22

 ガードレールに行儀悪く腰をかけ、ようやく日常と手に馴染んできた端末に画面を開いては消したりを繰り返す。思わず口から零れた息が白ばんで透き通った夕泥みへ登っていった。
 待ち合わせの時間はもう間もなく。どこかのカフェなどで一服するまでもないわずかな早さで到着してしまったせいで、帰宅していく勤め人たちから不躾な視線がいくつか寄越されていく。
「ライデン」
 規則的なヒールの音に伏せていた視線を上げる。そうすれば久方ぶりに見るかんばせが目の前に現れて、腰が自然と浮いた。
 白い息を吐く頬は寒さのせいか赤く染まっている。けれども最後に顔を合わせたときよりずっと健康的になった。革のバッグストラップを握る黒グローブは左手はもちろんのこと右手にも鎮座していて、もどかしかったはずの日々が懐かしく思い出された。

『距離を置きたい』
 赤ん坊との関係を見直した日から数日後、電話口でそう伝えてきた声は震えていた。
『俺は邪魔か?』
『っ、違う……!』
 リズベットの悲鳴にも似た声を聞いて、自分が狡い言い方をしたことに自嘲が遅れて零れる。
『ライデンの顔を見たらきっと甘えて、依存してしまう』
 自分勝手でごめんなさいと謝るリズベットの声を聞きながら、場違いにもライデンは胸を撫で下ろしていた。
 唐突の提案に多少なりとも動揺はあった。それでも非難めいた言葉が出てこなかった理由は、兎にも角にもリズベットからまともになる一歩を踏み出せたからだった。
 少し前の自分の目は確かだったと誇らしさにも似た感情が沸く。本来のリズベットは自分の力で立ち上がる力を持っているのだ。
 メールで連絡する選択肢もあっただろうに、リズベットはわざわざ逃げられない電話を選んだ。第二次大攻勢直後のリズベットであったら音信不通になっていてもおかしくない。まだ繋がりを保っていたいと無意識にでも思っていてくれているに違いない。そこまで考えて、あまりのポジティブ思考に苦笑いが出てくる。
 一方で寂しく思っている事実から目を背けられない。しかしこれまで構いすぎている自覚があったので、ライデンもリズベットの提案を受け入れることにした。

 そうして連絡が絶え、冬は無情にも深まり。いつになるやらと端末をあてもなく触る癖も薄まった矢先、リズベットから連絡があった。それも夕飯を一緒に食べようという誘いだったから、何故かメールだったその連絡に面食らいながら素早く返信したのが一週間前。
「待たせてしまってごめんなさい」
「そんなに待ってねえよ」
「……嘘つき」
「ん?」
 なんでもない、と白銀が横に舞う。刹那、銀色のピアスが垣間見えた。
「では行きましょうか」
「店はどこなんだ」
「この通りを真っ直ぐ行ったら――」
 背中にちらほら刺さる視線を無視して、聖誕祭の装いに勤しむ街中を通り抜けていく。
 目的地は帝国時代から受け継がれる、連邦の家庭料理をメインに扱うレストランだった。ドアベルをくぐるとそこは木の温かみに包まれており、知らず入っていた肩の力が抜けていく柔らかさそのものであった。
「いつもの奥で大丈夫ですか?」
「はい」
 開店直後にもかかわらず、店内はそれなりに客で賑わっている。奥まったボックス席がリズベットの定位置のようだ。
 店を一望できるボックス席に案内され、コートを脱ぎ終わると水と手拭きが置かれる。その瞬間、店員がライデンを一瞥する。何事かと眉を顰めるライデンに意味ありげな視線だけを残して店員は戻っていった。
 一体何だったんだとメニュー表に目を落とすと、訝しげな色を孕んだ視線とぶつかった。どうかしたと尋ねる前に逸らされてしまう。雪深い森の中、一瞬だけ尻尾を見せて煙に巻く狐のようだ。
「お前といて、後ろめたいことなんて一つもねえ」
 それを逃す今のライデンではなかった。
 案の定、薄い肩がビクリと揺れる。無意識に強く握った細い指にさらに力が入る。
「どんだけ気にしようがお前の都合のいい言い訳にはなってやんないからな」
〈レギオン〉戦争末期において、エイティシックスたちは連邦から人類の敵アークエネミーとされた。ライデンは第一次大攻勢前に連邦に保護されているため、他のエイティシックスたちより顔も割れている。首都に戻ってきたライデンたちに刺さったのは罪悪感と自己弁護の視線。
