「レーナが心配だな」
食堂にて、シンとプレートを付き合わせる。ガシャンという音が響く。
少尉からレーナが眠れていないとシンらに報告と相談が挙がったのは連邦に帰還してきて直後。ダスティンも、他の隊員も大小問わず精神に悪い影響が出ている。現に夕食の時間にもかかわらず、食堂に打撃群所属の隊員がほとんどいない。
「お前は大丈夫なのか」
シンがライデンに問う。
「他の奴らと比べたら微々たるもんだよ」
次の作戦までの時間に講義やらなんやらが詰め込まれているおかげで囚われずに済んでいる。ただフラストレーションは薄い層で積み重なり、そうしてふとぶり返す。手持ち無沙汰の感覚と、今までの努力が無に帰したのが最後だという事実が。
夕飯をいつも通り平らげ、自室のある兵舎へ戻る。その途中、シンがピタリと足を止める。視線を追えば、木箱を抱えた准尉が女性兵士の官舎から出てくるところであった。
「じいさん」
「きみは」
上げられた面持ちは沈痛なもので、こんなところまで足を運ぶ用事の種類は豊富ではないため凡その察しがついた。
「これから処分する遺品か」
「……うん、これから手続きを踏んで処理場に送るところ」
戦死者の遺品整理。行方不明者の私物も一定期間保管されたあと、家族のもとへ移送される。その経過で交流のあった人間が引き取りたいということであれば譲渡され、そうでなかったら廃棄される。
今回は直近で一番多忙だろう。准尉の暗い表情の原因は疲労か。
「これ君に渡しておく」
差し出されたのは、劣化著しいラミネート加工の栞。頬を
「聞いてないの?」
微動だにしなくなったライデンの様子に壮年の准尉は狼狽える。隣でシンが自分をしきりに呼んでいる気がするけれど、抜けていく掌の感覚を手繰り寄せることに必死で応えることができない。
「マイヤーさんはこの前の作戦で――」
敵意にも似た警戒を振り切って、不躾に乗り込む。だだっ広い部屋の主たるヴィレムは訪れたライデンに一瞥をくれただけで、次の瞬間にはふたたび端末に目を戻していた。
「部屋に入るときは静かに入りたまえ」
「リズベットが行方不明になってるって聞いた」
「ああ、そうだな」
ヴィレムが把握していたことに噛み締めた奥歯が軋む。
「先に言っておくが、たかだか小娘一人をこの混乱のなかで探す余裕はない」
「っ、」
ヴィレムの言うことは正しい。減ったのは白ブタどもの頭数だけではない。アルトナーをはじめとして貴重な人員を連邦も削がれた。再編など後退直後の慌ただしさ真っ只中にたった一人を探す余裕は状況が許さない。加えて半月以上経った現時点で見つかっていないのなら、生存している確率は限りなく低い。頼みの綱のフレデリカは珍しく姿が見えず、直属の上司であるグレーテを通さずヴィレムのもとへそれでもと直談判に走ったのは、リズベットと強い関係のあったこの男が何か手を講じているのではないかと一縷の望みにかけたからだった。
「わざわざそんなことを言いに来たのか」
「関係者だろ。心配じゃないのかよ」
「アレがどうなろうと知ったことではない」
随分突き放した言い草に開いた口が塞がらなかった。
「関係者だからと特別扱いをするつもりもない。せいぜいどこかでしぶとく生き残っていることを祈っていろ」
短く切り揃えた爪が手のひらに食い込む。祈ったって何もならない。それをライデンも、ヴィレムも十分すぎるほど知っていた。
「あの当時、任務以外の事柄を気にしていられるほど余裕があった者は連邦軍どこを捜してもいない。
守りたくもない共和国市民を任務だからと護衛して。失いたくなかったひとを犠牲にして。誰も彼もが必死だった。だから気に病む必要はないとヴィレムは言っている。すべて理解できるからこそ、承服できなかった。
