〈レギオン〉との戦争が終わって一ヶ月も経っていた。否、経ってしまったと言うべきだろう。基地での祝勝騒ぎ、兵舎からの引き払い、仰々しさと退屈で肩の凝る記念式典。今後の身の振り方。失った者たちへの哀悼。すべてを整えてからと忙しさに殺されていた――などと言葉を重ねれば重ねるほど言い訳がましくなる。
あんな大口を叩いておきながら間が開いた罪悪感が胸を巣食う。しかしリズベットとの対峙に今更臆する理由にはならなかった。
そろそろかとメモから顔を上げた道の先、とある邸宅の前で婦人が柵の向こうへ声を掛けていた。
「今日も綺麗なお庭ね」
「ありがとう。お出かけですか」
「ええそうなの。この前貴方にいただいたお花が縁で――」
草むしりに勤しんでいたであろう庭師と和気藹々と話が咲かされる。
マイヤー家はこの通り沿いの邸宅。婦人がやって来た方向には住宅街は途切れている。となると今婦人が立ち止まった家がマイヤー宅なのだろう。
話を邪魔するのも気が引けた。ただライデンの用事もまた後日に、と回すわけにもいかず一歩踏み出す、と一通り世間話を広げていた婦人と目が合った。
「またお花を分けてくださいな」
話を切り上げたスカートとすれ違い、くすりと微笑が耳に届く。
「あの、すんません」
「ん?」
婦人の気遣いに小さく頭を下げ、縮こまっていた覚悟を叱咤し、今度はライデンが庭師に声をかける。そうすれば麦わら帽子の陰に隠れていた顔が上がった。
「ああ、もうそんな時間か」
膝についていた土を払い、どこにでもいそうな穏和な知命は立ち上がる。ライデンは息を呑んで、何も言葉を告げられないでいた。
「待っていたよ。ライデン・シュガくんだね?」
射干玉が穏やかに光る。
リズベットと対話するために乗り越えなければならない壁。
マイヤー卿、その人であった。
袋いっぱいに詰められた雑草を抱え、ゆっくりと進んでいく痩身の後ろをライデンはついていく。
旧帝国貴族の屋敷だから厳然と聳える門や主を守護する門兵を想像していたが、ライデンの目の前に現れたのはエルンストの家と比べると小さいながらも、庭付きの一軒家だった。
庭で咲き誇っていた花の種類に見覚えがある。リュストカマー基地でのリズベットの職場にあった花瓶に挿されていた花々である。
通された客間は思いのほか広く、暖炉の上には写真立てが並べられている。家族写真と、セピア色に移ろい始めた昔の写真が数枚。そのなかに今目の前にいる人物の姿もあった。
マイヤー家現当主。立憲君主制を革命以前から革命終結時まで唱え、その後一族郎党をことごとく殺し、獣に堕ちたとの噂を持つその人。
そして、リズベットの配偶者。
「どうぞ」
薫り高く注がれた紅茶に緊張で手すら付けられないことをマイヤー卿は咎めなかった。
「ヴィレムから君がここに訪れる理由はあらかじめ聞いているよ。リズベットと話をしたいんだってね――ありがとう。あの子のことを気にかけてくれて」
感謝される謂れも流れもなく、戸惑いの目でライデンは男を見返す。
「どうかした?」
「初めて見たときと雰囲気が真反対なんで」
ああ、と薄く刻まれた皺を深くする。
「軍が嫌いで、どうにもあの場にいると思うだけで態度が悪くなってしまうんだ。事態も切羽詰まっていたことに加えて、あの時の私は余裕がなさすぎた。みっともないところを見せて申し訳ない」
嫌いなのに、リズベットのためにわざわざ足を運んだところに情を感じる。
「兎にも角にも、あの子を気にかけてくれている人間がこの世にまだいるというだけで私は嬉しいんだ。まあ、その受容体がいまだにできていないのがとても申し訳ないのだけれど」
