7

 土砂災害が落ち着いて三日経った夜、兵舎の入口で荷物と一緒に佇んでいる人影を見つける。手に余るほどの荷物、という比喩は適当ではない。実際手に余っていて、足元には本や書類、ファイルにバインダーと整然と突っ込まれた木箱が二つも置かれていた。
 ひとつ息を吐き、何かを決心するように一歩踏み出したその影にライデンは思わず声をかけていた。
「マイヤー」
 茜色のサテンが夜闇に淡く翻る。こちらを振り返った白銀の瞳は月のわずかな光を反射させ、ヴィレムの言う通り、蒼い夜には眩しい輝きを放っていた。
「シュガ中尉」
「こっちに移動か」
「……この前の一件でオンボロ官舎に住んでいることがヴェンツェル大佐に露見して」
 ああとライデンは明後日の方向に零す。この少女がグレーテに問い詰められている場面が想像できてしまった。ライデンは足元に置かれている木箱たちに目線をやる。
 特士校みたいに寮監などがいれば手伝ってくれただろうが、基地の兵舎には常駐していない。郵便物も事務方が仕分けて渡してくれるし、規律もみだりに破る馬鹿もいない。人件費も抑えたいことから寝泊まりするだけの舎の管理をする人間を上層部が置くこともない。
 つまり、仕事で手を貸してくれる人間すらいないのだ。
「それ代わるか」
 生憎兵舎にエレベーターといった上等な機器は設置されていない。トランクケースを手首にかけたリズベットの両腕には白い布に覆われた箱らしきものが抱えられていて、ライデンの瞳にはその箱がリズベットのすることすべてを妨げているように映った。
 と、提案してから手伝おうと遠回しながらも自分の口から滑り出たことに驚く。言われた側であるリズベットも目を丸くしてライデンを見返していた。
「……これよりも他のを持っていただけたら助かります」
 ようやく言葉が落ち、やんわりと遠回しに断られる。断られたことに安堵し、前より素直に頼ってきたことは進歩だろうとそれなりに重かった木箱を二つ重ねて持ち上げた。
 歩調に合わせてガチャガチャとライデンの持った箱から音が奏でられる。ちらりと視線を下に向ければ、写真立てがいくつか伏せられていた。あのペンダントは直ったのだろうかと数歩前を行く白銀の頭を見下ろす。だが疑問は湧くだけで、雑談を交わすこともなく二人は黙々と冷えた空気を進んだ。
 階段を二階まで登りきって、廊下の突き当たり奥の部屋に辿り着く。重量のある箱を抱えながらリズベットが片手で器用にドアを開くと、殺風景な部屋が待っていた。そのくせ埃は深く被っていない。前に誰かが使っていたか、ご丁寧に掃除されたか。とにかくこれ以上何かをしなければならない手間は要らないようだ。
「ありがとうございます」
 木箱を邪魔にならないところに置くと、リズベットが頭を下げた。首都でリズベットを助けたときと同じ光景に一瞬だけ身構えてしまった。もうあれから数ヶ月は経っていて忘れていてもいいのに、どうやらあの出来事はそれほど自分の中である種の傷になっていたようだ。
「他の機甲グループに話を回してくれたと聞きました」
 連合王国へ行く直前、引き継いだ他の戦隊長に土嚢を始めとした備蓄が足りないから気が向いたら土嚢を作っておいてくれと頼んでおいた。シオンらは気が向いたらねと言っていたが、結局手伝ってくれたのだ。
「助かりました」
「……別に」
 礼を受け取るのは慣れていた。慣れていると思っていた。がしかしこのリズベットからもらう言葉だけは何故かむず痒く、素っ気ない返事をしてしまう。
「荷物はこれだけか」
「はい。明日の朝一にはここを出るので、一部は置きっぱなしになってしまうのが心苦しいですが」
 今日の昼に基地と隣町を繋ぐ橋の復旧が済んだ。復旧するまで待機を命じられていたリズベットが戻るのは自然のことだ。
「ヴェンツェル大佐が関わってるなら誰か使えって言われてないのか。それこそダスティンとかアンジュに」
「……邪魔したくなかったので」
 ふいと翳る声にああ……と察する。おおよそダスティンがアンジュといるところを見たのだろう。
 連合王国での戦闘の最中に進展があった二人。彼らの間に流れる何かを見れば冷やかそうという意欲がなければ割り込むことはできまい。真面目な人間であればその兆候は強くなる。たとえばリズベットのような人間は特に。
「前に進んでいるひとを縛り付けるなんてダメでしょう」
「それは違うだろ」
 なんてライデンの予想の上を軽く超える答えに語気が鋭くなった。
「お前はアイツの何を見てきたんだ」
