一夜限りの王子様
ジウは混み上がる溜息をなんとか押しとどめて、凛とした声で返事をした。
「あぁ。構わないよ。通してあげて」
「
執事の後ろから、薄い桃色の髪を結わえた少女──キャサリンがしずしずと出てきた。ジウより一つ年下、12歳だ。あどけなさの残った顔つきのわりに、大人びた格好をしている。
金色の
彼女が部屋の中に入ると、執事は深く礼をして扉を閉めた。部屋の中はすぐに沈黙に包まれる。
ジウは
広い部屋だ。灰色の大理石の壁に、赤色の絨毯。ローテーブルとその近くの椅子は白く塗装され、複雑な模様が掘られている。窓の外は真っ暗──つまり今は夜だ。
これから
部屋の中はシャンデリアのおかげで明るかった。
「とりあえず、そこの椅子に座ってくれるかな」
「はい、ジウ様……」
ジウは彼女の言葉に一瞬顔を
ジウの着る白色の上着は、折り返しが藍色に染まっている。彼の髪の色と合わせているのだ。ブラウスの胸元にはレースの飾りが付いている。ジウはこの飾りが嫌いだった。だが、今ばかりは好きな格好でいるわけにはいかない。
キャサリンは長椅子に腰掛けた。その前にローテーブルがある。ジウはその正面の肘掛椅子に座る。灰色の目を細めて、キャサリンを
「君は本当に……まさか来るとは」
「ジウ様、
「……その呼び方、やめてほしいな」
「ですが」
「頼むよ。まるで他人みたいじゃないか」
「ですがもうあの頃の関係とは違います。そしてこれからまた変わる。そうですよね?」
「変わる──いや、変わらせないよ。そもそもどうして父様の言うことなんて聞いたんだ……!」
ジウは密かに拳を握りしめた。キャサリンは俯く。僅かに垂れている桃色の髪の毛が、さらさらと揺れる。
「断ればよかったんだ。君が断ればこんなことにはならなかった。違うかな?」
「いいえ、これは私から言い出した話なのです。それに私は……」
「キミが傷つくだけだろ?! こんなこと! ボクがなんて呼ばれてるか知ってるよね?! キミを汚すだけだ!」
いつの間にか口調が戻っていたのに気付いて、ジウはコホンと一つ咳をした。
──出来損ないの人外王子。
ジウ・エドアール・クルスティは、クルスティ伯爵家でそう呼ばれていた。
彼は魔法の才が全くなく、貴族としての勉強も苦手で、常に外で魔物を狩ってばかりいた。言動も攻撃的で魔物の殺し方は残虐──実際、それは事実であった。
ジウはクルスティ家の三男であり、元より期待はかけられていない。だが余りの無能ぶりに、ジウの父親が、ジウがリリー男爵の第一令嬢と事に及ぶよう取り計らったのだ。その令嬢こそ、今ジウの前に座るキャサリン・チルディエ・リリーだ。
「ジウ様……。違うのです。
「そう呼ぶなって言ってるだろう」
「──それならジウ様も」
「キティ」
キャサリン──キティは僅かに頬を赤らめた。下を向き、
「ジウ、違うの。
「……ボクはそんなこと、したくないよ」
「でも……」
ジウとキティは、身分は違えどいわゆる幼馴染だった。キティの父親、リリー男爵がクルスティ伯爵家で護衛として働いていたため、その娘であるキティはジウとよく顔を合わせていたのだ。
キティは出会った頃から、ジウのことが好きだった。それはクルスティ家でジウが嫌われるようになってからも。
たしかにキティはジウが戦っている様子を見たことがなかったが、ジウは本来優しい性格なはずだ。身分違いの自分と仲良くしてくれたのが、何よりの証拠である──キティはそう思っていた。
「ここで何もしなかったら、ジウはまた怒られてしまうわよ。それでもいいの?」
「──別に、いいさ。いつものことだよ」
「ジウ、私はいいってば。気にしないで。ずっと……望んでたことだもの」
キティは最後、囁くような声で言った。だが、ジウはその言葉を拾ってしまっていた。ばっと顔を上げ、焦燥と怒りを混ぜたような顔で放った。
「うそでしょ。本気で好んで来たってことなの? それならじゃあ、むしろボクのことを知らないんだ。そっか、そうだよね。ボクたちはあの頃と変わった。キティの言う通りだよ」
「ジウ、そんなことない。ジウはあの頃も今も優しい……」
ジウは立ち上がって彼女の腕を掴んだ。キティは「きゃっ」と声を上げたが、ジウはそれを無視して彼女を引っ張る。無理やり歩かせ、ベッドに投げるようにして寝かせた。
ジウはベッドの側に立ち、彼女の方に声を投げた。
「これでもボクが優しいって思える!? ほら、震えてるじゃん!」
キティは体を起こして座る。ふるふると頭を振った。
「違う。慣れてないだけ。大丈夫。ジウならいいの。お願い……」
「お願いはこっちだよ、困るよ。キミだって未来があるでしょ。ボクの家に来る必要なんてない。キミまでみんなに嫌われる」
キティはベッドの上で動いて、ジウの方に近づいた。彼の手に触れる。
「ジウ、お願い」
「嫌だ。これはなかったことにしてもらう。ボクはキミと結婚するつもりはないし、致すつもりもない。もうお終いにしよう、ね?」
