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 土砂災害の事後処理も収束して、第八六独立機動打撃群の第一機甲グループは隣町の士官学校で通学も含めた休暇に入っていた。
 無論戦闘の訓練だけでなく、授業も受けなけらばならないのが特士校の決まりである。エルンスト曰く、尉官か下士官かでその後――戦争が終わったあとの人生が大きく左右される。少しでもいいところに行ってほしいのが親心だとも言っていた。
 そのためにライデンたちがやらなければならない目下の問題は、子供の本分であると――耳にタコができるくらい聞かされている勉強をすることで発生する課題の山を崩すことだった。
 背伸びをひとつして、ライデンは部屋の天井を見上げる。変わり映えのしない無地の素材にシミがあるか数えてみて、汚れとシミの違いは何かと別のことへ思考があちらこちらへと漂い始めたところで切り上げた。
 どうにも行き詰まった感覚しかないし、集中力はもう空へと昇ってしまっている。だが今苦戦している課題以外にも溜めてしまった課題はまだ残っており、片付けておかないと後々面倒なので、場所を変えるため自分の部屋を出る。
 候補は自習室か食堂。手を煩わせている課題は教科書だけでは理解できなかったから、参考書を求めて自習室へと足を向けた。
 最初にあった自習室への忌避も少しずつだか形が変化している。八六区から抜け出そうという殊勝な心掛けではないが、未来とは何かと知ろうとしている。リトも連合王国で何かきっかけをもらったみたいで、自習室の本棚から数冊興味を引くものを抜いてはぱらぱらと流し見しているところを目撃している。
 とはいえ、自習室では私語は慎むようきつく言われているので大人数で相談しながらの勉強には向かない。一人で集中したいやつへの配慮くらい皆持ち合わせている。
 自習室に辿り着き扉を引こうとしたとき、中でアンジュとダスティンが顔を突き合わせて机に向かっていることに気づく。気を回して別の場所へ行こうと踵を返すと、どうやら自分と同じ行動をとったやつらが物陰に隠れていた。
 このままだと娯楽室に引っ張られるだろうなと思った。悪くはないが、すでに集中力が切れているから遊びに興じる気がした。混ざらなかったとしても騒がしい場所で課題に集中できるとは考えられず、これ以上課題を溜めることとそれにより教師やら上司やらに説教を食らうことを天秤にかけて、やめとけとジェスチャーする戦友たちを振り切って扉をノックした。
「! ライデンくん」
「シュガ」
「邪魔して悪いな」
 引き戸だから出入りを尋ねるノックなど要らないが、何も知らずに入ってお互いに変な空気になるくらいなら、最初から知ってて行きましたと自己申告したほうがお互い傷は浅くて済む。
「ダスティンに聞きたいことがあんだけど、今大丈夫か」
「大丈夫だけどどうかしたか?」
 ダスティンの前に件のページを開く。
「ここの問題わかるか」
 カリキュラムによって取る授業が異なるため、相談したい相手がちょうど授業を受けて席を外していることもある。同年代の知り合いのなかで一番の秀才であるレーナはこの時間に講義を受けているためいない上に、シンも別の用件で呼び出しを食らって不在。今頼れるのはダスティンだけであった。
「ああそこ。私もわからなかったから飛ばしたところね」
 覗き込んだアンジュも自分と同じようだ。
「あー……」
 自分たちと違って高等学校に通っていたのだから解けるだろうに、煮え切らない態度をしたダスティンに怪訝な顔を向ける。
「理解はしているんだけど、何て言うのかな」
 一応最後まで説明してもらったものの、ライデンはアンジュと二人して首を傾げるしかなかった。というかダスティンの説明はかなりふんわりざっくりとしていて、よくその感覚で解けるなと感嘆とは別のため息が漏れた。
「あ」
 ああでもないこうでもないと一人唸っていたダスティンが、閃いたとばかりに立ち上がってどこかへ走っていった。なんだなんだと見送った間に外で見守っていたやつらも入って来て、結局食堂に移動した。
 基地の食堂と異なって、特士校の食堂は勉強目的で使用することが可能だ。一番面積が広いテーブルに陣取って、しばらくするとダスティンが兵士全員に支給されている端末を持って帰ってきた。
 そうして受話器のアイコンを押し、誰かへダイヤルをかける。一体誰が出るんだと固唾を飲んで見守るなか、
『……はい、マイヤーです』
 まさかの助っ人が登場した。
「リズ、今大丈夫か?」
