9

 連邦の短い夏が降り注ぐとある休日、ライデンはアンジュとともに隣町のバザーを歩いていた。 
 特士校は短期間で軍人を仕上げる性質上休みが普通の学校と比較すると若干少なく感じるが、しっかりと休日は確保されている。今日はその日で、部屋で腐っているのも性に合わないので、バザーのチラシを手に官舎を出たところでアンジュとばったり会ってそのまま足を運んでいた。
 入口すぐの広場では子供たちのはしゃぐ黄色い声があがり、食欲誘うような匂いを漂わせるキッチンカーに人が列をなして並ぶ。首都よりも小さな規模だが、夏の昼間にも関わらず隙間を探すほうが人を数えるよりも早いくらい盛況だった。
「にぎやかね」
 基地が近くにあるということもあってピリピリした雰囲気を予想していたが、住んでいる市民たちに追い詰められている空気は漂っていなかった。
 さまざまな本がサイズを揃えず、カートに敷き詰められている。ライデンの目当てのジャンルはここにはなかったので、隣のカートへ目と身体を移す。
 と、右から来ていた他の客と肩がぶつかっってしまう。
「すんませ……――」
 白銀の穂先が揺れ、銀のピアスが煌めく。知っている距離感より下で、白銀の瞳を大きく見開いていた。
 唖然としていたリズベットだったが、しばらくしてああと何かを察したとばかりに一歩後退する。何が、と視線の先を辿ると、一緒に回っていたアンジュの天の青に目が留まる。
「………………ダスティンには黙っておきます」
「違ぇからな⁉」
「違うからね⁉」
 そこから二人掛かりで説明して、圧に押し負けたという感じながらもリズベットは誤解を解いてくれた。
「……失礼しました。エマ少尉、シュガ中尉」
 カチャリとメッキのチェーンが黒のインナーの上で揺れる。この間、泥まみれになりながら探したロケットペンダントだ。
 リズベットは夏にも関わらず長袖の白シャツの下に七分丈の黒インナーを着ており、長いデニムと露出の少ない服装だった。低く感じたのは、仕事時とは真反対の踵の低いパンプスを履いていたせいだ。
「マイヤーちゃんも料理をするの?」
「していなかったので自炊をしようと、バザーだと書き込みがあるレシピ本や料理集などが手に入れられると聞いて来ました」
 手には食材が入った紙袋。あと手のひら大の黒いオオカミのぬいぐるみも顔を出していたりと、ちょっとした大荷物だった。
「今までしてなかったの?」
「二ヶ月ほど前に注意されて……」
 気まずげに視線が逸らされる。注意したのはライデンだ。まともでない食生活を送っていたことは知っていたが、そこから脱却しようと一足飛びに自炊しようとした向上心に手放しで褒めてもいいだろう。
「でもどれがいいのかわからなくて」
 だったらと、アンジュがカートから抜き取る。
「こっちのほうが初心者にとっていいかも」
 手に取った本のタイトルは『難しいレシピがなくてもできる簡単料理』。それくらいから始めるのがいいだろうとライデンも頷いたら、リズベットが憮然とした声を上げる。
「さすがにレシピ通り作れますよ」
「「え」」
 自分たちの反応にリズベットが訝しむ。
「レシピ通りに作ったらレシピ通りのものができますよね……?」
 シンやレーナ、フレデリカの例があるからか、二人してハードルが無意識にかなり下方に降りていたことに気づく。
「ごめんなさい……!」
「いえ。なんとなく心中お察しします」
 察せられるのもなんだかなと、ライデンは据わりが悪い。ダスティンにしろ、自分にしろ、今のアンジュにしろ。リズベットの前では取り繕うことができていない気がする。
 珂雪と一瞬交わる。
 太陽に溶かされることなく、遭遇した何もかもを丸裸にする強さ。リズベットの白銀は、連合王国で降っていた雪を彷彿とさせた。
「とは言っても初心者であることは変わりないので、こちらの本と、こちらの本。どっちがまだ簡単か教えてくださいませんか」
「! それは――」

「じゃあライデンくん、私はあっち見に行くね」
「おう」
 リズベットの料理本選びも終わって、アンジュも自分の興味のあるところへ向かった。