「でも」
「私の部屋にアポなしで血相を変えて飛び込んでくるくらい大事であるのならば、生きているかは別として生存確認を即刻行っていてもおかしくない。何故しなかった?」
「それはッ」
「所詮その程度だったということだ」
噛みついて、言葉が途切れた。
「誰にも知られないまま、誰の記憶にも残らないまま死ぬ。それがアレの望みで――共和国の白系種はそういう末路を辿るのがお似合いだと大勢が思っていたことだろう?」
思っていたとしてもこんな形ではないし、何よりあの少女は無様に死んでいく運命ではなかったはずだ。
「白系種が一人、他人に課され、そして自分が望んだ運命から抜け出せずに行方知れずになった。それでこの話は終わりだ」
つまらなさそうにヴィレムは吐き捨てる。まるで自分の予想を超えることを望んでいたように。
それでも、それでも。
藁に縋ることすら許されないのか。
一つ息が深く吐かれ、くいっと手首の助走をつけられて立方体状のものが宙を舞う。軽い音が数度跳ね、ライデンの前に掌大の箱が転がる。
鼓膜の奥で嫌な予感が体を脈打ち、震える指先がジュラルミン製の箱へと伸びる。開けてはいけない、開けたくないと理性が拒んでいるのに、本能が開けろとせがむ。
錠に触れ、蓋が口を開けると、焼け焦げた甘い臭いとかすかな土の香りがつんっと鼻腔を刺す。パンドラの箱には鈍色の緩衝材が敷き詰められており、その中心では黒グローブが安座していた。
戦場を見てきたライデンはそれが何か、否が応でも理解できてしまった。
今にも動き出しそうな質量であるのに一向に動き出す気配はないそれ。蝋で作られたであろう精巧な芸術品の割に、グローブからはみ出たサーモンピンクの幹は泥まみれな上に無理に引きちぎったように不揃いな断面だ。
箱を放り出すがごとくヴィレムの部屋を出る。途中誰かとすれ違うものの挨拶もせず通り過ぎた。顔を見られたくなかったが、おそらくしっかりと見られただろう。
自室に入った途端、扉に背中をつけたままズルズルと臀からへたり込む。伝う床の冷たさが痛い。
『シュガさん』
今しがた見せられたアレは人間の手首だ。高熱に晒されたせいでレザーと皮膚はお互いに熱変性を起こし、間隙なく凝着していたアレは間違いなく人体の一部。しかもあのタイミングでヴィレムが見せたのだから持ち主はなぞ訊くのは愚問だ。
奇しくもセオが失った箇所と同じ左手に、塞がったと思い込んでいた傷が破ける。
セオが左手を失ったとき、生きているからと言ったダスティンを諌めたことがある。命があっても、戦えなければ誇りも自負も価値なんてない。いっそのこと、と仄暗い考えが浮かばなかったと尋ねられたら間を置かずに答えられたか疑わしい。
だがどうだ。左手だけ残されても、生死がわからないのであれば死んだも同然。
ライデンの視界に、かつてリズベットがシデンたちと腕相撲をしていたときに闘技場として使われた種類と同一の箱が入る。それが何故ここにと導かれるように立ち上がる。
覗いた中にあったのは木枠と透明なプレートのみの、使い古された写真立て。住人は何処にもいない。
思い出があればいい。それは事実であり、詭弁だ。
この手に触れられる形而下のものがなかったら存在すら疑われ、覚えている人間すら自分の記憶を疑うようになる。もうその時点で存在は曖昧なものになっていることに自覚している人間はいない。最初からいなかったように存在の形跡が薄れ、なぞろうにも輪郭は消えていく。
見落としていないかと焦燥に駆り立てられる。わずかに生きていた気遣いが床に広げるのを躊躇い、箱を持ち上げたライデンはその軽さに愕然とした。
箱ひとつ分。
