3

 ジリジリと天から降り注ぐ太陽が肌を焦がし、薄く汗が滲む。平野のおかげで風通しがよく蒸し暑さはさほど感じないが、遮るものがないせいで直射日光と放射熱が基地にいる人間を襲う。
 まだ春が近いと言える時期なのにこの気温は異常だと話す連邦軍の兵士とすれ違う。二年と短いものの、たしかに暑いなとライデンも感じていた。
 あまりにも暑すぎて嫌なことまでぶり返しそうなくらいに。
「首都で何かあった?」
 演習場からの帰り道、今日の手合わせの相手であったアンジュがそう切り込んできた。
「なんもねえよ」
「マイヤーちゃん?」
「……」
 押し黙ったライデンにアンジュはにっこりと笑みを深める。どうして女という生き物はこうも察しが良すぎる生き物なのだろう。
「色々と気にかけてみたいだから」
「……そうか?」
「ええ」
 自分ではそんなつもりはなかったのだが、外からはそう見えるらしい。
「いくら面倒見のいいライデンくんでも怪我してんなーくらいで終わると思ってたから」
 白系種だから見て見ぬフリをしていただろうと言外に言われる。そのつもりであったはずだとライデンも思う。
 実際は違った。用意させた湿布を渡しに、わざわざ自分から関わりに行った。何故、という問いにもう答えは出ていたけれど、シンと似ていたからなんて口が裂けても言えなかった。
「ほら、翌日くらいにすごい怖い顔して帰って来た日があったじゃない? そんな顔するなんてシンくんが絡んだとき以外にないから気になって」
 リズベットとやりあったあの日から一ヶ月。共和国北部の地下鉄道奪還作戦から日も経たず、第八六独立機動打撃群は高速機動型に残されたメッセージを追ってロア=グレキア連合王国に行かなければならない。
 共和国。
 [[rb:どこぞの異国 > ・・・・・・]]。
「まだ共和国にいるつもりかって言われた」
「……それは」
 アンジュが目を伏せる。
「なんで大佐とかはあんなに背負い込むんだ」
 誰も責めていないのに。
 言葉に出して初めて彼女に対して燻っていた感情の一つが紐解かれた気がした。
 たしかに白ブタは自分たちエイティシックスに全て背負わせてきたクズたちだ。何故自分たちが助けられないのかといつまでも悲劇の主人公ぶっているのは、気に食わないを通り越して呆れの域だ。
 けれどもあの少女は違うだろう。
 あの少女の半生を知りもしないのに何故断定口調で言えるのか、その理由について何もわからない。だがあの悲しそうに歪んだ表情が蘇るたび、得も言われぬ感情が湧きだす。
 こんな感情を、ライデンは知らない。
「それはおぬしらには一生理解できぬものであろうな」
「フレデリカ」
 いつの間にか後ろにいたフレデリカを振り返る。
「責められていたほうが安心することもあるのじゃよ」
 遠く、騎士のいなくなった西の空を黒の髪が見つめる。
「責められていたほうがずっと楽なこと。だが誰も責めてこないとなれば自分で自分を責めるほかない。たとえ自分だけの罪でなかろうと、自分の罪でなかろうと自分たちがしてきたことを自覚している者ならばその罪悪感は比例して強くなる。おぬしらのように達観して割り切っている輩ばかりでこの世はできていないからのう」
 着任したばかりのレーナに向けられた悪意がその例だ。白系種というだけで振りかざされた理不尽。
「わらわはすでにそこから脱却しているが、その者はまだ囚われているのじゃ」
『囚われる必要なんかない』
 フレデリカの言葉で、あの時の言いようもない怒りはあの少女に対して抱いたものだと気づく。囚われていながら自分と同じ境遇にあると思っている者を憐れむ姿勢が気に食わなかったのだ。
 ふいに格納庫前がざわめく。その場で作業していた人間は今しがた着陸した輸送機を見て口々に何かを交わしている。
「なんだ?」