 さて、と二人の傍から離れる。白系種の血が入った女子二人に向けられる不躾な視線に牽制するために、ライデンは二人の傍にいた。危害を加えられてもアンジュならば捌けるだろうが、だからと言って完全に安心できる要素ではない。戦ったこともなさそうなリズベットがいたからだ。
 だがその必要もたった今消え去った。じゃあ解散と、踵を返した足にドンと勢いよく何かがぶつかる。太腿に年端もいかない少年が抱きついていた。
「あれえ? ママじゃない」
「……」
「……」
 どうして自分を母親だと誤認したのか問い詰めたいところだが、何だか聞いたら最後の気がした。
「……誰にも言いません」
 今浮かんだ言葉は言うなよと、何とも形容しがたい表情で見ていたリズベットに無言の圧をかければ、心得たとばかりに首が縦に振られる。
「はじめまして、私はリズベットと言います。あなたのお名前は?」
 ライデンにひっついたままの子供に、リズベットはしゃがみ込んで目線を合わせる。
「しらないひとになまえを言っちゃダメってママが」
「いいお母さまですね。お母さまとここに?」
「おねえちゃんといたんだけど、いなくなっちゃった」
 家族とはぐれてるくせに妙に落ち着いているなと観察していた少年の幼い瞳に不安が翳る。それを見て、ライデンは少年の首根っこを掴み肩に乗せた。
「たかい!」
「姉ちゃん見つけたら言うんだぞ」
「うん!」
 辛気臭い空気を払拭するように歓声を上げた少年の家族を探しつつ、迷子を預かってくれるところを目指す。リズベットがバザーの全体地図を記憶していたので、そこに向かうことにした。
 人だかりは中心部に進めば進むほど多くなる。
 少年の髪と瞳の色を見るに、自分と同じ黒鉄種と黒珀種の血は少なくとも入っている。周囲を見回してみて、全員それらしく見えて諦めた。
「姉ちゃんはどんなやつだ?」
「こわい!」
 聞き方が悪かったなと、少年の口から一番に出てきた形容詞に苦笑する。
「いっつも『危ないことはしないの!』ってぷりぷりしてる! なにもいわないときはママよりこわい!」
「そりゃ怖えな」
「でもね、おかしをわけてくれるからすき!」
 現金な少年はもう話は終わったとばかりにくるくると興味を他へ移す。
「なつのおうさまだ!」
 少年の随分と詩的な言い回しに目を向けると、向日葵が軒先で太陽に向かって鮮やかに咲いていた。
「おにいちゃん、このおはなはなあに?」
「それは……」
「スターチスですよ」
 残念なことに花への造詣が深くなく言いよどんでしまったライデンの代わりにリズベットが答える。
「スターチス?」
「リモニウムとも言います。隣のピンクの花もスターチスで、時期としてはこれが見納めですね」
「じゃあ、あのちいさくてしろいはなは?」
「ジャスミンです」
「あのあかいはなは?」
「サルビアという花で、ここよりも暑い地域で育てられることが多い花ですよ」
 自分の疑問にすぐに答えてくれるリズベットに気分を良くして、少年は矢継ぎ早に質問していく。
「三人は家族かい?」
「違います」
 即下ろされた否定に、ニヤリと邪推していた店主が豆鉄砲をくらった鳩みたいに目を丸くする。ライデンとしてもあらぬ誤解は解いておきたいし、リズベットに対して何の感情も抱いていないが、食い気味で否定されて少しも傷つかないわけではない。
「まあ確かに毛色が違うしね。一体どういう繋がりだい?」
「このガキの家族を探しに迷子を預かってくれるところに行く途中」
「そりゃ大変だ。探してる人を見かけたら広場に行けって声掛けておくよ」
「助かります」
「ねえ、なつのおうさまほしい〜!」
 ライデンの頭が手荒に後ろに引っ張られ、店をあとにしようとした体が強制的にその場に引き留められた。
「姉ちゃんが見つかったら買ってもらえ」
「え〜いまほしいの〰!」
 この歳特有のイヤイヤ期は手に余る。知り合いだったら気軽に拳骨を落として黙らせることができるがそうもいかない。
「女将さん、この花束と向日葵を三本ください」
 そんなライデンの葛藤を他所にリズベットがするりと店に寄った。
「いいの⁉」
「ええ」
 財布を取り出したリズベットに小声で耳打ちする。
「本当にいいのかよ」