しかもその軽さをほとんど箱自体の重量が占めている。ノートといった紙製品はリズベットが好んで使っていたというのに紙切れひとつなく、筆跡も当然ない。部屋の電気をつけてもその現実は変わらなかった。
准尉が気を回してくれたのか。戦死した兵の私物を整理するのは当たり前である一方で、今のリズベットは軍属でないため
リズベットの残り香があるのはこれしか。
あの思い出。ライデンが幼い頃にリズベットに渡したとされる三つ葉。
覚えていれば縋ることができただろうに、縋ることすら烏滸がましいほどに覚えていない。他の物だったら残り香を探せたのに、よりにもよってライデンに一番身の覚えのないものが手元に残った。
送り出されたとき、嬉しくなかった。迎え入れてくれたときは嬉しかったはずなのに、その反対のことをされたら悲しかった。今なら、彼女がいない今だからその違和感を言語化できてしまう。
彼女はライデンと一緒に来てくれないのだと予感があったから。
この軽い空き箱がその証左だ。彼女は全部終わらせようとしたのだ。突然すべてどうでもいいというように自棄になったのも、自分は白ブタで覚えている価値もないのだとライデンがリズベットのことを忘れても罪悪感を抱かないように。前へ進む誰かの
理解してしまった途端、筆舌に尽くしがたい痛みに襲われる。喉奥が呼吸を拒絶し、宛のない罵倒を零すことすらままならない。
あの態度に飽き飽きしていた。それでも死んでほしかったわけではない。落ち着いたら最初は顔を合わせづらいだろうけど一生許さないつもりはなく、自分から謝ってくれたら許すつもりで。言いすぎたとライデンも謝って、ぎこちなく会話を重ねていつか何気なく言葉を交わす将来があると傲慢にも信じて。
「畜生ッ」
リズベットの抱えていた苦しみをライデンは知らない。放っておけないと言いながら寄り添うこともしなかった。
憂いを帯びた、本当は情があるのに不器用な彼女の
何ひとつできないまま、リズベットはいなくなった。
□□□
「随分と酷な仕打ちをするのう」
凪が帰ってきた部屋に古風な口調が歌う。発生源はヴィレムの執務机の下だった。
「お兄様をいたぶられて立腹か、補佐官」
「わざわざライデンの心を折ったことが承服できぬのじゃ。兵の士気に関わることにおぬしが鈍感なはずがなかろう」
「彼はそんなヤワな男か?」
「子供じゃ。おぬしやアルトナーが口酸っぱく言っていたようにの」
だからそれ以外に思惑を隠したのだろうと射貫く血赤の瞳に、ヴィレムは遠き日を思い出す。
「アレは彼の手に負えない。アレ自体がじゃない。背後にいる、暇を持て余した古狼がだ」
いたいけな青少年を大人の駆け引きに巻き込むのはヴィレムとて思うところがある。わざわざ完膚なきまで叩きのめされる惨状を観劇するほどの加虐趣味は持ち合わせていない。手一杯にしてこちらに手を出させないやり方も、倍返しで難題を返されたのでそれ以降気概すら失せた――というのが怖いもの知らずでちょっかいを出して痛い目を見た貴族どもの総意のようだ。
「巻き込みたくない、だから気を逸らしたい。であるのなら死んだことにして終わらせるのが手っ取り早い、ということかの」
回りくどいのうとフレデリカと鼻を鳴らす。
「マイヤーがあの者に執着する理由は何じゃ。そんな血気盛んな家門ではなかったはずじゃが」
知っているのかと少し驚き、マイヤーは近衛兵も輩出していたなと納得する。誰かしらと交流があったのかもしれない。
「知らなくていいことだってある」
であるのならばマイヤー家の末路に違和感を抱くのも無理ない。ヴィレムとてフレデリカの指摘に肯定的である。それゆえに、フレデリカが何故理解できないか不思議でもあった。自分の唯一の騎士を喪ったというのに、この世は似た関係が転がっていることを考えもつかないのだ。
