18

 カシュと小気味よい音が滲み、ヴィーカが作った無駄に精緻な装飾は甘い果汁とともに脆くも儚くなる。ライデンはかつての受講者たちが騒いでいるのを長テーブルから一人眺めていた。
 お月見とハロウィンを一緒くたにしたカオスな宴。戦争の澱みを一時忘れ晴らすような、いとけない享楽に戦友たちは身を委ねる。
 正直今回の作戦は草臥れた。やるせなさではなく、心底馬鹿馬鹿しいことに振り回されて疲労が節々に沈殿している。戦友たちがバカ騒ぎしている原因の一つであろう。
 憂さ晴らしに自分も混ざるかと重い腰を上げると、ウサギの耳に切り取られた林檎がテーブルの隅に所在なく置かれているのが目に入った。作りっぱなしで誰が処分すると思っているんだかと一口で食めば、パキリとリンゴが割れる。それが合図になって、蓋してい感傷がじわりとライデンを苛む。
「よっ、クッキングママ」
「誰がママだよ」
 ジト目で斜め上を仰ぐ。食べ物を両手で溢れさせたシデンはそのままライデンの横に腰を下ろした。
「リズベットのこと考えてたのか」
「まあな」
 もしこの場にリズベットがいたらどんな表情を浮かべていただろう。ここに引っ張り出すために声をかけたら、きっと一度断られて。リトやシデン、ダスティンたちも説得に来て、引っ張られる形で参加して。呆れと諦めの滲んだ表情で輪に入って、最初は居心地悪そうにしながらも少しずつ馴染んでいって。真面目に衣装を考えたりしていたり、各地のローカルルールに真剣に相槌を打って。
 そうしてまた静かに輪の外に出て、愛おしくも寂しそうに眺めていただろう。
「アイツと踊ったことがあるんだ」
 思い思いに踊る戦友たちを眩しく見つめながらシデンが零す。
「いつ」
「盟約同盟に行く前。男側のステップを覚えんのに相手役やってくれたんだよ」
 いつの間にという敗北感を蹴飛ばすように当たり前だろうと理性が諭す。リズベットがライデンの視野の中だけで生きているわけではない。夫の立場の男が相手役を務めたことは容易に想像がついた。リズベット本来の背丈はレーナと近しい。練習相手にはもってこいだろう。
「ばあちゃん先生にリズベットのことは」
「もう言ってある」

 北部戦線に向かう直前、リズベットと唯一の血縁者である老婦人にリズベットが行方知れずであることをライデンは直接伝えた。
「あの子、共和国に行って……」
 目が大きく見開かれ、細い肩は戦慄く。軍人ではないリズベットが共和国に行ったことすら初耳だろう。だから待っている側に覚悟する暇なぞなくて衝撃を受けるのは当たり前だ。追い打ちをかけるようで気が引けて、今にまでズルズルと後回しにしてしまった。
「死体が見つかった報告は今のところ入ってきてない。でも待ってろとも言えない。悪い」
「……いいえ」
 ライデンのせいではないのだから謝る必要なんてないと、老婦人はかぶりを振る。
「リズベットのことはいつまでも待つわ。この体が朽ち果てたとしても、あの子の姿を見るまで待ってる」
 それが自分にできる償いだと、小さく零したあと顔を伏せる。いつもの身も世もない泣き方とは真反対の泣き方を目の当たりにして、本当にリズベットと血が繋がっているんだなと思い知る。
 ひとまずシンの異能ではいまだ〈レギオン〉に取り込まれていないことだけは確認できた。ただそれが直ちにリズベットの生存を決定づける証拠には不十分でもある。シンの異能が及ばない場所で黒羊になっている可能性も捨てきれない。フレデリカもリズベットと見知った縁が短いため異能が不正確だと、フレデリカのもとを訪ねた際に申し訳なさそうに謝られた。
「ライデン。あなたは大丈夫なの」
「……なんで俺の話になるんだよ」
「ずっと気にかけてくれていたのでしょう?」
 気にかけていたなんて、そんな。もし本当にリズベットを気にかけていたのならヴィレムの言う通り半月も放置しなかっただろう。それに大丈夫でないと自分だけが言える状況ではない。大丈夫だと頷けば嘘になる。平気なフリをするので精一杯だった。
「もし辛いのなら忘れなさい」
 その一言は重かった。
「あの子だってあなたの重荷になんかなりたくないと思う」
 ライデンの重荷にならないよう演じたリズベット。どこまでがリズベットの本当であったか。本音を知らないまま、風に乗って。
「そらひでェよ、ばあちゃん」
 ――あんたは待つのに、俺は覚えていることすら許されないのか。