「花屋には元々寄る予定だったので構いません。どうせあまり使わないお金ですから、ここで使っても腹は痛みません」
「……ひょっとしなくても三本って俺の分も入ってるのか」
「私が引き取りますのでご心配なく」
 勘定に最初から入っていなかったことに、あっそと素っ気なく返す。しかし気にした自分が馬鹿みたいで、拗ねた気持ちが帯びているのを誤魔化せたか微妙なラインだった。
「お前がほしいって言ったんだろ。お前が受け取れ」
「うん!」
 ライデンの肩の上から降りて、少年はビニールフィルムに包装された向日葵を手に取る。
「はいどうぞ、王子様」
「おばちゃんありがと!」
「行きましょう」
 リズベットが少年の手を引く。少年も最初の警戒が嘘のようにリズベットの手を握り返す。
 なんだかリズベットはこの少年に甘かった。雰囲気も基地で見るものより柔らかい気がする。偏見だがリズベットという少女は子供が嫌いだと思ってたので、目の前のこの光景は意外だ。
「花が好きなんだな」
「おねえちゃんがおはなすきなんだ」
 それで覚えたと無邪気に語る。
「だからぼくもすき」
「いい弟だな」
「へへっ」
「――その子を離して! 白髪頭‼」
 もう少しで迷子の預り所に辿り着くとき、後方から息を切らした声に振り返る。
 苛烈な怒りと警戒、そしてわずかばかりの恐怖の宿る、頭上の少年と同じ色の瞳。十になったかならないかくらいの少女がライデンたちを睨みつけていた。
「おねえちゃん!」
 少年はリズベットの手から抜けて、姉へと一直線に駆け寄る。少女はすぐ背中に匿い、睨めつける。
「どこに連れていくつもりだったの外道」
「そんなこといわないでおねえちゃん! ふたりとも、おねえちゃんをいっしょにさがしてくれてたんだよ」
「でも」
「なにもしらないくせに、ひどいこというおねえちゃんなんかきらい!」
 どっちかと言うと姉のほうが必死に探していただろうというツッコミを飲み込み、ライデンは新たに勃発しそうな姉弟のいさかいに割って入る。
「姉ちゃんは探してくれてたんだから、まずそのことに礼言え。姉ちゃんも、弟見つかってよかったな」
 安心させるために言ったのだが少女はあ、とさらに血の気が一気に失せる。
 姉といたであろう母親の姿はここにない。弟を必死で探していたから母親ともはぐれたのだろう。幸い、ライデンたちが向かっていた迷子預り所は目と鼻の先だったので四人で待つことにした。
「あなたたちどこに行ってたの!」
 ほどなくして、テントに女性が慌てて駆け込んでくる。黒鉄色の髪の下に汗が滲む。服装も似たような色づかいだったので、少年がライデンを母親と間違えた理由に納得がいった。
「ママ!」
「お母さん、」
 姉の相貌に怯えが走り、体も可哀想なくらい強張る。
「ごめ――」
「無事でよかった……!」
 言いきらないうちに女性は自分の子らをきつく抱き締める。姉はまさかと驚いた顔を涙とともに歪めたあと、母親の腕に縋るようにしがみついた。弟のほうは、理由はわからないけれど母親に抱き締めてもらって上機嫌だ。
 一件落着の空気に今まで黙っていたリズベットを見やれば、眩しそうに親子の再会に目を細めていた。眇めた左の深雪色に安堵だけ浮かんでいれば何も思わなかった。だが目元には切なさが滲んでいて、ライデンは咄嗟に#nmae#の腕を掴んだ。
「え」
 驚くリズベットを言葉もなく先に外に出すと、目敏く見つけた少年が笑顔で駆け寄ってくる。
「おにいちゃんたちかえっちゃうの?」
「お前がお袋に会えたからな。もう姉ちゃんの手を離すなよ」
「うん!」
「あの」
 本当に理解しているのかわからない無邪気な笑顔に肩の力が抜けていると、姉である少女がおずおずとした表情でライデンに声をかける。
「どうした?」
「あのひと、は」
「もう行っちまったけど」
 自分が追い出したとも言うけれど。
「あのひとって?」
 首を傾げた母親に少女は少しばかり言いよどむ。正直に話してしまえば、善意で助けた相手に失礼なことをと叱られるのがわかているからだ。ただ姉のほうも悪気があったわけじゃない。弟がいなくなった緊張状態の下で、同胞を使い捨てのように扱った銀髪銀目の見知らぬ人間が弟といたら冷静さを欠く。窺うようにライデンを仰いできた少女に何も言わないと目で伝えれば、一瞬安心した表情をして母親に向き直る。