『私たち夜黒種は一体何を守っているんだろうね』
ギアーデ帝国開闢以来、帝国の守護たらんと生きてきた夜黒種。その一角を担ってきた家門の嫡子にしては優しすぎた人間の成れの果て――獣に堕ちた兄弟子は弟弟子に本気で答えを求めていたのだろうか。
「おぬしらの事情はあいわかった。ゆえに、わらわを使って秘密裡に捜索しているということじゃな」
フレデリカの異能は見知った者の過去と現在を視ることである。リズベット行方不明の一報がもたらされるや否やヴィレムから安否確認を要請され、その眼をもってリズベットの意識に辿り着くことはできた。しかし生死といった詳しい状況までは知ることができず、加えて正確な位置まで特定するまでには至らなかった。リズベットを視ようとするとノイズがかかったとフレデリカは言うのだ。今リズベットがいる場所が現在なのか過去なのか混線して、かすかに拾えたのは薄暗く不衛生な場所と、周囲に人がいることのみであった。
「今までそんな話は聞いていないが」
「わらわにとっても初めての経験じゃ。……以前に視たときより酷うなっておる。あの者が過去に囚われていることが原因じゃろう」
フレデリカの異能とて完璧ではない。対象がその瞬間過去を思い出していたらその当時の映像が優先的に映ってしまうそうだ。それは人類、〈レギオン〉差別なく。
あの脆い少女が生ける剥製になったとしてもヴィレム個人としては捨ておけと考えている。今の今まで放置していても害はなかったのだから、連邦に仇なすのならその前に淘汰するだけだ。
頭を下げたあの瞳を思い出す。
初めて顔を合わせたときと、その後の姿を知っているヴィレムからすれば随分と人間らしくなったと手放しで感心するものであった。誰の影響だろうと考えるまでもなく、かの黒鉄の青年のおかげだ。
先程のライデンの表情から、忠告は聞きいれられなかったことが判明した。このまま誰かと深く関わっているようでは望みを叶えられなくなるとリズベットに口酸っぱく釘を刺してきたけれど、ズルズルと人らしくもう少しだけと甘えて。
一方で、少年に過失がないとは言いきれない。名前のない関係で満足していればよかったのに、中途半端に関わるなという忠告を無視して覚悟のないままリズベットに踏み込んだ。
「ヴィレムよ。本当はおぬし、情に篤いのではないか?」
「冗談はよしてくれ」
何を勘違いしたのか、無垢なフレデリカに冷笑が漏れる。ヴィレムがリズベットを気にかけるのは兄弟子が関わっていることを抜き差しにしても、元を辿るとエーレンフリート家に連なる者の失態が始まりであったからだ。
「これ以上獣を無用に増やして、手を煩いたくないだけだ」
白系種であれば跡形もなく焼き殺していた共和国の屑鉄どもに比べて、共和国の外の〈レギオン〉に人種の見境はない。もし共和国の外へ命からがら逃れたところを〈レギオン〉が鹵獲したとなれば、痛手なのは必定。マイヤー家の持つ
加えて火竜は子供が化け物になるのがお気に召さない。理想と正義にもとるこの連邦では未来ある子供が絶望して腐るのは負けだ、と。
リズベットがどうなろうともどうでもいい。どうせ戻ってきたとしてもリズベットにとって生きやすい状況なぞない。為すべきことを片付けて、何も知らぬ、誰も自分を知らぬ土地で勝手に生きていればいい。
それくらいの情であった。
□□□
「ギュンター少佐」
ギルヴィースは振り返る。同じ焔を焚べながら英雄たらんとせず、しかし英雄に足る素質と実績を持つ男がいた。
「どうかしたかノウゼン大尉」
「頼み事があります」
「頼み事?」
頼み事をされるような事態は噴出していないはずだがと心の中で首を傾げたギルヴィースに、シンは言葉を重ねる。
「リズベット・マイヤーという女性を探してもらいたいのです」