覚悟が甘かった。その一言に尽きるだろう。
今度こそはリズベットのサインを見落とさないと腹をくくり、失った痛みを知った今この時ならば手を伸ばせると思った。実際は自分の脇を通り抜けたリズベットの腕を取ることすらできなかったけれども。
ライデンが想像していた以上にリズベットが抱えていた事情は深刻で、リトに資格がないと言っていたことの合点が遅れて効いてくる。エイティシックスを殺したという自責を誰に言われるまでもなく抱いていた人間が、当事者たちと深く交流を持たないように距離を置くのは普通の行動だ。
なんて劇薬を、爆弾を。
「ライデン」
聞き馴染んだ声が自分を呼びとめる。いつの間にか談話室まで自力で戻っていたようだ。あんなにも痺れて重かった足なのに、重かったからこそ無意識に仲間を求めていたのかもしれない。
「……戻ってなかったのかよ」
声をかけてきたクレナ以外に、あの場に居合わせていたエイティシックスはほとんど残っていた。時間帯的にきっと講習に戻っているはずだと思っていたのだが。
「自習時間でたまたま空いてたし、あんな話聞かされて戻れるわけないでしょ。リズベットはリズベットでさっきダスティンに謝りに来たし、心配してたんだから。……リズベットとは」
「……」
「ライデン」
猫が唸るような声と表情から斜め下に視線を逸らす。エイティシックスを殺したことがあるだなんて戦友たちに早々に共有できるわけもなく、なんと答えたらいいかわからず言い淀む。
「色々つっこみたいことはあるけどさあ……」
答える気配がないとわかると、大きくため息を吐いてクレナはシデンたちブリジガメン隊を睨む。
「大佐やシデンたちは知ってたってこと?」
「まあな」
「限度はあるじゃん。これじゃ後出しじゃんけんだよ」
「アイツが自分から言うタマかよ」
長短かかわらずリズベットを知る面々は黙るしかない。
「『褒められたくて戦ってるわけじゃない』」
リズベットがそう言っていたのとミカが続ける。
「あたしたちだって最初は信じられなかったよ。白ブタが自分から戦うわけないって、どうせ死にそうになったらあたしたちに押し付けて無様に逃げるんだって……別れるその瞬間までリズベットは戦った」
「それに聞かれてねえしな、ッてえな!! 本当のこと言っただけだろ!」
悪びれることのないシデンの脇腹にシンの鋭い肘鉄が刺さる。
「ま、そんなアタシらでもリズベットも白系種に家族を殺されてたことは知らなかったけどな。テメェはどうなんだよダスティン」
「初耳だよ」
まさか白系種のなかにも自分たちエイティシックスと同じ境遇に遭わされた者がいるなど想像できた者がいただろうか。そんなエイティシックスにとっても青天の霹靂なのだから、ダスティンにとっては況やである。
「そんな過去があるなら白系種嫌いも納得だわな」
今まで伝聞でしか知らなかったことや、彼女の近くにいた白系種は皆気心の知れた人物だけだったことで信憑性が今一つ欠けていた。
「でも旦那は夜黒種なんだ」
「結婚してることは薄々知ってたけどそのうえ子持ちっぽい発言かあ」
「お相手ってやっぱり指輪の相手よね」
「え」
事情を知っているライデンを除いた男性陣が目を大きく見開く。そのなかにダスティンも含まれていて、おいおいと詰め寄る。
「待て待て。なんでお前知らないんだよ」
「何故も何もこの件に関してほとんど俺は知らないんだって。高等学校時代にそういう色めいた話なんか一切なかったし」
「左手に嵌めてる黒のグローブの下に指輪があることは? 勿論、薬指にあるもの」
リズベットと同じ白銀の瞳が伏せられ、首が横に振られる。
ダスティンも知らないとなると、ただ単にダスティンが知らなかっただけであることもなくはないが、子供がいたとなれば話が別になってくる。妊娠すれば目に見える形になる。それを隠すのは非常に困難だ。
「疑問には思わなかったわけ? 高等学校からあんなの着けてたわけじゃないでしょ」
「大攻勢の時に怪我したって聞いてたんだよ。酷い怪我したから隠してるって」
何か隠しているとどこかで理解していても、気遣えるダスティンは触れずにいたのだろう。
大攻勢。
レーナの口からも第一次大攻勢のときに何かあったことは窺えた。リズベットは大攻勢の話をしたがらない。頑なに、触れられることを恐れている。
