12

 次の任務まで基地にて待機している間もやらなければならないことは山積みである。今日も愛機の定期点検の立ち会いのためライデンが格納庫へ向かう途中、リズベットの姿を久しぶりに見かけた。
 久しぶりと言っても、昼間に働いている姿である上に装いがガラリと変わっていたからだ。連邦軍の鋼色の堅苦しい勤務服サービスドレスに、銀の髪をまとめていた茜色のリボンから役目を譲渡された辰砂のネクタイ。初めて見る勤務服姿であったが、モノクロな外見とのコントラストが効いていた前の様相と反転しただけで浮いている様子はない。
 黒グローブと銀のピアスが今なお健在であることに妙に安心していると、整備士との確認に区切りがついたリズベットが近くを通りがかったマルセルに声を掛けた。あちこちに仕事が立て込んでいるのは大変そうだなと思っていたけれど、リズベットの様子は尊敬する教師に浮足立つ勤勉な生徒のようで。
「何話してたんだ」
「うおっ!?」
 二人が話し終わったのを見計らって声を掛けたら、マルセルが何もそこまで驚かなくてもというくらいに飛び上がった。
「なんだ、シュガか……お前ら足音小さすぎるんだよ」
 胸を撫で下ろしながら大変遺憾な小言を呈される。
「シンと一緒にすんな」
「で、何か問題でもあったか?」
「珍しい組み合わせだろ」
「世話になってる家の子供に何をプレゼントしたらいいかって休暇前に事務官から相談に乗ってて、その礼をされただけ」
 世話になっている家の子供。
 その単語にライデンは黙り込む。
 私生活プライベートを他人に晒すのは野暮だろう。世話になっている家の、と聞かされているのならその子供が彼女の娘だとはまさか思いもしない。事実を伝えて根も葉もない憶測を呼ぶのは憚られた。
「ふーん」
「疑ってんなら本人に訊けよ」
 疑ってはいない。というか何を自分が疑うのだろう。
「妹がいたらこんな心配をしてたんだろうなって思うことはある」
「俺はどっちかって言うと、姉っていう生き物がいたらマイヤー事務官みたいなんじゃないかなと思ったことがあるな」
 二人の視線の先、格納庫出口の端でリズベットが不意に中空を見上げる。その先は西方面――共和国がある方角で、鳥が曇り空を憎たらしいくらい悠々と飛んでいた。
 地上で人間と鉄屑が生存を懸けて戦争をしているというのに猛禽は我関せず。それを見つめる横顔は突風が吹いたら最初から存在していなかったように儚い空気を纏っていて。空を覆う雲の隙間から降るわずかな陽射しがあったからなおのこと、ちぐはぐさにそわりと不安が背中を駆け上がる。
 このまま放っておいたら空に溶けて消えてしまいそうな。
 だがそれは一瞬で、リズベットはそそくさと格納庫から出て行った。
「俺らより下のやつらがよく事務官引っ張ってるところは見てるし、冷たい感じはするけど話は最後まで遮らずにきちんと聞いてくれるところは年長者の特性だろ」
 年下に抱く印象じゃねえのは理解してるけどな、とマルセルが零す。
 以前のように自習室付近でライデンは少女を見かけないため、目撃しているマルセルが言うのならそうなのだろう。
「あ」
「あ?」

 午後三時過ぎ。
 溜めてしまった課題の存在に冷や汗をかいた午前を何とか駆け抜け、ライデンは手を着ける前から凝ってしまった肩を回す。ついでに老婦人からも逃げている。おそらく課題の提出期限を超過したことも伝わっている。また叱られるのも面目ないし、自主的に取り組んだと聞けば老婦人の溜飲はいくらか下がる……はずだ。
 希望的観測とともに自習室に入り、窓際の席に腰掛ける。机に広げると、教卓の上に置いてある端末が目に入った。
 先客か、忘れ物か。イヤホンジャックに付けられたストラップに見覚えを感じていると、ゴンと硬いもの同士がぶつかった音が外から響いた。
 おそるおそる発生源に一番近い窓から外を覗く。窓のすぐ下で、黒グローブと白い繊手が銀の頭を押さえてしゃがみこんでいた。
