自殺願望

 
「任務失敗したし、ボロボロだし、もう嫌だ。もう私なんてこのまま頑張る意味ない。頑張れない、頑張れない。疲れた、辛いよ」 シャーナはラムズの冷たい腕の中で、何度も胸を叩いた。
「大丈夫」体を包むそれと同じくらい、温度のない『大丈夫』だった。
 シャーナは顔を上げる。目尻から玉のように涙が滲み始める。「大丈夫じゃない!大丈夫じゃない!知らないでしょ、見てないでしょ!分からないでしょ?!私の気持ちなんて!何されたかなんて分からないでしょ!」
「わかるの、知ってるだろ」ラムズはいつもより数倍、表情の抜けたような顔をしている。自分に呆れているからだろうか? もう見捨てられるからだろうか? でも、心から泉のように湧き出る言葉を抑えることはできなかった。
「……だけど、違うもん。分かってても共感できないじゃん。だから私がどれだけ辛いかも分からないし、それにそもそも上手くいかなくて、失敗して、それで──」
「俺のことはいいから」
 よくない。絶対によくない。彼のために戦ってるのに、働いているのに、生きているのに、上手くいかなくて、むしろ彼に迷惑まで掛けてしまった自分に何が残っているというのだろう。それに、もう心が疲れてしまったのだ。拷問までならば耐えられた。いくらいたぶっても必要な情報を手に入れられずやきもきしていた人間どもを見下すくらいには、余裕があった。だけど……でも。
 こんなことなら、獣人になんてなりたくなかった。半分でも人間の気持ちなんて知りたくなかった。いっそのことラムズのようになれたらよかったのに。何も感じない体なら、こんなに辛くなることもないのに。それに、辛いと思ってしまうことがなお、辛かった。自分の精神状態が回復しなければ、もうシャーナの存在理由はない。きっとすぐにでも──
「捨てねえよ。まだ俺のために生きたいと思ってるなら、そのための力は貸してやる」
「……だけど、無理だよ……。また同じことが起こったらどうしたらいいの? 怖いよ。男の人が怖い。人間が怖い。怖い」シャーナはわっと顔を覆った。
 ラムズは彼女の肩を掴んで、顔をあげさせた。「ひとつずつ整理しよう。まず俺のことな」息を吐いて、はっきりした口調で言った。「上手くいかなかったことは気にしてない。んなこと今までもあった。失敗したのはお前だけのせいじゃない」
 彼女はぐすんと鼻を啜る。「じゃあなんのせい?」
「運命」ラムズは静かに笑った。
「そんなの、私……見てないもん。私にはないもん」
「お前にはなくても、俺にはある。失敗したことも俺の思うとおりにならなかったことも、今まで何度もあった」
「そんなことないでしょ! 船長は失敗なんてしない。上手くいってないところなんて見たことない」
 彼は少し首を傾げた。「それは違う。俺が失敗を嘆かねえからそう見えんだ。期待と違う結果に相対しても、それはそれとして受け入れる。ミラームの糸先はどうにもできん。後悔しても、嘆いても泣いても……何も変わらん。むしろ新しく得た結果をより良い未来になるよう利用する。そうやって生きてるから、お前の目には、俺がひとつも失敗してないように見える」
「でも……今回のことは? 私の失敗はラムズが期待してなかったことだよね。どうするの? 利用できるの? 全部だめになったのに?」
 彼はくすりと笑う。銀の髪がひと掬い流れた。「少なくともお前レベルの|獣人《ジューマ》じゃ太刀打ちできねえことがわかった。あの宝石を守るために、あいつがいくらでも人員を割くのがわかった」
「……それで?」
「敵情を知るヒントになった。お前の失敗すべてが無駄になったわけじゃない。それに」ラムズはシャーナの髪を優しく撫でた。「お前が今を乗り越えて、また俺のために生きるというのなら。前のシャーナより今のシャーナのほうが、俺はいい」
「……どうして」
「そのほうが価値があるから」
「どうして?」
「これ以上は言わない」
 シャーナはきょとんとして、すぐに彼の体を揺らした。「なんでよ。教えてよ!」
「嘘を言っても信じねえだろうし、正直に言っても傷つけるだけだから」
「今までも……いっぱい、傷つけられてきたもん」
「そうだね」
「だから……教えてよ。大丈夫だから」
 ラムズは目を細める。彼女の体を引き寄せ、痛ましく背中を撫でた。「だって酷く傷つけられたんだろ。死にたいくらい、辛いんだろ」
「……うん」
「だが、それでも俺のために生きるっていうなら──。そんなかわいい奴隷、誰が捨てる?」
 シャーナはおずおずと顔を上げた。「それってつまり……」どんなに酷い目にあっても自分のために立ち上がるから、ラムズにとって好都合だということだろうか。いくらでも自分のために死んでくれる、死地だとわかっても戦ってくれる、そういうことだろうか。