「子供の話も寝耳に水。俺より皆のほうが接点持ってたんだって軽く落ち込んでる」
「付き合ってたやつの心当たりとかは? たとえば……アレクとか」
リズベットがいない場でその名前を出すためにかなりの勇気が必要だった。
「ペアリングもアレクのことだからありえなくはないけど、アイツ婚約者いたぞ?」
「……」
広場で会った子供の色素から相手が白系種であることは確定している。というか白系種以外の選択肢はない。アレクでないとしたら一体誰の。
「あ」
「何か思い出したのか」
「いや、俺がリズとちゃんと話したのって二年のときからだからそれよりも前に子供産んでたら辻褄は合うかなって」
「それはねえな。だいぶ前によちよち歩きの赤ん坊と会ってたのを見た」
首都でリズベットを助けたとき見た赤ん坊は一歳から二歳ぐらいだった。年齢が合わない。
「最初の大攻勢直前に何ヶ月も学校を休んでたってことは」
「――ある」
卒業論文を提出した直後にリズベットは姿を消しているとダスティンの口から聞いた。
「じゃあやっぱりリズベットは子供を……」
人質に、という単語を皆が皆複雑な面持ちで押し留める。
妹という線はほとんどないと断定していいだろう。今しがた妹を殺されたと告白して、まだ妹がいますなどと隠すことにメリットがない。あの錯乱状態であったら尚更言わなくてもいいことだって滑っていたにもかかわらずだ。
「私は優しくなれない」
温和なアンジュの一言が天使が通ったかのように静かになった空気に波紋を落とす。
「まるで幸せに生きて来た人間は後ろ指をさされたら満足みたいな。不幸に順位や優劣を付けるような言い方でダスティンくんを傷付けたのは許せない」
「アンジュ」
ダスティンが優しく呼ぶ。
「ありがとうな」
「ダスティンくん」
「でも先に俺がリズを傷付けた。抱えてる痛みを理解したと驕って、心のどこかで『白系種が嫌いだからって、腕をやられたぐらいで』ってアイツの痛みを軽んじた」
最奥にて氷塊で覆い隠されている傷を想像することを怠って、無遠慮という熱で触れた。
「あのひとが言ったように、リズが怒ったのは俺が傷を抉じ開けたからだ。怒られて当然だ」
だから拒絶の破片で傷付いたとしても無作法者には痛がる資格もないと。
「あんな怒り方するの初めて見た。きっと言った本人も傷付いてる。これ以上責める気は俺にはないよ」
この場で誰よりも疲弊しているはずなのに、静穏な声でいるダスティンにやるせなさが募る。傷付けてきたから傷付けてもいいなんてそんな道理が通るわけがないのに。折り合いをつけられていない自分が駄々をこねているようで、ライデンは目の前に横たわるリズベットと過ごしてきた時間の差をただ見つめることしかできない。
「早く言ってくれよと文句はあったけど、さっき謝ってもらったし」
「……人が良すぎるんだよ」
搾り出した罵倒は懇願にも似ていた。
夕食後、ひとりでに談話室へと戻る。
自習室とは様相がすこし異なり、年頃の少年少女が好んで興味を示しそうな図鑑や映画のポスターなど娯楽物が多い。八六区にあった前線基地の戦隊長室より小さく、懐古を優しく呼び起こすせいかエイティシックスたちがたまり場にしていた。最近は閑散としていて、今回ばかりはシンに気を遣われたくなかったライデンにとって、一人になるにはうってつけの場所でもあった。
「ライデン」
猫っけのある落栗色の髪が夜の空気を軽やかに跳ねる。マグカップを二つ手にして現れたのはクレナだった。
「大丈夫? ……って大丈夫じゃなさそうだから来たんだけどね」
よいしょと声を漏らし、マグカップを机に置きながらクレナはひとつ空けてライデンの隣の椅子に座る。予想外の来客に目を瞬かせるしかない。
「そっとしておいてやれって、みんなに止められたよ。あたしも最初は一人にしておいたほうがいいかもって思った。ライデンだって一人になりたいときもあるだろうし」
それでも来たのは、
「ダスティンにはアンジュがいて、ライデンに誰も寄り添わないのはフェアじゃないじゃん」
真っ直ぐな瑪瑙に肩肘張っていた緊張が緩まり、目元を隠す。クレナの優しさで危うく漏らす予定のない弱音を零しそうになった。
「てことで疲れてるライデンにはこれね」