さて、とマイヤー卿はカップをソーサーに置きライデンを見据える。
「君の願いについてだが叶えることはできない」
「理由は」
「……ひょっとして私が意地悪してると思っている?」
「旦那だからってあんなにアイツを縛るような真似をしたヤツを信じられるか」
情の蔦で雁字搦めにして、自分にしか縋れなくさせるような溺れさせ方を見せられて信じられる人間ないるならライデンはこの場に連れてきてほしかった。
「君の言う通りだ。いきなり端から端まで信用していたら私の何を見てそう考えたのか追い返していたところだ」
深更の瞳がライデンの奥を探る。気づいたら喉笛に手をかけられているような圧に負けないように背筋が伸びる。
「何から話せば君は納得してくれるかな」
「アンタが知ってる全部」
カップを持ち上げた手が途中で止まる。
瞬間、笑い声が客間に瞬いた。
呆けるライデンを他所に、腹を抱えながらマイヤー卿はぜえはあと息を整える。時折痰が絡む音が聞こえてきたものだから心配で腰を上げてしまったのは己の性分だ。
「真っ向勝負もいいところだ! ヴィレムは君になんてアドバイスしたんだ」
「小手先はアンタに通用しないって」
「いいね。腹の探り合いはとうに飽きていたんだ」
帝国を守り抜いて来た猛禽類の瞳がライデンを貫く。
「全部となると順序が必要になるけれど、まずは誤解から解いていったほうがいいな」
「誤解って」
「さっきライデン君は私をリズベットの旦那と言っていたね。ヴィレムから聞いたからだろう。でも私がリズベットの配偶者というのは真っ赤な嘘だよ」
「はあっ?」
のっけからお出しされた事実に脳が一気に混乱する。
「だったらリズベットが着けてる結婚指輪は何なんだ」
「ブラフ。左薬指に指輪があれば外野は勝手に納得して手を出してこない」
現にライデンも周りも既婚者だと信じた。
「あれは元々は家内のもので、GPSを内蔵させたものだ」
エルンストとの密約で億が一リズベットが白系種と共謀していた場合を想定して、いつどこでどんな人間とどんな会話を交わしたか逐一報告する義務が課せられていた。その一助を担っていたのが指輪だった。
「あとはリズベットのピアスについた盗聴器を傍受するものくらいかな」
五人が保護されたとき、知覚同調の構造も解析された。けれども拝借できたのはチップのマイクロ化だけだった、とマイヤー卿は答えてくれる。
「リズベットと君の会話は実はあまり録れていないから安心してほしい。内蔵できたのが旧式のだからピアス同様に手などで覆い隠されたら感度が悪くなる」
こんな風にとマイヤー卿が右手を重ね、左手を隠す。その動作がいつかのリズベットと重なった。
「外野は騙せても参謀長クラスは難しいんじゃないのか」
「十年も出不精だと、趣味が花とインターネットくらいになってね。文書偽造辺りならお手の物。リズベットのピアスに付けられている旧式盗聴器に潜り込むのは簡単だったよ」
ヴィレムも流石にこれは知らないと思うよとマイヤー卿はしめやかに笑う。
偽装された文書は無効。欠陥に気づくまで有効だ。早く誰か気づけよと他力本願な愚痴を心の中で零さずにはいられなかった。
「とは言え、誰かしらは気づくと思ってたからここまで騙し通せているとちょっと不安だ。正式な手続きを踏んで認可されていれば鵜呑みにし、疑うにしても承認した人間の不手際や人間関係で書式そのものには目も向けない」
「盲点を突くのがアンタのやり方だろ」
