21

「下ろして!!」
 きぬ裂く声が二階から屋敷へと響き渡る。つんざく叫びにもかかわらず、一階の居間で家主は何処吹く風でくつろいでいた。
「ライデン!」
 俵抱きにしたせいで絶妙な位置を絶妙な痛さで蹴ってくる足を片腕で抱え込み、ライデンは廊下を進む。ついこの間まで何ヶ月も昏睡していた人間とは思えない鋭さだと感心してしまう。
「部屋戻って自分で怪我を確認するか、今俺に確認されるか聞いたのに決めなかったからだろうが」
 上階から聞こえた痛い音にライデンが慌てて向かえば、案の定痛みに悶えて天鵞絨の上に白銀が頽れていた。
 最近は何とか歩けるようにまで回復していたから油断していたのだろう。音の大きさが大きさであったため素直に痛む箇所を申告してくれるかと予想していたが、ノーすらも答えないという暴挙に出られたのでライデンは強硬手段に打って出たのだった。
「手助けは要らないとあれほど」
「そんな体たらくで歩き回ったらまた怪我作るに決まってるだろうが。何ヶ月眠ってたか忘れたか?」
 壁伝いに歩行練習をしている最中に階段から転げ落ちたのは幾久しい。他にも小熊みたいな医師の忠告に従わず、オーバーワークしては怪我をするリズベットに肝が冷えた回数は片手では足りない。
「家の中で転んだくらいで過保護ですっ。保護者ですか!」
「なんとでも言え」
 開き直るライデンにリズベットは反論すら出てこないようで、もっと抵抗されると予想していたライデンはこれ幸いにずんずんと廊下を進む。
「お願い、歩かせて……」
 蚊の鳴くような声がライデンの鼓膜にくぐもって届く。ようやく観念したかと、背中のシャツを握る力にライデンはそっと天鵞絨に下ろす。だが手は離さなかった。
 リズベットの華奢な指が小さな抵抗を示す。それでも一度だけで、ライデンに引き下がる意思がないとわかると無言でライデンを支えにしながらゆっくりと一歩ずつ歩み始めた。何ヶ月も寝たきりだったから以前のように軽やかに動くことは難しい。ただそれなりに歩けるまでになったのはリズベットの努力の賜物だろう。
 やっとの思いでリズベットの私室にたどり着く。わずか数メートルの旅路が惜しいと寂しくなるのはあまりにも強欲か。
「ここまでなら大丈夫だな」
「……ありがとう」
 歩きたいというわがままを通してくれたことへの謝辞だろう。頑固ではあるが筋は通すのだからいじらしい。
「まだ約束の時間まで余裕がある。急がなくていい。待ってるから・・・・・・
「っ」
 待ってる。
 その言葉にリズベットは今にも泣きそうに顔を歪め、扉の奥に隠れようとしたかいなをライデンは掴んだ。
 この期に及んではぐらかすリズベットの視線を強引に自分と合わせる。隅中ぐうちゅうの光を反射させ、透き通った瞳はあどけなさをチラつかせて深淵へと惹き込む。
 吐息も、揺らぎもいっそとがごとと錯覚しそうな気配の中、ライデンが先に動いた。
 左手を伸ばし、頬に触れる。びくりと僅かな反応が返ってきて、リズベットの動揺が手に伝う。
 避ける雰囲気がないからといって強引に踏み込むのは悪手だ。一人の人間として信頼してもらうために焦りは禁物であり、何よりおっかない保護者との約束において御法度であった。
 ――でも誰も見てねえしいいだろ。
 銀紗の随に指を通し、リズベットの右耳にかける。それだけで終わらず、焼き付けるように薄衣の裾を指の腹でゆっくりと撫ぜ上げた。
 矛盾していると自分を客観的に捉える。過去もリズベットの一部だと納得した。にもかかわらずいざ目の前に現れただけで嫉妬に自制が簡単に喰われて、触れてしまった。
 まだまだガキだなと苦笑しながら行き場のなかった手を甘やかな理不尽と一緒に収める。
 刹那、突風と衝撃がライデンを襲った。
 人為的な風圧と閉ざされた扉に目を瞬かせ、ややあってライデンは吹き出す。意識してくれたかと、垣間に見えた真紅に胸がすく。
「で、いい加減アンタを介してリズベットと連絡を取るのはやめろだって?」
「そう」
 居間で優雅に茶をしばく男に軽く顛末を報告をして、真向かいにライデンは腰を下ろす。微笑の奥に僅かな苛立ちと諦めを揺蕩わせるマイヤー卿の原因を認知しながら、ライデンは見なかったフリを決め込んだ。