「もう一人、私たちをここに連れてきてくれたひとがいたの」
 言い終わるとぐっと唇を引き結んで、少女はリズベットのように真っ直ぐライデンを見つめる。
「ありがとうございましたと伝えてほしいんです。……ごめんなさい、も一緒に」
 テントから出ると、リズベットは予想通りテントからそこまで離れていないところを歩いていた。彼女は右も左もわからない幼子ではない。自分で行く場所を決められるのだから放置すればいい。だがライデンはあの寂しげな白銀を探した。
「伝言。ありがとう、それからごめんなさいだとよ」
「……そうですか」
 向かってくる足音に気づいてほんの少し振り向いた表情は浮かないもので、少女の暴言を引き摺っているようにも見えた。気休めの言葉をかけるのも違うと思い、ライデンは何も言わずリズベットの隣を歩く。
 向日葵に、カスミソウ。
 綺麗にラッピングされた花束が歩容にあわせて細腕のなかで揺れる。
 抱える大荷物に首都で会ったときを思い出す。この間部屋に持っていったときもこんな感じに抱えていた。
「料理の本以外に何入ってんだこれ、げ」
 自分たちと遭遇する前から大荷物だったので何を買ったのだと視線を落としたら、リズベットのヒールがいつもより低く、紙袋の中身が見えてしまった。
 教科書に参考書。どれも今自分たちがやっている範囲の。
 自分たちのために。
「ここまでしなくていい」
 リズベットが眉を顰めて、言葉の加減の勝手が違うことに遅れて気づく。
 シンのような反応で、シンのように言葉の奥を取らない。普段シンを諭すように言葉を選べば傷付ける恐れに今更ながらに怖気づくも、撤回することはできない。
「お前だって自分の仕事あるんだろ。そっちに支障きたすならやる必要はないし、そこまでしてもらう義理も貸しもねえ」
 すでに仕事で手一杯なところに仕事以外のものもつぎ込んだらキャパオーバーになる。短い間だがリズベットという少女が根を詰める性格であることは把握していた。我慢した先の展開は読めている。
 もうすぐ広場の入口というところで立ち止まり、混じり気のない真っ直ぐな白がライデンを見上げる。どうしてと真意を探るように射貫くその瞳が苦手だ。しかし我慢して一番伝わる言葉を紡ぐ。
「自分を優先しろ」
「おや、よく会うな。シュガ中尉」
「!」
 諦めるような表情のリズベットに言葉を足そうとした瞬間、その声に顔を跳ね上げる。
 広場の入口に、私服姿のヴィレムが佇んでいた。
 唖然とするライデンと対照的に、リズベットは言葉を継ごうとしたヴィレムを遮るように大股で詰め寄る。
「今までどこにいらしたのですか。途中でいなくなって」
「面白そうなのがあったからそちらに行っていた。あと、今君が世話になっている寮の管理人に会ってきた」
「それならそうと一声かけてください」
「一人で回りたいところもあるだろうと気を遣ったんだが……逢瀬の邪魔をして悪かったな」
「目と口縫い合わせますよ」
 謝罪を口にするヴィレムに悪びれる様子はなく、リズベットの口調は明らかに苛立っていた。
「マイヤーの家には連絡したか」
「……先日連絡しました」
「あまり心配かけてやるなよ」
 触れられたくない話題だったのかふいとリズベットが顔を逸らす。それに満足したヴィレムはリズベットから離れる。
「用済みはさっさとお暇とするか」
「シュガ中尉」
 涼やかな声に視線を向けると、西日が銀のピアスを照らしていた。
「ありがとうございました」
「寮まで送ろう」
「いや」
 広場の前に駐車されていた車のドアが開かれたがライデンは断る。ここから寮までは歩いてもきつくない距離だ。それよりもマイヤーを、と探したらリズベットはすでに遥か遠くを歩いていた。
「乗りたまえ」
 拒否権はなかった。
 綺麗に磨かれた車窓からまばらに人が歩いている通りを眺める。いかにも高級な造りに居心地が悪い。尻の下の生地がいやに滑らかであるし、車内は新品みたいな匂いに包まれていた。
