暖炉の炎
「こんなとこで何してんだ?」
「いや、何も……起きちゃったから……」
「泣いてたのか?」
彼女は目を見張った。涙を拭くだけで隠せると思ったのか?
「見りゃわかる。泣いた痕があんだろ」
俺は彼女に浄化魔法をかけてやった。
「まだ2時だ。もう一度寝とけ」
メアリはなにか言いたそうにこちらを見ていたが、あえて背を向けた。果たせるかな、彼女は俺の腕を掴んだ。
「なんだ?」
メアリは曖昧に視線を泳がせたあと、さっと腕を離す。
「なんでもない」
決心が付かないらしい。首だけ傾げて見せて、今はこの場を去ってやることにした。だがもう、時間の問題だ。
彼女に背を向け、俺の唇が独りでに弧を描く。部屋に戻った。
徒にチェスゲームで時間を潰したあと、一階に移動してほとんど食材のない調理場に来た。かろうじて香辛料や水が残っている。
ガラス瓶から砂糖とカカオを魔法で取り出し、宙に浮かせた陶器のコップへ舞い落とす。指を鳴らして掌に炎を作ると、水晶のように丸く固まった水泡を沸騰させた。コップの中へ、熱湯を渦をかくように注ぎ入れる。
俺は味も匂いも感じない。だが、何をいくら混ぜどんな工程を踏めば正しい味がするのか、さほど練習せずとも分かった。皮肉なことに、俺以外は「美味しい」と感じるらしい。
出来上がったココアが目に入り、一口喉へ流し込んだ。
「ああ、美味しいな」
体の中を何が通った気もしなかった。コップの内側に水のペンを添えると、汚れた箇所を拭き取る。これでいい。
城中の宝石にうっとりしながら、彼女の部屋の前までやってきた。片方にはコップを持っているし、もう片方の手をあげるのも億劫だ。扉にノックの音を鳴らせた。
「ラムズ?」
「──はい」
無表情でコップを差し出すと、メアリは困惑しながら受け取った。
「あ、ありがと……」
彼女はまだ俺に魔力を流してもらうか悩んでいる。いつまでこの茶番に付き合えばいい? メアリはココアをじっと見つめ、今にも言葉を落とすだろう。
俺は何も言わなかった。去る振りをすればいい、俺を引き止めないはずがない。
「……待って。行かないで」
ほらね。
メアリの声は外の雨音に混じって消え入った。だが聞き逃すつもりはない。自ら口にしたことに意味があるのだから。
「チェスの途中だったんだ。やるか?」
「うん、やる」
弱すぎてつまらん。俺はなぜここまで彼女が弱いのか考えることにした。──ダメだ、分からん。数秒で諦めた。一周まわっておかしいくらいだ。
「本当に弱いな。こんな早くゲームが終わったこと、ほとんどないぜ?」
「う、うるさいわね……。しょうがないでしょ」
クイーンの駒を弄ぶ。指の中を転がるたびに、ホワイトダイヤモンドが淡く光った。はあ、美しい。
「ラムズはチェスがすきなの? 本も?」
「んー、まあ。チェスは好きだ。本も好きかな」
「ふうん……」
好きか嫌いかで言えば、好きな方なんだろう。だが、決して面白くはなかった。ただ宝石を触れるから幸せなだけだ。
「ねえ、ラムズ」
彼女は口を噤んだ。
あとどれくらいしたら続きを話すだろう?