「外聞を整えて律義に尋ねてくれるのは理解しているし、評価もしているよ。でもそろそろ成人する子供の恋路を毎回仲介し続けなければならない親の気持ちも汲んでほしいわけだ」
「焦ってアイツを傷つけるような真似はすんなって最初に牽制したのはどこの誰だよ」
「ヴィレム」
 ため息を盛大に吐き出す。本当にこの男と話していると、エルンストと話しているときにたびたび感じる無駄な疲労を味わう。弄ばれて、エネルギーを根こそぎ奪い取られるのだ。
「少しでも嫌だって言ってるうちは確認取るべきだ。ペースってモンがあるだろうが」
「のんびりしすぎじゃないかい? 百夜通い?」
「本当にアンタは舌の根乾かないうちに首突っ込むよな……」
 通い始めてどのくらいになる? と間髪入れずに無邪気に尋ねてきやがるからヤケクソで一ヶ月と投げてやる。勿論リズベットが目を覚めてからの計算だ。すると、察しのいい虚ろな深更は彼方へと意識を飛ばしていた。
「申し訳ない。私の気が遠くなってしまった」
 意趣返しが思わぬ形でできて、少しだけ胸がすく。先程リズベットに触れたことは黙っておいた。どうせ嬉々として揶揄ってくるのは自明だ。
「のんびり、ではなく我慢強い、だね。深草になるつもり?」
「さらさらねえよ」
 遥か昔、極東の島国では男が女の元へ三日通えば結婚とされた風習があった。そんな中、百夜一日たりとも欠かさずに通えば夫として迎え入れましょうと言う美女が現れる。我こそはとこぞって男どもが挑むも女のつれなさに百戦錬磨の猛者すら匙を投げ、奮闘した者でもあと一日というところで雪降りしきる夜に命を落とした、という逸話である。
「お待たせしました」
 扉が開かれ、オリーブ色のロングスカートが翻る。乱れた髪は整えられ、盛大に転んだ影形はどこにもない。
 トレードマークであった赤いリボンと黒グローブがないだけで印象が変わるもんだなとありきたりな感想を浮かばせていると、ぱちりと目が合い、不自然な程度でない範囲で逸らされる。ちらりと見えた耳朶にはまだほんのりと朱が居座っていた。
「準備はできたようだね」
 うんうんと一通り確認したあと、マイヤー卿がリズベットを手招く。小首を傾げるも、リズベットはなんの疑いもなく傍に向かう。
 親子に見まごうやり取りを交わしリズベットの左手をおもむろに取ると、マイヤー卿は指輪を引き抜いた。
 ライデンも目を見開き、リズベットは突然巣の外へ放り出された雛鳥のように宿雪の瞳を揺らす。
「伴侶がいるはずの君が若い男と一緒に歩いているのを見たら、中途半端に無知な輩はどんな行動に出ると思う?」
 淫乱、多情。
 好き勝手に悪意を囀らせるに決まっている。
「……その指輪は、共和国出身の私を監視するためのものだと仰られていたはずです。監視の目を外してももうよいと?」
「戦争が終わったから」
 端的な答えは若い息らを奪う。
「たしかに白系種への偏見や風当たりもいまだ強く残っている。けれども今更元共和国人どもが喚いたって誰が気にするかな」
 戦後直後の混乱は徐々に収束の兆しを見せ、復興もなんとか市民たちの自らの手でなされてきている。追い込まれる恐怖に耐えきれず誰かを贄に差し出す真似もなくなり、思考も正常になってきた。少しずつ戦火の影は日常の光に掻き消されていた。
「こんなものに縛り付けられたままではいけないよ」
 それまでずっと握っていた手をゆっくりと離す。名残惜しさなんか一切纏わせずに。
「いってらっしゃい」
 邸宅の外へリズベットとともに一緒に放り出される。マイヤー邸の前の道路は初めてライデンが訪れたときと変わらず穏やかで、空はいっそ残酷なほどに快晴であった。
 隣で立ち尽くすリズベットを見やる。滑り落ちた銀紗から青ざめた色が覗いて、動揺が手に取るよりも前に見て取れた。
 戸惑うのも無理ない。指輪を外すことはつまり、リズベットを当たり前の自由はりのむしろへと解き放つことであった。
 指輪の存在は免罪符というギプスであったのだろう。重さと外殻の硬さによって装着している患部を守るが、ひとたび外されてしまえば否が応でも己の弱さと向き合わなければいけない。指輪の重さに庇護されていたリズベットはこれから当たり前の自由を生身の自分で生きることを余儀なくされた。
 指輪の本当の目的が何であるかを知らされぬまま。