 彼は優しく微笑んだ。「正解」
「……酷いよ」
「だから隠したのに」
「嘘つき。そういうフリしただけでしょ。言いたくなかったら、絶対言わないくせに」
「だが、それで信じられただろ。怒るつもりも、捨てるつもりもねえよ」
「……まぁ、うん。それなら、信じられる」
「ならけっこう」彼はもう一度背中をとんとんと叩いて、そのあと体を離した。「じゃあ、次の話。痛かったところはもう治った?」
「……体の傷は」
「心の傷が治ってねえか」彼はくくと笑う。
 シャーナはぎゅっと自分の服を引っ張った。痛みはもうない。でも、男たちに触られた感触がまだ全身に残っている。彼らの生あたたかい目線が今もまとわりついている。
「恋人も殺されたからな」
 鼻を啜った。彼が死んだことももちろん辛い。自分の任務と全然関係ないのに。恨んでいるだろうか、呆れられてしまっただろうか。
「あいつはわりとお前のこと好きだったようだし、恨んでねえと思うよ」
「……そんなこと、分からないもん」
「しばらくは、俺がそいつの代わりになってやるから」
「ラムズじゃ、なれないよ」
「そう言われると耳が痛いなあ」また、思ってもないことを言っている。ラムズには似合わない、柔らかい声色が耳をくすぐる。「俺に任せて。全部元通りにしてあげるから」
 シャーナは手で抑えて、彼から逃れようとする。「そんなことする理由、船長にないもん。そこまでする理由ないでしょ」
「二、三回抱くくらい、どうってことねえよ」
 彼の言葉にどきりとして、彼女は目を泳がせた。「……ナハトのこと忘れたら、今度は船長のこと好きになっちゃうよ。面倒くさくなるでしょ」
「魔法があんじゃん」
「……いじるってこと? 心操るの? どうやって?」
「俺のことが好きだから、俺の邪魔はしないようにしようって」
「超、都合いい」
 彼はくすっと笑って答える。「最初から、そうだよ」
「……悲しい気持ちは、操って消さないの?」
「魔法は少しだけ。俺に負担がかかるし、美味しくねえから」
「魔法で操ったら、美味しくないの?」
「ああ」
 シャーナはしばらく口を閉じて、彼のされるがまま抱きしめられていた。あやすように体を揺らされる。
「……ラムズに任せたら、辛い気持ちは消えるの。記憶を消してくれるの」
「都合の悪い記憶を魔法で消したとして、じゃあ、そこには何が埋まると思う」
「……え? なに?」
「無」静かに言った。「何も埋まらない」
「そうすると、どうなるの?」
 ラムズは瞳に笑みを寄せた。「廃人になるよ」
「辛い記憶を持っているままの方が……辛いよ」
「お前らの心を作っているのは、血でも肉でも魂でもハートでもない。記憶だろ。生まれてから死ぬまで、出会った人、出来事、辛いことも幸せなことも──それらがお前を作ってる。少しでも記憶の欠けたお前は、辛い感情を背負ったシャーナを消したお前は、辛い記憶を消して幸せになれたお前は、『シャーナ』のままか?」
「そんな……そんな、難しいこと、わかんないよ」
 彼は一瞬遠い目をして、唇にふっと笑みを零した。「俺は違うと思う。だから記憶は消さない。辛い気持ちも消さない。ただ、上塗りしてあげるだけ」
 しばらく黙っていたシャーナが、おそるおそる口にする。
「そ、それがなんで……二、三回抱くとか……そういう話になるの」
「物理的に上塗りするのが早いだろうが。触れられた感触、気持ち悪い目線が忘れられないなら、お前のご主人様が代わりに愛してあげる」
「嫌……じゃないの。ラピスフィーネ様にもあんまりしたくないって、前に愚痴ってたのに……」
「したくはねえよ?」あっけらかんと答える。「だが、他にこれといった案がねえしな。代わりにしてほしいことがあるなら、してあげるけど」
「してほしいことは……いっぱいあるけど……。だけど、……。ラムズにこんな体、見せられない。見せたくないよ」魔法で操られた感情だとしても、シャーナはラムズのことを尊敬していたし、ラムズのために生きていたかった。だからこそ、そんな主人に自分の体を差し出すのは心苦しく、そんな価値はないと悲観してしまう。
「その手のことは気にしねえって言ったろ。じゃあまずは洗ってあげるから、おいで」
「……いい。いい」
「俺のために生きてくれるなら、言うこと聞いてくれるでしょ」
 少し悩んだあと、シャーナはこくりと小さく首を下ろす。





「主人に体を洗わせるなんて、そんなの従者失格だよう……」
「俺もそう思う。こんな優しい主人いねえ」
「優しくない! ラムズは全然優しくない!」
「優しいよ。そう思ってるだろ」
「思ってない……思ってないし」
「いくら心読まれても口では否定するシャーナ、嫌いじゃないよ」