甘えたがり

「サフィアーー! サフィアってばあー……」

 ラピスフィーネがラムズの腰を掴み、ずるずると引っ張った。ラムズはあきれ声を出す。

「お前はほんっとお転婆なお姫様だな。もう少し姫様らしくしろ」
「お外ではしているわよ? いつも毅然とした態度だと思わなくて?」
「……だがそうやって俺の服を引っ張ってると、子供にしか見えん」

 ラピスフィーネは掴んでいた手を下ろして、ぷうと頬を膨らませた。長いスカートを持ち上げながら、しずしずとソファの方へ座りに行く。
 ラムズは溜息をつきながら、ドアノブにかけていた手を外し、彼女の方へ近付いた。

「何をしてほしいんだ?」

 いくぶんか優しい声色になったラムズを見て、ラピスフィーネは顔を上げる。

「まだ行かないでほしいの。明日までいてくれたもよくてよ……」
「明日になったら、また明後日も一緒にいろって言うだろ?」

 ラピスフィーネは拳を握る。

「だって……寂しいんだもの」
「女王もいるし、お付きのメイドはいるだろう? 婚約者も近くにいるじゃねえか」
「あんなお人……おかしいんだもの」
「おかしいのが好きなんじゃねえの?」

 ラムズのからかいを含んだ声に、ラピスフィーネはきっと声を張る。

「悪魔とは違うわ! 人間だもの。|光神《カオス》教のお人なんて、信じられなくってよ」
「お前に酷いことでもすんのか?」
「しないけれど……私のことなんて見向きもしないわ。いつもお父様やお母様のご機嫌をうかがってばかり。何を考えていらっしゃるかわからないの」

 ラムズは真面目な声で言った。

「──なるほど、王子にこの国を乗っ取られるのは困るなあ」

 ラピスフィーネは隣のラムズの膝に手を載せる。

「そうでしょう? そうでしょう? それなら私の言うこと、もう少し聞いてよ」
「聞いたらなにくれる?」

 ラピスフィーネはハァと溜息を吐き、椅子から立ち上がると化粧台のそばまで歩いていった。引き出しから大粒のダイヤモンドでてきた香水を取り出すと、それを自分にかける。
 そして香水を持ってラムズの元に戻ってきた。

「……気に入ってるのに」
「ラピスフィーネは優しいな?」

 むぅっと口を尖らせたあと、すとんと腰を下ろした。

「香水の中身が気に入ってんなら、他の容器に移してきてやるよ」
「本当ですの? ……でも、そんなことできて?」

 ラムズの唇が弧を描く。

「俺にできないことなんてあると思うか?」
「ないわ。いいえ、むしろ私の頼みを『いいえ』とは言わせなくてよ」
「よくできました」

 ラムズは彼女の頭を優しく叩くと、彼女は少し頬を赤らめた。

「それで、王子様とは仲良くする気がねえのか?」
「ないわよ……。サフィアが王子様になってくださればいいのに」

 ラムズは苦笑しながら答える。

「それはちとだるい。王様なんて、面倒なことしかねえだろ」
「それは私もよ。でももう少ししたら、こうしてサフィアとお話する時間も……」

 彼女がまた拳を握りしめているのに気付いて、ラムズはその彼女の手を優しく包んだ。

「少しくらい仕事も手伝ってやるから。そんな顔すんな」
「……サフィアは、優しいのね」
「無視して宝石でも見てた方がよかった?」

 ラムズがそう言って笑うと、ラピスフィーネは少しだけ考える素振りをした。

「もしそうしても、私はサフィアを嫌いにはならなくてよ」
「だが、落ち込むだろ?」
「……落ち込むかも……しれないですわ」

 ラムズは彼女の肩に手を回し、自分の体にもたれかからせた。ラピスフィーネは満足そうに体を近づけて、彼の服に頬を当てる。
 男の人の体を感じて、不意にまたリジェガル王子のことを思い出した。

「私……リジェガル王子と……」

 さすがにラムズの前であっても、これ以上のことを言うのははばかられた。女であり、姫である自分が口にしていいことではない。
 ラムズは首を傾げて彼女を見下ろした。

「どうした? なんの話だ?」
「……なんでもないですの」

 ラピスフィーネはさらに顔を曇らせる。
 聞かずにいてもいいのだが、聞かなければ始終落ち込んでいるかもしれない。それはそれでまた明日城を出られなくなると思い、ラムズはとにかく聞き出すことにした。

「話せよ」
「嫌ですの」
「なんで? 俺に言えないこと?」

 ラピスフィーネは彼の服をぎゅっと掴む。かぼそい声で返した。

「その質問は、ずるいですの」
「知ってる」

 ラピスフィーネは小さな拳で、ラムズの膝を叩いた。

「俺ができることならなるべく解決してやるから。話してみろよ」
「サフィアは……男のお人ですもの。話せなくてよ」
「悪魔は男も女もねえぜ?」
「……そうでした。でも……私にとっては、サフィアはいつも男のお人ですもの。同じことですわ」
「分かった分かった。男じゃなきゃいいんだろ?」
「……え?」