「何かしらね?」
 輸送機が基地に来ることは日常茶飯事だ。物珍しいものでも運ばれてきたかと人だかりにいた戦友二人に近づく。
「セオ、クレナ。何があった」
「……あれ」
 クレナの視線の先、下ろされた荷物の傍らでしゃがみ込んでいた人影がちょうど立ち上がった。
 燦々と輝く太陽の光を喰む白銀の波間から、鈍色のスタッドピアスが顔を覗かせる。黒のYシャツに白のジャケット。左手にのみ嵌められた黒のグローブが見る者の目を惹く。迎えに来てくれた上司と挨拶を交わす横顔は最後に見たときよりも痩せこけたように見える。
 首都で出会った共和国出身の白系種の少女、リズベットであった。
 突然基地に現れた見知らぬ白系種に皆が釘付けになる。しかし白のパンツスーツと軍事基地にそぐわないピンヒールで現れたものだから、その場の緊張感が一気に張り詰める。
「――リズ?」
 触れたら弾けそうだったその空気をぶち壊した声に、名前を呼ばれたリズベットだけでなく、その場にいた面々が振り返った。
「リズ? リズだろ!」
「……ダスティン」
「生きてたんだな」
「くたばってなかったのか、って?」
「そんなこと言ってないだろ」
「冗談だってわかってるでしょう」
「まあな」
 駆け寄って来たダスティンに対してリズベットは半身引くものの、一呼吸置くと互いの手で快音を響かせた。
「イェーガー、そなたの知り合いか?」
 級友を彷彿とさせる気安い雰囲気になんとなく入り込めないでいたが、ここはフレデリカの出番である。
「高等学校の同級生だ」
「……む? 本当に同級生かや?」
 フレデリカが首を傾げる。ダスティンが卒業しているのはいいとして、リズベットが連邦に来ているには歳が足りない。
「飛び級で、次席卒業」
「ダスティン」
 答えたダスティンをリズベットが鋭い声音で制する。
「別に隠すことじゃないだろ。自分で言いふらすのもまた違うけど」
「ダスティンがそういう紹介したら嫌味だって言ってるの。というか私は次席じゃないってば」
「あれはお前が教師と――」
 ぎゃいぎゃいと盛り上がる気配だったが、はたとダスティンの顔が引き攣る。
「そのピアス」
 目線はリズベットの着けているピアスから外されない。何の変哲のない、しいて言うなら女性であるリズベットがつけるにはいささか無骨なデザイン。
「なんでアレクのピアスをお前が」
 言いさして、察したように目が伏せられる。
「お前が看取ったのか」
「うん」
「……そうか」
 しみったれた空気が流れる。
 と、リズベットが後ろで佇んでいた好々爺を勢いよく振り返った。
「っ、すみません。案内してもらうのに勝手に喋ってしまって」
「ひさびさの再会なんだろう? 私は構わないよ」
 慌てるリズベットと対照的に上司と思わしき初老の男はおおらかにいるだけだ。
「いえ、身勝手な行動は許されません。――私はこれから職場に行くから、また」
「時間が合ったら昼は一緒に食おうな」
 うんと頷いて少女はトランクケースと白布に包まれた箱らしきものを抱えると、上司のあとを追った。
「それ重そうだね。持とうか?」
「大丈夫です」
 一瞬ライデンを見た気がしなくもないが、すぐに背を向けリズベットは去っていった。
「仲良かったわね」
 アンジュがダスティンにおちょくる気配をまとわせながら訊ねる。
「ライデンとアンジュみたいな関係だよ。戦友ってやつ」
 普段その気配に敏感なダスティンだが、気にした風もなくけろりと答える。
「アイツも幼馴染を収容所に連れて行かれて、共和国のやり方に不満を持ってた。二人で国を良くしようって共和国では大きな声でできなかったけど、これでやっとできる」
「じゃあなんでお前と一緒に来なかったんだよ」
 白けた気持ちを押し留めて、ふと疑問が過ぎる。そこまでの気概を持っているなら兵士として志願していてもおかしくないのに、どうしてわざわざ戦場とは程遠い役人に志願した理由がわからない。