俺は揺り椅子を動かしながら、暖炉の光を眺める。
炎のように模して作ってあるが、ただの光だ。俺は光の元素はほとんど扱えないから、その元素を閉じ込めた魔石を使って、闇や水の元素を混ぜ込んで色を出している。
風の元素で揺らぎを作り、時の元素で絶え間なく形を変えていく。地の元素で命を与え、この魔法が空中の魔力を吸収していつまでも光り続けるようにした。
「面白いこと、してやろうか」
俺は炎のなかに自分の魔力を入れて、元の魔法を作り替えた。風の元素が俺の想像した通りの姿に変えていった。
駆け回るヒッポス、凪いだ海。それに泳ぐ人魚やドルフィード。海を消して野山を作る。ドラゴンが現れ、それを倒す勇敢な戦士。眠れる姫の茨の城に、騎士は剣を掲げて立ち向かった。
木々に囀る小鳥、七人の小人が少女を囲む。大きなアプルが溶けていき、空飛ぶ絨毯が月夜を舞った。古い館に潜む獣たち、大勢の人間が松明を燃やす。獣は唸り、次々と殺されていく。
鏡を持った男はメドゥーサの首を切り落とす。首が靴に形を変え、少女はそれを履いて踊り続けた。
メアリは我を忘れて目を凝らしていた。美しいのだろう。きっと誰もが夢に見る世界、お伽噺のように慕わしいのだろう。
なにもかも、見た景色だ。なんてつまらない。溢れるように炎を大きくすると、俺は魔法を消した。
「すごい…………。よくこんなことできるわね」
「まあ、暇だからな」
宝石のついた椅子が鷹揚に揺れる。
「ラムズは、何を見て生きてきたの? 5000年って、長い?」
長いかもしれない。だが、ついこの間のようにも感じる。
「長いさ。想像できねえくらいにな」
「ラムズは、昔もそんな感じだった?」
「ずっとこう。人間の作る世界がどんなに発展しても、どの使族が絶滅し、新しい使族が生まれても──。俺は、ずっと変わらない」
彼女は矢継ぎ早に尋ねた。
「寂しくないの? 家族は?」
「いない」
「友達は? ずっと一人で、悲しくない?」
「悲しくねえよ。友達もいねえな」
「ヴァニラは違うの?」
ヴィーネは悪くない。時に対立したことがあっても、殺すほどじゃなかった。だが、彼女が友達だと思ったことは一度もない。
「違うな。いつも仲良しこよしをしてるわけじゃない」
「……ラムズは、本当は優しいの? どうしてわたしを助けてくれたの?」
そんなに俺が分からんか。こいつらは難しく考えすぎなんだ。
「理由も変わらない。俺は優しくない。メアリに選択肢を与えるために助けた」
「選択肢?」
「メアリはあのままじゃ塔から出られなかっただろ。だから、俺と一緒に塔を出るかこのままでいるか、聞きに来たんだ」
「もしも塔を出ないって言ったらどうしたの?」
「アヴィルを殺して置き去りにした」
まさか。彼女のことは殺してでも連れ帰っただろう。
「置き去りに、するのね」
「もしかしたらあとになって、連れ出したかもしれないがな。というか、こんなこと聞いたってどうしようもねえだろ」
「そんなことないわ。だってラムズが分かんないんだもの。冷たいことを言っておきながら、ラプンツェルは一生懸命編んでくれたんでしょう?」
誰かが言ったな? 優しいと思われるだろうが。煩わしい。
「聞いたのか、まあな」
「じゃあ、選択肢なんかじゃなくて、ただラムズがわたしを助けたかったんじゃないの?」
「いや、別に。あんたを助けたかったわけじゃない」
「じゃあどうして──」
俺は椅子を止めた。
実は俺は優しい、そう言ったっていい。今後こいつが死ぬまで、この上ない愛を与え、そう演じたって構わない。どう演じても全て俺で、全て俺ではないのだから。
だが、俺の使族を聞けば彼女の信頼は地に落ちる。どうせいつかバレる。それなら最初から、“悪”を演じた方がずっといい。
「そう言ってなんになる? 俺は俺のために助けたし、編んだんだ。運命に言われるがままに。メアリのためにやったわけじゃない。そう言ってほしいならそう言うが、そんな優しさを、あんたはほしいのか?」
彼女は絞り出すように言葉を落とした。
「…………ラムズが、分かんないよ」
なんにせよ、結局誰からの愛でも皆それを疑うのだ。愛の形に正しさがないのか、正しい愛がどこにもないのか。だがどちらが答でも、愛を巡る争いは絶えない。
「愛はエゴだ。自分のためにしか存在していないようなものだ。相手のためと言いながら、所詮全ては自分のため。俺はそう思う。優しくされたと思いたいなら、そう思えばいいんじゃねえか? 俺がどう思ってるかは関係ないだろ。受け取るのはメアリだ」
メアリは黙って聞いていた。
「人は自分の思うように相手を見、相手を作るんだ。俺を作るのは俺じゃない」
彼女が立ち上がる。
「やって。魔力、ラムズが流して。ラムズのこと、知りたいの」
そう、心を開くのは俺にだけでいい。
「わかった」