「何してんだ」
 地面に屈んでいた少女が油の注されていない機械のように顔を上げる。〈レギンレイヴ〉を初めて見たときもこの少女は同じ動きをしていて、失礼だと理解していても噴き出すのを止められなかった。
「……悪い。でも前に〈ジャガーノート〉を前にして集中してたときと同じ反応するから」
 おそらくあの衝突音は何かに集中しすぎてそのまま壁にぶつかった、というところか。一旦没頭すると周りを気にしなくなる性質はどうも一児の母とは思えないあどけなさだ。
「……見たことのない色の彼岸花を見つけて、人と約束している時間までならと」
 リズベットの影のなか、常であれば赤の細い花弁を空へ伸ばしている彼岸花が赤と白混ざり合うことなく共存していた。彼岸花が咲き始める季節かと連邦に来た頃を思い出していると、基地と隣接する林の狭間に二色の小規模な群生地が目に入る。そこからここまで偶然種が飛んで交わったのだろう。
「そんなに珍しいならまた押し花にすればいいんじゃないか」
 後生大事にしている押し花もいい具合だ。替えても祟られまいと提案したが、リズベットの表情は乗り気ではない。
 右手が花弁の縁をそっとなぞる。その手つきは羨ましそうで。
 肌に心地よい風が吹く。混じり気のない涼やかな秋の匂いだ。そこでリズベットから香水をが漂ってこないことに気づく。赤ん坊のために付けていないのだろう。
 ひらり気の早い枯れ葉が銀の髪に舞い落ちる。取ろうと腕を伸ばし、ちょうどリズベットが振り仰いだ。
 白魔。珂雪。
 目の前にある銀の瞳は今まで覗いたどれよりも透明で、純粋だった。
 何かアクションを、と運動野に意識を巡らせた端、自分たち以外の気配にバッとライデンは振り向いた。
 今誰かがこちらを見ていた。正確な場所は把握できなかったのが口惜しい。リズベットも感じ取っていたようで、目を細め周囲を注視している。
 緊張が張り詰めた刹那、心臓を破るがごとく一昔前の呼び出し音がけたたましく鳴り響いた。
 互いの近さに飛び退くように距離をとったリズベットは画面を見ると、眉間にグッと皺を寄せる。けれど無視するわけにもいかずボタンを押した。
「はい……今は自習室の近くにいますがどうかしましたか。周りに人がいるかということならシュガ中尉がいますが、え」
 PHSを耳から離して、リズベットが困惑した表情でライデンを見る。
「中尉にいますぐ代われと」
 何故と口を挟める空気ではないことを察し、差し出されたPHSを耳に当てる。
「もしもし――」
『彼女をそこから動かすな。絶対だ』
 それだけ伝えて電話は容赦なく切られた。あまりの投げっぱなしに唖然とするほかないが、今の声は。
「参、謀長」
 リズベットが気まずげに目を逸らす。
 いつまでここに居ればいいのか、どうしてヴィレムがリズベットに私的な電話をかけたのか。前者はヴィレムのことだから連絡を寄越すはずなので心配しないが、後者は詳しい関係を両人から聞いていないため不明なままライデンの前にぶら下がる。もしかしたら先程の不審な気配と関係があるのか。
「ローゼンフォルト補佐官はお元気ですか?」
 あからさまな話題転換であったものの、少女から仕事に関係ないことで質問をされたのはこれが初めての出来事だった。
「元気だよ」
 リズベットがフレデリカを気にするような出来事があっただろうかと記憶を遡る。そう言えば土砂災害対応後にフレデリカがリズベットの大切なものを倒したと告解していた。
「よかったです」
「それは――」
 家族の生存に安堵したような表情の理由を尋ねようとした直後、軽く規則的な足音が聞こえてきた。自分の置かれた状況を今更ながらに思い出す。
 窓枠に足をかけ、リズベットの隣へしゃがみこむ。
「え」
「ちょっとだけ静かにしていてくれ」