 ラムズは立ち上がると、目を瞑ってすうと息を吸った。彼の体が流体のようにうねり、顔つきや体つきが少しずつ変化していく。先程まではちょうどぴったりだったサイズの騎士の服が、少しシワができた。身長が10センチルほど下がり、ラピスフィーネとほとんど変わらない高さになる。
 銀髪はさらりと長く伸びていき、腰元まで伸びたあとにふわりと待った。顔つきは丸みを帯び、ほんの少し瞳が大きくなる。

「さて、これでいい?」

 透き通るように美しい声。ラムズの低い時の声とは違った趣があるが、どことなく冷たい温度を纏っている。

「えっと……あの……」
「見たのは初めてだったね。驚かせた?」

 口調はあまり変わらなくとも、声色が明るいだけで大分印象が違う。だが、どこか憂いを帯びた目付きや、神秘的な美しさを秘める表情は、先程の男の時と変わらなかった。

「えっと……本当に、女の子になって?」
「もちろん。触ってみる?」

 ラピスフィーネが立ち上がると、5センチルほど高いサフィアが彼女の手を取った。手すら男の時とは違う。少し柔らかい感触で、男の時よりも滑らかだ。
 サフィアは迷わず自分の胸元に手を当てた。自分よりも少し大きめの膨らみに、柔らかく指が沈んだ。

「……ちょ、ちょっと! 女の子がこんなことをしたらいけませんわ」
「男でも女でもないから。いいの」
「よ、よくないですの……」

 ラピスフィーネはどきまぎしながら彼女を見上げた。男の時も緊張を覚えることが多いが、女の時でも同じくらい緊張する。自分よりも綺麗に見えるし、透明感のある肌や整った唇、鼻筋は羨ましいくらいだ。

「私よりも、かわいいですの……」
「そりゃね。ラピスフィーネよりかわいくしたから」

 ラピスフィーネがむうっと唇を尖らせる。サフィアは優しく声をかけた。

「けど、私はラピスフィーネの方がかわいいと思うな」
「そ、そんなことありませんわ」
「そうだよ? その大きくて吸い込まれるような瞳も、艶めいた唇も、蒸気した頬も、食べちゃいたいくらい、かわいい」

 さっと顔を背けて、ラピスフィーネは早々とソファに座り直した。女の姿なはずなのに、男の時と同じくらいドキドキする。いやむしろ、男の時はこんな台詞言わないのに。

「いつもはそんなこと言わないのに。……どうして意地悪するんですの」
「まあ、女の見た目なら多少言いすぎても大丈夫かなって」

 彼女の高い声が聞こえる。

「大丈夫じゃないですの。サフィアはサフィアだわ」
「そうだな」

 サフィアは彼女の頭をぽんと撫でると、隣に腰を下ろした。

「それで、悩んでたことってなあに?」
「……女の子になったからって、話せるわけじゃないわ」
「えー、これ大変なんだけどな」
「そうなんですの?」
「そうだよ。一旦姿を変えたら、1週間は怪我が治らなくなるんだ。だから気をつけて生活しなきゃならない」
「それじゃあ……刺されたら、サフィアは死んでしまうの?」
「まさか。死にやしない。ただ血が流れ続けるってだけ」

 ラピスフィーネはほっと息を吐いた。

「だが、ずっと流れてたらおかしいだろ?」
「そうですわね」
「だから普通はしないんだよ? この姿になって、変えたのは今回が初めて」
「本当に?! 嬉しい!」

 ラピスフィーネは手を合わせて喜んだ。サフィアはそれを微笑ましそうに眺めたあと、彼女の髪を弄びながら尋ねる。

「どうせ姿変えたなら、ラピスフィーネがなってほしい姿に変えてあげる。魔物でも、他の使族でも、知り合いでも、誰でもいいよ。私が知っているものなら」
「なんでもなれるんですの?」
「もちろん」

 ラピスフィーネは少し考える素振りをしたあと、恐る恐る言った。

「サフィアの……本当の姿を見たいわ」

 女の子の姿をしたサフィアは、肩を落として首を振った。

「それはしたくないな」
「どうしてですの?」
「ラピスフィーネには見せたくないからだよ」
「誰なら見せるんですの?」
「誰にも見せないよ」
「……誰にも? 同じ悪魔にも?」
「同じ悪魔は、見せなくても見えちゃうから。けど、それ以外は見せないよ」