「忘れないし、忘れたくない」
 淡い想いを抱いた相手だから。
 一度は綺麗に忘れてしまったから。
 これはライデンの傷だから。
「あの子は幸せね」
 下手くそな泣き笑いが咲く。それにライデンが反応を返すことはなかった。

「見つかるといいな」
 切断された手首を見せられたことは誰にも吐露していない。自分以外に漏らしてしまえばそこから足元が崩れ落ちそうで、なけなしのプライドがライデンの背筋を叩いた。
「君たちはよく一緒にいるな」
「ミアロナ中佐」
 煙るような珈琲色の髪がふわりと揺れる。今回の作戦で指揮を執った女性士官で、地方の大貴族領主の娘だという。
「原子力の話をしたとき以来だな」
「もう講義は勘弁っすよ」
「さすがに押しつけるようなことはしないさ。無論、興味を持ってくれたら喜んで説明させてもらうがな」
 振られたというのに微笑む横顔がライデンの腑に落ちなかった。
「残念そうな割に嬉しそうっすね」
「嬉しいよ。自分から学ぶという姿勢ほど尊いものはないからな」
「……必要だからじゃなくて?」
 さらに尋ねたライデンに驚くこともなく、ミアロナは真摯に応える。
「必要だから学ぶ、も立派な動機だ。いくら嫌いでも使う未来のために理解する。並の人間はできない胆力だ」
 興味のない授業はすっぽかすような同年代と比べれば明らかだ。エルンストの言葉を借りると、遊びがなかった。
「ところで、もしや二人はそういう関係なのかね?」
「「違ぇよ」」
 失敬と肩をすくめるが、面白がるようにミアロナの瞳が輝くのを見逃さなかった。
「お似合いだと思うがね」
「ヘタレな人狼ちゃんはこっちから御免っすよ」
「誰がヘタレだ」
「その言い草だと中尉には他にいい相手がいるみだいだな」
「……生きてるかわかんねえっすけど」
 生きていてほしい。でもあんなモノを見せられて楽観できるほど狂っていなかった。
「今回君たちには大いに助けてもらったし、迷惑もかけた。人を探すことくらいできよう」
 キャンプファイヤーが向こうで爆ぜる。その周りで軽やかな笑い声がくるりくるりと輪を描く。
「マイヤーって名字はやっぱり連邦では多いんですか」
「多い。下々から悪名高いのまでな」
「悪名高い」
 それまでが目立つことなかったので余計になとミアロナは忌々しげに呟く。
「夜黒種にマイヤーを冠する家がある。そこの現当主は市民革命直後に同門をことごとく屠った、化物だ」


 リュストカマー基地で訓練に明け暮れる日常に戻り、しばしの休暇で西方方面司令基地に身を置くようになった。
 リズベットの話題は腫れ物として扱われていた。生死不明の状況では何を言っても不謹慎になると思っているのだろう。生きていてほしいと祈りながら、裏切られることを知っている臆病で優しい子どもたち。クレバスの奥底に沈める。
「シュガ中尉」
「オリヴィア大尉」
「知り合いの白系種が行方不明になったことは聞き及んでいる」
 苦しいなと、寄り添ってくれるオリヴィアに眉尻が下がる。出会って数ヶ月、それも他国の子供に優しくしてくれる。
「もし生きていたらこれまでの不満をぶつければいいんじゃないか」
 ぱちくりと目を瞬かせる。
「……いいんすか」
「いいも悪いも、ヤキモキさせられたのだから当然だと思うがね。君らしくもない。ノウゼン大尉にいつもしているようにすればよいのに」
 余程気落ちしていたんだなと端正な顏が苦笑に滲む。
「生きているうちに言いたいことは言っておきなさい。じゃないとずっと夢に出てくる」
 中性的な目元が慎ましやかな星を弾く。
「ありがとうございます。少し元気出ました」
「ライデン!」
 破るようにクレナの声が飛び込んでくる。その隣にはシンがいた。
「どうしたんだ」
「見つかった」
「は? 何がだよ」
 端折りすぎた答えに眉間に皺が寄る。
「マイヤー事務官が見つかった」

「どうしてお前のところにアイツの情報が入って来んだよ」
 直前の反応と打って変わって、ライデンは逸る足音で廊下を進んでいく。
「俺がギュンター少佐に事務官の行方を探してほしいと頼んだからだ」
 経緯はわかったが、ライデンが本当に聞きたかったのはシンが今回の行動を起こした理由であった。シンとリズベットは特に関わっていなかったから、そのルートでリズベットの行方が齎されるのは不可解だった。
「本当は諦めたくなかったんだろう?」