持ってきた中身はココアで、ステンレス製のマグカップは冷えてきた夜にはちょうどよい熱さであった。
一口含んで、カカオ豆の風味とシナモンの刺激がほのかに香る甘ったるい水面に視線を落とす。随分と情けない顏をしている。
「一線でも引かれた?」
「……そんなもんだ」
ライデンの返答にクレナは呆れた息を吐く。
「優しすぎ。アレクって男に遠慮してるんだか知らないけど、リズベットが自分を憎からず想ってくれていることに気づいてるんだったら何を気にしてるの」
「憎からず?」
「知らなかったの? リズベットはライデンと接する直前だけ表情がぎこちないって戦隊の中じゃ有名なんだから」
複数の情報提供者たち曰く、他の隊員に声掛けられてもスムーズに会話を始めるのにライデンと話すときだけは一瞬躊躇うような表情をしてから口を開くそうだ。
「ライデンのこと怖いのかなって最初思ってたけど、怖がってるなら夜半や夜明けに二人きりになる状況を許さないだろってシンが」
あのヤロウと急に痛んだこめかみを押さえる。しかし今の今まで隊員たちから名指しで茶化されたことはないので、黙っていてくれたのだろう。
「遠慮してるわけじゃねえよ。死んだやつには勝てねえって、痛感してるだけだ」
リズベットがアレクを想う横顔を見たことがないから言えるのだ。
エイティシックスを殺したと告白したときより、アレクを殺したと零したときのほうがずっと苦しげな顔だった。アレクのことが好きだったから彼を殺したことに途轍もない罪悪感を覚え、影を引き摺った。
それに指摘されたぎこちなさは、昔馴染みであることをリズベットが一方的に知っていた後ろめたさが起因するものだ。決して自分と似た感情が絡んだ仕草ではない。
「ねえ、ライデンはリズベットのどこを好きになったの?」
口の中に広がる苦さを消そうと口を含んだタイミングだったので、思わず中身を吹き出しそうになった。既のところで我慢しため噎せてしまい、なんとか立ち直るには時間を要した。
「今訊くことか?」
「だってリズベットの何がそんなにライデンの気を引いたか気になるじゃん」
まさかクレナとこういうネタ、しかも己が話題の中心となって話すなんて予想もしていない。いつもと逆転した形勢にライデンはたじろぐが、クレナの瞳は強い光をともなって椅子と床にライデンの足を硬くさせた。
「………………最初はシンに似てんなって思った」
感情の起伏の少ない氷刃。隙がないと思えば、目を離せない危うさを孕む。自分に無頓着で、自分の幸せや未来について野放しにする。白系種であることと性別を除いたら、シンとほとんど同じであった。
けれどもそれはほんのきっかけにすぎなかった。
決死の覚悟で亡地に飛び込み、弱音を吐かず、理不尽に膝をつかず。
孤立無援の土地で背筋を真っ直ぐ伸ばし、誰にも文句を言わせないよう歩いていく。
リズベットなりの信念と強さ、在り方を好ましいと思った。
そしてその美しさの反対に、歳相応のリズベットがいることにも気づいた。
興味のあるものに集中すると周りが見えなくなったり、おかしいことには声を上げて笑ったり、あげたストラップをつけていることを指摘されて慌てたりと子供っぽいところを目撃したライデンは目が離せなくなっていったのだろう。思い返せばシンと違うところも出てくる。他人に興味がないように見えて、面倒見が良い。ひとつ見つければ温かさが募り、時折チラつく翳りが余計に引っかかった。
その正体が忘れられない想い人であると知ったとき、気管の奥を鉛が塞いだかのようあ苦しさは今も消えてくれない。
「大体アイツが表情を緩ませるときは昔の話をしてるときだけだった。それが……なんかムカついた」
三つ葉の栞。アレクの話。
ライデンの気を引いたリズベットの仕草には必ず過去がいた。
思い出すな、なんて外道な所業を課そうとも思わない。故人を思い出すことが弔いにだってなる。けれどリズベットの思い出すという行為は、時の流れに逆らって泥沼に沈み、現在と未来を平気で擲つことだった。
ああ、そうかとライデンは腑に落ちる。
「前を向いてほしい」
元来の強さをライデン以外も目の当たりにしている。だから前を向けない、なんてことはない。己が為すことに前を向いて日々邁進していたとき、彼女の周りは明るかった。
