだした手の強さを今でも思い出せる。
 あの時の思いきりの良さを発揮した少女と同一人物とは思えなくて、やっぱり歳食ったんじゃねぇかと零せば蹴りが脛を目がけて飛んできた。これが軍用のブーツであったらと冷えた汗が背中を伝った。
 連れ去らないのかとウィリアムに訊かれたが、断った。この女を連れ去るのはこの国で一番骨が折れてやりたくない事案だと返せば、面白がるような、それでいて憐れみだとも呆れだとも受け取れる何とも形容しがたい顔でそうかいと笑っていた。
「で、お前は今何をしている。ダンダ―デールの野郎を殺したのはお前だろうが、ここ数年でよく耳にする物騒な話にも一枚噛んでいるのか?」
「そんなもんだ」
「……へえ」
 注がれた赤のワインがグラスの中でくゆる。
「少々悔しいな」
「悔しい?」
「今お前の隣には私以外の誰かが経っているんだろう? お前の人となりを知る昔馴染みとしては、妬く」
 意外にも素直な感想が返ってきて目を瞬かせる。
「今日はやけに素直だな」
「最後の夜くらい素直になったっていいだろう」
 最後の夜。
 彼女がこの国の土を踏む未来も、自分たちの道が交わることもないだろう。
「お前たちの健闘をドーバー海峡の向こう岸から祈っているよ」
「寂しいからって桶は桶でも棺桶で戻ってくんなよ」
「ハハハッ! 面白いがボナシューは盥だぞ?」
「桶も盥も同じもんだろ」
「というか向こう岸はフランスだな。あ、これブラックジョークとして使えるな」
「積極的に国際問題にするな」
 腹を抱え、息も切れ切れに笑う王女の姿を見たら、小言しか囀らないあの侍従は卒倒すること間違いなしだ。
「なあ、セバスチャン」
 何年振りかに紡がれたファーストネームにワインへ落としていた視線を上げ、見知った瞳と目が合う。
「もっとお前と話したかったよ」
 この女はいつもそうだ。終わりが近づいて、やっと大事なことを告げる。
「続きは地獄だな」
「忘れるなよ」
「忘れたらお前殴るだろ」
「一発だけだ」
 ベッドの中で、なんて言ったらそれこそ眉間に一発食らっていただろうし、何より自分たちはそんな甘ったるい関係ではなかった。
 幼い頃からこの国に不満を持ち、大人に成長してからも立ち上がった。
 昔馴染み。
 戦友。
 同志。
 どれも互いの絆を表すにはいまひとつ足りない。
 グラスに残った最後の一口を押し込んで、帰りの扉へと向かう。名残惜しさはすでに二人で噛み砕いていた。
「元気でいろよ」
「テメエもな」
 屈託のない笑顔が返ってくる。そうだ、彼女は達観した横顔よりも歳相応の表情が似合う。
 部屋を出て、抜け道を歩く道すがら彼女のことを想う。

「じゃあな、My lady我が愛しい女

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Boy Meets Lady