『……四徹明けのやっとの休みなんだけど』
 くしゃりと髪が乱れる音が届く。寝起きのせいもあってか声の調子はいつも以上に低く嗄れていて、かなり機嫌が悪いように聞こえる。
「もうとっくに休んだなら大丈夫だな。この問題を解説してくれ」
 徹夜明け、しかも四徹のあとの休みなら休ませてやろうかと特に仲がいいわけでもないライデンたちですら遠慮したのに、休んだから大丈夫だと平気で言いやがったダスティンにぎょっとした面々は気取られないよう彼から身体一つ分距離を取った。
『……これ高等学校でやった問題じゃない。今更何を教えてほしいの』
 流れた沈黙にこれはダメだと引き下がろうとした瞬間にリズベットの不機嫌な声が飛んできて、見てくれたんだと何人かが心の中で合唱した。
「噛み砕いて解説してほしいんだよ。ここの分野は感覚で解いてたから人に説明しづらくて」
『………………待って。そこに他に誰かいるの』
「戦隊の皆がいる」
『………………………………』
 さきほどよりも長い沈黙が流れる。
「何が不安だ? 教えられないか不安か? それは大丈夫だろ。だってお前が本当は」
『ダスティン』
「どうした?」
『……もういい。使ってる教科書はありますか』
 折れたリズベットが催促したのでライデンが手元にあった教科書をカメラに近づけると、
『……この書き方は不親切すぎる』
 ひどく低く唸った。
「そうなのか?」
 違いがイマイチわからない面々は首を傾げたり、広げられたページを再度覗き込む。自分たちが理解できないことは自覚しているけれど、それが自分の理解が追いついていないこと由来ではないというのが上手く咀嚼できない。
『ちなみにそこにいるダスティンはどう説明したんですか』
 教わったものをそのまま伝えれば、それはそれはかなり深いため息が吐かれた。
『感覚で理解している人間のその部分だけの説明でよく殴ろうとしませんでしたね』
 まだ頭が十分に働いていないのか、随分と血の気の多い単語が飛び出す。ペンキをかけられたときも、災害対応にあたっているときも思ったが時々リズベットは口の悪い部分が現れる。
「教科書に関しては要点絞ってるから仕方ないと思うけどな」
『感覚人間は黙ってて』
「ハイ」
『わかる人にはわかる説明なんて教科書として失格です。要点だけを絞ったからと言って仕方ない、なんて怠惰です』
 少し待っていてくださいと苛立ちが隠せていない一言を放ったあと、がさごそと物を動かしたり引き出しがレールの上を滑ったりする音が真っ暗な画面のスピーカーから聞こえてくる。徐々に物音が減っているなと感じ取ったあと、向こうのカメラがついて画面には机に広げられた白いノートと万年筆が映し出された。
『そもそもこの分野自体が苦手ですか』
「……何となくで授業受けてる、な」
 だから最初の簡単な問題は解ける。だがそれまでだ。躓いてしまうともうそこから先にいっこうに進められない。
 ライデンの答えによどみなく文字を綴っていたブラックブルーのペン先が止まり、連ねていた式を打ち消すがごとく一本の線が引かれた。
『わかりました。では今まで教わった公式は全部忘れてください』
「「「え」」」
 二十分後。
『――以上を押さえていれば公式をいちいち全部覚えることなく、この分野の問題は解けます』
「おおー……」
 ペン先が跳ねた直後、感嘆の声が周囲から上がる。いつの間にか最初にいたメンバー以外にもリズベットの説明に聞き入っている人数が増えていた。
 途中から板書したメモを見やり、ライデンはノートをめくって間違えた他の問題をやってみる。どこで計算ミスをしたのか自分で発見できた。
『おそらく最初にαを二乗にした、もしくは途中で入れなければならなかったαを見落としていたかで計算がずれていったのだと思います』
 どうしてとライデンはノートに落としていた視線を端末へと上げる。
『私も間違えたことがあるので』
 なるほど、頭のいい人間でも間違うこともあるのかと妙に安心した。ちなみにライデンはαを見落としていた。
「な。リズは教え方うまいだろ」
「なんでアンタが威張るのよ」
 クレナがダスティンをジト目で見やる。他のやつらも同じ感想だったが、リズベットの教え方については全面的に同意できた。
 まず扱っている分野が何について考えているのか身近なものを引き合いに出し、自分たちが身を置く環境でどう使われるかをこっちが興味持ちそうなもので話していったあと、原理を紐解いていく。その解説も教科書で出てくる専門用語だけで話すのではなく、わかりやすい簡単な言葉と表現で的確に説明されたもので、あやふやだった概念の本質を掴めた。
