無題

「隣、座ってもいい?」


不意に呼びかけられ、干し肉を頬張ったまま顔を上げた。暗がりに華奢な影。聞き慣れない声だったが、私はその持ち主を知っていた。眉をひそめつつも頷き、床に置いていた干し肉を膝に移す。影は軽い足取りで近づいてきて、私と同じように胡座を組んだ。そして手のひらを上に向ける。


「やっぱり。あなた、フォクシィの獣人よね」


少女は魔法の光を手に、私を見つめていた。白と橙を混ぜたような仄かな光が、彼女の肌に反射する。埃でくすんだそれを見て、私は目を細めた。赤髪で視界が燃える。


「眩しいから、消してくれる?私夜目がきくの」
「あ、ごめん」


少女は光を消した。再び闇に包まれる船内。さっきの光で目がやられて、何も見えなかった。苛立ちを吐き出すようにため息をつく。


「何か用?」
「え?だから、フォクシィの獣人よねって」
「そうだよ。見たらわかるでしょ」
「今何も見えないわよ」
「……さっき見たでしょ」


ようやく目が慣れてきた。少女は私の方を向いてるようだけど、残念ながら30センチルはズレている。声の位置でわからないのかな。鈍い子。こんな子に彼が現を抜かしていると思うと、腹の奥がぐつぐつしてしょうがなかった。

少女の手が辺りを探る。どうやら、自分で置いた食べ物を見失ってしまったらしい。私はしばらく傍観してから、今度はため息を噛み潰して手を伸ばした。


「ここ」


少女の手首を掴んで、食べ物まで導いてやる。少女は一瞬体を縮こめたが、すぐに力を抜いて私に腕を委ねた。豆だらけの指が食べ物に触れる。


「ありがとう」
「……どういたしまして。あんた、どこか他のところで食べたら?ここじゃ不便でしょ」
「そうね。でももう一つ聞きたいことがあるの」
「何?」
「サフィアっていう男、知らない?」


ゆっくりと首を回し、隣に座る少女を見つめた。彼女も目が慣れてきたのか、正確に私を捉えている。それでも、夜目のきかないその目じゃ、表情まではわからないだろう。私の目が冷え切っていることに、きっと彼女は気づかない。


「知らない」


今日彼女が何度も受けたであろう答えを、私も淡々と口にした。彼女は時間を置いてから、「そう」とだけ返してきた。明らかに落ち込んでいるその声を聞いて、苛立ちと喜びが同時に生まれた。ほんと、わかりやすくて、素直で、可愛らしい子。それじゃあ行くわね、と立ち上がった彼女の肩は、来たときよりもさらに細く、頼りなく見えた。


「あ、そういえば、あなた名前はなんていうの?」
「……レヴィ」
「レヴィね。私はメアリよ。今日からこの船に乗ることになったの、よろしくね」


メアリはわずかに口角を上げた。背筋はすでに伸びている。弱みを見せようとしないそのたくましさに、私も口角を上げて返した。知ってるよ。知ってるから嫌いなんだよ。そう唇の裏で呟き、よろしく、とだけ声にする。


「ねえ、リサって女の子を知ってる?フォクシィの獣人で、去年までわたしと旅をしていたの」
「知らない。私、フォクシィの知り合いはほとんどいないから」
「そう、残念だわ。どうしてるか知りたかったから」


メアリはバサバサとほうぼうに伸びた睫毛を伏せた。顔を洗ったら、ずいぶん綺麗に整いそうな睫毛だ。顔の美しさなんて彼にとってはどうでもいいのに、胸が疼いて唇を噛んだ。


「……サフィアは、なんなの?その人も昔の知り合い?」


白々しく聞いてみる。メアリの目が戸惑いを孕んで揺れた。しかし、それはすぐに平静を取り戻し、私を真っ直ぐに射抜く。


「そうよ。ずっと探してるの」
「どうして?」
「それは言えないわ」


じゃあね、と言ってメアリは背を向けた。足音と共に離れていく。揺れる赤髪を目で追いながら、沈みゆく気持ちを誤魔化すように干し肉を食いちぎった。





ノックもせずに船長室の扉を開けた。船長のラムズは正面の机についていたが、宝石磨きに集中しており全くの無反応だ。私は大股でラムズに歩み寄り、するりと彼の腕に体を通した。膝に座り込み、視界を遮らないよう身を縮めて、ぎゅうと胸に抱きつく。耳を寄せたそこからは、何の音も聞こえてこなかった。

ラムズは私の存在など意に介さず、宝石を磨き続けている。背後でコトリと音がして、一つ磨き終わったことがわかった。いつもならそれを所定の場所に戻して、別の宝石を持ってきてやるところだが、今日はその気力もなかった。ラムズの胸に顔を埋めて目を閉じる。いっそこのまま眠ってしまいたいのに、夜行性のせいで欠片も眠くない。

ラムズは五つ宝石を磨き終わると、唐突に立ち上がった。私は彼の膝から滑り落ち、床に尻を打ちつけた。キャンとフォクシィ寄りの声が出る。彼は私を見ることさえせず、机の上の宝石を一つ一つ棚に戻していった。私は床に横たわったまま、ふてくされて彼の足が動く様を眺める。靴底を囲むように縫い付けられたダイヤモンドが、月明かりを受けてちらちらと瞬いた。