 ハッと息を飲み、先を歩く後頭部を見つめる。
「あの日のお前を見ていればわかる」
 シンにすらリズベットの手首を見たことを打ち明けていない。ならばあの日とは知らされた直後、ヴィレムのもとへ走ったことを指しているはずだ。
「……同姓同名の別人だったりしないのか」
 いまだ臆する気持ちが首根っこにチラつく。これで最悪の事態があって、リズベットの死が決定づけられるかと想像するだけで臓腑が冷えた。
「以前に面と向かって話したことがあるから間違いないそうだ」
 逡巡すらなく、ただ答えが返ってきて安堵する。
「それにしたってよく見つけられたな」
「俺も驚いてる」
 廊下の奥で深紅の髪が部屋入口すぐ横に佇んでいる。
「お疲れ様です。お手数をおかけしました」
「そうでもない。彼女を助けたのがたまたまうちの隊員だったりと偶然が重なって見つけられただけだ」
 その隊員によると斥候型アーマイゼに襲われていたと重ねて聞かされ、怪訝な表情になる。あの日、白系種を徹底的に襲っていたのは重戦車型であった。殺し損なった白系種を斥候型が潰していたという報告は受けていない。
「探していた人間はこの部屋だ」
 ただ、とギルヴィースは申し訳なさそうに眉を落とす。
「話せる時間がさほどない上に、消耗が激しくてまともに会話できるかどうかすら怪しい。それでも会うか?」
「会います」
 二度と言葉を交わせないことに打ちひしがれた。先程まで首を撫ぜていた臆病風は何処へやら。覚悟は決まった。一目だけでも無事を確認したかった。
「そんなに酷い状態ならこのような場ではなく医務室に即刻連れて行くべきでは」
「……すまない。そこまで気が回らなかった」
 脇を通り抜け、扉を押す。部屋の中心には長ソファが置かれており、護衛のミルメコレオの隊員と少女が腰掛けていた。
 ソファに座っている少女は糸の切れた操り人形のように無気力で、生気はまったくと言っていいほど感じさせない。
「リズベット」
 髪がひと房零れ落つる。白銀の髪は巻かれている包帯とともに土埃に塗れており、梳きも当然入っておらず清潔とは程遠い。茜色のリボンは見当たらず、ガーゼが頬に貼られている。ところどころ剥がれた化粧から青アザ、赤アザが覗く。
 端的に言えばボロボロだ。見るに堪えないと感じる者がいたとしても無理もない。なのにどうして目が離せないのだろう。
 泥の中でも咲く大輪の華に似たかぐわしさに背筋を凍らせていると、リズベットの左腕に目がいく。欠損しているはずの左手はちゃんと銀環とともについていて、ライデンは人知れず胸を撫で下ろす。ヴィレムに見せられたあの手首は別人のものだったというわけだ。
「迎えではないが面会人だ」
 今まで身動ぎひとつしなかった体躯がピクリと反応を示す。
「……ミルメ、コレオの」
 虚ろな瞳がライデンたちを仰ぐ。刹那、焦点のない白銀に鈍い光が浮かぶ。
「そうだ。ブラントローテ大公より賜った――」
 傍にいたミルメコレオ連隊隊員が言い終わるのを待たず、リズベットは彼の太腿に携帯していた拳銃を奪い去る。あまりの手際の鮮やかさに呆然としたのも束の間、リズベットは何かに気づいてすぐさま黒鉄を投げ捨てた。
 白の狼の照準は一度シンとライデンを見据えたが、ギルヴィースに合わされた。だが今度は向かうことなく、戦闘自体を回避することを選んだようだ。
 目的変更にいち早く察知したギルヴィースが細い手首を掴み捻りあげる。拘束しにいったため強い力が加わり、リズベットは抵抗するものと思った。しかし力に逆らわず、リズベットはギルヴィースとの距離を詰めた。予想外の動きにギルヴィースも虚をつかれ、その間隙に拘束からなめらかに抜け出したリズベットは廊下に躍り出る。
 シンと二人で追いかける。逃げる先は何処なのか。何処に行くというのか。
「うわッ!?」
 リズベットが出会い頭に向こうからやって来た人物にぶつかる。その声にライデンは咄嗟に叫んだ。
「ダスティン、リズベットを離すな!」
「お、おう!」
 幸か不幸かギルヴィースがひねりあげた左手首をダスティンが再度掴む。
 痛みに堪えながら振りほどこうとして白銀の紗幕がふわりと舞い、右の耳朶が垣間見える。
「……え」
 いつも銀紗によって隠されている箇所は銀色のピアスだけがあるはずだった。
 雪膚のアーチにかかる薄桃の火傷跡。