指摘されてもマイヤー卿は流し目で笑うだけで、何を考えているかいまだ掴めない。
「リズベットはアンタとの婚姻関係が無効だってことは知ってるのか」
「知らないよ」
打ち明けたのは君がはじめてだと衒いもなく笑い飛ばす。
「あの子が連邦に来てから一年以上経っているけれど、娘と同じ年齢の子供に手を出すほど元気じゃないし、異性として何かを抱くこともない。亡くなった奥さんに操も立てているから君が危惧する関係は一切なかったと断言できる」
娘と同じ歳。
同じ歳
「剣呑な目つきはしまってくれると助かるよ」
そう言われて、はじめて自分が顔を顰めていたのだと知る。
「そんなに信じられないのならあの子に確認する?」
「いい」
結婚していないことが信じられないのではない。眼前の柳が、信じられないのである。
「どうしてリズベットを攫ったんだ」
「エーレンフリートがあの子をまともに扱わなかったから」
誘拐したことを否定せず、紅茶に口をつける。
「マイヤー家に縁ある者が連邦へやってきたという情報を得たとき、勿論すぐ引き取ろうとした。けれどもヴィレムに妨害された上に、そのヴィレムが後見人になった。仕方なかったけど彼ならば悪いようにはしないだろうと信じて静観していた。……分家が雑な扱いをしていると知るまでは」
エーレンフリートの分家邸宅で見つけたリズベットは軟禁に晒されていた。
「リズベットとアンタを繋ぐ縁はそんなに強固なものなのか」
「リズベットの祖父が先代――私の母と伯母の家庭教師をしていた。そこの写真立てにいるよ」
指差された写真には夜黒種の若い女性二人と、白系種の男性が写っていた。
「うちの家門は他と比べても他の色に緩くてね。優秀であれば重用する家柄で、リズベットの祖父の家系は代々マイヤー家に仕えている」
リズベットの祖父は共和国に妻共々移住した。先代とは市民革命前夜まで連絡を時々取っていたそうだ。
「完全な自業自得、とまではいかないけれどマイヤー家は先代と私だけになってしまった。何かしらの
一族郎党皆殺し。それは自分の妻も子供も含めたのか。僅かな時間しか関わっていないため真実はわからない。
しかし、なにかが引っかかる。見過ごしてはいけない違和感を見逃している気がする。
「二つ目は弁明かな。あの子を依存させるような言い方をした理由について君は怒るだろうけど、仕方なかったんだ」
信じるか信じないかは君に一任すると前置きが放り出される。
「あの子は大切なひとを亡くしたばかりで、喪失と虚無に立ち上がることすらままならないほど心身ともに限界だった」
だから鎖だろうが毒だろうが縋るものを与えたかったと、マイヤー卿は言う。
「わかってはいる。持て余している穴は元々あった存在の形で、それ以外の別のもので埋めたとしても一時的に埋まったと錯覚しただけで永遠に埋まることはないのだと。私と彼女は同じ傷を舐め合っているだけで、一時の慰めにはなれても前に進む何かには足りえない」
「待ってくれ」
遮る己の声がわずかに震える。
「アイツの意思で連邦に来たって聞いてるのに、なんで立ち上がれてねえんだよ」
おかしい。決定的に何かが食い違っている。
動機は何であれ、悲惨な過去を背負っているとは言え。傷口が開いたとしても、連邦にやって来た当初は前を向いていたと思っていた。
その前提が今、すべてひっくり返る。
「ツィマーマンも意地が悪い」
苦く笑った当主にすべてを悟る。養父なら嘘をつかないと、何故無邪気に信じられた。
「どうせリズベットは自ら志願して連邦に来たとツィマーマンに伝えられていたんじゃないかな?
