毒牙

 全ての指を同じように弄ばれて、ようやく私は息を落ち着けた。もう指は戻ってるはずなのに、正直まだ痛みが体に燻っている。変に焦らされたせいだ。それにラムズがいちいち扇情的に食べるから、心臓も持たない。
 大きく息を吐いて、彼の元から離れようとした。
「まだ」腕を掴まれる。
「もうないよ⁉ どこ食べるの⁉」
 ラムズは私の顎を掴み、顔を上へに向けた。整った顔立ちから嗤笑が滲む。「や、ね。キスはダメだからね? さすがにそれはさ、違うじゃん?」
「まさか、しねえよ。好きになってもらっても困る」
「……よかった。じゃあなに?」
 こんな近い距離で見つめられるだけで、心臓がばくばくしている。ナハトの時もこんなにドキドキしてたっけ? いや、これは船長の顔があまりにかっこいいからだな……。絶対そう。
 堪えられなくなって、瞼を下ろした。さらに身を寄せられ、耳に冷たい吐息が降りた。確認しようとする前に、両腕ごと体を抑えられる。彼の舌が耳をしっとりと舐め上げた。
「っや、あ。な、なんで……」
「耳も戻ってくんだろ」
「た、試したこと、ない……」
 彼が喉で笑う声が聞こえる。「大丈夫」
「なめ、舐めないで……おね、がい」
「なんで?」
 水音を立てて耳たぶが舌で擽られる。脳みそを掻き回すように耳を濡らして、啄むようにつつく。自分の服を下に引っ張った。こんなことで気持ちいいって、そんなのある? 前は魔物だったんだよ? 恥ずかしいし、なんだか怖いし、罪悪感もあるし……。
「すぐ痛くなるから安心して」
「それっ、安心……じゃな、いって」
 彼が強めに耳を噛んだ。すぐに電撃が走ったような痛みが回る。「った、たい……」噛まれるたびに疼痛が襲う。そのあと彼の吐息と一緒に快感で脳まで蹂躙される。
「怖い?」凍える息遣いが耳を湿らせ、牙が耳たぶを噛んだ。「ちゃんと痛いだろ」
 鳥肌が立った。鱗が逆立ってるみたいにずきずきして、心臓が痛い。いっ、痛い。ぴりりとした辛苦。また軽く噛まれた。
「や、やだ……痛い……痛いの……。おね、おねがい……」
 放されていた腕を上げて、彼の胸元の服を引っ張った。涙で視界が潤み、喉を潰されたような声しか出ない。でも彼は何も言わない。何度か噛まれたころ、耐え難い痛苦が耳たぶを穿った。
「っや、やああああ、いた、ああぁあぁあああ……痛、痛い痛い痛い痛い!」
 続けて何度も強く噛みつかれる。首筋から血が滴っている。咀嚼音が何倍にも聞こえた気がして、脳まで激痛が届いた。しばらくすると、叫んでいたはずの自分の声すら聞こえなくなってくる。あまりの痛みに意識が朦朧とする。
 ようやく体を放されて、ぐらぐらと揺れる視界に彼の姿を捉えた。
「らむずぅ、痛いよぅ……」
 彼は笑って、私の頭を胸に落とした。背中を摩られる。
「普通に食うより辛そうだな」
「そ、そうかも……。だって、普通なら途中で死んじゃうでしょ……」
「ああ。だから死体は不味い」
「へ、へぇ……。ククルカンは……? 美味しいの?」
 私はおそるおそる耳に手を伸ばした。船長の声が普通に聞こえてることからも、耳は生えてきたんだろう。よかったような、悪かったような。また今度も食べられるってことだ……。
「ククルカンってより、お前だから美味いんだろうな」
 淡々と落とされた声に、思わず顔を上げた。「え……、ほんとに?」どういうこと?