傷だらけのくせに誰にも頼らず、過去に縛られることを選んだ彼女に笑って生きてほしかった。
「……ライデンのリズベットへの感情は恋じゃなくて愛なんだね」
耳を傾けていたクレナが寂しそうに呟く。
「……どこが」
「恋ってさ、そのままでいいよって簡単に言えちゃう。良い意味でも悪い意味で使えるけど、圧倒的に悪い意味で無責任に使える。弱くてもいいから傍にいて、傍にいるよって。でも前を向いてほしいなんて恋をしていたらなかなか言えない。だって言ったら最後、言った側は置いていかれるんだから」
置いていかれる。
いつも置いていくばかりの日々を駆け抜けてきた自分たちが八六区で仲間を失うたびに感じていた痛みを再び味わう。想像しただけで体温が消えていった。
「変わっちゃうじゃん。弱い部分を含めて好きになったのに、自分が好きになったその人が消えちゃうって思う」
本当はそんなことないのにねとクレナは肩をちいさく竦める。
「置いていかれる痛みや切なさを味わうとわかっていて、それでもその人に前を向いてほしいって思えるのは冷たいように見えて本当は誰よりもやさしい」
あまい湯気が二人の間をくゆる。
「楽しいときや幸せなときに一緒にいられるのは誰でもできる。でも辛いときに傍にいて寄り添うのはずっとずっと、難しい。前を向いてほしい、辛いときに傍にいたいって願うのは愛だよ」
自分の感情を掘り返してみる。クレナの言いたいことを理解できる。けれどもこの感情は愛と一口に断定していいものだろうか。
「納得してない顔だ」
じゃあさ、とクレナはライデンの鉄黒の瞳を覗き込む。
「ライデンは願うだけで満足?」
「満足って」
「傍にいたいとか思わなかった?」
そんなもの。
あったに決まっている。
ほしい言葉をくれた。もっと笑ってほしい。今までのように同じ時間を共有するだけでは満足できなくなった。出会って二日目に衝突をした人間の言葉とは思えない。手のひら返しだと白い目で見られても致し方なかろう。けれどライデンはリズベットと出会って、
「そのために行動起こしたことある? 告白とか口説くとか」
クレナのあけすけな言い方に変に噎せる。リズベットと具体的にどうこうなりたいといった願望を抱いたことがないから、いざ真正面から突きつけられて戸惑うしかない。そんなライデンを見てクレナはため息とともにガックリと肩を落とした。
「してないんでしょ。それを世間では遠慮って言うんだよ。ライデンはいっつもそう。リズベットを口説いたってアレクって男が何か文句言ってくると思ってる?」
「それは、」
「たしかに死んじゃったひとには勝てないよ。だってその先思い出を作っていけないから」
記憶のなかで一番綺麗なものに、完璧になってしまう。いや、してしまう。終わったものを美化してしまう人間という生き物であるせいで。
「だからって今や未来が劣ることなんてない。ライデンもリズベットも生きてるじゃん。今敵わないとしてもこれから逆転できるかもしれないし、未来を諦めてもいい言い訳にしちゃダメでしょ」
それまで纏っていた真剣な色味を引っ込めて、クレナはやれやれと困った笑みを浮かべる。
「そもそも相手に好きなひとがいるからって簡単に諦められるものなの?」
その一言はライデンの目を覚ますには十分だった。
リズベットへの感情はアレクの存在を知ってから暴走し始めた。そんな寂しそうな顔をしないでくれと、アレクではなく
羨望など可愛らしいものではない。これから先、自分の知らないところでリズベットがアレクを想っていたらライデンは嫉妬している。
「すげえな」
「伊達に片想い歴長かったわけじゃないからね」
八六区からの妹分は随分と強くなった。叶わなかったことも糧にして、前に進む。シンを弄っていたときも感心したが実感として知る。
「クレナ」
「んー?」
「ありがとうな」
話す前より大分楽になった。縺れる感情を吐露することがなかったら、いつまで経っても堂々巡りしていたに違いない。
「いーえ。手のかかるお兄ちゃん揶揄えて楽しかったから全然苦じゃなかったよ」
用件は済んだとクレナが立ち上がる。兵舎の前まで送ろうかと提案したら、リズベットに悪いからここでいいと断られる。
逞しくなったクレナを見送ると廊下は無音が支配する。元々人気がないところだ。時間帯も合わされば怖いくらいに静かにもなる。マグカップの底に残っていたココアを飲み干し、後方にいる気配に意識を向ける。
