13

 愛機のメンテナンス具合を確認している中、視界にちらりと人影が見えた。ライデンが仰ぐと、ドッグの上方にあるミーティングルームからリズベットが眼下を眺めていた。
 元々戦闘職と事務職ということで接点が少なかったのもあるが、リズベットが正式に軍属になったことで積み上げられた仕事に追われ前のように足繁く自習室に足を運べなくなったこと、また次なる派遣地が決定したことでライデンたちも慌ただしくなり、同じ敷地内にいるというのに休暇以前より話す機会が激減していた。
 久々に見かけたリズベットはこちらには気づいていないようで、大人しく擱座する〈レギンレイヴ〉を見つめる瞳は漠然とした切なさを孕んでおり、以前見かけたように儚さを纏っていた。
 後方支援部と何か打ち合わせがあったのか。ふとリズベットが何かに気づき、後ろを振り向く。勤務服サービスドレスの優男が現れ、リズベットと何かを話し始めた。
「白系種のお嬢さんならこちらに寄る際いつも〈レギンレイヴ〉を見ていらっしゃいますわよ」
 艶やかな声に振り返ると、青玉種サフィール特有の亜麻色の金髪と海の青い瞳がライデンの視界に彩りを咲かせる。
 シンとライデンが出会うよりも前に、シンと交流があった女性整備士のトウカである。
「〈ジャガーノート〉について論文を書いた物好きということで研究対象として見ているのではと観察してましたが……そうでもなさそうですの」
 リズベットのいた窓を二人して見やる。今はどんな表情を浮かべているか推測することしかできない。
「もう戻れない過去へ馳せるように」
〈レギンレイヴ〉を見かけると今みたいにほんの刹那、視界に入れて去っていくそうだ。
「やすやすと部外者を入れることはできませんが、白のお嬢さんも話しかけてくれれば別に構いませんのに」
「そうだな」
 銀の毛先が跳ねて奥に消えていく。雪のように、たしかにそこにいたのに形跡も残さず。
「細かいことで悪いんだが、マイヤーって呼んでやってくれないか」
 人間の五感における視覚の優位を抜かすことはできない。身長といった主観によって変動する相対的な基準より、客観的価値が絶対に変わらない色が符号になるのは必定だ。しかし符号以外の何かが込められていたらそれは途端に暴力になる。
 ぱちりと長い睫毛が瞬き、申し訳なく肩が竦められる。
「直しておきますわ」
 ただ、と困ったようにトウカは頬に手を当てる。
「どう呼んであげるのが正解なんでしょう」
「?」

「マイヤーって名字が結構この基地にいるのよね」
 自習室から宿舎へ戻る道すがら、事情を知っていそうな面々に尋ねたところアンジュから事の真相が話される。
「この前用事があってマイヤーさんって呼びかけたら、話していた二人が一緒に振り向いたのね。私は事務官に呼びかけたつもりだったからそんな反応が返ってくるとは思わなくて、その理由を尋ねたら『どっちへの用事か』ってことがあったの」
「それも一人じゃないのが厄介で」
 マイヤーという名字は旧帝国――現ギアーデ連邦、特に北部においてかなりメジャーな名字で、統計では五番目の多さだと当の本人であるリズベットから教えてもらったそうだ。
「そんでまどろっこしくなって、まだ比較的関わりのある事務官のことを下の名前で呼ぼうってなったわけ」
 毎回無駄に緊張させるのも、という判断らしい。ライデンはいまだマイヤーの姓を持つ戦闘員に出会ったことがないが、戦闘員より母数が多い非戦闘員に複数いてもおかしくない。トウカの困惑も当然だ。
「事務官の呼び方じゃ駄目だったのか」
「それは軍属じゃなかったときの役職だから、同僚といるときにそう呼ぶとやっかみ受けるってダスティンが」
 ダスティンに目をやれば、ダスティンが力強く頷く。旧知の仲であるダスティンにはリズベットの置かれた立ち位置を正確に把握しているようだ。
 正直リズベットがリト以外に名前を呼ばれることをよしとしたことに驚きを隠せない。緩やかな雪解けの気配はあった。ただ一線はきっちり引くので遠い未来だと想定していた。