 状況を把握できていないリズベットの口元を手で塞ぐ。その瞬間引き戸が引かれ、自習室に誰かが入ってきた。
 コツコツと低い踵が床を叩く。徐々に近づいてくる。
「まったく、あの子は勉強道具を置いてどこに行ったのかしら……」
 憤然とする声の主はかの老婦人で、あと少し反応が遅れていたら説教コースを受講するところだった。
 ここにはいないと諦めをつけたのか教室を巡回していた気配は遠ざかり、戸が閉められる音が響く。
 ゆっくりと窓から顔を出し、誰もいないことを確認する。潜めていた息を一気に吐き出して隣を見遣れば、リズベットが固まっていた。妙齢の女性に断りもなく触れてしまったのは気を悪くさせたかもしれない。
「……あのひとから逃げていたんですね」
「……まあな」
 なるほどと小さく咀嚼すると、眉尻を落としリズベットはちいさく笑った。
 なつかしむようなその笑い方は、自分のおかげだと褒められたときよりいい顔をしていた。いつもは彼女の性格上難しそうだが、普段からそうやって笑っていれば取っ付きにくさは幾らか減少するはずだとライデンは思った。
 当初の目的に帰り、中に置いてきた道具たちのもとへ戻る。生憎ヴィレムから屋内に入るなとは禁止されていない。こちらにもこちらの事情がある。窓枠に行儀悪く足を掛け、自習室内に降り立つ。リズベットもサッシに手をかけ、軽々と越えた。
 運動神経が良くなければできない身のこなしに感心するライデンを置いて、リズベットは教卓の上の端末たちを手に取る。そうして手持ち無沙汰だったピースが嵌る。見覚えがあったのは自分が謝礼兼土産として贈ったストラップだった。
「それ」
 ライデンが指摘すると途端にリズベットが慌て出した。
「これはですね……!」
 付けていることを咎める気は更々ないからそんな隠すように抱えなくともいいと苦笑する。その一方で大事にしてくれている事実にちょっとした嬉しさが湧き上がった瞬間、扉が勢いよく開かれた。
「え、何ですかその反応」
 正体が嚥下できるや否や息を大仰に吐いた二人の反応に、現れたリトは半目で一歩後ずさった。
「さっきまでばあちゃんから逃げてたんだよ」
「撒けたんですか?」
「なんとかな。リトも課題か?」
「課題ではないんですけど、教科書の後ろに載ってる付録についてマイヤー事務官に教えてほしいってアポ取ってて」
 どうやら待ち人はリトのことであったみたいだ。
「……オレお邪魔です?」
「約束してたお前が邪魔になるわけないだろ」
 そう返すと、リトがリズベットへと目線を移す。
「邪魔じゃないってのは本当?」
「はい」
「脅されてる?」
「おい」
 抗議の声を上げるも、リトは気にもとめない。
「副長になんか酷いこと言われたりされたりしたらばあちゃん先生に言いつけるといいよ」
「……わかりました」
 リトのアドバイスにぎこちなく肩を竦め、リズベットは黒板へ移動する。
「今日は人が少ないことですし、黒板全面使いましょうか」
「やった!」
 参考書の該当ページを開き、チョークを手に取る。だが掴みどころが悪かったようで、チョークが憐れにも床に叩きつけられた。
「あちゃー」
「すみません」
 厄介な粉たちと格闘し、あらかた集め終わったリズベットは左手に持ち替え、そのまま何事もなく書き始めた。
「あれ? マイヤー事務官って両利き?」
 右でペンを握っているところを見ているから意外である。
「そうですね。元々は左だったんですが、横書きだと汚れてしまうからと矯正させられたんです」
 右利きでも手の汚れが酷いのだから、左はそれ以上の惨事なのだろう。
「副長もちゃんと勉強してくださいね!」
「はいはい」

「――で、こうなるってこと?」
 心地よいチョーク音が終止符を打ち、自己の課題に集中していたライデンも視線を上げる。
「どうしてそう考えましたか?」
「だってここを求めるんだったら、こっちを使ったほうがいいじゃん」