レーナやダスティンと同じタイミングで連邦に来ていたのならまだ一年経ったか経たないかである。しかしマイヤー卿は先程一年以上と言った。スピアヘッド戦隊の五人が新設される部隊の上官にレーナがなってもいいかと打診されたのは十二月。それよりも前に来ていなければ辻褄が合わない。
「やけに制約が多いって感じなかった? 志願してきたのなら級友のダスティン・イェーガーくんのように監視がいないはずなのにやれお目付け役、やれ護衛、果ては盗聴器とGPS。いくらなんでも多すぎやしないかって」
志願した役職が官吏であったから軍人のように堂々と監視が置けない、と考えていたが。
「連邦に与する人間を傷付けないこと、自死を選ばないこと。これらを条件に彼女は連邦で生きることを許された。いずれかを守らなかった場合、子供だけを処分するとの火竜との制約つきでね」
命からがら連邦に逃げて来たリズベットにとってマスコットほど効果的な楔はなく、連邦にとって白系種の子供なんて取るにたりない存在だ。連邦が失うものなぞどこにもなかった。
「憔悴しきって自ら命を絶ちかねない状況だったリズベットにとって赤ん坊の存在はいい足枷だった。けれども赤ん坊は赤ん坊。いつ死んでもおかしくない存在だ。そこに君が現れた」
つまりライデンは赤ん坊が亡くなったとき用の保険というわけだ。 昔馴染みを人質に取られればリズベットもこれまで以上に従うほかない。
膝の上に置いていた拳を強く握る。今まで自分が何も知らずにリズベットに守られていたことに情けなさすら感じた。
「ツィマーマンの名誉のために弁明しておくと君をマスコットにしたのは私だ。ツィマーマンは一切関与していない」
「そこは疑わねえよ」
あのエルンストが許すはずがない。赤ん坊をマスコットに据えることを容認しただけでも天地がひっくり返るほどの出来事である。
「今話せるのはこれくらいかな」
久しぶりにこんなに喋ったと痩身が背もたれに体重を預ける。夜黒種特有の白皙にも疲労が色濃く滲む。
ライデンもようやく一息つくことができた。放置していた紅茶を飲めば、強ばっていた身体に染み渡ってほぐれていく。
「私からも聞いてもいいかい。あの子と話してどうしたいんだい」
マイヤー卿はヴィレムと同じことを尋ねる。これは予想していた。
「話を聞かなきゃ何が理解できて、何が理解できないのかすらわからないだろうが」
「ノウゼンの御子息の代わりではないと言い切れる?」
どいつもこいつも自分こそ他者に
「今俺が何言っても聞き届けてくれないでしょうよ。でもこの先で違うってアンタにも、リズベットにも証明していく。それが責任を取ることに繋がるはずだ」
すっと目が細められる。体感温度が下がった気さえして、尾を踏んだかと身構えるとマイヤー卿が立ち上がる。
「来なさい」
一言で促し、屋敷のプライベートな奥へ消えていくものだから慌ててライデンもあとをついて行く。
「入るよ」
躊躇いとともに階段を上がり、とある部屋の前に辿り着く。中からの許諾もなしにマイヤー卿は部屋の中に入っていくので狼狽えたが、ライデンもそのまま踏み入れる。
窓から日が差し込み、必要最低限の家具と白磁の壺しか置かれていない殺風景を白い光が柔らかく包む。外の世界より更にゆっくりとした時間が流れる空間に規則正しい電子音が刻む。
窓際にある天蓋付きの寝具に、リズベットは横たわっていた。
「君の願いを叶えられない最大の理由はこれだ。物理的にリズベットと話すらできない」
精巧な人形のようにベッドに眠る姿は、柳から滑り落ちて溺死した女の絵画を彷彿とさせる。
「〈レギオン〉戦争が終わったと首都に報道が入った翌日、大通りで共和国の白系種の子供に撃たれた。なんとか一命は取り留めたものの、二発撃ち込まれて血を流しすぎたリズベットは世界を拒絶するようにあの日以来目を覚まさない」