 見当違いの慰めかもしれない。けれどもリズベットの一挙手一投足を逃していない、というアピールにはなる。
「……ふふっ」
 ぱちくりと睫毛を瞬かせるだけだったリズベットはふんすと鼻を鳴らしたライデンを見て、華奢な指先で口元を覆う。その笑みの零し方が初めて見た笑顔と重なった。
「? どうかしましたか」
「いんや?」
 少しでも前を向けたのならそれで構わない。淡く緩む表情筋をメニュー表に向けながら、世間話を続ける。
「ここにはよく来んのか」
「はい。同僚の方々と」
 なるほど、と店員のあの表情の原因をライデンはなんとなく察した。おそらくいつも来る同僚の中にリズベットに懸想している男がいるのだろう。あの瞳はここにいない他者オトコを憐れむ色を孕んでいた。
「オススメは?」
 顎に手を当てて少し思考を回したあと、黒グローブがメニューを捲る。
「ライデンのお腹を満たすならこのグラタンのディナーセットです。実際のお皿は写真より大きくて、具もたくさん入っています。バゲットもおかわり無料です」
「じゃあそれにする。お前は」
「悩んでいます」
 真剣にフィルム越しに睨み始める。その姿は記憶にない幼さすら思い起こされた。
「ミネストローネ。選ばねえのか」
 驚きで白瑪瑙がめいっぱい見開かれたので、声なき問いに答えてやる。
「好物だってお前から聞いた」
「……そんなところまで私は話していたんですね」
 一つ瞬きを落とし、リズベットはスタッフを呼ぶ。先程のスタッフは別の客に接客中であったため、別のスタッフが注文を取ってくれた。
「我儘に付き合わせてごめんなさい」
 グラスに口をつけたリズベットが切り出す。
「そこはありがとうって言ってもらったほうがいい」
「……ありがとう」
 ぎこちなくもリズベットは素直に感謝を述べる。それで力が少し抜けたようだ。
「仕事は前のとこか」
「はい。猫の手も借りたいとのことで雑務を一手に引き受けています」
 謙遜もいっそ過ぎれば嫌味、とはこのことかとライデンは苦笑いを頬杖に乗せた。
 元々リズベットの職場復帰を求める声は、ライデンがリズベットのもとを足繁く通っていた頃からちらほらとあった。マイヤー卿曰く、連邦が戦場を切り離した直後から共和国に戻らないよう周囲が画策していたそうだ。
 エルンストも退陣し、影響力のある後ろ盾もまったくない状況。ライデンと喧嘩別れした後、それまで屋敷で引き篭っていたリズベットは八六区の再来にマイヤー卿のツテをこれでもかと捩じ込んで末席を掴み取った。
『もう二度と君たちから奪わせない、って随分と怒ってたよ』
 あの頃、何も出来なかった自分を許さないように。
 迎えに行ったときにリズベットへ向けられていた視線の正体はその名残かもしれないなと納得が行く。戦争終結後になるべく軍部の影響を減らそうとしていた文官らは結束が固い。連邦をより良い国家にしよう、再びの地獄にしてなるものかという奮闘の前に共和国出身というのは良くも悪くも関係がなかった。
 リズベットの仕事ぶりを味わっていた者だったら、リズベットの性格も多少なりとも把握していたのかもしれない。猫の手も借りたいというのは、自己肯定感の低いリズベットに気を負わせないためか。
「記憶がないから逆に手を煩わせるだけだとお断りしていたのですが、いざやってみると多少なりとも身体が覚えていてくれるものですね」
 最後に会ったときより周囲に馴染めているリズベットの近況に安堵が胸を満たす。
「そんで、今まで何してたんだ?」
 ずっと仕事をしていたわけでもなかろう。でなければライデンと距離を置いてまで、わざわざリズベットがしたかったことの理由がつかない。
「もっと他の人たちとの関わるべきではないかと、模索していました」
 だから前の職場に復帰しようと考えたのかと合点が行く。
「どうだった」
「難しい、というのが本音です。こっちにその気はなくても怒っているように取られる出来事なんてザラでしたし、人によってベストなりベターな答えが変わるのは大変でした」