 自分たちエイティシックスが持つものよりもいささか薄い色合いながらも、紛れもなくそれは知覚同調パラレイドが噛まれていた痕であった。
「なんでお前の耳に知覚同調の痕が」
「……」
「もうバレたんなら全部ゲロっちまえよリズベット」
 ハスキーボイスが現れる。その後方にはアンジュや他の面々もいて、エイティシックスたちが集まる方面にいる。白銀と藍の双眸は白の少女を見据える。
「テメェが最初の大攻勢のときに〈ジャガーノート〉を駆っていたことも、使いモンにならなくなった右肘のこともな」
 周りもその表現だけで気づいてしまう。
 不可解だったのだ。国を変える志があったのなら軍人として志願していなければならない状態で、わざわざ成果の見えにくい官僚を目指して連邦にやって来たことが。
 ならなかったのではない。なれなかった・・・・・・のだ。
〈ジャガーノート〉でさえ扱いの難易度が高いのに、〈レギンレイヴ〉は〈ジャガーノート〉以上の操縦技術を搭乗者に求める。エイティシックス以外の兵士が〈レギンレイヴ〉を乗りこなすのに相当な訓練時間を要した。
〈レギンレイヴ〉を操縦するには致命的な怪我を負っているから。だから志願しても篩落とされる。リトの勉強を見ていたときにチョークの持つ手を変えた理由は古傷が痛んだから。右肘を握るのはもう戻れない過去と、無力さを思い出させる箇所だから。
「どういうことだよ」
 震えるダスティンの声を無視してリズベットはシデンを睨みつける。
「睨むなら最初から言えってんだ。それともあれか? 懇切丁寧に全部言ってやろうか? グランミュールの外へ向かう街中で銃をブッ放した白ブタからアタシら庇って、右肘の腱を切ったってよお」
「〈キュプロクス〉!!」
「ンだよ、ベータ・ワン」
 パーソナルネームと識別名で呼び合う。冷静でないからか。
「どうして言ってくれなかったんだよ」
 ダスティンの悲しげな呟きが落ちる。
「言ってくれたら」
「言ってくれれば?」
 明らかな嘲笑が吐き捨てられる。
「共和国からのこのこと現れた白ブタが〈ジャガーノート〉に乗っていたなんて話をこの国が、白系種に迫害されてきたエイティシックスたちがまともに取り合ってくれるとでも!?」
 勝手に見積もるなという反発と、その場面に実際直面したときに果たして耳を傾けていたかという後ろめたさに誰もが口を噤む。
「今まで散々受け入れてくれるような空気にしなかったくせに、いざ話したら言ってくれればよかった? いくらなんでも虫がよすぎる。私たちがしてきたことを忘れた!?」
「忘れてない」
 真剣な表情でダスティンは即答する。
「だからってずっと何もしないのは違うだろ?」
「何したって私たちがしたことは変わらないのに」
「なあ、そんなに自傷するのは自分が白系種だからか?」
 憐れみをもってダスティンは友人に問いかける。
「いい加減やめろよ。前から白系種を嫌ってるのは知ってたし、悔しい理由もわかったけど――」
「お前に何がわかるッ!!」
 それが逆鱗に触れるとも知らず。
「右腕を使い物にならなくさせられたくらいで・・・・白系種を恨んでいると思い込んでいるのなら、それこそ何もわかっちゃいない‼」
 宿雪色の瞳に煌々と燃え盛る怒りと、決して拭えぬ悲しみが渦巻く。
「わかるはずもない。奪われていないのだから、嫌悪こそすれ恨みはしない」
「おい」
 リズベットの発言は見過ごせなかった。
 レーナとて母親を失っている。ダスティンも父親を失っている。なにもリズベットだけが失っているわけではない。
「自分だけが不幸みたいな顔すんなよ!」
「そうよ私だけが白ブタどもに家族を殺されたわけじゃない!!」
 無知を。
 否、想像力の欠如を嘲う告白に辺りは息を飲んだ。
「大佐のご両親やダスティンのお父様を殺したのは〈レギオン〉でしょう? 人間の悪意に踏み躙られたわけじゃない」
 歯車は回る。
 ゆっくり、一つずつ。
 軋む音を立てて。
「白ブタどもは私の大切なものを全部奪っていった。祖父も父も、妹も」
 リズベットの妹はリズベットが六歳のときに産まれ、夭折したと聞いている。
 十一年前。
 強制収容が始まった年と同じ年。
「エイティシックスたちを匿った祖父と父を投降させるために妹は頭を潰され、なおも抵抗した二人は生きたまま焼かれた」
 第二次大攻勢で白系種たちが迎えた終焉と同じような末路にクレナが息を飲む。クレナも白系種の軍人に両親を娯楽として撃ち殺された子供であった。