「……なるほど。そういう見方をしたことはなかったですね」
「違うの?」
「まさか。天才です」
「マジ⁉」
「ええ」
 不安そうに覗き込んだリトの声がわかりやすく明るくなる。
 大人びていてもやっぱりまだまだお子様だと思う一方で、リズベットは褒めるのが上手いというか、やる気に乗せるのが上手い。勉強が絡む場面でリトがこんなにもテンションが上がった姿は見たことがなかった。もしかしたらリズベットは役人よりも教師に向いているのかもしれない。
「将来は物理の学者になろっかなー」
「お前この前と言ってること変わってねえか」
「いいじゃないですか!」
 頬を膨らませたリトがリズベットへ居直る。
「そういうマイヤー事務官は?」
「え?」
「何になりたいとか、って事務官はもう仕事就いてるんだっけ。じゃあ何がしたいとか、お嫁さんになるとか?」
 きわどい質問に噎せそうになったのをすんでのところで踏み留まる。知らないからこそリトを責められない。現にリズベットも急に話を振られただけでも驚いていてるのにどんな表情をしていいかわからない、中途半端な表情になっている。
「どうしたの?」
「いえ、そうですね……知っている方々が幸せになってくれたら」
 搾り出された願いにライデンは顔を顰める。そんなもの、
「それ自分の願いじゃないじゃん」
 リトが容赦なく斬り捨てる。
「自分が、どうなりたいかを聞いてるんだよ。明日面倒な仕事が来なきゃいいなとかでもいいし」
「それは魅力的ですね」
 そう素直に返すくらいリズベットは疲れているのかもしれない。
「……今のままで十分です」
 手元に落としていた視線を窓の外にやる。遥か遠くに思いを馳せ、凪いだ瞳。そこにはかきくらす風巻しまきが通り過ぎた、皚々たる野原の静けさだけがあった。
「マイヤー事務官、ひとつ聞いてもいい?」
「私に答えられることであれば」
「事務官はなんで勉強するの? もう学校を卒業してるなら必要ないじゃん」
 ペンを鼻の下と唇の間に挟むと、リトは背もたれへ体重をかける。
「勉強ってめんどくさいし、やる意味あんのかーって思うよ。知識は追加装備みたいなもの、とか喩えられても理解はしたけどあんまり腑に落ちなかったし。興味のないものだと余計に辛いし」
「……知識は誰にも奪われません」
 リズベットが教科書の表紙を撫でる。
「石を投げられたって、顔が腫れるくらい殴られたって、泥で濁った汚い水を飲んだって、冷たいご飯を食べたって、矜持を踏み躙られたって。誰にも奪えないものです」
 それに、とリズベットは笑う。
「無駄な知識なんてこの世に一つもありませんよ」
「……事務官って優等生だよね。事務官は勉強好きだから耐えられたんだろうけどさ」
 微苦笑を浮かべてリズベットは肩を竦める。
「優等生でも勉強が好きでもありませんでしたよ。どちらかと言えば、勉強は進んでやりたいとは思わない類です」
 えっ、と二人して声をあげて驚く。次席卒業するくらい優秀なのだから勉強に対して抵抗がないと思っていた。
「無力な自分が嫌だったから。誰かを助けられる力が、割を食わされない力がほしかった。必要だから全部努力した。それだけです」
 なんてことないように告げる。だが彼女の言葉をライデンとリトは正確に理解できた。
 自分たちとて操縦能力がなければ死んでいた。生き死にに関わることであるかないか、リズベットとの違いはそれだけでそこに差はないのだ。
「ていうかさ敬語やめようよ事務官。歳近いんだからリトでいいって前に注意したでしょ」
 リトの提案に面食らう。リズベットはというと戸惑っていて、リトはふんすと不機嫌に鼻を鳴らすと理解を得ようとライデンに力説し始めた。
「前からこうなんですよ。大佐とキャラ被ってるからお願いしているのに」
 なんとなく感じていたことには同意する。
 ただリズベットが下の名前で避ける理由をライデンは知っていた。
「下の名前で呼ばれるの嫌がってただろ」
