生き抜くためなら死んでもいい

 ニュクス王国の女王をとおして、|悪魔《デモン》教の大司教よりラムズに呼び出しがかかった。普段使わない廊下を歩いて、宮殿内の小さな客間まで足を運ぶ。おそらく秘密裏に会合を開く際に使われるものなんだろう。

 扉を開けば、下座の席に初老の男が座っていた。みすぼらしい灰色の布を体に巻いている。品行方正、質素倹約などを教義に掲げている教会のトップだ。あえて飾り気のない服を着ているのだろう。
 足音に気付いたのか、男が立ち上がりラムズのほうへ振り返る。

「突然のお呼びだし、申し開きもありませぬ……。どうか、何卒貴方様のお時間を頂戴賜りたく──」

 大司教の男はラムズを一目見るなりそう言って挨拶を交わす。
 頭を垂れて跪かれるのも、蔑まれ野次を飛ばされるのも、ラムズにとっては見慣れた光景だ。どちらの姿の人間を見てもなんの感情も覚えない。しいていうなら醜く滑稽か。ひとりでに嘲笑に唇を歪めそうになる。

「なんの用だ」
「っはい。ひとまずこちらにお座りいただければと……」

 大司教は顔を上げると、上座に据えた大振りの肘掛椅子に視線を移した。黒塗りのレザー調ソファだ。

「俺はお前らの神になったつもりはねえんだが」

 ラムズはそう言って軽く笑う。大司教は慌てて首を振った。

「そ、それはもちろんそうでしょうとも……。差し出がましい真似を致しました。ただその、私は少し腰を痛めておりまして……」
「好きに座れ」

 手をひらひらと振ると、大司教は安心したように最初に座っていた場所へ腰を落とした。ラムズは扉付近の壁に背を預けると、両眼の青をすがめた。話をしろと促されていると気付いたのか、大司教はおずおずと言葉を発しはじめる。

「ラピスフィーネ殿下のお話です」ラムズは表情を変えなかった。「殿下はそれはそれは敬虔な信徒ですから、よく私たちの礼拝堂に足を運んでくださり、告解室にてご自分のお話をよくされるのです。ただ先日、あるお話が……」

 大司教は言いづらそうに言葉を濁す。顔を上げて、顔の前でゆるゆると皺だらけの手を震わせた。

「も、もちろん、教えのとおり彼女がお話した内容を他者に伝えることは本来致しません。ですが今回は……」
「余計な話はいい。端的に話せ」

 大司教はびくりと肩を一度震わせたあと、ゆっくりと首を下ろした。

「殿下が貴方様と行為に及んだという話をフィアーユ派のシスターが聞いてしまったのです。ふだんは殿下がいらっしゃる時間にはクァルト派のシスターを担当させているのですが、その日はたまたま……。シスターは『どうしても』と私のみに話を持ち寄ったのです」
「あー……」足を入れ替えて立ちなおす。「俺があいつの言うことを聞いて抱いたこと、しかもそれが優しかったとかなんとか──ラピスフィーネが言ったんだな?」
「仰るとおりです。シスターは大変混乱してしまい……。貴方様が行為に及んだことはまだしも、殿下が自ら望んだことはクァルト派のシスターの理解の範疇を超えたようで……」
「だから早くフィアーユ派をクァルト派に引きこめと言ったのに」

 大司教は首を縮こめる。

 ニュクス王国の国教である|悪魔《デモン》教。これは現在、水面下でふたつの宗派に別れつつある。
 元来の教義を忠実に守るフィアーユ派は、あくまで悪の根源を悪魔とし、その恐ろしい悪魔から遠のくことをよしとしている。だがそこから一歩進んだクァルト派は、恐ろしい悪魔という認識は変わらないが、恐怖が畏怖に変わり、現在はどこか悪魔を神聖視するような考え方を持っている。
 これらの呼び名は新しく派生したクァルト派側から区別するために付けられたものであり、フィアーユ派は、クァルト派が存在していることすら気付いていない。

 クァルト派である宮殿内の王妃、王などからすれば、ラピスフィーネがラムズに行為の申し入れをしたことはなんらおかしいことではないが、フィアーユ派からすれば、忌むべき悪魔と行為に及んだとして猜疑心を抱かれてしまう。
 幸いにして|悪魔《デモン》教のトップである大司教はクァルト派であるものの、教会内のシスターたちはまだ明確にその立ち位置を定めていない。このままクァルト派のシスターがラピスフィーネに猜疑心を抱いたままでいれば、いずれ今回の事実が明るみにでて問題となるだろう。

 大司教は続ける。

「現在は告解の守秘義務を破った者として懺悔室に入れております。とはいえ、教会内ではなぜ彼女が守秘義務を破ったのかとさまざまな憶測が飛び交っており……。私のほうで適当に解決するのは貴方様にとっても都合が悪くなるやもと思い、こうしてお会いしようと考えたのです」
「すると、単純にそのシスターを殺すのも手だが」

 大司教が慌てて遮った。

「そ、それは! もちろん貴方様の行動に口を挟むのは出過ぎたことと存じますが、それでも……不審な死が起こればまたも──」

 ラムズの冷ややかな目に晒されて、大司教は自分が彼の言葉を遮ってしまったことに気付いた。

「も、申し訳……」
「いい。そいつを殺すつもりはねえよ」

 わざわざ大司教に説明されずとも、解決手段にならないことはわかる。時間をおいて殺せばまだカモフラージュできるかもしれないが、すぐのタイミングはまずいだろう。

「そのシスターはクァルト派の|気《け》はあるか?」
「いえ……むしろフィアーユ派の筆頭と言ってもいいほど、悪魔たちを嫌い、恐れております。またなにより、神を神として信仰している節もあるようなのです」
「既に神がいるんじゃあ、取って変わるのは厳しいかな」冗談半分に笑う。「とはいえ、いずれは邪魔になる」
「そのときは……」

 大司教は何も言わなかった。
 ラムズは壁から背を離した。

「ラピスフィーネは、次いつ告解にくる?」
「おそらく、四日後の六時ごろでしょう。夕餉の終わりに足を運んでおられますから」
「じゃあその時間、例のシスターに仕事をさせておけ。それ以外の者には聖堂へ近づかせるな」
「はい、そのように」
「あと同日ニヒルの降りる前、クァルト派に引きこめそうなシスターを呼んでおけ」
「何かお考えがおありで?」

 ラムズは美しく微笑んだ。

「悪魔を好きになってもらえるよう、手を尽くすよ」

 彼は大司教のほうへ近付く。角張った骨の出た手をそっと取り上げた。黒い染みだらけのその手を、皺ひとつない白く細い指が握る。大司教は顔を上げた。

「ありがとう。俺たちのために」

 大司教は瞬いて、深く首を下げる。

「私は自分の心に従ったまで……。貴方のような者がこのような端くれだった手を取るなど……」

 彼にとって、ラムズは崇拝対象だった。神にも等しき美しく気高い存在に手を握られるなど、思ってもみないことだ。

「俺はそんな美しい存在じゃねえよ。なにより、これから“悪魔”になりにいくんだから」

 寂しそうな笑みをひとつ落として、ラムズは部屋を後にした。