サフィアとアリシア

 そうやって二人は館の中をやり過ごし、ついに最後のお目当ての部屋へとたどり着いた。

「俺は左」
「僕は右」

 片方にはお酒、片方には宝飾類が詰め込まれているはずだ。サフィアは高鳴る胸を抑えながら、扉を開いた。 部屋には、長い間自分を狙っていた少女がきっとこちらを睨み佇んでいた。魔術の本を片手に抱え、サフィアが何か言う前に言霊を流す。

「【七元素の精霊よ、吾の言霊に応えよ。汝(うぬ)の四肢を捕え、かのペンタクルの元に閉じよ
── |Obict《オビクト》 |Expesidio《エクスペジディオ》 |Montrum《モンタラム》】 」

 七色の光が彼女の口から溢れると、宙から透き通った手が出現してサフィアの両手両足を縛った。サフィアの足元の魔法陣は目が焼け付くくらいの光を放ち、透明な壁を筒状に作った。
 サフィアが閉じ込められたと知ると、少女は膝から崩れ落ちるようにしてへたりこんだ。

 サフィアは掴まれている手首を捻りながら、笑って彼女を見下ろした。

「アリシア、なかなかやるようになったな。だがその様子を見るともう魔力切れか?」
「ッつ! うるさい!」

 アリシアは杖の先を床に叩きつけ、きっと目を見開いた。

「ちなみに俺が《変身能力》を持っていること、お前の矮小な脳みそからは抜け落ちてしまってんのか?」

 サフィアがそう言うと同時に、彼の体が歪んですらりと美しい黒猫に変わった。

「覚えてないわけないでしょ。それも対策済みよ!」
「……なるほど? これは楽しめそうだ」

 姿が変わっても、透明の腕はすかさず彼の体を掴んだ。そもそも、その魔法陣から出ることができない限りは永遠に腕に掴まれるのかもしれない。

「俺をそこまでして捕らえたいか。ご苦労なことで」

 猫の形をしたサフィアは、長い髭をくゆらせながら言った。

「自分の間抜けな姿を見てから吠えることね。もうあんたには負けない。もうしばらくしたら、依授された使族──祓魔師(エクソシスト)もやってくる」

 猫は首を傾げた。金の瞳が明滅する。

「それはちと怠い。とっととお前を片付けてやるとするか」

 アリシアは顔を歪ませた。

「どうやって? その|魔法円《ペンタクル》は完璧よ?!」
「ああ、もちろん完璧だ。だがな」

 猫はまた姿を変え、アリシアよりも背の低く愛らしい姿の少女になった。アリシアはひっと息を飲む。

「知ってる? お姉ちゃん。お姉ちゃんはいつも詰めが甘いよねえ?」
「やめて! やめて! あんたにリリアの姿になんてなってほしくない! 私のリリアを汚さないで!」

 少女は魔法に腕を掴まれたまま、ぐいと|魔法円《ペンタクル》ギリギリまで顔を伸ばした。不自然に腕が伸びていく。

「お姉ちゃんは知りたくないの? 私がどうやって死んだか」
「リリアはお前が殺したんでしょ! サフィア!」
「ううん、違う。お姉ちゃんが殺したんだよ」

 アリシアは金の髪を揺らしながらあとずさった。可憐で人形みたいに愛らしい少女──リリアであるはずが、文字通り悪魔に乗っ取られたように、彼女からは禍々しい空気が零れている。

「悪魔、悪魔め……!」

 アリシアは歯を噛み締める。

「ほら見て。|魔法円《ペンタクル》が完璧ってことはね、お姉ちゃん自身も完璧じゃないといけないんだよ。分かる?」

 リリアの姿をしたサフィアは、手を伸ばして魔法円でできたガラスのバリアに触れた。電撃が走り、彼女の髪の毛を焦がす。と同時に、アリシアの全身に冷や汗が走った。

「なるほど? 『悪魔』でも痛いようにできてるわけね」

 サフィアは掌全体をバリアに貼り付ける。閃光が走り、彼女の顔が歪む。

「……ねえ、お姉ちゃん、痛いなあ……」
「お前がどんな顔で喚こうと、私は魔法を解いたりしない!」
「そうじゃないよ、お姉ちゃん」

 サフィアは|魔法円《ペンタクル》の中で魔法を使い、自分を掴んでいた腕を焼き払った。新しい腕が現れようとするが、その度に魔法で潰してしまう。
 その合間にバリアに腕を当てて自分の魔力を流し込んでいく。

「あっ、う、うっ…………。サフィア、お前何をし……」
「まだ分かんないのかな」

 サフィアは少女の足を振り上げ、勢いよく|魔法円《ペンタクル》の上に叩き落とした。白い煙が上がると同時に破裂音がする。
 アリシアの耳を低い声がさらった。

「お前のその傲慢さが、妹を滅ぼしたんだ」

 とっくに元の姿に戻っていたサフィアが、アリシアの首を掴んで持ち上げた。

「悪魔は体力がねえけどな、お前を持ち上げることくらいならできるんだぜ。もちろん、このまま殺すこともな」
「なんで……どうして……」
「まだ分かんねえのか? 人間ごときの魔力の器じゃ、あんな大層な魔法抑えきれるわけねえだろ」