 もうひとつ驚いたのは、ライデンの予想以上に他の人間とも話していることであった。軍部と事務では接点がないと高をくくっていたけれども、いいやと心のうちで打ち消す。雑備品の管理、軍備品の調達。事務は肩書だけで、実際は総務と兼任しているようなものだとレーナから教えてもらった。仕事が多ければそれだけ関わる人間も多くなり、その分主義主張の異なる人間と出会う機会も増える。
 がしかし、あんなにも他人に呼ばせる気はないと頑な態度であったのにこうも先を越されるとはライデンは何となく納得がいかない。別に呼び方で何が変わるというわけではなく、心の持ちようだということは頭で理解しているけれども、戦隊の中で一番関わっているのは自分だという微々たる自負があったから抜け駆けさらたことに余計に気に食わなかった。
「スイウとカナンも呼んでたよね」
 さらなる予想外の情報にライデンの足は止まる。シンやライデンたち第一機甲グループの休暇や訓練期間に入っている間は第三、第四機甲グループが前線に出るという勤務体制の関係で、なかなか同じ作戦に携わることがないため、交友関係といった個人的な内情は詳しく耳に入ってこない。だから機嫌が悪くなるのはどこまで行ってもライデンの勝手なのだ。
「マイヤーさん、何だかんだ言って面倒見よかったから来れてないことに責任感じてそー」
「お姉さんという感じがしますのです」
 幼い子供の扱いが上手いからそう感じ取るのだろう。ライデンはどうだろうと過去の出来事を振り返る。外見だけならばリトたちが言うように同い年、時には年上に見えるときもある。一方で洪水対応の翌日や隣町での邂逅など、時折垣間見える表情はどこか不安定で、幼く受け取ることもある。
「姉みたいに感じるのはリズに妹がいたからじゃないか」
 ミチヒの問いに答えるようにダスティンが告げる。
「リズベットさんって妹いたんだ。納得」
「六つ離れた妹で、生まれてすぐ死んじまったって言ってたけどな」
「へー」
「あ」
 リトが突如声を上げ、何人かが窓辺へ腰を屈めて寄る。
「お前ら何して」
「ライデンも屈んで!」
「何だよ」
「何って告白の現場!」
 距離もあるというのにいっちょ前に声を潜める野次たちの興味の先を追うと、窓の向こうで銀髪の少女と男が壁際に隠れるように立っていた。
「あそこ告白スポットになってるって教えてもらったけど、本当だったね」
「まあここは向こうからだと死角になっててモロ見えてるんだけどね」
「趣味いいモンじゃないだろ」
「見えちゃうようなところで告白してるほうが悪い」
 いけしゃあしゃあと開き直ったやつを睨みで黙らせる。男と女が二人きりでいたら告白と何でもかんでも直結させるのは安直すぎやしないかと半目になったが、どうやら見込みは当たっていたようで男のほうは緊張で顔が真っ赤になっている。対してリズベットはというと、左半分しか見えない相貌に疲労困憊がありありと浮かんでおり、若干苛立っているようにも見えた。
 やがてリズベットが男へ頭を下げる。遠いため内容は聞こえなかったけれど、男の悲痛な表情に外野はあーあと失望のため息を落とす。
「お」
 これで終わりだ。さっさとこの場から退散するべきだと胸に滲んだくすみとともに隊員たちの首根っこを掴もうとした矢先、期待が籠った歓声が上がる。今度は何だと目を戻せば、告白した男がリズベットに強引に追い縋っている場面であった。
 離れた場所にいたライデンは一人だけ腰を浮かせる。男が強引に掴んでいる箇所が肩であったからだ。加えて銀の紗幕から宿雪の瞳が覗き、その最奥に赫い火花が見えた。あの無駄に高いヒールの餌食になった不逞な輩の末路が過ぎる。
 だがリズベットは自身の肩を掴む手を手加減なしに剥がし、もう一度頭を深く下げてその場から足早に走り去った。
 俊敏に窓の陰に隠れやがった戦友たちがおそるおそる顔を上げる。
「マイヤーさん行った? というかライデン見られたんじゃない?」