「さっき強い感情があると美味しいって言っただろ」
「うん」
「憎しみでも、悲しみでも、愛でも、忠誠心でもなんでも、俺に対して強い感情を持っていれば持っているほど、美味しくなる」
「本気で言ってるの? それ。最悪じゃん」
 ラムズは喉の奥で笑った。「だから悪魔が嫌われたんだろうな」
「その……つまり……。憎んでる敵を怖がらせて食べるとか、自分を愛してる存在を怖がらせて食べるとか、そういうことしてたの?」
 明るい声で返される。「してた」
「最悪、酷い! やっぱり悪魔って酷いじゃん!」
「その方が美味しいんだもん」彼が舌なめずりをする。そういう仕草に、いちいち目が持っていかれる。
「だけど……。食べなくてもいいんでしょ?」
「ああ。だからもう食ってない」
「今食べたくせに」
 ラムズは少し考えたあと、言い直した。「表立っては、食ってない」
 私は軽く溜息を吐いて、彼の体を押す。ベッドから降りようとした。
「なにしてんの?」
「降りようと思って?」
「まだだよ。思いついたことがあるから」
「もうないから⁉ 足の指とか?」
 ラムズは私の下半身に目をやったあと、にんまり笑う。「それもいいな。だがおそらく、手とさほど味は変わらんだろう。それよりこっちが気になる」
 腕を伸ばして、細い指爪で私の唇をつうっと撫でた。流し目の青が唇に注がれる。魔法をかけられたわけでもないのに一瞬口が利けなくなって、体が強ばった。
「き、っき……キスはしないって、言ったじゃん? ぜ、ぜったい浮気だから、ダメだから!」
「キスじゃねえよ」
 怪訝な顔をする。「じゃあなに?」
「口開けて」
 何がしたいのか分かった。私は思い切り彼の胸を押しやり、すぐさまベッドから足を出す。でも立ち上がるよりも前に腰をツタで捕えられた。ずるずる布団の上を引きずられる。
「やだー! やだってば! 舌食べるんだね? 絶対や! キスと変わんないし、それにめちゃくちゃ痛そう! 拷問じゃん!」
「痛いからいいんだろ」
「それはラムズだけだってばー!」
 ベッドに引き戻されたあとは、またも彼の目の前に座らされた。皮肉のように美しく瞬く彼の瞳が憎らしい。
「ほら、早く」
「どうやって食べるの? まさか舌だけ引っ張るの?」
「それも悪くねえな」彼は悪い顔で言ったあと、首を傾げる。「まあ、今回は―」
「やっぱりキスってことでしょ? ダメだよ、今でさえもうナハトを裏切ってるのに!」
「もう裏切ってんなら関係ねえだろ」
「さっき船長やらないって言ったじゃん!」
「悪い」銀の髪がさらりと揺れ、あどけない笑みか浮かんだ。「前言撤回」
「嘘つき、嘘はダメ」
「俺は悪魔だぜ? 息をするように嘘つくよ」
 ぬ、ぬ、ぬ……開き直られるとどう言っていいのか分からない。「だけど、だめだって……」
「心がないなら浮気じゃねえだろ。お前がまた気持ちいいとか思ったら、浮気かもな」
 彼はそう悪戯っぽく言うけど、それもこれも全部船長のせいだからね? 私悪いの? 悪くないよね?
「我慢しろよ」
「我慢でどうにかなるもの?」
「さあ?」
 また笑ってる。彼が顎に手を伸ばしてきて、私はふるふると首を振った。
「命令されたいの?」
「命令もだめ! ちょっとくらい譲歩してくれてもいいじゃん。もう一回指食べてもいいから……」
「言われなくても、食いたくなったら食うけど?」
 ラムズは私の腕を掴むと、三本同時にぼきりと齧って落とした。激痛が走り、思わず手を抑える。
「ん、んんんんッ⁉ 痛い! ひ、ひどい……! 痛い……い、痛い……」
 見る間に食べ終えて、青の瞳を細めた。「早く。口開けて」
「や、やだ……絶対……」
 ラムズは薄く溜息を吐くと、低い掠れ声で心臓を揺すった。「命令。口開けて、俺に抵抗するな」
 酷い、そう言う前におもむろに口が開いてしまった。閉じようとすると全身を何かに押さえつけられたように痛くなる。酷い、酷い。