「やめてくれと何度も懇願した。何でも言うことを聞くから命は取らないでくれと軍人たちの足に縋りついた」
 だがそうはならなかった。
「今でも覚えてる。頭が潰れた妹の死体に唾を吐いて、ようやく静かになったと零した畜生どもを」
 少し伸びた爪がきつく、あの日の無力と怒りを掌に刻み込む。
「許さない」
 涙の代わりに、怒ることでしか自分を蠢く激情を制する方法を知らない小さい子供のように憎悪は搾り出される。
「家族と知り合いを殺して嗤った白ブタどもを、巻き込まれたくないから自分たちには関係ないと目を背けカーテンを閉めたクズどもを!!」
『そのひとの痛みはそのひとだけのもの』
 准尉の言葉がリフレインする。
 真面目だから、他人の気持ちを推し量れるから。自分たちの不幸話をタネに同情を引いて、脚色して。共和国の白ブタどもがしてきたようなことをリズベットは許さなかった。自分にはその資格がないからと、生きているからこその辛さを誰にも吐けず。
 この怨嗟は今まで蓄積されたリズベットの鬱憤だった。
「白系種なんて地上から一匹残らず絶滅してしまえばいいのよ。そのほうが今後のためになる」
「だったらあの卒業論文は」
 却下された白系種総動員法の草案。もう一つの意味があるとしたら。
 リズベットが口を開く気配はない。それが答えであった。
 ダスティンが問答無用でリズベットの胸倉を掴む。気道付近を締めあげられてもリズベットが眉一つ動かすことはない。何人かがダスティンの肩を掴んで引き剥がそうとしたものの、この時のダスティンは梃子でも動かなかった。
「最初から復讐のつもりで……っ!」
「そうよ」
 淡々とした返事に言葉を失う。その瞬間を見逃さず、ダスティンの胸を突き飛ばす。
「人間の風上にも置けない白系種クズどもが嬲り殺されているのを見てショックを受けているとでも思った? ――そんなことあるか。〈レギオン〉の手ぬるさにこの手で滅ぼせなかったのを心底後悔した」
 地を這う告白に、事態を見守っていた一同は絶句せざるを得ない。レーナやダスティンのように大なり小なりショックを受けていると何処かで信じ込んで。
「あんなのでは足りない。もっと、もっと。全員、一匹残らず」
 憎悪に染まって〈レギオン〉に取り込まれたエイティシックスのような悪意。生きた憎しみは生者を黒い渦に巻き込む。
「本当に好き勝手言ってくれたよどいつもこいつも」
 そこまで面の皮は厚くないと一息に怒鳴って、ふらりと一歩下がる。あの高いヒールで今の今まで一度もフラつかなかったリズベットがヒールの折れた靴でたたらを踏んだ。切れ切れに発された声は弱弱しくて、今にも壊れてしまいそうだった。
「嫌だって懇願しても聞き入れてもらえなかったことなんて味わっていないくせに、迫害者のレッテルを勝手に貼るだけ貼って生きろって無責任に言われたことなんてないくせに、お前・・のせいだ・・・・なんて言われたことないくせに!!」
 手負いの獣が爪を振り回す。他者だけでなく自身も傷付けていることに気づかず、リズベットはここにいない誰かに向かって血を吐きながら吠える。
「何がわかるって言うのよ!! 一体私の何がッ!!」
 その咆哮は悲鳴にも似ていた。
 遠巻きから様子を伺っていたライデンは動くこともできず、ただリズベットを見つめていることしかできない。
 泣いているのに。
 声は泣いているのに。
 涙ひとつ零さない目の前の少女のために動かなければならないのに。
「白系種であることしか残されてない、何をしたとしても許されないのなら、もう選べないのならっ。処刑台の上り方くらい、処刑台の種類くらい選ばせてよ!!」
「――リズ」
 嵐を晴らす一擲に誰もが振り返る。
 威厳を具現した連邦軍軍服を身に纏いながらも肌やわらかな空気を醸し出し、四十代そこらかの男性はそこにいた。
 一見すればただの一般人であるのにリズベットを愛称で呼ぶやわらかさには得体の知れない禍々しさがあり、誰もがその男性に目を奪われる。加えて周囲を驚かせたのは、男性の持つ夜黒種特有の深更みさらであった。
「そこまでだ」
「どう、して」
「何故もなにも家族である君を迎えに来たんだよ」
 ぞわりとライデンたちの心臓が逆撫でされる。
 家族。