 サフィアは自分の体をぶつけて、無理やり|魔法円《ペンタクル》の牢を壊そうとした。壊そうとするたび組み込んだ魔法の力が働いて牢を復元しようとするが、その魔力の源はアリシア自身のものだ。サフィアが痛みに悶え気絶するよりも前に、アリシアの方の魔力が耐えられなくなったのだ。
 魔法を発動することはもちろん、維持すること、復元することにも魔力は使う。サフィアが勢いよく彼自身の魔力を流し込んだせいで、牢を戻そうとする力が突然彼女を襲ったが、彼女が牢を治す程の魔力を持たなかったため、|魔法円《ペンタクル》自体が壊れてしまったのであった。

「アリシア、お前は優秀だよ。人間にしちゃよくやってる方だって思うぜ」
「あ、悪魔なんかに言われても嬉しくない!」

 サフィアはふっと笑う。

「だがな、自分の姿を鏡に写したのはいつだ? 俺は宝石に囚われているかもしれんが、お前は俺に囚われてしまったんだろうなあ」

 アリシアの自慢の金髪はしなびて、身体中は魔力の使いすぎて全身に渡って大きなアザができたように醜く朽ちていた。服で隠しているつもりだったが、サフィアはそこまで見えていたらしい。

「あんたの青い目、好きだったんだぜ?」

 サフィアはもう片方の手で彼女の目元をなぞった。アリシアは噛み付くように口を開ける。

「触んな!」
「だがそれも……」
「あんたのせいでしょ! リリアを死なせたのは私じゃない! お前は宝石ほしさに彼女を殺したんだ。彼女は私のために……私のためにあんなものを守って……。リリアはお前に……悪魔に……!」

 リリアの死体は残っていなかった。あったのは、宝石の消えた部屋と、その床に流れるおびただしいほどの血。ただそれだけだ。

「食ったからな、リリアは」

 アリシアは魔法を唱えようと、宙で浮いたまま手を掲げた。

「無駄なことはしなさんな」

 サフィアが彼女の手に優しく触れると、触れたところから薄氷が腕を覆い隠した。

「それよりこっちが先か」

 彼女の口を閉じようとしたところで、アリシアは体をねじって彼の腕から離れた。アリシアは音を立てて地面に落ちる。彼女は手を伸ばして、一番近くにあった宝石を掴み、それをサフィアに向かって投げつけた。

「もったいねえ」

 サフィアは投げられた宝石を掴む。そのあいだにアリシアはラムズが入ってきた扉の方へ駆け出した。今回捕えられないなら逃げるしかない、そう思ったのだ。

「今回は逃さねえよ」

 するすると蔦が伸びて彼女の足に巻き付き、彼女は床に倒れ込んだ。サフィアの口角がくいと上がる。

「姉妹そろって食ってやるよ。リリアもまあまあ美味かったし」

 アリシアはこぼれ落ちる涙を抑えきれず、涙声で唸った。

「悪魔、悪魔、悪魔!」
「はいはい、お前の好きな悪魔様だよ」

 サフィアが自分の右手をしなやかに振ると右の指は鉤爪のように鋭くなり、今度は左手を振って、こちらもまた鉤爪のように長くなった。
 一歩ずつアリシアの方へ近づいていく。

「なんで、なんで食べたのよ。なんで食べたのよ?! 死体くらい……残しておいてくれたってよかったじゃない……。好きなのは宝石だけなんでしょ?! だったらリリアは……」

 アリシアは泣きながら床を這った。サフィアはそこで一度立ち止まると、首を傾げながら答えた。

「たしかにそうだな。俺たちが違う使族を食うのはな、単なる趣味だ」
「しゅ、み……?」
「お前は想像したことあるか? 一生宝石しか愛せない人生を。一生酒しか愛せない人生を」サフィアは笑って言う。「こんなの、絶望的につまらないと思わねえか?」

 彼女はごくりと息を飲む。

「何を飲んでも、何を食べても、何を見ても、何を聞いても感情がねえんだ。人間は楽しそうだよなあ? 美しい景色を見れば溜息をこぼし、美味しい食事を愛する家族や恋人と楽しむ。全てを感じて、何もかもを謳歌して生きてる」
「だけどお前らは……悪魔で……」
「そうだよ。悪魔だ。そう生まれた。だから俺は、海上に吹く快い風も、女の柔らかい体も、甘酸っぱいワインも、何も感じられないんだ。だが唯一」

 サフィアは彼女の口に優しく口付けをした。

「お前らを食えば、命を感じられる」

 彼は優しく微笑むと、首筋に鋭く伸びた歯を突き立てた。アリシアは魔法を唱えようとしたが、もう口が開かないようになっている。いつ魔法をかけられた? いつ? そうか、さっき、口付けられたときに──────

 彼女が意識を手放す直前、サフィアが喉を鳴らす音が聞こえた。