 初めて挨拶をしたとき、名字で呼ぶように言われた。何の疑問も抱かずそういうものだと理解していたが、ヴィレムに下の名前を呼ばれた二度とも、嫌悪感を露わにしていた。
「最初から言ってくれればよかったのに」
「ちがっ」
「じゃあ何が違うの」
 言葉を探すように黙り込んだリズベットの姿にライデンは今までの出来事すべてが腑に落ちた。
 きっとこの少女は言えないことが多すぎるのだ。早々に自分の弱いところを晒すのはライデンでも抵抗がある。だが言い換えるとそれは信頼されていないと言い換えることができ、寂しさがあった。
 伝えなければならない言葉を伝えないから相手に誤解を与えることの多いリズベットの性分が拍車をかける。
 長い沈黙が経ち、ようやくそれはそれは深いため息が吐き出される。
「……無理強いなんてしたくないからマイヤーさんって呼ぶのはそのままで、敬語は外す。それならどう?」
「……はい」
「はいじゃなくて」
「……うん」
 ここだけ見ると、どっちが年上かわからない光景である。
「事務官は自分が共和国の白系種だってことに負い目を感じすぎ。大攻勢のときも手を貸してくれたみたいだし、もっと自分のことを認めてあげなよ。白系種にだってまともな白系種もいるにはいるって多少は知ってるからさ、資格がどうとかで誤魔化さないで」
 フレデリカ曰く真面目すぎるゆえだろう。ただリトの言い分も正しい。
「オリヤ少尉」
 振り絞った声はかすかに震えていた。
「…………リトと呼んでも?」
「いいよ」
 リズベットの渾身の提案は拍子抜けするほどあっさり受諾された。
「なにその間抜けな顔。マイヤーさん友達いなかったでしょ。大佐っぽいし」
「いましたよ」
 思わずといった間で反論したリズベットに、リトの顔がゲス顔へと変貌する。
「ふうん? ちなみに何人?」
「……二人、です」
 レーナよりは多かった。
「ダスティンと、もう一人?」
「ええ。明るいひとでした」
 でした・・・
 穏やかに告げたリズベットも含めて誰もがそれ以上は言及しようとしなかった。
 その人物がもうこの世にいないことを理解したから。
「大佐も呼び捨てで呼ぶべきでは?」
「大佐だってプライベートのときはちゃんと名前で呼び捨てにしてるよ。ついでに副長も名前で呼んでもらえばいいじゃないですか」
 話を急に振られて目を瞬かせる。
「一人や二人変わらないし。あ、でも副長顔怖いから難しいか」
 生意気なリトのこめかみを拳で押せば、あだだだだと苦悶が湧き上がる。
 直後、PHSがふたたびけたたましく鳴り響いた。
「はい……はい、そうですか。わかりました」
 リズベットがこちらを振り返る。
「もう大丈夫だそうです」
「なになに、どういうこと」
 珂雪がふたたびライデンに助けを求める。
「ちょっと色々あったんだよ」
「へえ〜」
 事情を知っているのがライデンしかいないのだから、ライデンにだけ視線が向けられるのは当たり前である。だが一瞬、頼られたと勘違いしそうになった。
 ライデンも課題が終わり、全員自習室から退出する。そこでリトが思い出したように声をあげ、ポケットから手のひら大のメッセージカードを取り出した。
「これマイヤーさんに渡してくれって、ここに来る途中で会った黒系種アクィラのおじさんから」
 渡したからねーとリトが去り、その背中を二人で見送る。
 渡されたメッセージカードはご丁寧に封筒に包まれていた。首を傾げていたリズベットは宛名を確認すると、さっと胸ポケットへしまった。今見なくて大丈夫かというライデンの視線に気づき、リズベットは世話になっている家からだが急ぎのものではないため大丈夫だと答える。
「オリヤ少尉の明るさは素敵ですね」
 リトが走っていった方向を眩しそうに眺めながら呟く。リズベット以外がそれを口にしたら馬鹿にしてますか⁉ と返ってきそうだが。
「資格がどうのこうのってのは」