 その呼び方と、左の薬指に嵌められた傷だらけの銀環からこの深更の男がリズベットと結婚したマイヤー卿だとライデンは確信した。漆黒に混じる雪は微量でエルンストより年下のようにも推測できるが、頬は軍人と比べると痩せこけていて誰の目にも虚弱として映る。
「さすが私の秘蔵っ子だ。ミルメコレオの茶々アドリブを失態に変換することで、ブラントローテに恩を売らない方向へ傾けた。この一年でよく成長したよ。でもね」
 エイティシックスたちには一瞥もくれず真っ直ぐリズベットのもとへ向かう。まるでリズベット以外存在しないかのように。
「何故エイティシックスたちの銃を奪取しなかった?」
 矛先を喉元に定められ、緊張が張り詰める。
「ブラントローテの手の者から逃走した事実には変わりない。それだけでブラントローテへのカードとしての条件を満たしている。だから共和国市民の君がエイティシックスの拳銃で自害しようが誰も悲しまない。むしろエイティシックスたちに同情が寄せられるのは必定。目的遂行のために躊躇する必要はなかった。なのにそれを君はしなかった。一言で言うならば――甘っちょろい」
 温度が一気に下がり、鳥肌が粟立つ。
「彼らが負うかもしれない心の傷を考慮した? 優しいね。でも君が悲劇のヒロインになることはなかった。目的達成のために少数を、情を傾けた人間を即座に切り捨てられない甘さが君を追い詰めた。まあその甘さが気に入っているところではあるのだから人間って生き物は難儀だねえ」
 ニコニコと相貌を崩さず、マイヤー卿は氷柱を落としていく。
「それはそれとして、いくらなんでも我を忘れすぎだ。君の傷口を無神経に掻き回されて理性を吹き飛ばす気持ちは理解できるけど、マスコットいるの忘れちゃった?」
 マスコット。
 連邦開闢以前から存在する、戦災孤児たちの在り方。
 一個小隊を擬似家族とした、隊員たちの人質的存在。
 その単語を聞いた途端にリズベットはバランスを崩し、その場に尻もちをつく。畏怖すべき存在を仰ぎ見る形となったリズベットにマイヤー卿は手を差し伸べる。散歩に誘う気軽さと、絶望の淵にいる子どもを助ける聖人の慈悲をもって。
「帰ろう。ここは私たちにとって毒だ」
「待ってください」
 ダスティンの声にはじめてダスティンを視認したというような緩慢な動きで男は振り返る。しかし呂色の水鏡は何も映していなかった。
「リズとの話はまだ終わっていません。それにマスコットって何ですか」
「これ以上君たちに話すことはないよ」
「それを決めるのはリズ本人です」
「この子が拒絶しているのわからない?」
 それでもと前傾姿勢になったダスティンに男は呆れた眼差しを向ける。
「今彼女に浴びせられた罵詈雑言に君たちはきっと傷ついたはずだ。君たちは自分たちが無理矢理聞き出したことだから傷ついてなんかないと優しい君たちは彼女を庇うだろう。でもね第三者が必ずしもそう見てくれるとは限らない。『連邦軍に所属する者が傷付いた』と判断せしめられたその瞬間、彼女ではなく彼女の大切にしている人間が処分される。その責任を君たちは取れるかい?」
 えと誰もがリズベットに視線を集める。その視線からマイヤー卿はリズベットを庇うようにすっと間に立ち塞がる。
「具体例をあげようか。手始めにとある赤ん坊が死ぬ。その次は……そうだね、今この場にいる誰かが死ぬ」
 リズベットの腕の中で笑い声をあげた赤ん坊がライデンの脳裏を過ぎる。
「リズベットは何度もその話題を避けてきたはずだ。警告もした。君たちに害が及ぶからね。にもかかわらず君たちは無視してその境界線を強引に踏み越えた」
 ろくなことにならないと突き放したリズベットを思い出す。あのときリズベットはどんな表情をしていた。
「これは知らなかったじゃ済まされない問題なんだ。お互いのために無責任なことはやめないか」
「それで……いいんですか」
 ダスティンがなおも友人のために追い縋る。
「このままじゃリズベットは暗闇の中だ。復讐に囚われていないで、前を向くべきです」
「復讐から解放して、そのあとはどうするの?」
 こてんと無垢な子どものように首を傾げた男にダスティンは今度こそ言葉を失った。
「復讐が非生産的な行為だという初歩をこの子が理解していないとでも?」
 リズベットへの理解が覗いた言葉であるはずだ。なのにこんなにも苦しい原因は何だ。
「君たちの言う通り、復讐は戦争や祭りのように浪費ばかりで何も生まない。でも支え・・にはなれる。支えを奪って、すでに居場所がある君たちはリズベットに何を与えられるの?」