 ラピスフィーネは俯いて息を吐いた。でも、またふと思い立って顔を上げる。

「あの子は? あの……赤髪の」
「ああ……メアリね。メアリにも見せないよ」
「どうしてですの? サフィアにとって、メアリは……」
「宝石だね。──お前も、メアリもそうだけどな」

 サフィアに首をすくわれ、淡い青の瞳が綺麗に瞬いたのが見えた。

「私なんかよりずっと美しい。だから、自分の体は見せたくないんだよ。あまりにも違うから」
「……私は醜いなんて思わないわ!」
「そうかもな。今までも、そう言ってくれる人はいたよ」

 サフィアは寂しそうに笑った。

「でも、それでも驚くだろうし、気を遣うと思う。それに私自身が嫌なんだ。だからお願い。これは諦めて?」

 彼女に上目遣いでそう言われると、ラピスフィーネは頷くしかなかった。男の時ならまた違う風に頼んだんだろう。でも、サフィアは男の時も女の時も、自分の魅力を一番に分かっている。
 かわいらしくお願いされれば、いくら同じ女であれど、無理強いすることはできなかった。

「わかったわ。その代わり、他の方にも見せたらダメよ?」
「見せないよ。安心して」

 サフィアは悪戯っぽく笑い、ウインクして見せた。

「それじゃあ、悪魔っぽい姿になってほしいわ」
「悪魔っぽい姿?」
「昔の悪魔は、もっと色んなものをつけていたんでしょう? 角とか、牙とか……」
「ああ」

 サフィアはふっと笑い、すくりと立ち上がると音を立てて指を弾いた。すると彼女の頭からは禍々しい角が2本現れ、指は人間の指から黒く尖った鉤爪に変わる。履いていた靴はいつの間にか踵のない長い二本指に変わっており、それも指と同じように黒く濁っている。

「……素晴らしいわ! 昔は、こういう悪魔がたくさんいたの?」
「んー、そうだね。中にはこういうのが好きなやつもいたよ」
「サフィアは? どうしていたの?」
「俺はなあ」サフィアは一つ咳払いをして言い直す。「私は普段は生やしてなかったよ。でも、必要な時は爪とか使ってたかな」

 サフィアは彼女に一歩近づくと、鉤爪を首筋に当てた。

「ほら。凶器が必要ないから、楽ちんだろ?」

 ラピスフィーネはぞくりと鳥肌が立ち、なんとも言えない多幸感を覚えた。

「それで……殺すの?」
「そうだよ。殺してほしい?」

 可憐な少女の唇が、怪しくぐにゃりと曲がった。ラピスフィーネはスカートの裾を掴む。

「冗談だよ。ラピスフィーネのことは、守りはすれど、殺しやしない」
「そうなの」

 サフィアは歩きづらそうな足で絨毯を踏んだあと、また隣に座った。

「じゃあ、さっきの、教えてくれる?」
「まだ諦めていなかったんですの?」
「もちろん」

 ラピスフィーネは目を泳がせたあと、そっとサフィアの角の方に手を伸ばした。襞のようにめくれあがった部分が何枚かあり、指を滑らせるとその皮がめくれそうになる。でも角自体は滑らかで、角の先は少し触れただけで血が出そうなくらい、とても鋭利だ。

「怪我しないように、気をつけてね」
「……ええ。これ、すごいわね。初めて見たわ」
「たしかにこの形の角を持ってる使族はいないからね」

 ぐるんと先が曲がった角は、|妖鬼《オニ》やパーンのものとは全く別物だ。神聖な雰囲気すら感じられる。しばらく撫でたあと、ラピスフィーネは力なく手を下ろした。

「リジェガル王子……とね」
「ああ」
「お子を……作らないと、いけないでしょう? それが、その……」
「そっか、怖いんだね」

 サフィアは彼女の目線に合わせて、優しく微笑んだ。彼女の仕草や顔つきを見ていると、やっぱり女の子にしてもらってよかったかもしれない。
 ラピスフィーネは力なく頷いた。

「あいつと色々すんのが嫌なのか?」
「そう……ですわね。よく知らないお人だもの。それにお慕いしている方でもないもの」
「好きな人ならいいの?」

 ラピスフィーネはゆっくり頷いた。

「でも、そんなの無理だって分かってますの。私は王女だから、好きでもない方と結婚する運命なのよ……」
「お前もお姫様だから、恋に憧れるのか?」
「誰でも憧れるわ! 女の子なら! かっこよくて素敵な人と恋に落ちて、守ってもらうのよ!」