 ちらりと右隣に座るヴィレムを盗み見る。下々の者とは同じ空気は吸わない、とまでも行かなくても部下とは線引きをきっちりする男だという印象だった。一緒に乗るのは遠慮しようという意味も含めて同乗することを断ったのだが、相手方に気にする素振りはなかった。
「私に何か聞きたいことがあるのだろう?」
 とっくのとうにライデンの視線を感じ取っていたわりに流していたヴィレムがようやく口を開く。それが口火になって、ライデンは尋ねた。
「土を勝手に採取してたマイヤーの行動に処分はなかったんですか」
 問いただしてきたあの大佐の言うように、許可なしに基地周辺の土壌を使っていたのなら役人であるリズベットのしたことは越権行為どころか頸が飛ぶ。
 しかもリズベットは共和国の白系種だ。余計に反感を買って、要らない処分まで受けていても何ら不思議ではない。
「それについては、基地に赴任した当初にヴェンツェル大佐を通しての許可申請がなされていて、すでにこちらも承諾していたから処分も問題もない。土砂の採掘地点も基地の南東で、溢れた川の水が流れてきたのはアレのせいではない」
 つまりあの一連の会話はブラフ。
 一歩間違えたら何千人もの命が危ぶまれるあの緊迫した場で、自分より経験豊富な大人と駆け引きをする肝の太さは手放しに称賛できるものだが、どうしてもその強さが引っかかる。
「……参謀長とアイツはどういう関係なんですか」
「気になるか」
 流し目でこちらを見て、ふむ、と口元に手を当ててヴィレムは考え込んだ。
 リズベットが基地に赴任してきた次の早朝に二人で会っていたのも、リズと愛称で呼んでいることもライデンは知っている。一緒に買い物に出かけるなど、一介の役人を軍の上層部の一人が気にしている状態を関係がないと呼ぶにはどう考えたって無理があった。
「あの陰湿な顔をどうにかしたら教えてやらんでもない」
「はあ?」
 突飛な条件に、上官に対してあるまじき粗雑な返答が口を衝いて出た。
「意味わかんないです。というかどうして俺なんすか」
 ヴィレムからの無茶ぶりは今に始まったことではない。しかし自分に託される理由がいまいち掴めない。繋がりがあるのならヴィレムがするべきだろうに。
「今話しかけてきたからだが?」
「……」
 一回殴ってもいいだろうかと真剣に検討してしまった。
「冗談は置いておいて」
「冗談ってなあ」
「知りたいのだろう?」
 繰り出された短い問いに言葉が詰まる。
「そもそも中尉がアレを知りたい理由はなんだ。知って――どうするつもりなんだ」
 リズベットと同じ返しに身体の芯が冷えていく。
 知りたい理由も、知った後に自分がとる行動も明確なものはない。ただ空気をやり過ごすための手段としか考えていなかった。
「本人に訊けば一分で済む話だろう。面と向かって訊けない事由でもあるのか」
 ヴィレムの指摘はすべて的確だ。今ヴィレムに尋ねた質問はすべてリズベットにすればいいものだらけ。
 黙り込んでしまったライデンを見て、ヴィレムはため息をつく。
「中途半端な気持ちでアレに踏み込んだり、やり方を間違えると痛い目を見る。傷つきたくないのならこれ以上関わるのはやめたまえ。それが互いのためだ」
 ちょうど官舎の入口の門に車がつき、ドアが開かれる。外はいまだ夕暮れに染まっていた。
「では、よい休暇を。――楽しみにしていてくれ」
 最後に変な一言を加えて、ヴィレムは鼻につく車とともに去っていった。


「マイヤー事務官」
 今日の授業も終わって、職員室に課題を出しに行った帰り。リトが廊下の向こうを駆けて行ったらと思ったら、聞こえてきたのはリズベットの名前だった。
「シデンもいたの」
「いちゃ悪ィかよ」
「珍しい組み合わせだったら驚くでしょ」
「そうかあ?」
 こちらからは壁になって見えないが、シデンもいるようだ。
「はい。前に渡されてたやつ。シオンたちのも集めておいたよ」
「ありがとうございます」
 黒の指先が枚数を数えていくのをリトの瞳が追う。
 リトも身長が伸びてきた。遠くから見るとなおさらわかる。ヒールで嵩増ししているリズベットにはいまだ足りないものの、成長期はこれからですぐ追い抜けるはずだ。
「あ、副長!」