 何も用事の前にやることかよと短く揃えた髪を掻く。やること為すこと唐突すぎる。傷はどんな拍子で裂けるかわからないというのに、それすらも計画のうちだと宣うのか。
 リズベットがハッと顔を上げる。戻ってきてくれたはいいがその色は更に青く染まっていて、無自覚に舌打ちしてしまったのだと遅れて気づく。
「お前にじゃねえ、あのオッサンにだ。当事者を置いてきぼりにして、手前勝手な願望を押しつけてねえかって話だ」
 やりたい意図はわかる。将来を考えたらリズベットは今からでも自由に慣れなければならない。だがせめて考える時間くらいは与えるべきだ、と似たような経験をしたライデンは考える。
「お前が外したいと思ったときに外してもらうのが最適だ」
 自発的に外すか、第三者に強制的に外されるのかでは覚悟を決める意味合いがまったく違う。悩む時間がなければ納得できるものもできない。
 今はもういない指輪の残り香を押さえて、リズベットは首を横に振る。
「……たしかにそういうルールだったのに簡単に無くしていいのかという正義感のような不安が強くあります。でも今の私・・・が特に困らないのもまた事実なのが余計に混乱するというか」

 目覚めたリズベットはギアーデ連邦に来る直前からの記憶がすっぽり抜けていた。

「ミリーゼ大尉・・やイーダ大尉・・と一緒に戦って別れたところまでは覚えていますが、何がどうなって帝国――いえ、連邦に来たかはまったく」
 真っ白な寝台の上でそう告げたリズベットになんて声をかけるべきか、ようやく面会ができたライデンは口を閉ざすほかなかった。
 目が覚めたら革命が起こった隣国にいた、という困惑に寄り添うのが正しいはずだ。だがこれまでの小さな積み重ねをすべて忘れ去られた衝撃は寂寞や空虚なんて言い表せるものでもなく、リネンの上で浮かべた不安げな表情を恨めしく思った。
「君は私が余計なことをしたせいだと詰らないね」
「因果関係が示されてねえんだろ。だったら憶測で批判するのは間違ってる」
 どう考えても最大の要因だろうがこのド腐れ外道ペテン師! とライデンたちを診察した典医がアルドレヒト似の胴間声で誰よりも憤慨していたので、ライデンは怒る気にもなれなかったというか隙間すらなかったというか。
「どうする? 君が聞きたいところが綺麗さっぱり忘れられている。それでも今までのように通う?」
「知りたいところだけ知ったら用済みなんてクズのやることだろうが」
 空白の期間にリズベットの身に何が降りかかったのか知ることは重要ではあるが、唯一であるわけではない。あくまでリズベットの一部だ。ライデンは抱えた全部が欲しいのだ。
 不幸中の幸いか、ライデンの存在は覚えていた。やはり幼馴染みだったようで、以前の堅苦しさより緩和した気安い空気で名前を呼ばれる。ただ久々の再会に歓喜よりも混乱が上回っているようで、よそよそしさはいまだ拭えない。
 ちなみにマイヤー卿については名前を聞いただけで納得し、妻として娶られたことには酷く驚いていたもののすんなりと納得していた。その受け入れ方に、マイヤー家と繋がりがマイヤー卿の口八丁でないと証明されライデンの不信が一つ解かれたことは余談である。
「何を伝えるか、伝えないか。それは君に任せるよ」
 記憶を失くす前にリズベットが告白したアレクを殺したことについては伝えなかった。ただでさえ自罰的感情が強いリズベットが事実を知ったら心が壊れるどころの話ではない、とライデンが判断した。それこそ指輪の本当の目的が果たされてしまうことは最も避けなければならない事項であった。
「文句言うなよ」
「ああ、もちろん。そこは信頼している」
 見透かすようにして去る射干玉にライデンはずっと気味が悪かった。
 何を見ているのか、何を考えているのか。リズベットへの誓いは嘘ではないと判断したけれど、気まぐれを危惧してしまう軽薄さも孕んでいた。まるで本当は何もかもどうでもいい、と。
 マイヤー卿の闇にリズベットは気づいているのだろうか。今のリズベットは薄らながらも勘づいている節がある。記憶を失う前のリズベットは確実に気づいていた。見て見ぬフリをしていたわけでもなかろう。だが対策している素振りはなかった。なまじっか理解しているから牙を剥かれる事態なんて考えもしなかったに違いない。