 与えられないだろうと言外に判断されていることに気づかないほど鈍感ではなかった。
「居場所はひとつに対してひとつだ。それ以外のモノが入る余地はなく、代わりも等しく存在しない。居場所がある君たちは彼女を一時受け入れることはできても恒常的な拠り所になることはできない。君が誰よりも証明しているじゃないか。白き魔女を撃ち落とした狩人くん?」
 ダスティンの顔色が一気に青ざめる。
「今から君の心に汚れた畜生が入る隙間はあるかい? 一緒に地獄へ堕ちる覚悟はあるかい?」
 ないだろう? とテノールはやさしく笑う。
「理解もしてくれない、傍にもいてくれない。あまつさえ責任すら取ろうとしない。君らがしているのは自分の好奇心を満たすために、自分が知らないという状況に耐えられないが故に他人の感情を荒らすだけ荒らして。勝手にひとりでスッキリしたら、あとは自分の力で何とか頑張れ、って手放す自己満足だ。――なんだかどこぞの共和国や連邦みたいだねえ」
 的確に嫌なところを突かれ、再び黙ってしまう。嫌悪しながら、その対象と同じ部分を持っていると同類に分別されるのは誰だって嫌だ。時期も相まって最悪に拍車をかける。
「本当に余計なことをしてくれたね」
 澱んだ深更がシンを捉える。
「余計なことってそりゃねえだろ」
 口を挟んで、マイヤー卿の目が細められる。
「余計だよ。やっとリズベットがリズベット・マイヤーではなく、ただの少女として生きていけるはずだったのにその機会を奪ったのだから」
 憎しみ、落胆、失望。
 澱む夜を誰も止められない。
「君たちがリズベットを殺した」
「……もう、十分です」
 くいっとマイヤー卿の袖が弱々しく引っ張られる。記憶よりもボロボロになった指は迷子のように震えていた。 
「寛大だね。知らなかったとはいえ君を散々痛めつけて、そのことに無自覚でいた者たちを庇うなんて」
 いっそ憐れを誘うよと男は家族であるはずの少女をせせら笑う。
「でも君が受けた傷は今彼らが受けた傷と比較して軽んじられていいものでないはずだ。私はそれが許せない。どうして許せるの。傷ついた君には思い知らせる権利があり、彼らには報いがあって然るべきだ」
「お願い、です、もう……もういいんです。だから」
「何がもういいんだい?」
 二人だけの世界で男は少女を詰る。
「そうやって全部諦めて、背負って。私がどんな気持ちだったかわかるかい」
「もうやめてっ!!」
「私には君しかいないのに」
 哀願する喉からヒュッと甲高い音が通り抜けた。
「失ったら痛い。だから失う前に手を打って抗っている。でも君はそれを止めようとしている。君には私しかいないのに、君を殺した御母堂のように・・・・・・・・・・・・私を捨てるのかい?」
 可哀想なリズベット、と頽れた少女に悪魔は囁く。
「君はもうどこにも行けないのに」
「――マイヤー卿」
 これほどまでに彼の登場をありがたがったことはない。そんなことを言ったら失礼だなと返されそうだったが、今この場では事実であった。
「いたいけな青少年たちに説教をするお暇があるとは存じ上げませんでした」
「……先代か」
 異様な空気に現れたヴィレムをマイヤー卿は鬱陶しげに見上げ、余計な道草も経てしまったせいだなあとため息を吐く。
「久々だね。痩せた?」
「貴方ほどではありませんよ。ここはお身体に悪いと思われますので、早急にお帰りになられたら如何です」
「勿論。こんな場所に長居するつもりは毛ほどもないよ」
「彼女はこちらで預からせていただきます」
 細められた目尻がヴィレムの奥底を探る。
「軍にいても今のこの子が役に立つとは私ですら思わないんだけれど、最前線でも血族の尻拭いをしなければならないのは大変だね」
「元凶が賢しらに同情しないでいただきたい。いない貴方にはわからない苦労でしょうが」
「いないから楽だよ」
 微笑を崩すことなく舌戦が繰り広げられる。
「じゃあ営巣に投獄するつもりかい? それとも首都の檻? 後者なら嗜虐趣味もいいところだ」
 今リズベットを首都に戻したとしても、盗聴器騒ぎで白系種への風当たりは更に酷くなっている。得策ではない。
「あなたの傍よりは精神衛生が良好であることは確かです」
「リヒャルトみたいなことを、ってああ……彼は死んだんだっけ」
