淑女に銃の口づけを

 慣れているとはいえ、格式ばった式典は体中の筋肉を凝り固まらせる。首と肩とゆるく回し、住人の大半が出払った静かな屋敷に自分の足音だけが響く。
 重いコートを脱ぎ部屋に入れば、気は合わないが腕は確かな大柄な男が窓枠に片足を乗せて腰掛けていた。
「お偉い方の見送りか。貴族は大変だな」
「お前も元は貴族の出だろう」
「元は元だよ」
 格子の外の青空を仰ぎながらキーケースを指先で弄ぶ。随分と使い込まれていて、作られてから軽く十年は経過していてもおかしくない。そんな貴族階級であればいくらでも手に入りそうな革製品にはライフル銃を咥えた獅子が精緻に刻まれていた。
「まだ使っていたのか」
 大雑把な性格に反して物持ちがいいのだなと含ませて鼻で笑えば、それを拾ってハッと乾いた笑いが吐き出される。
「まだってコレをどれくらい使ってるかアンタ知らな――」
 言いさして、呆れで上がっていた口角から表情が抜け落ちる。
 彼女が絡むとそんな顔も見せるのだなと、間抜けとも言える表情を瞼に収めたアルバートは数時間前のことを思い出した。

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 三回ドアをノックする。アルバートは部屋の主に会ったことは何度かあったが、ここに足を運ぶのはこれが初めてであり、最後になると決まっていた。
「モリアーティ伯爵が見送りとは幸先がいい」
 促されて入ったさきで、人を喰ったような笑みに迎えられる。既視感の強い笑みだと思っていたが、なるほどのモランと昔馴染みというほどだ。敬うべき相手に憎たらしいという感情を自然に抱いてしまうくらいには似ている。
「何かいいことでもありましたか」
 事前に誰が来るか知らされていただろうにわざわざ告げられたセリフを白々しく感じつつ、頬杖をついて幾分か機嫌のいい王女に尋ねる。政略結婚に、ではないことは彼女の性格から推測できていた。
「目敏いな……いや、アイツから聞いているのか」
 訳知り顔で勝手に納得する彼女に警戒心が強くなる。
「カマかけて正解だったみたいだな」
「……」
「そう警戒するな。お前たちに関わるつもりはこれまでもこれからも一ペニーもない」
 心配なら見張りでもつけとけと特に気にするでもなくぞんざいに放り投げる。
「というか知っていてその質問はだいぶ意地が悪いぞ、モリアーティ?」
「……モランとは昔馴染みだったとか」
 どっちが、と言わず遠回しに肯定する。口ぶりから自分とモランの関係性を悟られている。
「アイツとはよくパーティーを抜け出したよ。衛兵や大人たちにバレないよう宮廷の裏庭に入ったり、マーケットで食べ歩きしたこともあった。……他の何にも替えがたいほど楽しかったよ」
 もう二度と戻れない過去を窓の外の高空に思い返したあと、くたびれたぬいぐるみを愛するかのように彼女は目を伏せる。この日のためだけにあつらえられた豪奢で無垢なドレスがなければ、いとけない子どもだと錯覚しそうなくらい慈しみを包んだ表情だった。
「それでいい。それだけでこの先に何があろうとも生きていける」
 安上りで名誉だ栄光だにしがみつく貴族には理解できないかもしれないがなと彼女は肩を竦めて苦笑する。その横顔は表情の割に満ち足りていて、これ以上二人の関係を掘り返すのは憚られた。
「いえ、その気持ちはわかります」
「ほう?」
 器用に片眉を上げた彼女もこちらに踏み込んでくることはなかった。
「無駄話に突き合わせて悪かったな。そろそろ行こうか」
 ひじ掛けに置いていた繊手に力を込め立ち上がる。すると下がらせていたメイドが寄って来て、シミ一つない裾を持ち上げる。
 宮殿の外へ。
 鳥籠から鳥籠へ。
 旧知の助けすらない世界へ。
 アルバートがここに訪れたのは、今日隣国へ嫁ぐ彼女を国民たちが待ち構える玄関まで護衛するためであった。
 何も知らない国民は祝福とともに彼女を送り出す。その人間にどれだけの過去があるのか想像しようともしないで、言祝ぎを王女という偶像に惜しみもなく降り注ぐ。王族なのだから致し方ないと思うのと同時に、やるせない気持ちにもなった。なまじっか背景を知っていると同情の箍が揺れる。
「ああ、そうだ」
 今思い出したとばかりに声をあげ、姫殿下は扉を開けていたアルバートを振り返る。
 いっそ清々しいほどの笑顔で。
「もう持っていないだろうと思うけれど、獅子が彫られた革のキーケースを持っていたらまだ使っていたのかと私の代わりに笑っておいてくれ」

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「……アイツ」
 目元は義手に隠されてどんな表情になっているか判断できない。かすかに上がっている唇の端も詳細な機微を読み取るには要素たりえない。
 白手袋から獅子が顔を出している。帝国陸軍の象徴である剣ではなく、その獅子は銃を誇りだと勇ましく掲げていて、何故だかそれが誰かに捧げているようにアルバートには見えた。
「……God bless fuckin' you.」
 昔馴染みへの餞の言葉にしては悪態が強く、語気は情けない。
「少し部屋で休んでくる。ウィリアムたちが帰ってきたら伝えておいてくれ」
 届いたかわからない伝言を預けて部屋を後にする。暮方の彩りはまだ遠い。
 期待と使命を背負って、碧落に去っていた彼女は捨てろとは言わなかった。もしかしたら捨てろという彼らだけがわかる符牒だったのかもしれない。
 もし捨てるならその前にどこの職人に依頼したものなのか、それくらいは教えてほしかった。

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Boy Meets Lady