「私はジウが……。ジウが好きだったの。ずっと、好きだったの。初めて好きになった人。だから喜んでここに来たのよ。そんなに、拒絶しないで……。私って、魅力……ないっ、かな……。これでもっ、頑張った、のにっ……」
キティの目から、知らない間にポロポロと涙が零れていた。膝にのせていた細い指が、涙で濡れていく。ジウは仕方なく彼女の隣に座ると、その背中を優しく
「ごめん、そういうつもりじゃなかったんだ。キティは十分魅力的だよ。でもボクはキティのことを好きじゃないし、キミを幸せにしてあげられるとも思えない……」
「どうして? そんなの分からないでしょ。私はジウと一緒にいられたら幸せだよ」
キティは声を震わせて言った。ジウは黙ったままだ。彼女は俯いて、ポツリポツリと語り始める。
「ジウと……こうしなかったら、私はいつか知らないところに嫁がされる……。ジウも分かる、でしょ。せめてこの身くらい、好きな人に捧げさせてよ……」
「ボクはキミのこと……」
ジウはそこで口を閉ざした。
彼女は夢を見ている。ジウはそう思った。
キティとジウは幼い頃は遊んでいても、8歳を過ぎてあまり会わなくなっていた。お互い、貴族の勉強や魔法の鍛錬に忙しかったのだ。
そしてジウはその頃から、戦うのが好きになっていた。
なぜ戦うのが好きなのかは分からない。だが、魔物の血を見るのが、いたぶって殺すのが楽しいのだ。
キティは、たしかにそんな狂ったジウを見たことはなかった。もし知ったらどうなるのだろう。ジウは密かにそう考えて、彼女の首に手を伸ばしそうになった。
だが、キティはジウが初恋だと言った。それをこんな形で壊してしまっていいのだろうか? 彼女の夢を壊す権利は、自分にあるのだろうか?
それでもジウにはキティを
ジウは彼女を見た。何が大切なのか、どんな選択が一番いいのか、ジウには分からなかった。
「キティ、ボクはもうキミとは会えないよ。ボク、きっともうすぐいなくなるから」
「……どういうこと? いなくなる?」
「うん。ボク、貴族とか向いてないのかも」
「そんなの無理よ。だってジウは今まで貴族として生きてきたんだよ。そう簡単に生き方は変えられない……でしょ」
「変えてみせる。ボクはこういうの、うんざりなんだ!」
ジウは胸元のリボンを思い切り剥がした。力任せにブラウスを破る。だが破いたあとですぐに後悔した。また父親や付き人に怒られるだろう。
衝動的に何かをしてしまう癖は、ジウもどうにかしたいとは思っていた。だが全く治る気配はない。
力なく腕を下ろして、ジウは呟く。
「とにかく、それは本当だから。ボクはいなくなる。いつになるか分からないけど、近いうちに」
「もう、決めたの……?」
「うん。ごめんね。他の人には言わないでほしい」
「言うわよ! 言ったらジウはいなくならなくて済むもの! ジウの馬鹿! 馬鹿じゃないの! 言うに……言うにきまってんじゃん……!」
キティは両手で顔を覆った。指の隙間から涙が流れていく。ジウはまた彼女の背中を撫でようとして手を上げたが、空中でそれは止まり、下ろした。
「キティ……ごめん……。ボク知らなかった、から……」
「うそつき。知ってたくせに……」
「キティ……」
ジウはずぶりと唇を噛んだ。あまりに強く噛んだせいで、彼の口からつうっと血が流れる。それをゆっくり舐めた。
たしかにジウは彼女の気持ちを知っていた。
あまり遊ばなくなってからも、クルスティ家に来た彼女がジウをいつも見つめていたことを。自分と話す時、彼女の頬が赤らんでいたことを。それでもジウは、気付かないフリをしていた。
このまま彼女が自分への思いを忘れ、また違う思い人が出来ればいいと思っていたからだ。
「分かった。もう、諦めるわ。ジウのお嫁さんになりたかったんだ、けどな……」
「ごめんね、キティ」
「……でも」
キティは顔を上げた。さっきまで泣いていたとは思えないくらい、強い視線を投げる。今まで見た彼女の中で、一番大人びているとジウは思った。
「やっぱり、私のことを抱いて。それだけは、お願い。嫌なの。ずっと夢見てたの。ジウは私の王子様なの。こんなの馬鹿みたいって思うかもしれないけど、でも──」
ジウは彼女の頬に掌を添えて、優しくキスをした。顔を離すと、キティの顔が真っ赤に染まっている。
「じ、ジウ……」
「そんなこと言わせてごめんね。分かったよ、キティ。ボクはキミの王子様になるよ。今夜だけ、ね」
ジウはあどけない瞳を細めて、柔らかく笑った。彼女の体を横抱きにして、静かにベッドに寝かせる。
キティは上目遣いでジウを見た。彼女の心拍は今にも壊れそうなくらい、激しく打ち付けている。ジウが静かに尋ねる。
「本当に、いいの? 初めてでしょ。本当にいいの?」
「……うん。いいの。ジウもでしょ。嬉しい。やっぱりジウは優しい」
ジウはその言葉を掻き消すように、彼女に覆い被さってキスをした。シャンデリアの灯りがジウの藍色の髪を照らす。ジウの口の中は、いつまでも苦い血の味が残っていた。