聴取にて銃の入手経路など聴取している最中だが、要領を得ない言葉ばかりで解決の糸口にすらならないらしい。
愕然とライデンは佇むことしかできない。
何故誰も伝えてくれなかった。ニュースでさえも報道しないなんて。
「些事だからに決まっているだろう」
〈レギオン〉に怯えなくともよい生活の前に、白系種が一人撃たれたことなぞ些末な出来事。ましてや銃撃事件があったなんて不安を煽りたくないし必要もない。
やるせなさに拳を握ったライデンの目の前で、マイヤー卿はリズベットの挿管されている機器の電源を落とした。
「何してンだよ!!」
「彼女の望みを叶えて、楽にしてあげようと思って」
胸倉を捻り上げられているというのにマイヤー卿は眉ひとつ動かさない。その余裕が憎らしい。
リズベットの望み。
誰からも忘れられて、ひとり死ぬこと。
そんなこと許してたまるかと捻り上げた手に更に力を入れた瞬間、ガクンと突如膝から力が抜けライデンの体躯は上質なカーペットに頽れた。
「テメェ……ッ」
「初対面の人間が振る舞ったものは手をつけてはいけないと、君はツィマーマンやヴィレムから教わるべきだった」
テーブルに置かれたカップが脳裏に波紋を広げる。
「君に抵抗されたらマイヤー家の出来損ないと謗られていた病弱な私はひとたまりもない。よって手荒な手段に出させてもらった。著しく弱毒化させた痺れ薬だから後遺症が残る可能性は限りなくゼロだと思ってもらっていい。十分以内に医者を呼べば、という条件が付随しているのが些か難点ではあるけれど」
毒だけでなく、盛られた動揺で呼吸が荒くなる。正常へと戻す欲求だけが先走り、余計に呼吸を求めた結果、四肢の先端から痺れていく。
「リズベットの望みを優先すれば君の命は助かる。反対に、君が自分の願いを選択するならばリズベットは助かる」
背後から射し込む太陽の光のせいで誰も受け付けない深い湖に影が落ちる。
「『もし自分の身に何かあったら助けるな』」
シーツを掴む力を強めながら、マイヤー卿の顔をわずかに仰ぐ。
「リズベットから連邦に来て少し経った頃にされたお願いだ。どうやらヴィレムにも同じようなことを託けていたようだね」
ヴィレムがリズベットの捜索に腰が重かった理由が明かされる。
「リズベットはもう十分と言っていいほど苦しんだ。これ以上苦界に生き永らえさせるなんて酷い仕打ちと思わないかい?」
力の入らない体を何とかベッドに預ける。リズベットはこんな事態がすぐ傍で起きていても、穏やかに眠るのみだ。
苦しかったろう。もう十分苦しんだ。生きてほしいというのはライデンの勝手なエゴだ。
それでも笑ってほしい。世界はそんな捨てたもんじゃないって知ってほしい。今まで見てきたものだけが世界のすべてでないと経験してほしい。
過去のことで笑うんじゃなく、今を、未来を話して笑っていてほしい。
心の底から罪だと納得して今の境遇を受け入れていれば、痛みに対して血の吐くような顔はしない。まだ何かしらで折り合いがついていないからその差異に苦しむのだ。
リズベットの苦しみを真の意味でライデンが理解できる日は来ないかもしれない。それでも理解したい。
傍にいたい。
こんなところで。
「――
幼き愛を、愛が黒く塗り潰す。
「君たちは自分の生き様を恥じたくないと戦い、ただ明日のために生き抜こうと戦うことを決めた。だから戦い抜いた先で、何も成せないまま、納得がいかないまま消え失せる結末を迎えるのは真っ平御免なはずだ」
だから他者、それも自分たちを畜生扱いしてきた共和国の白ブタの命よりも自分を優先させるだろうと、この男は暗に言う。
「私は実の子供の望みすら叶えられなかった。だからあらゆる手段をもってしてでも彼女の願いを叶える。あの子の手を握り返したときに私はそう誓った」