 ラムズは私の後頭部に手を回すと、目を閉じて吐息を奪った。ナハトのものより柔らかく厚い舌が私のものを絡め取り、外に出すように引っ張った。噛まれる、噛まれる。無意識に掴んでいた肩を強く抑える。私の長く細い舌に歯が当てられる。優しく甘噛みされ、唾液で口内がとろとろに溶かされる。こんなのおかしい。絶対絶対ダメなのに。唇にも牙が突き立てられた。ぴりっとした痛みのあと、熱を持ったように唇が疼く。そのあと彼がまた舌を引っ張って、息をする間もなく噛み千切った。
「んッ⁉ んんんんんッ、んん―ッ! ああ……っあぁああぁあ―」
 彼の胸を何度か叩き、ようやく唇が離された。懸命に息を整え、ラムズの方に凄みを効かせて睨む。
「ありがと、シャーナ」
 私を引き寄せると、またとんとんと背中を撫でられた。抱きしめればいいってものじゃないのに。でも振りほどかないあたり、私も終わってる。心臓はまだばくばくしてる。初めてのキスじゃなくてよかった。もしそうだったら、他の誰としても味気ないと思っちゃいそう。
「お前がククルカンでよかった」
 酷いよ? 絶対たいした意味なんてないのに、そういうこと言う。
「嘘じゃねえって。自然治癒する獣人なんてそうそう多くねえし、いても強すぎて俺の手に負えない」
 はいはい、ちょうどいいくらいの獣人ってことでしょ。分かってますー、……分かってますよー。
「キスはしてねえだろ? じゃあいいじゃん」
「どこが!」戻ってきた舌でそう言って、彼を睨みつける。
「あれがキスなの?」
 今度は私が面食らった。「あれがって……じゃあ何すればキスなの? あれは違うの?」
「お前が気持ちよくないように手を尽くしたつもりだったんだが」
「な、なにそれ」
 意味のわからないことを仰る! つまり……本当にキスしてたらもっとこう……船長にとってはあれはただの捕食行為で……。
「最初からそう言っただろ」
「でも……唇が重なってたらキスだもん」
「俺はキスだと思ってしてねえから、セーフ」
「セーフとかない!」
「はいはい、ごめんね」
 彼はまた私を引き寄せて、優しく髪を撫でた。抱きしめるな、馬鹿。一番腹が立つのは、ラムズにキスされたことじゃない。されてもあんまり何も思わない自分に腹が立つのだ。ダメなはずなのに、そう思えない自分がやるせなくて、まるで私が最低みたいな、酷いやつみたいで……。それにいいようにされてるのもなんだかむしゃくしゃして……。
「お前はずっと俺にいいようにされてるし、大好きなご主人様にキスされて喜ばない奴隷がいないわけねえだろ? そんな中途半端な忠誠心じゃないって、俺が一番よく知ってる」
「へ、返事しないで、バカぁ」
「もっと言ってやろうか?」やわやわと首を振る。「ナハトに罪悪感があって、それでも身を差し出しちゃうほどの愛があるから、お前は美味しい。俺がそうさせてるから、シャーナが気に病むことじゃねえよ」
「いちいち口に出すなってばー!」
「お前が悩んでるから慰めてやってんだろ?」
「慰めになってないー」
 いくら言っても彼はやめない。おかしいくらい優しく抱かれて、いつもより柔らかい声が聞こえる。
「最低なのは俺で、お前じゃねえよ。シャーナはずっと俺に流されてればいい」
「そ、それがよくないってことじゃん? ちゃんとこう……意志を持って……自分でちゃんと取捨選択、するっていうか……」
 ラムズは体を離して、首を傾げた。青の瞳が爛々と光る。「阿呆だな? その意志も選択権も、お前にはねえよ。俺の言う通りになるようにしてんだから、最初からないの」
「ラムズの、言う通り……。でもそれなら、私がちょっと抵抗するのとか、ラムズにとってはおかしいことじゃん。ちゃんと操りきれてないじゃん?」
 彼はとぼけた顔で言った。「前も言っただろ。ただのお人形じゃつまんねえって。痛がって、嫌がって、抵抗して、罪悪感を持って、だから美味しいのに、なぜそれを消す必要がある?」
「この……悪魔!」
 彼はくくっと笑った。「褒め言葉、どうも」視線を外して呟く。「悪魔ついでに」船長は体を少し離すと、私の腰元に手を添えてベッドに寝かせた。覆いかぶさってきて、視界が暗くなった。
「へ? 何するの? 今度こそもうなくない?」