 リズベットとダスティンがどれだけ仲がいいのか知らないけれど、ダスティンがどういう性格をしているかはライデンもそれなりに知っているつもりだ。今まで深く関わってきた人間を簡単に放り出したり、ぞんざいに扱うやつではない。
 そうやって相手と自分を天秤にかけて、いつも自分一人が何とかすればいいと思っている。そいつにとっては楽なんだろうが我慢させているのと同義で、見せられているこっちは堪ったものではない。
「そもそもあいつは縛り付けられるようなタマじゃねえよ」
「――……人は容易く変わりますよ」
「あ?」
「いえ。確かにダスティンはそういう人間ではありませんね。忘れてください」
 ではと半ば強制的に話を切り上げてリズベットが部屋に引っ込もうとした瞬間、盛大に腹の虫が人気のない廊下に鳴り響いた。
「……」
「……」
 ライデンはすでに戦友たちと夕食を済ましてあるので鳴るわけがない。どうせこんな時間まで仕事をしていたのだろうと微動だにしない背中を見やる。
「早く行かないと食堂閉まるぞ」
「え」
 その投げかけた問いに、リズベットが信じられないと眉を寄せる。
「食堂、使っていいんですか」
 今まで使ってなかったのかと問えば、軍属しか使ってはいけないものだと思っていたと返される。
「これまで飯はどうしてたんだよ」
「首都で買い込んだ栄養食品などを仕事の合間に。夜も同じようにしていて、ってシュガ中尉っ?」
 四の五の言わず細腕を掴み、引き摺るように引っ張っていく。二人でいたところを見られたとしてもやましいことはないのに途中で知り合いに会わなければいいと祈った。
「すんません」
「お? どうした、っと」
 この時間ならギリギリかと食堂に踏み入れば、明日の仕込みのためか給仕長と若い(と言っても自分よりも年上である)給養員が残っていた。自分たちを視界に入れると、ぴくりと彼らの瞳の奥に強張りがチラついた。それが驚きなのか嫌悪から来るものなのか、ライデンに細い緊張が走る。
「白系種の嬢ちゃんもいんのか! よかった!」
 だが緊張とは裏腹の歓迎を受け、ライデンは面食らってしまった。
「ボイラーに異変でもありましたか」
 しかもリズベットもリズベットで身を引く気配を消し、意識を仕事へと切り替えするりとカウンターへと近寄った。
「ボイラーは取り寄せてくれた部品と嬢ちゃんの調整で調子いいよ。じゃなくて、この前のお礼をしたいんだよ。好きな食べ物があったら今日はそれ作ってやるからさ」
 若い給養員の言葉に我に返る。絶好の巡り合わせだ。
「コイツちゃんと飯食ってないみたいだから食わせてやってください」
「違っ」
「それはダメだ! 成長期なんだからちゃんと食わないとダメだ! で、好きな料理は? デザート類言ったら毎日声掛けるぞ」
 遠慮しいリズベットにとってこの提案は外堀を埋められる気分に違いない。
「お礼なんてそんな。私は仕事をしただけで」
「その仕事で何人も助かったんだ」
 人懐っこい笑みを浮かべる若い男と対照的に、リズベットは往生際悪く視線をいまだ彷徨わせる。
「コイツはまだまだ下っ端で料理を皆に出せていない」
 嗄れた声が一石を投じる。気難しそうな職人気質の風貌がじろりとこちらに視線を流していた。
「その練習に付き合うと思ってくれ」
 食材は余ったやつだから作れるもの限られるけど、と提案した手前条件をつけたことに罪悪感があるのか申し訳なさそうに給養員の男は頬を指先で掻いた。
「……ミ」
「ミ?」
「ミネストローネ、が好き、です」
 子供っぽい好みなのが恥ずかしいのか目を合わさないリズベットに、男がふわりと微笑む。
「具は? 汁の比重が多かった?」
「具の方が多かった、です。……キャベツとか、ジャガイモとか。ニンジンもありましたし、タマネギも。あとはウィンナーだったり、なかったらベーコンを代わりにするとか。マカロニ、も特別な日に」
「なかなか具沢山だねえ。大豆とか入れなかった?」
「昔祖母が入れてくれました」
「了解。中尉も味見してくれ」
「……一口だけなら」
 近くの椅子を引っ張ってリズベットの左隣に座る。
 リズベットの説明からレーナのように裕福な地区出身のようだ。共和国は土地が肥沃とは到底言えない。国民に食糧が満足に行き渡らず、強制収容なんていうふざけたものが始まってしまった原因の一つだ。それが恒常的かは置いておいて、供給されていたことがあったのならそれなりに土地がある場所に住んでいたのだろう。
 蛇口から流れた水がシンクを叩き、包丁がまな板と軽快にぶつかる。ガスの爆ぜる音が跳ね、しばらくして熱い金属の上に水分を含んだものが滑った。