 戦うのは、死ぬのは嫌ということか。
「それが俺もわからないところでさ」
 ダスティンが顎に手を当てながら斜め上を見つめる。その表情は本当に不可解だと表していた。
「リズの卒業論文のテーマは〈ジャガーノート〉の改良についてだったから」


「で、なんで俺までいるんだよ」
 横にいるダスティンにライデンは不服だとジト目で訴える。
 基地の案内役としてグレーテから指名されたのはダスティンであったが、近くを手持ち無沙汰に歩いていたライデンはダスティンに縋られていた。
「まだここに来てから二ヶ月しか経ってないから、シュガもいたら俺もアイツも安心だと思って」
「二ヶ月あれば十分だろうが。補助頼むんだったらアンジュでよかっただろ。あの女も同性がいたら安心するし、お前も気になるヤツと一緒にいられる。一石二鳥じゃねえか」
「今そういう話してたか⁉」
 わざと話をずらせば、狙ったままにダスティンが慌てふためき、やっべと明後日の方向を向く。ダスティンがアンジュのことが気になっていることは誰もが察していた(勿論口にだしたら彼が可哀想なので今の今まで口を噤んでいた)が、こんなにも作戦が上手く行ってしまい、仕掛けた側であるはずのライデンはダスティンが将来詐欺に騙されないか心配になってしまった。
「俺らだって暇じゃない。五日後には連合王国に行くんだから準備しとかねえと」
「だからだよ」
 ダスティンの瞳に言葉が詰まる。レーナといい、ダスティンといい。妙にこの人種は思わず従ってしまう迫力を持っている。人の奥底にまで踏み込んで従わせる、そんなプレッシャーが。
 とまあ何だかんだごねたが、結局のところライデンがリズベットと顔を合わせたくないだけだ。
 リズベットと喧嘩別れみたいな終わり方――喧嘩するほど仲が良いとは死んでも思えないが、あの終わり方を端的に言い表すのならばそれしかない――をしたことをその場にいなかったダスティンが知る由もない。だからダスティンがライデンを選んだのはたまたまで、八つ当たりされる理由なんてない。だが行き場のない感情を自分の中だけで消化することができなかった。
「俺はあいつと」
「待たせてごめ、ん……」
 ヒールのお出ましとともに白銀の髪が現れ、深雪色の双眸にライデンが映る。
「なん、で」
 深く動揺した色が揺れ、言葉もひび割れる。
「俺はこっちに来て日が浅くてリズの質問に全部答えられないところもあるから、その補助でシュガには来てもらったんだ」
 リズベットの目に浮かんだ感情を意に問わず、ダスティンが答える。
「おい」
「……よろしくお願いします」
 どさくさに紛れて一緒に案内することにされて抗議の声を上げたライデンを見て、右へ左へリズベットは戸惑うが、ダスティンの引かない姿勢におずおずと無理矢理納得させた頭を下げる。相も変わらずきちんとしたお辞儀から上がった顔はやはり痩せたように見えた。
「ここは格納庫。今いる場所は打撃群のとこで、向こうが正規の連邦軍の。用がない限りあんまし近づかないこと。あとフェルドレスに轢かれても文句は言えないからな」
 非常口から格納庫の中へと入る。格納庫は外の湿度に関わらず閉め切っていて、ムワッとした空気が三人を迎えた。
 ここがどういう場所でどこの人間が多いのかなど、ざっとだかダスティンが説明していく。そういうところは気遣いができるんだなと素直に感心して、ダスティンが危惧していた状況に思い当たる。
 自分も白系種で今日までどのような扱いを受けてきたのかわかっているから、自分たちにとって不安要素が少しでもある場所はあらかじめ注意を払わせておく。ダスティンは男だからよかったものの、リズベットは女だ。ダスティンより悪質な嫌がらせを受ける可能性は大いにある。それを暗にわからせるのが上手い。察しのよさそうなリズベットであればその気遣いを流すことなく汲み取るだろう。