「じゃあさマイヤー事務官、ここも教えてよ」
「私も」
「おい」
 次から次へとリズベットに教えをねだる隊員にやめとけと視線を巡らせる。
『……教科によりますがそれでもいいですか』
 がしかし、当の四徹明けのリズベットは遠回しながらも了承した。自分たちに付き合う義理なんてないだろうに、請け負ったリズベットはもしかしたらレーナに負けず劣らずのお人好しなのかもしれない。
 結局食堂での謎の盛り上がり聞きつけてきた隊員も合わせて二個小隊からなる勉強会になり、後からレーナとシンも参加して大賑わいとなった。
 夕食の時間も迫り、各々が広げた冊子たちを片づけていく。付き合ってくれたリズベットに礼をとライデンが繋がっていた端末を見やるとすでに電源が落ちていた。
「ダスティン、マイヤーは」
「ああ。途中で寝落ちしてたから切った」
 話に夢中になっていて気づかなかった。やはり寝落ちするくらい疲れていたのだ。今度会った時に礼を伝えるくらいはしたい。
「お休みに悪いことしちゃったわね」
「それは多分心配しなくていい。久しぶりに誰かに頼られて、特に自分の得意分野だったから嬉しかったと思うから」
「そういえばマイヤーちゃんは理系よね。でも役人なんて理系の真逆じゃないかしら」
 ヴィレムや軍関係者が役人のことを時々文官と呼ぶくらいだ。国語や社会といったいわゆる文系の教科が強い人間が志す職業という認識で、理系は軍の研究部といった部署へ行くイメージだ。
「理系は最後まで生き残るから」
 ダスティンの言葉にその場に残っていた全員の動きが止まる。
「理系は兵器の技術進歩には欠かせない。だから最後の最後、国が滅亡するその瞬間まで徴兵されない」
 知覚同調の調整を担うアネット。〈レギンレイヴ〉や〈ヴァナルガンド〉といったフェルドレスの改良を担う研究班。
 その誰もが軍に所属し己が戦場を有していても、命の駆け引きが跋扈する戦場には降り立っていない。
「だからどれだけ興味があってもそっちの方面に行くことは端から拒んでた」
「じゃあなんで〈ジャガーノート〉の改良についての論文なんか書いたのよ」
 クレナが不審げに尋ねる。
 その道に進まないくせに理想だけは述べる。正直言って白ける。あくまで自分たちに戦わせて自分たちは行動を起こさない前提の外野の理想論にしか聞こえない。
「リズの論文は〈ジャガーノート〉の改良についてだけじゃなかった。エイティシックスの現在の人口計算に、〈レギオン〉の稼働年数の予測計算。〈レギオン〉の稼働年数については『最適解・最善策を考え続ける人工知能がプログラム通りに終わるわけがない』って論文でボロクソにこき下ろして……ってこれは答えじゃないな」
 話していたダスティンの顔から表情が消える。
「戦時下における白系種からの徴兵に関する草案」
「……は」
 理解が追いつかず零れた戸惑いにダスティンは、リズベットはそう呼んでたと的外れな答えを返した。
「エイティシックスの人口計算をしたって言っただろ。強制収容が開始されてから九年間でエイティシックスたちはすでに百万から一万前後にまで減っているとアレクと計算したリズは、戦線が崩れる前に白系種を〈ジャガーノート〉に乗せて戦場に立たせる法律の草案まで作って、その補論として〈ジャガーノート〉の改良を組み込んで論文として提出したんだよ」
 当然発表した直後に学校側とそれはそれは大モメして、あわや退学処分ってとこまで行ったとダスティンは肩を竦める。退学処分は厳しすぎるのではないかと思わなくもないが、他人に押し付けてきた白系種が今更戦えと強制されて受け入れるわけがない。
「アレクが間に入って論文の書き直しだけで事なきを得たけど、別の論文が再提出されるまで学校中にリズとその論文について緘口令敷かれてなかったことにされたし、論文の存在もなかったことにされた」
「で、落ち込んだの?」
 セオが冷たく嗤う。レーナと同じように自分の信じた正義をへし折られて意気消沈しているに違いないと思ったのが、ダスティンは首を傾げた。
「どう、だろうな……。提出したときは馬鹿にしてきた先生たちにまったく屈してなかったけど、書き直せって言われたあと代わりの論文をすぐ出してから」
 たしかにそれは判断しづらい。想定内だったのか、はたまた間に入った友人のアレクの顔を立てたのか。だが想定内だったにしても何故提出したのか釈然としない。
「でもその直後、学校来なくなったしなあ」
「ボイコットじゃん」
「だからどう思ってたか聞くこともできなかったんだって。俺はリズじゃないから勝手に諦めたとか決めつけるは失礼だし傲慢だろ」