リズベットを追いかけてる最中から見られているのはわかっていた。害はないと放置――キャパオーバーになって頭の隅からその存在が抜けていたとも言う――していた。
その人物に振り向きもせずライデンは吐き出す。
「……アンタの主に伝えてほしい。息抜きがしたくなったら呼べ、って」
ライデンの願いは少し時間を置いてから叶えられることになった。
執務室に入ると座りたまえと促される。ヴィレムの顔に疲労は見えないものの、普段の兵站管理や作戦立案に加えて昨今の人員不足が多忙に拍車をかけていただろう。こんな私的な話は戦争後になってもおかしくないと予想していたため、デバイスで呼び出されたときは驚いたものだ。
「参謀長はリズベットの何なんだ」
お互い時間を縫ってこの場にいる。無駄にはできないので初っ端から切り込む。
気にしていないと口でも素振りでも言っていたがその実、要所要所にてヴィレムは内情を知らないとできないフォローばかりしていた。
知りたいのは根本であった。
「私は彼女の後見人で、彼女とは書類上の兄妹になる」
淡々と落ち着いた声が告げるのは自分たちと似た境遇であった。
「驚かないんだな」
「そんな感じだろうってある程度予想してたからな。妹は流石にビックリしてる」
「本来ならばエーレンフリートが出てくる予定ではなかった。しかしマイヤーの家にはリズベットの後見人になるにあたって面倒な理由があった。そこでマイヤー家と交流があったエーレンフリートの家が後見人を引き受けた……結局、君も知っての通りあの御仁が彼女を
実際リズベットを引き取って身の周りの面倒を見ていたのはエーレンフリートの分家で、激務であった本家筋では到底面倒など見きれないとのことでの対処であった。ただ白系種を引き取ることにエーレンフリートの分家筋の気が進んでいたか、はまた別の問題である。
そのわずかな隙をマイヤー卿は突いた。
屋敷内からリズベットが忽然と消え、翌日マイヤー卿からリズベットの所在をエーレンフリートの家は聞かされることになる。彼の耳に入らぬよう緘口令を敷いていた手前、失態を演じてしまったのは分家筋とは言えエーレンフリートの消えぬ汚点となってしまったわけだ。
それは険悪にもなるとライデンはエーレンフリートの家に同情する。今の話ぶりだとマイヤー卿がリズベットを誘拐したようにしか聞こえない。
「でもその割に親しげで」
「同じ時期に同じ人物を師事していた。以降何かと世話を焼いてくるようになった」
兄弟子と、弟弟子。刺々しい会話だったけれど、他人行儀でもない。ファーストネームで呼ぶ親しさ。
「家単位で比較すれば、ブラントローテとも関わりがそれなりに濃い。ノウゼン大尉経由の依頼が迅速に完遂されたことに違和感を覚えなかったか?」
何故ミルメコレオが見つけられたのか、事の詳細を聞くことになる。
ギルヴィースが言っていたように、第二次大攻勢にて斥候型に補足されたところをミルメコレオ連隊の隊員に助けられたリズベットはその後何らかの手違いで共和国市民が避難する区画へと送られた。そこにやけに切羽詰まった雰囲気のミルメコレオの隊員が捜索しに来て、偶然白系種同士のいざこざに巻き込まれているリズベットを発見することができたというわけだ。
「やけにって、シンはそんなに急かしてたわけじゃないはずだ」
「そこが今回の騒動の面倒なところだ」
シンがミルメコレオに捜索を依頼した後、その報告を耳に入れたブラントローテがマイヤー卿に貸しを作れると画策した。散々曖昧な態度を取り続けてきたマイヤー卿との関係に白黒を打ちたかった女大公にとっては千載一遇の機会だ。
しかしマイヤー卿もマイヤー卿でリズベットを回収する手筈を整えていたため、リズベットを巡ってマイヤー卿とブラントローテ大公の間で争奪戦が水面下で勃発した。結果だけ見るとブラントローテに軍配が上がり、リズベットが西方方面司令部基地に護送されることになった。
「なんで司令基地に」
わざわざ連行せずともブラントローテの所領で引き渡せばより有利に交渉を進められるはずだ。