 かろうじて強張った表情しか視認できなかったほど下を向いたまま走り去っていったから、こちらを認識してはいないだろう。
「共和国の白系種でも好きだって言ってくれるひとがいるんだから素直に受け取ればいいのに」
「そういう問題じゃないだろ」
 言葉に険が乗ったのは首都での出来事があったからだ。
「……ごめん」
 どこか納得の行かない不承不承な謝罪。断絶にも似た違和感をそれ以上追及することはしなかった。
「アレクってどんなやつだったんだ」
 ダスティンは急に話しかけてきたライデンに訝しがった視線を向ける。
「アイツが断る理由はそんくらいだろ」
 どうせ死んだ人間を置いて幸せになってはいけないという自罰的な理由に違いない。操を立てて義理堅いことで、と舌に言語化できない苦いものが広がる。一途とも言い、大抵の人間が称賛するだろうが、やはり指輪を見せればこういった面倒事は一発で解決するだろうにという意見だ。たとえ指輪にそういう意味がないと本人が言っているとしても、外の人間を牽制する手段としては最も効果的である。それに傷はないのだから外せばいいし、グローブとて外したあとにまた装着すれば問題ない。
「底抜けに明るいやつだった。頭の回転が速いしバランス感覚が上手くて、いつも仲裁役をやってて――」
 ダスティン曰く八方美人とも取れる行動が多かったが、かと言って自分の意思を曲げることもなく。ずっとリズベットを陰に日向に助けていたそうだ。話を聞く限り、アレクは誰からも慕われる委員長タイプというやつなのだろう。爪はじきにされている同級生が放っておけなかったに違いない。
「なんでそんなこと訊くんだ?」
 ダスティンの疑問はもっともである。しかし素直に答えてもいいものかとしばし言いよどんだあと、ややあって口を開く。
「あいつが時々痛々しく見える」
「……シュガにもそう見えてたか」
 ダスティンが呻くように返す。
「たしかに共和国にいた頃から白系種に対して憤りや諦めは抱えていたけど、それでも今みたいに投げやりな感じじゃなかったんだ」
 変わったと零したライデンの横でライデンはあの寂寞の横顔を思い出す。
 人間が変わったとき、往々にして転機となる出来事が起こっている。そして失うべからざる者を失ってしまったとき、人は良くも悪くも冷たく変質する。
 その最たるもの。
「アレクが死んだからだろうな」
 死者とはなんと厄介な傷なのだろう。


 起床時間まであとわずか。咎める者もいないので、完全に目が覚めてしまったライデンは部屋から出て外に向かう。
 夜明けの空はゾッとするほどの真っ赤な朝焼けに染まっていた。昼以降の訓練に支障が出ない程度の雨を願いながら、オンボロ官舎をいつもの作法でくぐる。
 軋む廊下を抜ける手前で、赤と黒の陰陽に佇むベンチに腰をかける人影を見つける。ここを知っているのは一人しかいない。
 この日この時間に落ち合うと決めたわけではない。連絡手段なんて二人の間に存在しない。そんな彼女と話がしたかったタイミングで出会えた。
 話しかければいいのにそうしなかったのは、リズベットの視線がペンダントの中に注がれていたからだった。
 中身を見つめる横顔は切なく、寂しそうに。
 そしてあどけなく。
 ここは彼女が感傷に浸れる唯一の場なのだ。一人にしておくべきだと踵を後ろに下げる。だがライデンが去る前に向こうがこちらの気配を察知し、少々クマが残る瞳がライデンを捉えた。
「シュガさん」
 あまりにも頼りない声で呼ばれたものだから今しがたの理性を蹴飛ばして一歩踏み出すと、リズベットはそっとベンチから立ち上がりライデンとは反対方向に身体を動かした。
「待て」
 細い手首を掴む。
「そっちが去ることはないだろ。立ち去るなら後から来た俺だ」
「でも」
 まるでライデンから逃げるように立ち上がったリズベットに思うところがないわけがない。最近の忙しさが避けられていたのだと邪推してしまう。
 引く気のないライデンの態度を汲み取って、リズベットは渋々ベンチへと腰を戻す。その隣、人ひとり分空けたところにライデンも腰を下ろした。