「邪魔」


新しい宝石を持って戻ってきたラムズが、ようやく私に視線を落とした。私はごろりと体を転がし、仰向けになってラムズを睨みつける。夜の海のように深い青色をした"左目"と、取ってつけたように美しく透き通った右目を。


「私、機嫌が悪いの」
「だろうな」
「わかってるならなんとかしてよ」
「俺が?」


ラムズは鼻で笑った。足先で私の肩を蹴り、机の前からどかそうとする。私は大袈裟にため息をついて体を起こした。彼の背後にかかるカーテンに触れる。夜空の星のように宝石が散りばめられたそれを引き、隠し扉を開けて中に入った。

棚上に置かれた籠を引っ掴み、トメトを一つ取り出す。それを右手に持ったまま、魔法でグラスとウォッカのボトルを引き寄せた。トメトを宙に放って浮かせ、グラス上で静かに潰す。飛び散った果汁は左手に吸い込み、浄化魔法で消し去った。


「レヴィ」
「何」
「今日はウォッカを多めにしてくれ」


言うと思った。機嫌のいい日はいつもそうなんだから。ラムズが席を立ちもせず声をかけてきたことにも、機嫌がいいことにも、頼まれてもいないのに彼のお気に入りの酒を作りだす自分にも腹が立って、私はグラスを荒く揺らした。ドロドロの果肉が溜まったそれに、ウォッカを"多めに"加えてやる。ああ、何百回嗅いでもこの匂いには慣れない。魔法で中をかき混ぜて、ようやくグラスを手に下ろした。ラムズのもとへ持っていく。


「はい」
「飲ませて」
「魔法でできるでしょ」


そう言いつつ、椅子の肘掛けに座ってラムズの肩に腕を回した。反対の手に持ったグラスを、色も形も薄い彼の唇に押し当てる。ラムズがわずかに顎を上げるのに合わせて、そっとグラスを傾けた。赤黒い液体がゆっくりとガラスの表面を滑っていく。

ラムズが微かに唇を開けた。視線は手元のティアラに向いたままで、止まることなく宝石を磨いている。彼は浄化魔法で一気にたくさんの宝石を綺麗にすることができるのに、触れたいからといって毎日こうして宝石磨きに勤しんでいる。ラムズの手元を一瞥し、私は胸に広がるどす黒い感情を抑えた。流れゆくブラッディメアリーに集中しようとする。

三口分は入っただろうというところで、グラスを立て直した。口を閉じたラムズは、平然とティアラを机に置いた。今度はブレスレットを取り上げる。あれだけ流し込んでも、彼の頬が膨らむことも、彼の喉が動くこともない。ただ、上唇がほんの少し赤色で縁取られていた。

私はグラスを机に置いた。空いた手でラムズの頬に触れる。そっと体を倒して彼の方に身を寄せ、べろりとその唇を舐めた。

舌の痺れる感覚に顔をしかめる。この飲み物のどこが美味しいのかわからない。ラムズは一度ブレスレットを月光に透かし、また同じところを磨き始めた。私は肘置きからラムズの膝上に移動し、今度は机に向いて宝石磨きを手伝うことにした。ブレスレットの隣にあった指輪を手に取る。


「あの子のことも、こんな風に大事にするの?」


ラムズは答えなかった。長い沈黙が流れて、ラムズはブレスレットを、私は指輪を磨き終わった。ラムズは指輪を確認することなく棚に戻し、また別の宝石を選び始めた。その後ろ姿を見つめながら、私はそっと唇を噛む。

ラムズの宝石に触れられるようになるまでに、百年以上かかった。宝石磨きを手伝うようになってからも、磨きが甘いと言われて何度も何度もやり直した。それが今では、よく磨けていると褒められることもある上に、触れるだけでなく持ち出すことさえ許されている。宝石に触れていいくらいだから当たり前だけど、彼の体に触れても、舐めても怒られないし、船員の仕事をやらなくたって咎められない。操舵手のジウには、特別待遇で羨ましいねとよく皮肉られる。

特別待遇。そう、この船で最もラムズに近いのは私だ。だけど。

……だけど、私はラムズの"宝石"じゃない。


「レヴィ」


名前を呼ばれて顔を上げた。ラムズが何かを放ってくる。慌てて手を伸ばし、すんでのところで受け止めた。片手から溢れるほどの大きさのそれは、球に形作られた水晶だった。


「ちょっと、落とすところだったじゃん!」
「お前はそんなことしねえよ。それ、覚えてるか?」
「覚えてるからこんなに怒ってるんでしょ?あの子、機会があったら殺してやるから」


ラムズはくっくっと笑った。左目の宝石がゆらゆらと揺れる。しかし右目は形を変えることなく、唇も浅く開いたままピクリともしなかった。動かない表情から滲み出る嘲笑が、じわじわと私の怒りを奪っていく。彼が何を言いたいのか、わかるような気がした。


"お前はそんなことしねえよ"。