 もしまた牙を剥くのならば対処を考えなければならない。願わくば一生牙を剥かれる時が来なければいいと、一歩前を歩くリズベットの旋毛を眺めながらライデンは無責任にも祈ってしまう。
 夏の盛りはなりを潜め、冬へのモラトリアムが街を包み込んでいる。気の早いイチョウに幼子はキャラキャラと笑い声を上げ、風のようにライデンたちの横を走り去っていく。
 横並びで歩いていくこの距離感は去年の夏以来かと掘り返す。あの頃からチラチラと過去の影が見え隠れしていたわけだが、今と比べると関係性は一歩踏み込んでいたような気もする。
「どうしてここまでよくしてくれるんですか」
 信号待ち中にぽつりとリズベットが問いかける。目線がライデンに向けられることはなく、声色には以前のような怯えがあった。
「優しくされる理由がないのに」
「そうだな」
 面倒くさい相手なんて見捨てておけばいい。何度手を振り払われてきたことかと、自分の諦めの悪さが可笑しく思えてくる。
「優しくされる理由はお前の中にないかもしれねえが、優しくする理由は俺の中にあるんだよ」
 リズベットが振り仰ぎ、揺らぐ宿雪がライデンを捉える。
 やっとリズベットの方から見てくれたかと満足がちいさく零れる。ずっと目を逸らされたり、ライデンがアクションを起こさない限り目が合わなかったりの日々であった。
 伝わればいい。ライデンが抱えている全部、何もかも。
 瞬間、信号が青に変わり通行人が一斉に動き始める。
「行くか」
 リズベットの脇を通り抜け、はじめて先行して歩く。目的地に着くまで二人は言葉を交わさなかった。
 緑から金色へと移ろうアーチをくぐっていく。待ち合わせ場所はライデンがリズベットの子供と出会った公園の中にある。
「きた!」
 指定されたベンチに向かえば最後に見たときより随分と大きく育った赤ん坊と婦人、それと彼女の旦那と思しき白系種の男性が待っていて、目ざとくリズベットを見つけた赤ん坊は婦人の腕の中から短い手を必死にリズベットへと伸ばしていた。
「こんにちは。元気になって嬉しいわ」
「……」
 はじめましてとも、ご無沙汰しているとも言えず、ただ頭を下げるしかできない不器用なリズベットへ婦人は寂しそうに笑いかけ、ライデンに視線を移す。
「お兄さんもお久しぶり」
「っす」
「生きて帰ってきてくれて、本当によかった」
「う〜」
 置いてきぼりにされた空気を拾ったのか、赤ん坊がジタバタと暴れ出す。あやしても駄目だったようで、赤ん坊は腕の中から下ろされると、とことこと確かな歩みでリズベットに寄った。
 リズベットを混乱させたくないという理由で会わせていなかったが、リズベットも動けるようになったので今回会う機会を設けることになった。
 赤ん坊の行動にリズベットが身体を強ばらせる。話を聞かされていたとしても今のリズベットにはほとんど初対面の相手である。それでもリズベットは恐る恐る赤ん坊に手を伸ばした。
 やがて柔肌は細腕に吸い込まれる。連邦でどんな風に触れ合ったか覚えていないはずである。しかし扱いは覚えているようで、赤ん坊が声を上げて笑う。
 泣くのを堪えようとかんばせが歪められ、赤ん坊の肩口に隠れる。
 最初はどうしたのかとリズベットを凝視していた赤ん坊だったが、飽きたのかライデンに手を伸ばす。
「いてっ」
 油断していたら顔を叩かれる。痛みはもちろんないが不意打ちに驚いてしまった。傷跡が気になるようでぺちぺちと遠慮なく触る、というか叩いてくる。
「こらっ! 人を叩いてはダメでしょうっ」
「いいって」
 リズベットが気を抜いた隙間に赤ん坊を替わって抱き上げる。勢いをつけて高く持ち上げればご機嫌に笑い声を響かせるのだから、本当に肝が据わったガキだ。
「リズベットさん、提案があるの」
 和やかな雰囲気に緊張が走る。席を外すべきかと夫人に目配せをすれば、ここにいて頂戴と引き留められる。
「提案、ですか」
 斜め前でごくりとリズベットが唾を飲み込む音が静寂に落ちる。
「この子を正式に私たちのもとで育てさせてほしいの」
 リズベットの表情は見えない。しかしその提案がリズベットに齎す影響は容易く想像できた。