 コミュニケーションは相手に深浅関係なく踏み込まなければならない。距離間のチューニングが一寸でも狂うと暴力的な不協和音として跳ね返ってくる。
「本当に世間知らずで、そのくせすべてを知った気になってました。どうせ人間なんて、こんなものだろうと」
 それはとても傲慢で、失礼だったと思い知らされたと語る。その口調は角もとれて穏やかだ。
 共和国で揉まれてきたのだから半ば仕方がないとも思う。周りが大人で、マトモだから真面目なリズベットは余計に痛感しているのかもしれない。
「全部アレクに任せっきりだったと猛省しました」
 その名前を久々に耳にし、視線がリズベットに固定される。
「アレクは言葉を柔らかくしてくれた。ライデンは私のことを察してくれる。誰かの善意を前提に行動することは依存で、つまりは搾取です」
 一理あるわな、とリズベットの言葉に相槌を打つ。依存させることについて考えなかったことはない。甘やかした先に待つ果てでリズベットが苦しんだら本末転倒である。それにもし自分がいなくなったあと、あんなに傷ついたリズベットを世間に放り出すのかと想像するだけで肺と足元が氷漬けになったような気分になる。そう判断したから、離れたいと振り絞ったリズベットの提案を受け入れたのだ。
「それではいけないと自分なりに柔らかく、かつ的確に言葉を転がす日々です。……ライデンの方はどうでしたか?」
「特に変わりはねえなあ。整備の仕事やって、戦災孤児の面倒見てるばあちゃんの手伝いに時たま行って――」
「え」
 驚きで口が開いたままのリズベットに、自分がした失態に気づく。
 口をついた言葉は戻らない。だけれども狼狽する理由もないので、ライデンは包み隠さず伝えた。
「ばあちゃんは生きてる。ついでにお前が目を覚ましたことも、記憶がないことも知ってる」
 左手の黒いグローブが顔を覆い隠す。シデンと別れたときが最後の記憶になっているのなら青天の霹靂であろう。
「お待たせしましたー」
 空気を読まずに頼んでいた食事たちが湯気を伴って二人の間に運ばれてくる。
「ほらよ」
 水の紗幕の脇をすり抜けてスプーンを渡す。
「いただきます」
 戸惑いからいまだ抜けられないながらも食事に手を出す。カトラリーを扱うその所作に育ちの良さが浮かんでいて、ライデンも料理に合掌し、胡椒香るクリームの海にスプーンを差し込んだ。
「うっま」
「よかった」
 我がことのように喜んで、リズベットは頬を緩める。
「連れてきてくれた方が言っていました。ここの味を共有したいひとができたら連れてくるようにしている、と」
 その共有したい気持ちが男女の機微であることと、ライデンをここに連れてきた意味にどんな顔をすればいいのかわからなくなる。取り敢えず墓場まで持っていくことを選んだ。
「ライデン」
 名を呼ばれ、グラタンに落としていた視線を上げる。
「ついてますよ」
 リズベットが指差す場所を拭うけれど取れていないようで、痺れを切らした細い指が伸ばされる。その繊手をたまらず掴んだ。
「場所はわかった、自分で取る。……はずい」
「そう、ですよね……」
 ゆっくりと今にも折ってしまいそうな手首から手を離す。慣れないことをしようとしたリズベットと、どちらかと言うと拭う側だったライデン。二人とも顔は朱に染まっていて、結局ぎこちない空気は食後のコーヒーが来るまで続いた。
「お祖母様は元気ですか」
 コーヒーの湯気の色が薄くなったところでリズベットが話しかけてきた。
「元気だよ。殺しても死なねえくらい……いや、最近はやっぱり歳で衰えてんな」
 ライデンが匿われていた頃のガキどもを一クラス分以上は自在にまとめていたのが、今ではその半分で他人の手を必要としていた。あの人に頼らない老婦人が、だ。
 押し黙ったリズベットに、だから会えとは強制してないと手のひらを横に振る。
「記憶失くしてる期間に再会して、そんときにばあちゃんと大喧嘩してたって聞いてる。また口きかなくなられるのも嫌だろ、って」