 冷静に返したダスティンをすこし離れたところからライデンは観察する。徹夜明けなのに酷使したりと扱いは雑なのに、リズベットの気持ちは尊重するのはそれなりの信頼関係が築かれている証拠だ。そのはずなのにダスティンの瞳には寂しそうな影があった。
「みんなからしたら所詮は外野の空論だ、って白ける話なんだろうけどリズは大攻勢に何かしらの形で参加した」
 胸中を見透かしたような言葉でリズベットのぴんと伸ばした背筋が脳裏に過ぎる。
「好きになってほしいとは絶対言わない。でもアイツが口先だけじゃなかったってことは知っておいてくれ」
 祈るように告げたダスティンに誰も返すことはできなかった。

 夕食も済ませ、部屋に三度戻ってきたライデンはノートをぱらぱら開く。普段復習などあまりやらないがなんとなしに意欲が湧いたのはあの勉強会の影響だ。と、中から何かが紙の上を滑って床へ落ちた。
 椅子の脚近くに着地したそれを拾い上げる。三つ葉のクローバーを押し花にした栞だった。
 ラミネートフィルムで加工された縦長の栞は経年劣化のせいで全体的に黄ばんでいて、ところどころ重ね合わせたフィルムが剥がれかけている。
 教科書や参考書やらを広げていたときにどこかに挟んでいたものが何かの拍子で紛れ込んだ可能性もなきにしもあらずだ。では誰の持ち物か。
 残しても結局なかったことにされるからと、残さないようにしてきた自分たちエイティシックスは物をあまり長く持たないことが多い。肌身離さず持っていないのに、角が捲れるくらい劣化する可能性は低い。
 となると、レーナかダスティンあたりが候補に挙がってくる。レーナのような気もするが、ダスティンが栞を持っていたって何ら不思議ではない。
 何ら不思議ではないという言葉がふと、別の話題へ意識を移させた。
 リズベットの話になると必ず名前が出てくる――アレク。
 仲裁に入りにくる輩すらも許さない鉄火の気性のリズベットが忠告を聞き入れた。随分と気を許している関係のようだ。形見のピアスをつけるくらいなら相当親しかった――それこそ恋人関係だったのではないかと想像する。
 あの感情表現が乏しいと思わせる容貌に、あの気性を持つリズベットとわりない仲の人間がいたかもしれないというのはこちらの仮定や想像の話であっても衝撃はある。どこが琴線に、という疑問の答えを考えるまでもなくライデンは会ったこともない男に同情してしまった。
 脇目も振らず、一つのことに一直線な人間は傍から見て危うい。そういう奴に限って他人に頼ろうとしたないから、目を離した隙に手の施しようのない事態になっていたらと不安で仕方ない。その気持ちは同じような馬鹿を何年も傍で見続けてきたライデンにとって痛いほどわかるものだった。
 やわらかな眠気が襲ってくる。時間帯も消灯時間より少しばかり早いが咎められるものではないし、同室の馬鹿もそこまで神経質なタマではない。
 栞については今度二人に聞こうと、この一年でくたびれた教科書の表紙を閉めた。

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「はい……私は変わりありませんのでご心配なく」
 西方方面司令部と川を一本挟んで隣接する街の、行政を司る役所の一角。そのさらに隅に設置されたブース内で白系種の少女が一人、昼休憩の合間に電話を受けていた。
 ソプラノとアルトのちょうど中間のトーンと事務的な返答があいまって、素っ気なさが濃くなる。電話の相手は少女の返答にかなり不満げだった。
 日の光が左耳にある銀のピアスに当たる。反射した光は少女を擁護するように少女の雪膚を照らす。ただ少女がどのような表情で電話をしているのかは、陰影が覆い隠してしまっていた。
「そちらはお変わりありませんか。――それは……すみません」
 親に叱られた子供のように少々弱々しい声が謝る。彼女の為人を知っている人物が聞いていたら二度見していただろうというくらいにしおらしかった。
「次に首都に戻るときに連絡します。では」
 会話に区切りがついて受話器がフックに腰を落ち着かせる間際、何か伝え忘れていたことでもあったのか電話の向こうが彼女を呼びとめる。

「――私も、会いたい」

 窓の向こうで小鳥が百日紅の木末こぬれから飛び立つ。
 廊下に落ちた声音は誰がどう聞いても相手が愛しくてたまらないという感情に濡れていた。


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