 ダスティンの案内に従っていたリズベットがふと足を止める。視線の先には整備が終わったシンの〈レギンレイヴ〉が擱座していた。
「……〈ジャガーノート〉」
〈レギンレイヴ〉を一目見て出てきた感想にライデンはへえと片眉を上げる。
「どう見ても〈レギンレイヴ〉だろ」
「〈ジャガーノート〉のちょっと良くなった版よ」
 普段〈レギンレイヴ〉に搭乗しているダスティンの言をリズベットはあっさり弾いた。
「ぱっと見だから正確には言えないけれど、俊敏性以外は〈ジャガーノート〉とほとんど変わらないと思う。乗り手をかなり選びそうなのが難儀ね」
 ご名答だ。質のいいアルミの棺桶、というのが〈レギンレイヴ〉の搭乗テストをした五人の総意だった。
「でも悪くない機体」
 ふと我が事のようにリズベットは嬉しそうに口角を上げ、
「〈ジャガーノート〉より速度が格段に違うのなら、足回りはどう異なっているの? エンジンは共和国よりいいものを使っているのは当たり前として、速度を上げるには駆動系への負荷をいかに減らすかが問題になってくる。駆動系も重視しつつ制止系もきちんと効く必要がなければお話にならないもの。機動力を重視するなら削らなければならない箇所がいくつも出てくる。当たっても大丈夫というより当たらないことを前提としているから装甲はこのくらいの厚さが限度なんだろうけど、機関銃の重さをこのボディで耐えている構造が興味深い」
 息継ぎもなしに喋り出した。
「おーい、リズベットさーん」
「あ、この機体高周波ブレード使ってるのか。使っているひと初めて見た……でも機関銃二門がスタンダードよね。そうすると――」
「マイヤーさーん、聞こえてますかー」
 面食らったライデンの横でダスティンが声をかけるが、リズベットが思考の海から戻ってくる気配はない。
「ったく、聞こえてないなアレ。……悪い、このテンションになったリズはなかなか終わらないからちょっと待っていてくれないか」
 なるほど、論文にするくらいならこの程度の知識は持っていて当たり前だ。だがこんなにも興奮するとは、と瞳を輝かせて〈レギンレイヴ〉を見つめる横顔を遠くから眺める。
 元々の性分はこちらなのか、誰がどう見たって小さい子どもがロボットに興奮しているようにしか見えない。首都やここに来た直後の、あの大人びた面影は幻だったんじゃないかとまで思えてきた。
「緊急脱出装置……」
 ある一点を見つけるとリズベットは心から安堵したような、今にも泣きそうな表情で目を眇める。
 共和国の〈ジャガーノート〉には搭載されなかった、人道的な装置。
 ぎゅっと黒グローブに覆われた細い指が反対側の肘を握ったあと、何かを探すように手が空を切る。
「ならどこを削って緊急脱出装置を……そっか、そもそも〈ジャガーノート〉より大きいんだ。それに内部装置をコンパクトにすれば」
「ヴェンツェル大佐辺りの専門家呼ぶか?」
 明朗に回っていた口が止まる。
「〈レギンレイヴ〉の開発者に聞けばある程度は答えてくれるだろうよ」
 油を長年注していない機械人形のように動き出す。
「……もしかして」
「シュガもドン引きだったぞ」
「………………一人で勝手にはしゃいでごめんなさい。案内を続けてください」
 ずずずと二歩後ずさる。恥ずかしいのか、顔は伏せられたままだ。
「あそこでシュガに戻してもらえてよかったな。ヒール折って金属のとこをペン替わりにして地面に書いてもおかしくない勢いだったし」
「……」
 否定しないところに可能性が十分あったことを匂わされる。それを仕方ないと苦笑いで済ませているダスティンにもちょっと引いた。
「どうかしたか?」