どれだけ不服だろうとも不毛だろうともリズベットの望みが最重要だと男は宣う。
「子供に酷な選択をさせるなんて無責任な大人だと罵るだろう。でもね、甘っちょろい覚悟のまま渡していたずらに傷付けられるより何倍もマシだ。君の本質や彼女の望みをかなぐり捨てでも、リズベットを救う理由が君のなかにあるかい?」
「……保証、を……得られたら、アンタは満足、かよ」
喉から絞り出た反駁にピクリと片眉が動く。
愛なんて永遠じゃない。今は傍にいたいと切望していても、何かの拍子に離れたいと決断する日が来るかもしれない。誓うなんて不透明な保証がほしいだけ。
ああ、そうかと唐突に理解した。
この男は一度たりとも誓いなんか求めちゃいなかった。ただライデンの意思を、欲を最初から求めていた。誰かありきのものではなく、己が欲望を。
息を大きく吸って、一息に吐き出す。告げるのは愚かな思慕の情。
「俺はただ、助けてって言われなきゃ助けない男にはなりたくねえんだよ」
助けてと声なき叫びをあげたリズベットを見捨てたくない。見捨てたらライデンは自分を許せなくなる。立ち上がりたいという意思があるのなら自分の意思で立ってほしい。
「そこで待っていなさい」
「お、いっ……!」
この場を離れようとしたマイヤー卿のスーツをできる限りの力で掴む。
「逃げないよ。典医を呼んでくるだけだ。君とリズベットを診てもらうためにね」
追いすがったライデンの指を解き、穏やかに眠るリズベットに目線をやる。
「君がいるべき場所はあの子のところだ。大事なら何が何でも傍にいてあげなさい」
起きたときにリズベットも君を一番に見たいだろうからと今度こそドアが閉まる。
結局どっちも助けるのかと力が抜けそうになるものの、いまだ僅かに痺れる指先を伸ばしてリズベットの指を握る。何も反応がないことが切ないはずなのに、こんなみっともない姿を見られたくなくてほっとした。
いまだ解かなければならないことは山積みだ。場合によってはライデンが傷つくこともあるし、リズベットを傷つけることにいたっては必定だ。それでももう怖くはなかった。
ドタドタと急ぐ足音が扉の向こうから聞こえ、気配とともに荒々しく開かれる。そこでライデンは踏ん張っていた意識を手放した。
それからリズベットが目覚めない間もマイヤー邸へ通った。目が覚めたら連絡するよと言われていたのに毎日来て、マイヤー卿に呆れられたのはまた別の話である。
「ベティ……」
唯一の血族である老婦人も呼んだ。さすがに血の繋がった孫の置かれている現状を隠し通すのはフェアじゃないと打診すれば快諾された。トントン拍子にの良さに企みを張り巡らせているのではと疑いもしたが、マイヤー卿は自分がしたいことをしているだけだと笑うだけで明確な答えをくれなかった。
季節をひとつ越え、恙無く回る世界の残酷を受け入れていたある日。
いつもの癖で仕事終わりに端末を開くと、マイヤー卿から留守電が入っていた。焦燥に奔るライデンを察してか、用件は簡潔であった。
同僚たちの挨拶も飛ばして、急いでマイヤー邸に駆けつけたライデンは酸素不足で霞む視界を目いっぱい開く。
不変を体現していた部屋で、眠りから目を覚ました玉兎は灰銀の瞳を揺らしながらも黒鉄の狼を捉えた。
浮つく足を一歩ずつたしかに踏みしめながら、ベッドの傍へ近づく。幾度となく通ったこの距離が長く感じる。
「ライ……デン……」
際まで寄って目線を合わせるように膝を着いたライデンの名をリズベットは呼ぶ。久方ぶりに耳にするその声は嗄れきっていた。
細い手をやわく取り、額へ預ける。どうしてと紡いだ乾いた唇へ鈍感だなと音に乗せず答える。本当は抱き締めたいほどのこの歓喜を今教えてやるつもりはなかった。
たとえ明日が悪くても、この日だけはたしかに佳き日であった。