「リズベットが騒ぎの渦中にいたという話があっただろう。つまりは憲兵や他の一般兵も一部始終を見ていたわけだ。ブラントローテ麾下のミルメコレオに拉致された、などとでっち上げられるのは避けたい。だったらちゃんと自分たちが保護したという証拠を突きつけたほうが優位に立てる。大方そんなところだ」
アレが来てから面倒事ばかり湧いてくると、ヴィレムは背もたれに体重をかける。とある筋からリズベットが西方方面司令基地に護送されるとの情報が齎され、ヴィレムが対応にあたったそうだ。
「脱線したな。他に聞きたいことは?」
「参謀長は全部知ってたのかよ」
リズベットが犯したと言う罪と、過去のすべてを。
「ああ。ほとんどは本人の口からの自己申告だが、虚偽がないか身辺調査もして確認済みだ。自白剤は使用していないから安心したまえ」
「そこは心配してねえ。で結果は」
「すべて事実だった。マイヤー家と縁があることも含めてな」
本当にマイヤー家というのが首脳陣にとってネックだったのだろう。
ライデンがマイヤー家について知っている知識は帝国時代から名高い夜黒種の家門であり、血族が二人しか残っていないこと。そして、獣に堕ちた現当主がいることだけである。
「マイヤー卿に嫁いだ後、リズベットは表舞台に現れた。均衡も鑑みて、リズベットを大統領閣下からの命令で最初の三ヶ月ほどは行政と軍を行き来させていた」
軍と行政をふらついていた謎が解ける。
「マイヤー卿の手元に置きすぎないため」
「そうだ」
「でもそのあとも移動してただろ」
「マイヤー卿が体調を崩したのをこれ見よがしに軍部に引っ張った大馬鹿者が仕組んだせいだ」
政治的にも有能であるはずの軍上層部。害なすことはしないのだから放置しておけばよかったものを、行政に持っていかれるくらいならと監視下に置いた。結果、お小言という名の抗議を本人から頂戴することになったのが九月初旬。
リズベットといたとき、視線を感じたあの時と同時期であった。
「しかし盛大な愛の告白だな」
「…………はあっ?」
突然の方向転換に反応が遅れてしまう。
「『こんな自分を愛してくれるのか』」
いじらしいじゃないかと揶揄の燐光が宵闇に瞬く。
「どこが」
「何処も何も…………中尉は朴念仁か?」
脈絡がいまだに咀嚼できていないでいるとヴィレムが馬鹿にするような口調で言うものだからヴィレムを睨む。それこそ怪訝な表情でヴィレムがライデンをじろじろと全身を舐め回す。
「今の今まで口を割らなかった過去まで曝け出したことに、中尉を
リズベットが試した。いったい、何故。
「徹底的に嫌われるためもあるだろうな。だがアレはその秘密を中尉にしか漏らさなかった。徹底するなら第八六独立機動打撃群の皆がいる前でもよかったにも拘わらず、だ」
それこそあの場でぶちまけてしまうのが一番効率が良かったのにリズベットは。
「知ってほしかったのだろう。地獄の底まで堕ちて穢れた自分を受け入れてくれる人間か否か」
甘えている証拠じゃないかと射干玉の青年は言う。
もし本当にヴィレムが言うようにリズベットが甘えていたとしたら。
ライデンは片手で髪を乱しながら顔を伏せる。
ぐちゃぐちゃだ。嬉しさと、サインを見落としたこと自分への恨みと。
というか。
「…………やっぱりアンタ、全部聞いてただろ」
ライデンがリズベットを追いかけた際、ヴィレムはマイヤー卿とあの場にいた。リズベットとの諍いの一部始終を知っているはずがない。
ならば盗聴器が仕込まれていると考えるのは当然だ。ライデンと出会った当初からとなると、リズベットが身に着けている衣服や文房具類は候補に挙がる。だがいつも同じような服装をしているからと言って、同じものを身に着けているとは限らない。たとえば赤のサテンリボンは夜の逢瀬では半分ほど付けていない。
候補を潰していって残るのは。
「ピアスか」
意地の悪い笑みが端正な顔立ちに浮かぶ。
左の耳につけているピアスが件のものだとヴィレムは説明してくれる。本来は球体の部分に仕掛けたかったものの、あの大きさには連邦の技術力をもってしても盗聴器しか仕掛けられず、ピアスキャッチが盗聴器になった。そのうえ、旧型のせいで遮蔽物があると装着者の音声すら精度が下がり、到底盗聴器と言える代物ではないそうだ。
「リズベットからの申し出だ。形見なら一瞬たりとも外さないから監視する側にとって楽だろうとな」
形見。再会したときのダスティンの反応が蘇る。