 格納庫から出ようとダスティンが扉に手をかけたとき、リズベットがふいに足を止めた。
「……靴に何か入ったかなって」
「あーそれ気になるよな。てかさっきから気になってたけど」
 ダスティンがリズベットの左手を指差す。
「そのグローブどうしたんだ? 学校では付けてなかったよな」
「……大攻勢で、傷が」
「――そこの二人どいてくれ!」
 なんだと尋ねる前に身体が退いた。
 ぽたぽたと粘り気を持つ液体が打ちっ放しのコンクリの床に正円を描いていく。長時間嗅いでいたら確実に気分が悪くなるそれ特有の臭いが鼻を突く。
 油性のペンキ。
 ダスティンも日頃の訓練もあって突然の警告に身体が動くようになっており、ライデンから二人分離れたところに無傷で軽く腰を屈めていた。
 では誰が、なんて愚問だ。
 レーナのときは客員とはいえ上官で、かつ馴染み深かったシンたちが必死に止めて一回きりの水だけという運びになった。
 けれどリズベットの場合はどうか。
 躊躇うような肩書も、庇ってくれる後ろ盾もない共和国出身の白系種の少女。
 エイティシックスたちとも特別親しくしているわけでもないから彼らも箍が外れたのだろう。想定していなかったと言えば嘘になる。だがまさかペンキでやるとはライデンすらも想像していなかった。その証拠に、同じく八六区から合流した整備班たちも目を大きく見開いている。
 静寂に滴る音が響く。白いジャケットはおろか、白銀の髪は赤や黄色、緑に青に染まっていた。
「おい――」
 ライデンが一歩進み出たところに黒グローブが翳される。何もするな、の合図だ。
 ギリと噛み締めた歯が軋む。
 また仕方のないことだと宣うのか。
 眉間に皺が寄った瞬間、リズベットがくるりと方向を転換し、キャットウォークにいる士官たちの真下までつかつかとヒールを打ち鳴らす。そうして彼らを仰ぐと、
「お仲間にしてくださってありがとうございます」
 涼やかな声が通った。
 あまりにも感情のない平坦な声色に、罵詈雑言が返ってくる、悲劇ぶった涙を流すと身構えていた人間は呆気に取られる。
「――とでも言うと思ったか、三下」
 だから続けられた罵倒に誰もが身動ぎひとつできなかった。
「お手軽な正義ですね。さぞや甘美で安っぽいお味がしたのでは?」
 ようやく嫌味だと理解して男たちは身を乗り出すが、反撃なぞ許さぬようにリズベットは言葉を次ぐ。
「共和国の白系種どもに本当に憤っているのなら、こんなちゃちなことをせずともその太腿に携帯している九ミリ自動拳銃ミネビアで心臓を撃ち抜けばいい。お前たちのほうが豚であると心の底から思っているのなら、こうすればいい」
 左手の真ん中の三本指を鋏で切るジェスチャーに、周りで見ていた何人かの顔が青ざめた。
「だがあなたがたはそれをしなかった」
 数多の色に染まった白銀をつまんで揺らす。
「自分だけは安全圏におられるところは白ブタそっくり」
「貴様ッ」
「必死に共和国の白ブタとは違うと言い聞かせているようですが、残念ながらどんぐりの背比べであることにいい加減気付いたほうがよろしいですよ」
 リズベットが追撃の手を緩める気配はない。いっそ壊れるところまで壊れてしまえと自棄にも受け取れる畳みかけだ。
 兵士の手すりを握る手が震えている。勝手に自分たちが蒔いた種だろうと呆れるが、それよりもこのままでは本当に撃たれかねない。
「シュガ」
 間に入ろうとした腕が横から掴まれる。
「なんで止めんだ。同級生だろ」
「止めたい気持ちはわかるけどここは抑えてくれ。シュガのためでもあるんだ」
「あなたは今まで差別をしたことがありますか」
「は?」
 ダスティンの忠告に戸惑っていると唐突な話題転換がなされ、ダスティン以外が眉をひそめた。
「何言って」
「ありますか?」
 答えのみを要求する語気に一端の軍人が気圧される。