「……親しくなる資格が自分にはないとお断りしたことがあります」
 共和国の奴らがした事実は一生消えない。でもそれから受け入れて、変わることはできる。
「アレクのこと思い出しちまうか」
 かすかに目を見開いたリズベットが振り返り、立ち止まる。
 名前を呼ばれるのが怖いなんて普通じゃない。何に対して怖がっているのか、まだ説明されていない。名前に関してリズベットに何があったのかライデンは知らない。ただひとつ考えられるのは、直近で亡くなったリズベットの大事な人間はアレクだ。
「……アレクが原因ではありません。頭では理解しているのです。でも」
「無理強いはしねえよ。別に名前呼びが特別な仲の証拠でもないしな」
 そこまで苦しそうに悩むほどの類ならば無理強いしたくないが、ならば付き合いの長いダスティンはいざ知らず、レーナやシデンには許しているのにリトは駄目だなんて判断基準が気になる。ただ話してくれるほどの信頼関係を築いていると断言するのは難しく、容易に踏み込むことはできない。
 リズベットが逡巡する。その様子から、口調が負け惜しみのようになってしまったのは気づかれなかったみたいだ。
「とりあえず階級呼びはやめてくれっていう意見には賛成だ。リトも言ってたけど階級まで同じだとレーナみてえで混乱する」
「……わかりました。でも気が長いんですね」
「そうか?」
「通常すぐ名前を呼べと言われたり、呼ばなきゃいけない同調圧力みたいなものがあるじゃないですか」
 経験からの言葉に、なるほどガードの堅い彼女に興味を持てばすぐ仲良くなろうと成果を短絡的に求める輩は多いだろう。
「うちの馬鹿に鍛えられたせいだ」
「……ノウゼン大尉のことですね」
「よくわかったな」
「ベルノルト曹長がそう呼んでいました」
 温度のない声音も慣れてしまえば穏やかな心地良さに変わる。同じ歩幅にすることも苦ではない。
 激しい戦いの最中、こういう時間を求めていたのだとそっと宝箱にしまった。

 □□□

「お疲れのようね。歳?」
 所用で同期のもとを訪れると、涼やかな容貌にわずかながら疲労の色が浮かんでいた。
「少々面倒な客が来ただけだ」
「共和国?」
「あんなのが子兎のように可愛く思えるくらいの御仁だ」
 ヴィレムが素直に愚痴を零すくらい厄介な相手を思い浮かべてみる。食えない狸親父だったり呪物もどきの老獪どもという歯に衣着せぬ言は聞いたことがあるけれど、このように疲弊しているのは稀で、部屋も主人の体調を反映して重く沈んで見える。しかも普段敬称を形ばかりにしているヴィレムがきちんとつけている。
「ちなみにそれは私が訊いて答えられる相手?」
「君も知っている御方だ。――マイヤー卿だよ」
 マイヤー家は帝国時代数々の尚武の将を輩出してきた夜黒種の家門の一つで、今現在その血縁の誰一人として連邦軍に所属していない異端であり、革命以来表舞台に姿を見せていないことでも有名だ。
「理由は?」
「奥方に会いに来たそうだ。顔を見に来たと言ってはいたが、その実こちらへのお叱りだったよ」
「奥方にって」
 今の軍にふらっと来るなんてどんな色ボケ野郎だと鼻白んで、はたとヴィレムの顔を凝視する。
 革命以降マイヤー家と血縁関係がある者で軍に籍を置いてる人間は一人としていない。何故なら現当主と前当主以外の、老若男女問わず全員が革命で亡くなったためだ。
 マイヤーという名字は旧帝国時代からこの地で多く見かける。だから今まで気にも留めなかった。いいや、本当は上層部が彼女の待遇に文句をつけないことにどこかで引っかかっていたのだ。
 徐々に強張っていく自分の表情筋を叱咤し、人斬り蟷螂を見据える。
 グレーテが知っている中で一番軍部から遠く、その家門を冠する女性。
 ヴィレムが冷たく憐れみをもって嗤う。
「厄介な人間ばかり引き寄せるものだな――リズベットも」


BoyMeetsXXX