 目が覚めた当時のリズベットとまともな対話ができるとは想像しづらかった。きっとまた複雑な再会になる。電話越しで喜びと悲しみを綯い交ぜにした声も、今は会えないと零していた。
「私は一体どこまでライデンに話して――……」
 一口含んで、ティーカップがソーサーに腰を下ろされる。
「あなたと出会った私はどんな人間でしたか」
 凛とした、高くも低くもない声が陶器と金属がぶつかるBGMの間を貫く。
 わずかに揺れる瞳がライデンを捉える。本当は怖くて、でも知ることで傷つく覚悟があった。
 悪意のペンキを被りながらも混ざらなかった強さが目の前に戻っていた。
「頑固」
 退紅に彩られた唇が一段とつよく引き結ばれる。
「誰の手も借りない、誰のことも信頼していない。自分を大事にしない」
 見ていてハラハラする。理不尽が蔓延する世間を澄んだ姿で闊歩し、膿んでいる内面は見せようともしない。張り詰めた気高さに惹かれる者もいれば、その眩さを厭う者もいた。
「無愛想だからすぐ誤解される」
 しかも誤解を受け入れていたから許せなかった。明らかに手助けが必要な姿なのに当の本人が拒絶するから殊更である。それが鏡写しだと自覚したのは後のことだ。
「でもちゃんと関われば無機質な人間じゃないって気づいた」
 他者の意見を聞き入れるしなやかさもたしかにあって、されど自分の芯は失わないままでいた。
「無感情じゃねえのはすぐわかったよ。意外と隙もあったしな」
 ストラップをつけていることを指摘されて慌てたあの姿は今でも鮮明に思い出せる。リズベットと関わったなかで数少ない珍事であった。
「だから昔のお前を覚えてない自分が悔しかった」
 過去はどうにもならない。けれどそんなこともあったと、わずかな欠片を宝石みたいに大事に笑い合いたかった。
「……覚えていないなくて当然です。だってあの頃の私は――」
 絞り出し、はたと口を噤む。しばらく逡巡して、色と影が落ちた顔は答える。
「今と全然違いましたから」
「性格が?」
「――……」
 冗談が冗談でなくなった。無理に口を割らせる前に、と口を開いたライデンをリズベットの困った笑みが制止した。
髪が黒だったもの・・・・・・・・
 瞬きと呼吸の仕方を忘れた。
「もちろんカツラです。みんなの目に触れる場所では黒、街中で買い物をするときは地毛の銀でいました」
 滑稽ですよね、と皮肉げに細い肩をすくめる。
「あなたたちの真似をしたって、あなたたちの輪には入れないのに」
「そのことを俺たちは」
「薄々気づいていましたよ」
 僅かな違和感を子供が興味を持たないわけがない。
「傷つけてただろ」
 あの老婦人のことだから、エイティシックスのコミュニティに白系種の子供が混じっていたらリンチに遭う可能性くらい想像していたはずだ。
 心無い言葉を投げかけたかもしれない。行き場のない感情の矛先に立たせていたかもしれない。幼かったから、という言い訳は不要だ。
「その一言だけで十分です」
 遠く寂しい、静謐の冬を想起させる笑みが落ちる。リズベットと呼ぼうとして、喉に蓋をする。何故かその名前を呼ぶことが違う気がしたのだ。
「ベティ」
「……それも私から?」
「ばあちゃんから聞いた」
 安堵したような、寂しそうな表情。リズベットはいつもこの感情を覗かせる。そしてライデンも踏み込むだけの言葉が足らず、話の裾を拡げることを選ぶのだった。
「リズって呼ばせてたのはアレクと、ダスティンだけか」
「ええ。アレクとダスティンに出会った頃、もう随分と諦めていました。なら、と取るに足らない自己満足を叶えただけです」
 御手洗に行ってきますねと、リズベットが席を離れる。
 この話におけるこれ以上の詮索は今やんわりと避けられた。とみに空白を埋めるのは悪手だとリズベットとのコミュニケーションで経験している。
 気は長くはない。けれどリズベットに関しては気が長くいたかった。
 ふーっと息を吐いて、ライデンは背中の筋肉を伸ばす。緊張で身体が凝り固まっていた。よいしょと立ち上がり軽い運動をする。
 ほどなくしてリズベットが戻ってきた。そして何かに気づくなり眉間に思いっきり皺を寄せる。賢い人間は察するのも速い。