「言葉が違うから、色が違うから、自分と違うから、自分にはできないことを悠々とこなすサマが怖いから」
 カツンと濁った灰色の水たまりをヒールが打ち鳴らす。
「そんなちっぽけな理由で『気持ち悪い』『アイツは悪いヤツだ』『アイツに押し付けてしまえ』――『化け物だ』と誰かと囁きあったことはありませんか?」
 澄んだ声と、コンクリを叩く金属の音が連邦の兵士たちを底なしの奈落へ誘う。
「共和国生まれの私に石を投げていいのは生まれてから今日まで一度も差別をしたことのない人間と、エイティシックスと貴方がたが呼ぶ彼らだけです」
 有難みも感じない聖書の一節。
 神の子と、パリサイ人。
 原罪と罰の話。
「これは彼らと私たちの問題です。当事者でない人間は引っ込んでろ」
 ヒールが床を引っ掻く。そのときライデンの脳裏をチセとトーマ、キノやクロトの顔が過ぎった。
「はじめまして、慈悲深く善良なる連邦軍の皆々様」
 静けさに沈んだ格納庫に四度目の摩擦音が響き――、
 火花が散った。
「ライデン、イェーガー! その嬢ちゃんを持ち上げろ‼」
 ダスティンが飛び出すのと同時にグレンの怒鳴り声が轟く。
「シュガはタオルを持ってきてくれ!」
「ここは俺たちが何とかしておくから早く行け!」
 ダスティンがリズベットを抱えて外の水道へ連れていく。グレンの言う通り、とにかくあの場から逃げ出すことが先決だった。
 タオルを取ってダスティンらが走っていった場所へ向かう。蛇口の前に二人はいた。
「お前どういうつもりだよ‼」
 普段声を荒げることのないダスティンの怒声に足が止まる。
「……何のこと」
 一方のリズベットはダスティンを見向きもせず、近くに置いてあった洗剤を掴み、ペンキで汚れた部分に直接かけていく。そんな無視しているようにしか見えない態度に痺れを切らしたダスティンは、リズベットの薄い肩を荒々しく掴んだ。
「っ」
「お前に売られた喧嘩だから黙ってたけどアレは違うだろ⁉」
「イェーガー」
 ダスティンの手首を掴み、ジャケットより惨状になっているリズベットの頭にタオルを被せる。
「ここは俺が見とくからお前も着替えてこい」
「……悪い」
 バツが悪そうにダスティンが去り、残されたリズベットに視線をやる。肩を掴まれた一瞬に深い怯えが見えたけれど、すでに白紗の向こうに消えてしまっていた。
 解かれた毛先から雫が落ちる。ダスティンがペンキを落とすために応急処置で水をかけたのだろう。白銀をまとめていた茜色のリボンは今蛇口の取っ手に結ばれている。
 開けっ放しだった蛇口を閉めてリズベットは再びジャケットを洗い始める。手際よくこなしていく様子に何度も同じような経験をしたことが窺えた。
 かこんと洗剤の容器が床に転がる。不自然に伸ばされた腕が行くあてもなく宙に浮かんでいた。
 元の場所に戻そうとしたのは見ればわかる。だが腕を伸ばせばすぐに置ける目と鼻の先だ。こんな距離で何してんだと転がった容器を拾って、リズベットの指先が小刻みに震えていることに気づく。
 あれだけの啖呵を切っておいて。
 とそこまで悪態をついて、この少女は自分たちよりも一つ下の十七だったことを思い出す。
 敵意など日常的に向けられていなかった者が敵意を即座に返せることなんて本能に備わっていないかぎり土台無理な話だ。そんな体たらくでよくあそこまで正論で詰れたものだと、薄く開かれた退紅を見ながら思う。
 結んで、開かれて。感覚を確かめるのが終わったのか、黒の――といってもその面積は今、かなり少なくなっている――グローブが引き抜かれる。
 グローブで隠す傷だ。よく知りもしない他人に見られたくないだろうと目を背けようとして、それは叶わなかった。

 磁器のごとく白い指たちの中、傷だらけの指輪が薬指で銀光を放っていた。


BoyMeetsXXX