アレクの、形見。
リズベットが愛し、終わらせた、一生の傷。
腹は括った。
「――首都に戻ったらリズベットはどこにいる可能性が高いですか」
「十中八九マイヤー家の邸宅だろうな」
「そこの住所ください」
「ほう?」
整えられた眉が器用に片方だけ上がる。
「アレと接触するならば否が応でもあの御仁と対峙せねばならない。そちらの覚悟のほどは?」
「……あってもどうにかなるもんか」
場を支配するような話術。権謀術数をくぐり抜けてきた経験値。それらをライデンは会得していない。政治に利用されていることはあっても、自分の持てるすべてで自分に有利な方向に持っていく術に触れたことなんてない。若いライデンと、老練なマイヤー卿。分は火を見なくても最悪だ。
「でもそんな悠長なこと言っていられるかよ」
クレナの指摘する通り、どこか遠慮していた。話したくないほど隠すものならば無理に暴くことはないと。それが適切な距離だと。
けれども臆病のせいで、どれだけ自分がリズベットを大切に思っていても込み入った事情を打ち明けられる関係をリズベットと構築できなかった。自分からリズベットに深く踏み込むことはなかったなと振り返る。知ろうとも思わなかったから当然と言えば当然である。
結局怖かったのだ。ぶつかってリズベットに拒否されて、自分が入り込めないと認めることが。
でもただ負けているだけではいてやらない。
だったら徹底的に。信じてもらえるように向き合うしかない。リズベットがアレクにあんなにも心を開いたのはアレクが本気でリズベットにぶつかったからだ。振り向かせて話を聞いて、自分と向き合ってもらうのなら躊躇している場合ではない。
「参謀長は前にどうして俺がリズベットを知りたいかって訊いたよな」
その時ヴィレムは生半可な覚悟では傷つくと言った。ライデンだけでなく、リズベットも。
だから両者ともに傷ついた。
知ることは傷付くこと、そして傷つけること。リズベットを傷つけたとしても、傷つけたことを背負っていく覚悟がライデンにはなかった。
「笑ってほしいからだ」
何も知らないでいても笑わせることはできるだろう。でも根本からの解決には至らない。きっと目を離した瞬間、雪のように消えてしまう。
「リズベットが君にどうしてほしいか、君はとっくに理解しているのだろう?」
忘れてほしい。幸せになってほしい。
――無理に決まっているだろうが。
「俺はリズベットに祈ってほしいんじゃない。笑って生きててほしい」
どれだけリズベットが幸せになりたくないと言っても、エイティシックスを殺したという話を聞かされた今でも。それでもライデンの胸の中にある思いはひたすらにリズベットの幸せを渇望していた。
無音が部屋を占拠し、自分の呼吸や心臓の音しか聞こえない。
冷静になってくると羞恥が今更ながらに込み上げてきた。本人に告白すらしていないのに、保護者に告白するなんて順序が間違っている。
「今まで散々逃げ回ってきたツケがやって来た、か」
黙っていたヴィレムがくつくつと喉の奥で笑いを鳴らす。何が愉快なのかライデンにはまったくわからなかったが、ヴィレムの瞳がライデンを真っ直ぐと貫いたので第一段階は突破したはずだ。
「会うことは止めはしないが、マイヤー卿に付け焼刃で挑むことだけはやめておけ。小手先だと看破されれば一生涯リズベットに会えないところまで追い込まれてもおかしくない」
その結果はライデンにとっても願い下げたく、やり方は他にあるとヴィレムは示す。
「元々の性格は革命以前から異端を冠するほど帝国貴族らしからぬ人情派だ。小賢しい術など弄せず、体当たりでぶつかった方がマイヤー卿も包み隠さず教えてくれる確率が高い」
付き合いの長いヴィレムがそこまで言うのなら間違いはないのだろうが、手も足も出せなかったライデンとしてはマイヤー卿が人情派だという想像がつかなかった。
「生者の行く先を決めることができるのは生者のみだ。死人や廃人に舵を握らせるな」
副官から差し出されたのは住所の書かれたメモ。話の流れから、リズベットがいるであろうマイヤー卿の家のものだ。
「訪問する日程が決定したら連絡をくれ。引き籠もりが外出することは滅多にないが、居留守を使わないとも限らない。逃げ場を塞ぐように手回しすることくらいできる」