「取り壊しになるんだってな」
「はい」
 老朽化による安全面を考慮して近々取り壊される予定だ。もっと早くにやってしまってもよかったはずだが、急を要する事案でないため後回し後回しにされて今日こんにちに至る。
 嵐に襲われたら半刻も耐えられそうにないそこは独り、時間の流れが異なっていた。目まぐるしく変わる戦火と日常。いつか壊されるものの象徴でありながら、いつ幕が下ろされるかわからないのに無意識に縋ってしまった、緩やかで穏やかな永遠の象徴。
 二人だけの秘密の場所が終わりを迎える。その終焉をライデンは見届けられない。
 リズベットの横には、彼女の前で死んでいった者たちの名前が刻まれたあのアルミの碑があった。建物と一緒にスクラップされるのを忌避したリズベットが抜いたのだ。
「シュガさんも起きてしまったんですか?」
 アルミ碑の裏に刻まれた名前に持っていかれていた意識が引き戻される。
「ああ。そっちは疲れてんな」
「……わかりますか」
「何となくな」
 いつも真っ直ぐ伸びている姿勢がわずかに前傾になっていた。
「疲れてるなら寝とけ」
 たとえ眠りが浅かろうと横になるだけで違う。精神的な疲労は自覚していないだけで蓄積していく。
 しかしリズベットがかぶりを振った。
「白系種が偉そうに、と苦言を何度か賜っただけです」
 眉を顰めたライデンに大丈夫だとリズベットは軽く手で宙を掃く。
「連邦に来ることを決めてから白系種であることで石を投げられることは覚悟していました。だからたった数度言われた程度で落ち込むほど弱くはありません」
 正しい。だが言われることを覚悟しているのと、言われて平気でいられるかは別物だ。
「悲観するより今やれることをやる。それだけです」
 共和国と連邦で鍛えられた自負。いやはや生来リズベットに備わっていた気質か。
 強くて、眩しくて。
 それなのに、触れたら呆気なく壊れてしまう薄氷のように危うさを孕んでいた。
「戦闘属領にも学校を建設したいんだってな」
「……ベルノルト曹長ですね」
 自分たちエイティシックスたちは助けられて一定の生活と心の安寧を約束してくれる義理はあるけれど、共和国出身のリズベットにはないはず。しかも連邦に残るか、共和国に戻るか決めていない。そのちぐはぐさはライデンに違和感を積もらせる。
「今の連邦は教育を受けられる子供が圧倒的少数派であるという状況です。戦時下という特異な状況もありますが、民主国家になったのなら絶対にあってはいけない危機です。それを戦争が終わってからではなく、今のうちに着手することで戦争が終結した直後から受けられるように今考えうる手立てをすべて打っている最中です。万人が享受すべき教育をぬけぬけと奪った自分たちだから」
 一息で話したあと、ふと表情を和らがせる。
「それくらいアレクは許してくれるはずですから」
 まるでそれ以外は許されていないような言葉。
 時折見せる、痛みを堪える表情の原因。
「リトも言ってたけど負い目を感じすぎだ」
 白系種であることを差し引いてもリズベットが裏表なく真摯に向き合っているのは馬鹿でもわかるから。
「そういうのを失くせば――」
 そこで続きが唐突に消えた。
 取っ掛かりの難易度は低くなって、周りが勝手に話しかけて、あんな寂しそうな表情をすることはなくなるだろう。
 だがそういう状況になるということについて納得や安堵を抱いていない自分がいた。正確にはリズベットの周りに誰かがいること、リズベットが誰かに笑いかけている状況が。
 突如口を閉ざしたライデンを見て訝しがったリズベットだったが、傍に立ててあった缶コーヒーをライデンに差し出した。
「最近、特に朝も冷えてきました。体を壊しては元も子もないでしょう。中尉は欠けてはならないひとなのですから」
 戦隊だとどうしてもいつも世話を焼く側に回って誰かを気にしている自覚はあったから、こういう風にライデン自身が労わられた記憶が少ないから新鮮な気分になる。
「……もらっとく」