 こっそりと道を変えようとしたライデンをリトは目敏く見つけ、素通りすることはできなかった。
「何してんだ人狼ちゃん」
「部屋戻るとこだったんだよ。そっちこそ何してんだ」
 ヴィレムとの問答でなるべくリズベットとむやみに距離を取るのは控えようと考えていたので、こうも直近で会うのは出鼻をくじかれた感じがして極まりが悪い。
「特士校での授業についてのアンケートを個人的に採っているんです。今の連邦で学校としてまともに機能している施設は特士校くらいなので、今後のために」
 白と黒の手の中にある紙の束に、それは教師たちに内密でやらなければならないのではと眉間に皺が寄る。自分たちの評価を秘密裡に生徒たちに取っていたと露見すれば顰蹙を買うことは必至だ。
「で、内容は」
「…………想定内、です」
 顔をわずかに曇らせたリズベットの手元を覗くと、『つまらない』『面白くない』『やっている意味がイマイチ』などと端的で散々な評価しかなく、『こんなものだろう』という意見が地味に刺さる。教師のもとに行かなくて正解だ。
「まだ書いてくれるほうがマシです。全部紙飛行機になっている未来を予想していたので、書いてくれたことにまず感謝です。ありがとうございます、オリヤ少尉」
「別に。暇だったし」
「アタシにも言うことあるだろ。こんなとこで捕まえて」
「この前、練習相手になったのは誰ですか」
「いつの話してんだよ」
「ついこの間ですよ。忘れたんですか」
「リト」
 シデンとリズベットの気の置かないやり取りにリトと顔を見合わせていると、ユートの静かな声が飛んでくる。
「先生がお前を探していた」
「げ。んじゃ、副長とシデンまた今度。……マイヤー事務官も」
 ぱちくりとリズベットは目を瞬かせる。
「行ってらっしゃい」
 少々間を空けて、たどたどしく返す。そんなリズベットをユートがじっと見ていたのが気になったが、その間にユートはリトと共に行ってしまった。
「シデンはなんでマイヤーと話してたんだ」
「このアンケートを今やらされてたんだよ、っと。リズ、探しモンしてんだろ。人狼ちゃんにも訊けば?」
 シデンに促されたリズベットが思い出したとばかりにライデンを見上げる。
「シロツメクサの葉を圧した栞を見かけませんでしたか? 以前こちらの自習室に伺ったときに失くしてしまったようで」
 思い当たるものがあったのでライデンは自室の取りに行く。
 目当てのものを手に戻ってくると、シデンは用があるからと退散したあとだった。
「これで合ってるか」
 レーナとダスティンの二人には自分のものではないと言われたのでお手上げ状態だったが。
「は……い、私のです。どこにありましたか」
「この前使ってた自習室の本の中に紛れてた」
 ほっと息を吐いて、リズベットは渡された栞を見つめる。
 花ではなく、葉の押し花。品種がシロツメクサだから違和感はないにしても、三つ葉。こういうのは四つ葉が定石だろうに。
「センスねえな」
 覆水盆に返らず。
 互いの間に広がった沈黙が二人にのしかかる。
 物持ちがいい人間であろうとなかろうと、今の失言で気を悪くしないほうがおかしい。冷や汗をかきながら元凶のライデンはそろりとリズから視線を外し、ありとあらゆる罵倒を受け入れる体勢を整えた。
「――ふはっ」
 だが聞こえてきたのは耐えきれず噴き出した笑い声で、思わずライデンは音の出処である目の前の少女を凝視する。
 顔を背け、黒のグローブを嵌めた左手の甲が口元を隠すも、待ったをこちらにかけて伸ばした腕までも震えているので誤魔化せていない。とうとうリズベットは背を向け、体を丸めて震わせ始めた。
 ライデンは呆然として、丸まった背中を見つめるしかできない。負の感情に揺れることはあっても、正の感情を出してこなかったリズベットが声を上げて笑った。それは付き合いの長い短い関係なく、驚くべきことだ。
 ようやく息を整えたリズベットがすみません、と謝る。
「これをくれたのがシュガ中尉と同じ黒鉄種の男の子だったので、本人が昔の自分を酷評しているように聞こえて」
 まだツボの波に攫われていたようで一瞬背を向けるも、今度はすぐに戻ってきた。