 男は虚ろな瞳を彼方にやりながら零す。一瞬切ない光が過ぎったのは幻だっただろうか。
「彼は守ったんだね」
 ひとつ頷き、ヴィレムに対峙する。
「リヒャルト・アルトナーに免じて受け入れたいところだが」
 マイヤー卿がリズベットを引っ張り上げる。
「君たちへの信頼は底をついている。もし首都に戻してその間に連邦市民がリズベットに対して危害を加えるなんてことがあったら、本当に君の御家にリズベットを守り通す気概がある?」
 沈黙が落ちる。大人たちに置いてきぼりにされて、子供らは固唾を呑んでその場にいることしかできない。
 最初に動いたのはリズベットだった。
「……頭を冷やしてきます」
「十五分で戻ってきてね」
 頷くとリズベットはライデンたちに背を向けて駆け出した。
「ライデン」
 リズベットのあとを追おうとしたライデンの腕が掴まれる。ダスティンが揺れる瞳を隠すこともなく首を横に振る。
 ダスティンの言わんとしていることは理解している。今の状態で行ってもまともな話ができるとは保証できない。でもライデン自身が一人にさせられないと思った。
 言葉だけなら何でも言える。リズベットに必要なのは行動であった。
 ゆっくりとダスティンの指を解き、リズベットが走っていった方向を追いかける。着の身着のままだったせいで、泥に象られた足跡がリズベットの行く先を示してくれた。
 ヘリポートから遠くないところで、一人白の少女は物陰に蹲っていた。
「一人にして。今来られたら手当たり次第に噛みつく」
 気配から噛みつかれるのは容易に想像できた。だが一人にできないし、苦しんでいるやつを放っておけるほど血も涙もない人間ではない。大事に想う相手だから尚更放っておけるわけがない。今更傷つくことを恐れたりしない。
 何がそんなにリズベットを雁字搦めにしているのか知らなければならなかった。
「大丈夫じゃないだろ」
 ちいさな身体が強ばる。ダスティンが追いかけてきたのだと思ったのだろう。それがすこし悲しかった。
「あの男から逃げろ」
 ダスティンたちとのやり取りはこの際横に置く。ライデンが心配しているのは、突然現れた男とリズベットの関係であった。
 リズベットの身元や安全を保障してくれたのは有難いことだが、それを理由に恩だと振り翳してリズベットを束縛するのは違う。あまつさえ子どもをマスコットとして脅迫の材料にするのは卑怯だ。
 リズベットが幸せでいたら口を挟まなかった。だがあの男の傍にいたらリズベットはずっと蹲ったままだ。
「御恩がある。それにいつもはあんな風じゃない。優しいひとなの」
「でもあれは」
「何も知らないくせに口を出さないでよ!」
 自分を鳥籠に押し留める男をなおも庇うリズベットに怒りが沸点に到達した。
「あのなあッ!!」
「あのひとだけは白系種だとか偏見もなく私に手を差し伸べてくれた、傍にいてくれた、理解してくれたッ!」
 ライデンの荒げた声に動じずリズベットは応戦する。恐怖か、怒りか。それとも悲しみか。叫びに混じった感情がライデンの体を襲う。
「ライデンだってこの女は白ブタだって、全部諦めたでしょう?」
 過去の己がしたことが痛みとして返ってきて、鋭く胸を穿つ。
「それでいいの。だから放っておいて」
「そうやって死ぬつもりか」
 その投げやりな態度に心当たりがあったライデンは問いかける。
 白系種総動員法。あれはリズベット自身も当然含まれている。自分だけ除外することをこの少女は許さない。
「何がお前をそんなものに駆り立てるんだ」
 白系種を厭いながら白系種のように消えることを望んだ。その矛盾の根源がすべての始まりのように思えて仕方がなかった。
「どうしてお前が生きちゃいけねえんだよ!」

「エイティシックスを殺した」

「……は」
 ドンと頭を強打されたような衝撃が、ライデンを襲う。
「それ以外にも何人もこの手で白系種を、――アレクも殺した」
 ひらり。ひらり。放心状態のライデンからゆっくりと距離が広がっていく。その軽やかな足取りは絶死の戦場で笑い、そして散っていった戦友たちのようで。
「だから私は一生許されないし、許さないの」
 晴れやかに微笑み、銀の首輪とともに境界線の向こうへ少女は行く。

「幸せになんて――なりたくない」


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