ライデンからの言伝は預かるように家の者に言っておくとまで手配してくれて、ライデンは呆然とする。
「なんでここまでしてくれるんですか」
「言っただろう。私はアレの陰湿な顔が嫌いなんだ」
次に面会したときもあの表情だったら気が滅入って頸を刎ねかねんと、ヴィレムがうんざりと悪態をつく。
「ちゃんとお兄ちゃんしてるんすね」
基本的に悪人ではないため、手を貸してくれることもある。だがそんな程度の認識だ。ヴィレムらしからぬ面倒見の良さをあえて兄貴という単語を使わず揶揄ってみれば、絶対零度の視線が寄越される。人間らしくて面白かったけれど、これ以上の追撃は我が身が可愛いのでやめておいた。
「ありがとうございます」
「まずは生き残らなければ意味がないがな」
最後に釘を刺すことも忘れないところがヴィレムの可愛くないところであった。
「シン」
「どうかしたか」
シンは変わった。レーナのおかげで過去の亡霊に固執せず、未来を望むようになった。
昔自分が助けたかったシンはもういない。リズベットは昔のシンに似ていた。愚かしい代償行為と外野は揶揄するだろう。自分でもその区別がついているかと尋ねられれば自信なんてない。
それでも。
今の自分は、リズベットのあの笑顔をもう一度傍で見たいと願った。
「ちゃんと向き合ってくる」
「……そうか」
ちいさな別れをしても、頑張れと背中を押す力がどこまでも勇気をくれた。
□□□
〈レギオン〉との戦争終結から一夜明けても、街はいまだに歓喜に湧きたっていた。
見知った者とすれ違っては抱擁を、見知らぬ者と目が合っては固く握手を交わす。中には噛み締めながら寂しそうに、悔しそうに空を見上げる者もいる。皆抱く感情は異なれども長きにわたる戦の終焉を寿んでいたことは確かであり、天使が花を降り注いだかのように街全体が活気を取り戻していた。
ゆえにその瞬間眼前で何が起こったのかを、雑音とアドレナリンに溺れていた脳たちが理解することは困難だった。
――どうして、どうして。
少年の瞳には自分の認識下にいる人間すべてが不可解な生き物にしか映らない。
――目の前で人が倒れているっていうのにどうして誰も助けようとしないんだ。お前らはお前らが言うように人間で、白系種すらも平等に扱う正義の国の人間のはずだろう? 自分たちが間違っているのならお前たちは正しいはずなのに、どうして正しい行いをしない?
雪紗の隙間から銀のピアスが一際眩い輝きを放つ。何にも滲むことなく、ただそこにあり続ける光景はいっそ気高さすら感じる。
ああ、そうかと少年はひとつの結論を導く。この木偶の坊たちが善行を放棄したのは倒れている人間が自分と同じ白銀を持っているからだ。
――なんだ全然正しくなんかないじゃないか。
あんなに人道に悖ると正義の矛を振りかざしておきながら倫理と感情を天秤にかけて、結局感情に傾けた。同じ穴の狢だったというわけだ。
認めたくないだろう、認められるわけがない。だが罪人と同じ行為をしていることから目を背け、善人を装ってきたせいだ。自分たちが正しくないのだと彼ら自身で証明してしまったのだから自業自得以外に何があるというのだ。
少年の未熟な思考回路へ片隅から痛みが囁く。天使の睦言は甘く危険で、他者を攻撃していなければ少年は立っていることすらままならなかった。
色彩豊かな蠟人形の群れからようやく一人の女性が飛び出し、少年を突き飛ばして倒れた相手に駆け寄る。傷口に真白のハンカチが詰め込まれるが、紅い満ち潮を止めることはできない。黒いグローブが浮き輪のように力なく漂って見えるのは錯覚だ。
手の空白を感じて霞んだピントでゆっくりと周囲を見渡す。先程まで握っていた相棒はぶつかった拍子に少年の手の届かない彼方へとすでに滑っており、その光景を見た少年はぺたんと膝から石畳へ落ちた。
もう二度と触れられない心許なさが寂しくて、そのくせあの重さから逃れることができて。胸が痛いほどの情けなさと苦しさを誰かに――もういないあの人に抱き留めてほしかった。
「なんでだよ……」
両手で顔を覆い、噎せるほどの鉄の味に染まる闇の中。
憎くて憎くてたまらない裏切り者の、幼い自分を下水道に押し込めて〈レギオン〉に殺されてしまった母親と同じような微笑みが瞼の裏にこびりついて離れなかった。