 プルタブを開ければコーヒーの匂いが朝と雨の気配をくぐり、寝惚けた舌を揺すり起こす。リズベットももう一本のコーヒーに手をつける。
 ライデンが来る前から二つあった。わざわざ自分のためにと自惚れるほどではない。
 供え物。
 右の細腕の影からはみ出したアルミ板。そこから更に覗くALEXの羅列。
 深くは踏み込まない。その弔いは部外者が不用意に踏み荒らしていいものではない。
「昨日は大丈夫だったか」
「……昨日?」
 訝しむリズベットに墓穴を掘ったことを悟り、そんなライデンの反応でリズベットは思い至ったようだ。
「ああ……あそこは自習室付近に面していましたね」
「勝手に見物してて悪かった」
 いいえと首が横に振られる。
「別に怒ってはいません。見苦しいところを見せてしまいましたね。……周りが思うほどそんな高尚な人間ではまったくないのに」
 自分の何を理解しているのだと嘲らんばかりの声色に、自分たちを重ねる。もっと突き詰めて言えば、シンの色に似ていた。シンよりわかりやすく、そして仄暗い。退紅あらぞめがちいさく何かを象る。
 どうしてこういう風にしか笑わないのだろう。リズベットの幼馴染みのセンスをライデンが酷評したときのように笑ったっていいのに。そこまで考えて、彼女が表情を柔らかくするのは大体過去が絡んだときであることに思い至る。
 もし過去のことでしか表情を和らげないとしたら、リズベットは一生過去に囚われたままだろう。
 つきりと喉の奥が痛む。とにかく指輪の相手について事情を知らない誰かに突っ込まれたときのフォローくらいはできるだろう。ライデンがその場にいることが大前提になるのがネックだがと、原因不明の焦燥を貰ったコーヒーで飲み下す。
「ミリーゼ大佐がノウゼン大尉を弄んでいるという話を聞きました」
 飲んでいたコーヒーが噎せる。
 盟約同盟で開かれたパーティーでシンが告白し、そしてレーナが反故にしてそろそろ一ヶ月になる頃合い。とうとう事務方にまで敷衍したかことに頭を抱える。
「そういう話すんだな」
「シデンに意見を求められました」
 大尉呼びから名前呼びに。リトに続き、自分以外のやつらが自分を差し置いてどんどんリズベットに踏み込んでいく。
「で、なんてアドバイスしたんだ?」
「アドバイスなんて御大層なものは話せません。話せるうちに話しておかないと後悔するからさっさと場を作ったほうがよいという感想を述べただけです」
 実感の籠ったアドバイスだなと感心して、この流れならば訊けると思った。
「アレクってどんなやつ」
「……どうしてシュガさんがアレクのことを気にするんですか」
「それは――」
 何故気になるのだろうと自分に問いかける。答えはいまだ出ない。
「お前が断る理由なんてアレクぐらいだろ」
 深雪色の瞳が見開かれ、目を伏せる。
 思い出すのもまだきついか。まだ塞がっていない傷口をわざわざ開く趣味もない。リズベットに振った話題を取り下げようとしたときリズベットがふいに朝焼けを仰ぎ、
「しつこい」
 予想外の文句を空へ放った。
「粘り強いと言ったらそうですが、出会った当初はこちらが迷惑していると伝えても性懲りもなく何度も話しかけてくるわ、頼んでもないのにこっちが探してるものを出してくるわ」
 話を聞けるとしたら砂糖でないにしろ、それなりの惚気を身構えていたから苦言にライデンは目が点になる。
「オレンジの食べ方も下手くそで、何度言っても服に果汁を飛ばしたり落としたり。私より年上なのに手のかかるひとで――」
 不満がつぎつぎと噴出していく。あまりの量に本当にアレクを好いていたのか疑ってしまうほどだ。ついでに熱が入って本当にリズベットかとも疑ってしまう。
 だがダスティンの評価とは対極の答えが一言目に出てくるあたり、いいところも悪いところも熟知していたほど相手を理解していたことが読み取れた。
「でも苦しいときには傍にいてくれた」
 滔々と流していた愚痴を一旦切り上げ、ふわりと零すように囁く。愛を置くように和らげた横顔は困ったような切ない微笑みを浮かべた。