「私もセンスがないと思います。……でもこれがいいんです」
 劣化したラミネートフィルムの表面を指の腹が撫でる。
 春先に雪が融けるように。
 戦野に名もなき花が咲くように。
 緩やかに、密やかに。
 すげない表情が恥じらいのわずかに滲むささやかな笑みへと綻んだ。
 そわりと背筋が沸き立つ。それはちゃんと笑えるんじゃないかという安堵以上に、片隅で密かに咲いた花を自分だけが見つけた高揚感に似ていた。
「拾ってくれてありがとうございます」
 自分の中に突如湧いた感情にライデンが気を取られている間に、淡い表情はまたいつもの涼やかな相貌へと戻っていた。先程まで浮かべていた微笑は見る影もない。手に落ちてきた雪が水になるように、リズベットの当たり前へ戻る。
 残念だと、リズベットに対して惜しく思ったのを素知らぬフリをした。


 夢を久方ぶりに見た。舞台は五年間匿われていた学校で、造りなどがやけに鮮明だなと感心してしまう。夢だから現実の自分が見てきたものや多少の願望が混じる。懐かしさに浸る間もなく風景は移り変わり、やがてひとつの部屋の前に辿り着く。
 誰かがこの部屋の中にいる。その誰かを、外から窓を見上げるライデンは知っていた。
 いつもこちらを遠巻きに見ているわりに輪に入ってこようとはしない。羨ましそう、というのはこっちの推測だ。きちんと自分が今何を思っているのか、相手とすり合わせなければならないと教えてくれたのは先生でもある老婦人だ。
 友人たちは幽霊だと気味悪がっていた。本当は幽霊でないときちんと捉えているのに直視しようとしない理由を、その背景にある感情をライデンも理解していた。
 窓を外からノックする。しばしの間を空けて、ようやく部屋の主が窓から顔を出した。
 ■いリボンで二つ結びにした幼い少女。太陽の光を反射して、■■の髪が揺れる。目元を重点的に鉛筆で書き潰されていて、表情は読み取れない。
 不気味な様相に恐怖が煽られるはずなのに、夢の中の自分は気にすることなく少女を外へと誘う。だが少女は首を横に振った。何故と首を傾げた自分の目に、小さく細い腕で抱えられた本が映る。それはライデンたちですら読むのが難しい書籍で、勉強中に邪魔を入れたのかもしれない。
 潔く退散しようと、壁と地面の際にあったものに目が留まる。それを引き抜いて、謝罪も込めて少女に差し出す。
『■■■■■』
 彼女を何を言ったのか、そのあと彼女とどうなったか。自分が何を感じたのか。
 ライデンの記憶にはひとつも残っていなかった。

 □□□

『お前のせいで』
 いつもの夢がいつもの演者キャストで幕を上げる。開幕のブザーはいつだって不協和音で、体は石膏を流し込まれたように身動ぎ一つできない。
『リズ』
 わかっている。そう何度も呼ばれなくとも、自分がしたことを痛いほど理解している。
『許さない』
 瞼をゆっくり持ち上げる。盈月の柔らかな光が窓から部屋へ射し込んでいた。
 いつからかこの夢を見ても魘されることも、目が覚めてから息が上がることもなくなった。粛々と、日常の一部として己に馴染んでいった。
 だが自分がベッドに沈んだのは約二時間前。いかなショートスリーパーでも、さすがにこの睡眠時間の短さでは人体機能に支障が出る。そのくせ眠気らしい眠気は襲ってこないのだから困ったものだ。
 シーツを肩にかけ、机に伏せられていた木枠の写真立てを手に取る。
 高等学校に通っていた頃に撮った、二人だけの写真。いきなりのことで戸惑う自分の肩に腕を回し、先日買って花瓶に挿されている向日葵のようにアレクは笑っている。
 色褪せた曇天の日々の中でやさしくて愛おしかった、ほんのひと時。
 そこに戻ることはもうできない。戻りたいと望む資格すらこの穢らわしい手にはない。
 脇の棚に置いてあった白磁の容器に触れる。円柱状のこれは重いけれど、片時も離したことはなかった。
 ――ずっと傍にいると、あのとき約束したから。
 蓋を開け、中にそっと手を伸ばす。何日かぶりに外の空気に触れたそのひとは、いくらか息がしやすそうだった。

「アレク」

 ちいさな掌の上で、空っぽの眼窩が最愛の少女を見つめていた。


BoyMeetsXXX