 調理場とカウンターの間に壁が聳えているかのように二人は喋らなかった。リズベットはちらちらと調理場を気にしているが、ライデンはとにかく気まずかった。出会って間もない、しかも小競り合いをした人間と無音の空間を共有する。暇を埋めてくれる手慰みになるようなものは食堂に置かれていない。
「お前のばあちゃんってどんな感じ」
 沈黙が我慢できなかったからと、振った最初の話題がパーソナルなものだったのはどうなのかと我ながらセンスを疑った。
「……何故」
「……ばあちゃんの話ばっかだから」
「……早くに亡くなった二親の代わりに育ててもらいました」
 意外にもリズベットは怪訝そうながらも答えてくれて、ぽつりぽつりと晴れたあとに雨だれが落ちるようにゆっくりと話をしてくれた。話に出てくる祖母は母方で、父方の祖母は体が弱くてこれまたリズベットが幼い頃に死んでしまったそうだ。
「元教師でとても厳しかったです。でもその分、高等学校まで出させてもらうくらい仕込んでくれたので感謝しています」
 リズベットの表情に影が差す。大攻勢が頭をよぎったのだろう。育ててくれた祖母とはよほど運が良くなければ二度と会うことはない。
 しかし、とリズベットを横目で観察する。髪型も背格好も違うのに誰かを思い出す。その特定の誰かを思い出せないにも関わらずだ。
 遡れる限り強制収容所に連れて行かれるまでの自分の人生で関わった白系種はあの老婦人だけだ。同世代の白系種を見たことがあるのか。思い出そうという努力をしてこなかったから頭の霧中に手を伸ばすのは躊躇われた。
「役人になったのは怪我のせいか」
 一瞥を入れられたけれど話を変えたことに何か言及されることはなかった。
 言っちゃあ悪いが役人は後方支援だ。ダスティンみたいに軍人として志願しなかった理由は気になると言えば気になる。
 怪我をしていると嘘をついていることには触れないでおく。どうして知っているのかの話になるからだ。まさか明け方の密会を盗み聞きしていたなんて正直に説明したら面倒くさい。
「怪我をしたのは役人になろうと決めたあとの出来事です。……元々軍で根本的に何も解決できないと見切りをつけていましたから」
 共和国軍がどんな場所だったかはお互いよく知っている。
「失業対策の掃き溜めで何か吠えても変わらない。ハンドラーになっても結局彼らを潰しているのと変わらない。ならどうしたら連れて行かれた幼馴染みたちみたいな人を戦争に向かわせずに済むだろうと。結局ぬるま湯で浸かってた白系種の空論でしたが」
 自傷とも言えるような結論を少女は吐き出す。それは拾い逃しそうになるほど淡々としていた。
「ほい」
 タイミングよく出来上がったミネストローネが目の前に置かれる。コショウの刺激が湯気に乗って鼻腔をくすぐり、すでに満たされていたライデンの胃もいい香りに釣られて復活した。
 だがリズベットはなかなか手をつけようとしなかった。
「どうした? 毒は入れてねえぞ」
「……その」
「冷める前に食え」
 給仕長の有無を言わせぬ一声で慌てて手を合わせる。
「いただきます」
 作った者と、命となるものへの挨拶が響き、一口運ばれる。
「美味い」
「そう言ってもらえて嬉しいよ」
 横ではリズベットが珍しくあどけない表情でスプーンを宙で止めていた。
「タバスコ……?」
「苦手だったか」
 首を横に振ると、リズベットはスープボウルの中身を勢いよく掻き込む。どうやら好きな組み合わせだったみたいで、作った給養員は嬉しそうに頷いていた。
 ごちそうさまでしたと手を合わしたあと、長居するわけにもいかないので食堂をあとにする。
「また来てくれよ」
 陽気に手を振ってくれた給養員に一揖して――リズベットが足を止めた。
「どうして」
「ん?」
「どうしてお二方は私を無下にしなかったんですか」
 白喪の瞳はわずかに細められていて、迷子のような不安まじりの警戒心が見え隠れしていた。
「んー……そうだなあ」
 と、男は斜め上を仰ぐ。
「たしかにひっでえことしやがるやつもいるんだなって正直いい気分はしなかった。もしかしたら共和国で本当にひどいことをしてたかもしんない。でもあの日、誰よりも動いていたアンタを知っている。だから俺の見たアンタで判断するよ。だって人間は変われるものだし、第一アンタ真面目すぎて嘘つけなさそう」
「……」
 黙るのは嘘がつけないと言っているようなものだ。嘘つきは誤魔化したり、はぐらかしたりする。表情の変化は乏しいが、リズベットの感情の機微はわかりやすかった。
「嬢ちゃん」
 見守っていた給仕長が離れたところから口を開く。