「この子と一緒に来た経緯を忘れている貴女に酷な話だという自覚はある。貴女がこの子のためと頑張ってきたことも知っている。思い出したら騙したなと詰られるかもしれない。でもこの子を枷にしては駄目だった」
 預かる時点でマイヤー卿から連邦に来た背景を直接聞かされていたの、と婦人が告白する。
「貴女はこの子を枷にした大人に、枷にしなければならなかった状況に何が何でも甘んじてはいけなかった」
 楽に流れる弱さを母の強さは許しはしなかった。
「この子の面倒を見ていたら貴女は自分の人生を知らないまま大人になってしまう。いち大人としてそれは看過できない」
「……ですが」
「自分のことだけ考えていいの。無責任だと声高々に喚き散らす無関係な野次は必ず出てくるかもしれない。その時は私たちが言い返してやるわ。何も知らないくせに、って」
 薄い肩に苦労を知っている手が載せられる。
「今までそうやって真面目に生きてきたのだからすぐ切り替えろなんて言わないわ。でもこれだけは言わせて。貴女のためにこの子を重荷にするのはもうやめなさい」
「……勝手です」
「そうね。あなたにとっても、この子にとっても」
 重荷があったから走ってこられた人間がいることをライデンは知っている。それに他人の都合で己の行き先や生きる場所を決められない人生はとても虚しい。たとえ拾ったことは覚えていなくとも、自分が決めたことを簡単に放り投げる無様をリズベットは許さない。
「生きている限りどうとでもなるの。始まりは幸せとは形容できないものも、自分の意志で明るい終わりも選べる」
「考える時間をくれねえか」
 マイヤー卿がリズベットから指輪を抜き取ったとき、ライデンは口すら挟めなかった。
「今のリズベットが冷静な決断を下せるわけがない。提案を受け入れるか拒否するかは記憶が戻ったときにしてくれ。でないとお互いにとって遺恨が残る」
 ここで食い止めなければいつ止めるのだ。 
「……今後も会えますか」
 リズベットが逡巡ののち、自分から問いかけた。
「勿論。毎週会う日を決めましょう」
「この決断で、あの子は幸せになりますか」
「この子が幸せになるのは当たり前。リズベットさんも幸せになるの」
 グローブのない両手がぐっと拳を握る。
「考え、させてください。ちゃんとあの子のことも自分のことも考えたいから」
 張り詰めていた空気がようやくたわみ、一息つけるようになる。
「リズベットさん。あっちに最近この子が好きな場所があるんだ、行こう」
 今まで黙っていた婦人の旦那が柔らかく声をかける。気を遣ってくれたことを察してリズベットも大人しく従って赤ん坊を連れていく。
「マイヤーのオッサンとの口裏合わせしたのか」
 離れたところの花壇でリズベットと赤ん坊が花壇の緣で戯れているのを遠目で見ながらライデンは口火を切った。
「嫌な言い方するのね」
「いっそ褒めてる」
 どちらもリズベットの将来を考えての行動だと理解している。どうしても反発してしまうのはライデンが大人になりきれていないからだ。
「いつ話をするかも協議していた。そのくせ気が急いてしまったのは反省するわ。貴方がどう出るかが一番怖かったから」
「……俺が?」
「一緒に育てます、って言われようものならどうしてやろうかと焦った」
 説き伏せる自信はあるのよと婦人は苦く笑う。
「あなたたちはまだまだ子供。特に戦争以外の生き方をあの子のようにやっと歩き始めたところ。そこに予測不能の生き物と生活していくなんて、無理が祟ってガタが来るのは目に見えているもの。いくら貴方が同年代の子たちと比べてしっかりしていてもね」
 婦人が懸念したのは。
「あなたの愛はリズベットさんを前向きにさせて、現実を乗り越えさせてしまうものだと見ていたから」
 ちらりと婦人の瞳がライデンを捉える。その虹彩の奥には好奇心が輝いていた。
「ねえ、聞いてもいい?」
「何を」
「ボーイフレンドになった?」
「……なってねえ」
 ライデンの視界で、赤ん坊と遊んでリズベットが相好を少しだけ崩す。
「口説いてる最中」
「あらあら……」
 ふと何かを感じ取ったのだろうか、宿雪色の瞳が周囲を見回す。けれどもこちらを見ないので勘はいいものの精度はイマイチのようだ。
「もしリズベットさんもいなくなったら、子供と奥様を市民革命で失ったマイヤー卿は寂しくなるわね」