 机の上に置いてあったレシートホルダーがなくなっている。リズベットが席を外したタイミングでライデンが払いに行ったのだ。ちなみにこのボックス席からレジは死角になる。たとえリズベットが戻ってきてしまったとしても、その現場は見つからない。
「俺が払いたかった。そんだけだ」
 悪びれもせずホールドアップするライデンに、真一文字に退紅が引き結ばれる。納得のいかない表情は美人のせいで迫力を増す。
「いけません。私が今回誘ったんですよ」
 言い方まで彼女の祖母に似ていて、若干気持ちが折れそうになったのはご愛嬌だ。
「次行くときに持ってくれ。それでトントンだろ」
 次という単語に柳眉が露骨に反応する。
「次が、あるの」
「ああ」
 終わらせようとする雰囲気を明確な言葉で伝えずに意地汚く繋げようとしている。リズベットから言葉にされていないからと言い訳をして。
「さっむ」
 リズベットからの答えを聞くこともなく店を出れば、冷たく乾いた風が二人の間を吹き抜ける。
「これからまだ時間あるか」
「まあ、はい」
 通り過ぎた車のヘッドライトが素雪の瞳を照らす。
「じゃあちょっと付き合ってくれ」
 赤と白、緑と金にあちこちが彩られ、クリスマスソングが流れる店内をカートで押していく。リズベットは自分で持ちたがるだろうと先読みして、カートに二つカゴを載せたのが幸いしてライデンのあとをついてきてくれた。
「行きつけのとこじゃなくて本当によかったか」
「系列店ですから大丈夫ですよ。寧ろいつも行くところより大きいです」
 ライデンにとって見慣れた陳列棚をリズベットは物珍しく観察していく。興味津々なその姿は〈レギンレイヴ〉をはじめて目の当たりにしたときの表情の片鱗があった。
 咄嗟に口をついた理由は買い出しに付き合わせることだった。ディナーの後にスーパーなんて情緒がない。けれどもリズベットも冷蔵庫の備品と明日のパンを買い足したいとのことでついて来てくれた。
「今左に持ってる会社のほうが安いけど、右のほうが美味かった」
「……参考にします」
 右に持っていたレトルト調味料をカートの下に置いていた籠に入れる。
「マイヤーのおっさんのところはいつ出てくんだ」
 買い物の中身を見ていれば一人暮らし用ではないことは明らかだった。
「……わかりません。甘やかされている場所から出ていかなければならないと理解していますが、踏ん切りが、まだ」
「一緒に抱えてくれてる人間から離れるのは難しいからな」
「え……」
「だから妬く。共犯者になれているあのおっさんに」
 このひとならば抱えてくれると、マイヤー卿は甘えられている。ライデンの今の姿を見て、きっとあの食えない中年はどこか遠く、生温かい目をするのだろう。
「面白くない、話ですよ」
「面白い面白くないは関係ねえよ」
「胸糞悪くなるかも」
「それでお前を見る目は変わらない」
「でも話しても、変わらなくて」
「何かが変わるのを期待してるのか」
 痛いところを突かれたようにリズベットは顔を顰める。
「過去は変わらない。それはお前が言ってたことだ。過去は変わらなくても、今の自分の気持ちは楽になる」
 ただでさえ背負いこむのだから定期的に吐き出していないと簡単に許容量を超過してしまう。だからリズベットは記憶を失くしたのかもしれなかった。
「マイヤー卿でも、他の男でもなく俺に言ってほしい。一番先に頼られる存在でいたい」
 それが何を意味しているか、リズベットにもわかるように見つめる。
「……明日のパン、探してくる」
 どれくらい時間が経ったのだろう。そう零してリズベットは他のコーナーへ消えてしまった。
 残されたライデンはやっちまったなとカートに凭れる。シンにも注意されたというのにどうしても一気に詰めようとしてしまう。境界線が段々と曖昧になって、もしたしたら許してくれるかもしれないと調子に乗ってしまう。
「ライデン?」
 その嗄れたアルトボイスに振り向けば、褐色の肌に映える白銀と藍色の瞳があって。
 聖夜前の波乱は二人の知らぬ間にすぐそこまで来ていた。


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