 目がいつもより輝いているラピスフィーネを見て、サフィアはふふと笑った。

「今は好きな人がいないのか?」

 ラピスフィーネははっとした顔でサフィアを見たあと、急いで目を逸らした。

「……いるけど、叶わないもの」
「どうして?」
「……好きになって、くれないもの」
「それってさ、俺のこと?」

 突然さっきより低い声が耳をさらって、ラピスフィーネは驚いて目を瞬いた。いつの間に、女の子から元の姿に戻っている。

「ず、ずるいですわ。今のタイミングで戻るなんて」
「つい。面白くて」
「……さ、サフィアじゃないですわ!」
「そっか、残念だな」

 ラムズが落ち込んだように項垂れて、ラピスフィーネは目を向ける。

「落ち込んだフリをしてもいけませんのよ。サフィアは私が好きかどうかなんて、気にしないわ」
「たしかに。分かってるじゃん」

 ニヒルに笑うラムズを見て、ラピスフィーネはほうっと息を吐く。

「と、ともかくそういうことなの。リジェガル王子なんて、嫌ですわ」
「けどじゃあ、どうすんだ? やらねえと怒られんだろ?」
「……サフィアが、連れ出してくれればいいのに」

 ラピスフィーネがか細い声で呟いたのを、ラムズは聞き逃さなかった。彼女の頭に鉤爪の腕を回し、優しく胸元に引き寄せる。

「そうだな、ごめんな」
「……思ってないでしょう?」
「思ってるよ」

 嘘だと思ったが、嘘とは言わないだろう。ラピスフィーネは彼にされるがまま、腕の中で心臓の音に耳をすませた。

「ラピスフィーネが望むなら」

 ラムズはそこで言い直した。

「フィーネが望むなら、可能な限りなんでも叶えてやる」
「……私がリジェガル様と致さなくても、子供が生まれるようにはできませんの?」
「んー、そうだなあ」

 ラムズは少し考えたあと、頷いた。

「やれなくはねえ。フィーネに魔法をかけて、妊娠したように見せ、どこか違うところから赤ん坊を拾ってくる」
「拾ってくるって、そんなことをしたらその赤ちゃんのお母様が……」
「大丈夫。探されないように、捨てられた子を拾ってくるから」
「捨てられた子……」

 フィーネは俯いた。

「お前が本当にしたくないなら、やってやるよ。女王様やリジェガル王子にはバレないように」
「だけど、リジェガル王子がおかしいと思うわ。致していないのに、お子がいるだなんて」
「んー、じゃあ俺が、お前に変身してリジェガルとヤってきてやるよ」
「えっ?!」

 ラムズの腕の中で、ラピスフィーネは顔を上げた。

「だってしたくねえんだろ? 大丈夫、お前のことはよく知ってるから、ちゃんと演技してやるよ」

 ラピスフィーネは複雑そうな顔で、またラムズの胸元に顔を埋めた。

「でも……もしバレたら……」
「絶対バレない。誓うよ」
「本当に? お母様にも?」
「ああ。万が一誰かが怪しんでも、魔法でなんとかしてやるから」
「そんなこともできるの?」
「俺はなんでもできるんだろ?」
「……ええ、そうよ。そう」

 ラムズは彼女の髪を、器用に鉤爪ですいていく。

「だから安心しろ。フィーネは、俺がいる限り悩むことなんてねえから」
「……本当に?」
「本当」
「……じゃあ、私の“王子様”は?」

 ラムズはくくっと笑って言った。

「探して来いって?」
「……いる、けど」
「俺はお前のこと愛しちゃいねえけど、大事にしてやってんだろ?」
「でもそれは、宝石を渡すからだわ。もし私が王女じゃなくなったら──」

 全て言い終わる前に、ラムズが遮った。

「フィーネが王女じゃなくなっても、大事にしてやるよ」
「嘘よ」
「嘘じゃねえよ。王女じゃないなら、一緒に船に乗せてやるから」
「でも……私は狩りはできないわ」
「できなくていいよ。船長室にいればいい」
「何もしなくていいんですの?」
「ああ。お前が死ぬまでは、面倒見てやる」
「……大変ではないの?」
「そりゃちとめんどいが、俺はそんなに非情じゃないぜ。今よりお願いは聞いてあげられねえかもしれないがな」

 彼が言っていることは本当なのだろうか? 悪魔にしては優しすぎる気がする。ラムズが彼女の頬を鉤爪でつついた。

「こっち向け」
「……サフィア」
「そんな顔すんなよ。せっかくもう一日いることにしてやったんだから」
「そうですわね。でも、恋が叶わなくて悲しいの」

 ラムズはくくっと笑って、彼女を優しげな瞳で見つめた。

「俺がお前を愛してなくても、お前は俺のお姫様だよ」

 ラピスフィーネは彼の服を掴んだ。

「本当に?」
「本当に」
「サフィアは……悪魔でしょう? 私のことを見捨てないの?」
「見捨てることをお望みなら、仰せのままに」

 ラピスフィーネはくすくす笑って、彼の腕に触れた。

「分かったわ。優しい悪魔さん」
「ああ」