 ライデンの胸が痛む。底知れぬその感情を誤魔化している間に、薄闇に揺らいだ瞳が浅くゆっくりと伏せられる。
 すげない相貌の分、リズベットの銀の瞳は雄弁に語る。ここまで耐えてきたが故に泣き方を忘れてしまった上に、弱っているところを他人に軽々しく見せたくないという性分と自尊心の現れとも解釈できる仕草。いっそ泣いてくれたらどれだけよかったか。何もしてやれないと、まだ心を許されていないと痛いほど思い知らされる。
 こっちを見てほしい。
 その衝動のまま手を伸ばす。
 刹那、陰が落ちた顔の横を一房銀紗が落つる。邪魔だろうと触れようとして、そこで止まる。
 銀紗の隙間からひどく無骨なピアスが顔を出す。女性が好むジュエリーといった華やかな装飾部や色彩が一切ない銀のピアスが、この少女に触れるなとライデンを威嚇するように輝いていた。 
「っ」
 自身に伸ばされた指先に気づいてリズベットがライデンから飛び退く。
 変な空気が二人の間に流れる。誤魔化せと脳が命令するのに、体は沈黙で息を通常通りに動かない。
「何か付いていましたか」
「……ああ」
 ぱっぱとリズベットは何もついていない髪を指先で払う。
「湿っぽい話をしてごめんなさい」
 リズベットから解散の空気が落とされ、それでやっとライデンも動くことができた。
「別に。何も知らない人間に零したほうが楽になるってこともあるだろ」
 本当は自分に話してほしかったのだが無理強いするつもりはない。何もないならそれでいいし、最良である。
 ただライデンばかりが気に掛けていて、あなたのことなど別にと言外に痛いほど思い知らされた。
「リズベット」
 珂雪が見開かれる。苦しげに、何かを堪えるように唇を噛む。言葉だけを引き出そうとしたので予想外の反応にライデンは慌てる。
「って下の名前で呼んでいいのか」
「……経緯はお聞きになっていますか」
「ああ」
「それ以外の方法が誰にも思いつきませんでしたので」
 できうる限り回避してほしいというのが本音に聞こえる。
「苦しくなったら俺に言え」
 信じきれない瞳がさざなみのようにふたたび揺れる。信じたくて、でも素直に手を伸ばすには奥底にしがらみがあって。他人への不信は昔から築き上げられたものだろう。それを容易に溶かすことはできない。
 だからこそ誰にも甘えられない少女が自分を頼ってくれればと、そう願っての提案だった。
「……はい」
 結局頼る言葉を明確に引き出すことはできず、静かな応答が返ってくるのみだった。
 ひとまず今はそれでいい。名前を呼ばれたくない理由がどんな理由であったとしてもリズベットであることには変わりなく、はけ口があるということだけわかっていてくれれば、本当にどうしようもなくなったときに選択肢のひとつとして考えられるはずだ。
「シュガさん」
 送り届けた官舎の前、不意に呼びとめられる。
「幸せですか」
 二度目に会ったときの問い。リズベットの瞳にあのときのような羨望や憐憫はない。ただ純粋に答えを求めている瞳だ。その違いに気づくことができたのは、リズベットと関わってきた日々のおかげだろう。
「それなりに」
 リズベットは表情を緩ませる。あの時と同じ答えに、違う意味が含まれているのをリズベットはきちんと受け取ってくれた。
「そっちは?」
 よかったと終わらせようとしたリズベットを逃がさない。だがリズベットが答えることはついぞなく。
「どうか、ご無事で」
 そっと別れを告げた。

「最近よくマイヤー事務官と話してるみたいだな」
 最終点検中、シンに話しかけられる。他人の交友関係に興味など一ミリもないシンに把握されている事実が決まり悪い。
「神父様に俺と事務官は似ていると言われた」
 熊と華奢な少女の組み合わせにどこぞの童謡にありそうだなと思っていたら、本当に落とし物で接点があったそうだ。
「俺は彼女と一回しか話したことがないし短かったからよくわからないけど、気にしているのはそのせいか」