「革命で?」
「ええ。帝国貴族を目の敵にして暴徒化した市民に襲われて命を落とされたの」
 一族を鏖殺したと聞いていたから妻子も含んでいたと勝手に想像していた。マイヤー卿がリズベットに執着する理由も納得がいく。
 とりあえず赤ん坊は夫婦のところで預かってもらうのは継続となり、婦人の提案はリズベットの記憶が戻るまで保留する形で丸く収まった。
「急に提案して混乱させてごめんなさい」
「いいえ、考えるきっかけをくださいました。時間も許す限り考えさせてください」
「ええ。それじゃあ、また会いましょう」
「はい。お身体にはどうかお気をつけて」
 三人の姿を見送り、完全に見えなくなるとリズベットの体から力が抜け、石畳に頽れそうになるのを腰を掴んでなんとか防ぐ。
「飲みもん買ってくる」
 ベンチに座らせ、飲み物を買いに行こうとしたら置いていかれた仔犬みたいな顔をされるから、白銀の前髪を乱して一言を付け加える。
「すぐ戻る」
 
「あの赤ん坊はお前の子供なのか」
 冷えた紅茶を飲み落ち着いてきたところで、ずっと聞きたくても聞けなかった疑問をライデンはようやく投げかける。
「……いいえ。連邦に来る直前に瓦礫の中から拾った子供だそうです」
 伝聞調で語られる赤ん坊にまつわる真実は淡々としていて、あの温かさとは正反対であった。
「血の繋がりがないことはDNA鑑定で確認されています。嘘か本当か、今の私にはわかりませんが」
 けど、と声が絞り出される。
「なんとなく、その時の自分の行動を理解できます。あの子は妹と――妹が死んだときと同じくらいの年齢だった」
 血の繋がった家族を助けられなかったから、今度こそ助けたいと必死にリズベットは足掻いたのだろう。
 赤ん坊の存在すら覚えていなかったため、リズベットと赤ん坊に血の繋がりがないことは目覚めたときから導き出されていた。しかしライデンはリズベットの口から聞きたかった。
「本当はあのとき誰も助けられなかった自分を助けたかったのかもしれない」
「六歳のガキが出来ることは逃げて生き抜くことだけだった。それ以上求めんな」
 ぽつりと零れた悔恨は鎖のようで、握り締めて白くなった指先を掴む。
「俺はお前が生きていてよかったと思ってる」
 肝心な時に引き戻せる言葉を言えない。そんな自分が嫌になる。それでもこの手を離すつもりはなかった。
 体を寄せたり、涙を見せてくれるわけでもない。振り払われないことだけが唯一の救いであった。

 □□□

 どうしてと、引っ張ってくれる手のひらの温もりに心の中で問いかけてしまう。
 どうしてこんなにいいひとが、何も話せないくせに何かを求める卑怯な白ブタのことばかり気にしてくれるのだろう。他にもっと気にかけるべきひとがいるはずだ。
 どうしてあのひとの言葉にこんなにも乱されるのだろう。胸を掠める違和感の正体を思い出せない自分が歯痒い。
 好きだと思う。家族の大半を喪って泣き暮れていた頃に出逢った、強く焦がれた憧れのひと。この数ヶ月で嫌というほど骨身に沁みて、否定すればするほどこの感情は鮮やかになる。
 でも好きだからわかることもあった。
 このひとは今の私を見ていない。
 出会って、時間を重ねた私を見ている。優しくする理由があるなんて言いながら、受け取ってもらいたい相手を間違えている。
 ひどく苦しい。重ねられているのも嫌である上に、フィルターとして扱われている事実もより一層悲しくて。
 私を見て。
 でもそれは今までの自分の所業を加味したら到底叶えられない願いである。左手にいつもはめられていたとされる黒グローブがひどく恋しい。
 もし自分の所業を知ったら彼はどんなリアクションを取るのだろうか。
 嫌だと心が叫ぶ。鯨の胃の底で反響して、四肢と臓腑を苛ませる。
 嫌われたくないなんて、口が裂けても。
『じゃあ、ずっとそのままでいるの?』
 はっと瞑っていた瞼を開ける。誰の声でもない。
 このひとの優しさにかまけて、ずっと雛のように自分が欲しい無償の愛だけを受け取っているのか。
 それは違うだろうと唇を噛む。いい加減に自分はあの頃の何も出来ない弱い幼子から抜け出さなければならない。
 たとえそれがライデンが望む形でなくとも。


BoyMeetsXXX