「こいつは若いから単純に変えるけど世の中そんな甘っちょろくない。アンタを見る目はこれから先も緩和することはあってもなくならないだろうよ」
「給仕長」
 鋭い諫みが若い男から飛ぶ。
「相手は子供ですよ。いくらなんでも言い方ってもんが」
「いえ。構いません」
 上司を勇敢にも咎めた給養員とは反対に、リズベットはすべて受け入れるがごとく真っ直ぐ給仕長を見返す。
「俺の前で腹空かせてるガキがいたから放っておけなかった。そんだけだ」
 
 荷物を運びこんだ兵舎の入口までリズベットを送る。さすがに部屋まで送るのは躊躇われた。見られたら怪しまれるし揶揄われるに決まっている。幸いなことに、この瞬間まで顔見知りとは遭遇していない。
 グローブが嵌められた左手にはリンゴが握られていた。食堂から出る間際にもらっていたものだ。大方プレートに刻まれたやつらへの供え物だろう。
「遅くなるなよ。今から行くんだろどうせ」
「……」
 バツが悪そうに逸らされたあと、そっと瞳が見逃してほしいと訴えてくる。
「止めねえよ。けど勝手に黄昏れて風邪ひかれたら周りに迷惑かかるからほどほどにしとけ」
「……前も思いましたけどお母さんみたいですね」
「うっせえ」
 ひどく棘のある言葉になってしまった。だがリズベットは気を悪くした様子はなく、夜と同化しそうな静けさをまとっていた。
「おやすみなさい」
 そう紡いだリズベットの声がやさしいものに聞こえた。
「随分と仲良くしているようだな」
「っ!」
 突如耳元で囁かれ、反射で距離をとる。敵意は感じられなかったこと、聞き慣れた声であったことから攻撃体勢は取らなかった。
 切れ長の目に、端整な顔立ち。落ち着いた表情と起伏のない声音が実年齢よりも深い印象を与える。夜黒種はどいつもこいつも足音を立てないのが趣味なのかと、ライデンは目の前の男を睨みつける。
「なんの用ですか。参謀長」
 ライデンより階級が五つ上のヴィレムを無遠慮に睨んでも彼が何も言わないのは、軍規に関わらない反抗的な態度を取ってもヴィレムにとっては子供の甘噛みにしか捉えないからだ。
「特に用という用はないが、しいて言えばマイヤー事務官と仲良くしているのが面白そうだと思ったからだな」
 足音も含めて、人を揶揄うのはこの男の趣味だなと結論づけた。
「仲良くないですよ。むしろそっちのほうが仲良いでしょう」
「何の事だ」
 しらばっくれるなと胸中で詰る。自分よりヴィレムのほうがリズベットに近いことはあの日知った。
 ヴィレムの黒々とした瞳がライデンを探る。
 感情を覆い隠す漆黒。副官からの報告で、あの日盗み聞きしてしまったことは知っているはずだ。
「まあいい。あまり弄んでやるなよ。純粋な少女が可哀想だ」
「んなことしてねえって!」
 柳のように流されると知っていて噛みつかずにはいられなかった。案の定、ヴィレムはすでに用は済んだとばかりにライデンから離れたところへ歩を進めていた。
 一体何だったんだと過ぎ去った嵐にガクリと肩を落とし、疲弊した身体を休めるためライデンは自室へともう一度足を踏み出した。

 □□□

 今にも鼻歌を歌い出しそうな主の半歩後ろをついて行く。機嫌がよい原因はあの白の少女と、この間自分が脅した黒鉄の少年だった。
「純粋、か」
 下々の者を先導するために己の感情を表に出さないよう、幼少期から訓練されてきた主が喉を鳴らす。副官である青年はリズベット・マイヤーという少女を純粋だと主が評したとき、アレは純粋と呼ぶものなのだと腑に落ちた。
 初めて彼女を見たとき、痛々しいという単語が副官の脳裏に浮かんだ。そしてそれと同時に軽い目眩を催したのを今でも覚えている。
 銀の帳の奥で凍てつく焔に、成熟した女性の噎せ返るような色香。
 綺麗だとか艶やかだとか、美しく飾り立てるための言葉に容易に押し込められるものではない。彼女の纏う空気は状況が状況であったが故に生々しく、同情すればするほど己の醜さを自覚する存在感だった。そんな得体のしれない大輪がまだ成人もしていない少女だと知ったとき、戦争はこんなにも子供を大人へと変えるのかと思わず腕をさすりそうになった。
 愚かな共和国からやって来た、自分よりも何個も歳下の子供。
 主と、主の首魁である火竜が気まぐれに手を差し伸べた咎人。
 どれも事実で、どれも正確に表現することは能わず。
 こちらの心情を知ってか知らずか十数秒前とは打って変わってひどくつまらなさそうに、どうでもいいとばかりに主は笑う。
「アレはこの世でいっとう憐れな――獣だよ」


BoyMeetsXXX