 見ていないようで見ている。いつもはこっちのことなんか興味ないという感じでいるのに、相手の深くを理解している。シンのこういうところが憎たらしい。
「お前の手は煩わせねえよ」
 踏み込まれたくなくて話を切り上げると、そうじゃないと視線を外すのを血赤の瞳は許さなかった。
「わかっているかもしれないが、似ているだけで構うのは彼女に失礼だ」
「そんなんじゃねえよ」
 何を心配しているのかわからないが、この気持ちの末路がライデンはとうにわかっていた。
 あの瞳。誰かを想うあの横顔。
 勝てない・・・・
 そう思ってしまった時点で、この感情の末路は決していたのだ。
「隊長殿、こっちは一通り終わりましたよ」
 ベルノルトが報告に上がる。いつもの空気でないことを悟ったベルノルトがおや? と首を傾げる。
「何の話してたんです? 今話題沸騰の恋バナですか?」
 じとりとシンが揶揄いまじりのベルノルトを睨む。
「俺じゃない。ライデンのだ」
「おい」
「へえ。副長にも春が来ましたか」
「ちげえって」
 大人は子供のゴシップをなんでもかんでも面白がる。本当に無責任だ。
「なあ、ベルノルトのおっさん」
「え、ガチの相談ですか」
「さすがに怒るぞ」
 ハンズアップの体勢を取ったベルノルトに問いかける。
「あいつ……リズベットのことどう思う」
「どう思うってこりゃまたえらく抽象的ですねえ」
「大人から見たらどう見える」
 姉みたいだと言う大勢とは反対に、ライデンには幼子のように見えた。自分たちよりも経験のある第三者の視点がほしかった。
「危うい」
 うーんと宙を仰いだベルノルトはそう漏らす。鋭く細められた金の瞳は目に見えない何かを睨んでいる。
「世界なんてこんなもんだと何もかも諦めたような目をあのお嬢ちゃんはしてるときがある」
 それは最早シンだけでなく、エイティシックスたちとの共通項でもあった。
「前にも言いましたけど、アンタらはまだ子供だ。その子供が四十過ぎてすり減った大人のように達観したフリをしてるのは非常に危うい。望んだものならいざ知らず、環境が許さなかったのなら尚更危険で、そしてあのお嬢ちゃんは自罰的な性格だ」
 金狼の瞳に映る感情は大人というより親目線のもので。
「今まで抑え込んできた以上に何かを望んで、そんな自分を自覚しちまったとき。きっと反動は痛くて、耐えられんでしょうよ」

 □□□

「忙しいときに勉強に付き合ってくれてありがとうね。リズベット」
 自習室の扉を後ろ手に閉め、スイウはお人好しの白系種に感謝を告げる。明後日には首都に戻ってしまうので、その前にと頼んだのだ。
「私のほうこそありがとうございます。上司に働きすぎだ、息抜きも仕事のうちだと叱られたばかりだったので」
「本当にワーカホリックだよねえリズベットは」
 そんなに仕事が好き? と尋ねれば困ったような表情で濁される。風の噂では仕事に精力的に携わっていると聞いていたから意外だ。
「ライデンも心配してたよ」
 現在進行形で周辺諸国へ派遣されている第一機甲グループと、第八六独立機動打撃群の副長を務めている黒鉄種の名前を出す。リズベットは顔をはじめて見たたきより表情が豊かになった。最近よく話しているライデンのおかげだろう。そんな彼の名前を出せば自重するかもしれないと淡い期待を抱いたのだが、何の反応も返ってこない。不思議になってリズベットを見やれば。
「え」
「そう、ですか」
 途切れ途切れに震える言葉たちと、きつく握り締められた黒グローブ。それに顔色が悪いと表現しても差し支えないほど色が抜けた雪膚。照れたりと彼女らしからぬ初々しい動揺を期待していたからその反応に戸惑う。
 らしからぬと言えばらしからぬ動揺だ。しかしだ。
 彼女は一体何を怖がっている・・・・・・
「――ベティ?」
 青ざめた少女を引き戻そうと名前を呼ぼうとした瞬間、少女の背後から名前が飛び込んでくる。スイウが振り返れば、濃くなった西日の陰でライデンの恩師が呆然とした表情で立ち尽くしていた。
 崩落が、始まる。


BoyMeetsXXX