星を奪うイルミネイト
ステンドグラスのバラ窓は、聖堂に飾られた蝋燭の柔らかな光で鮮やかに煌めいている。あと一時間もすれば深夜だ。薄暗い聖堂のなか、ぼんやりたゆたう小さな蝋燭の|焔《ほのお》が美しい。ところどころ青白い月明かりがステンドグラスから差して、床を白く光らせている。
夜半前のこの時間が、どこか神秘的なような気がしてラピスフィーネは好きだった。
彼女が何列か並ぶ椅子のあいだを通って祭壇に近づいたとき、暗がりに大きな影があるのに気付いた。祭壇の向こうに、バドルの翼を付けた悪魔の首筋を剣で突き刺した銅像があるが、その翼と同じくらい大きな影だ。
何歩か進み、本当に翼があるのがわかった。銅像に取り付けられた翼とまったく同じ形、模様、作りをしている。悪魔の翼をつけた男が|胡座《あぐら》をかいて祭壇に座っているようだ。
頭には、これもまた銅像と同じ角が生えている。頭頂部から顎の先までぐるりと曲がった二本の長い角は、先が鋭く尖っている。|臍《へそ》から下は皮膚が黒ずんでおり、美しい刺繍が施されたグレーの腰巻の下から異形じみた脚が見える。
彼はこちらに背を向け、顔を上げて銅像を眺めている。
「……だれ?」
震える声をなんとか押しとどめて、彼女は声をかけた。小声で話しかけたつもりが、思っていた以上に聖堂内で音が反響した。
男が首をひねる。大振りの翼がばさりと音を立てる。月明かりが翼に遮られ、辺りが陰った。
「待ってたよ」
青く光る瞳と、耳を突き抜ける澄んだ氷のような声に、彼女ははっとして目を瞬いた。
「……ラムズ?」彼女はすぐに声色を変えた。「……ッ。悪魔がここでなにをしているのです」
ここは教会内だ。いつものように好意的に接するわけにはいかない。悪魔を嫌う宗派がいることをラピスフィーネは知っていたし、教会に足繁く通う王族とはいえ、教会のすべてが自分の味方ではないとわかっていた。
あえて刺々しい声を出していることに気付いたのか、ラムズがくすりと笑う。
「よくできてるだろ。そっくり同じ」
横向きに座りなおすと、銅像のほうへ顔を向けた。
「は、早くそこから降りなさい。その祭壇は神聖な場所で……貴方が座っていいところではありません」
これは本当だ。悪魔が座ることを想定した場所ではない。大司教ならば許すかもしれないが──。
ともあれ、教会自体は本来悪魔の立ち入りを許可していない。それでも入ってしまうのが悪魔といえばそれらしいが、やはり悪魔であるラムズはこのような場所とは対照的なところで生きているべきだ。
「私も何もしません。人も呼びません。ですから、貴方も帰ってください。ここは悪魔がいる場所ではないのです」
ラムズはこちらを見ないまま、ぽつりと零す。
「薬が切れてきたかな」
なんの話かわからない。
ラピスフィーネは痺れを切らして、彼のほうへ少し近づいた。祭壇は三段の階段の上に鎮座している。この階段は登りたくない。自分が登る場所でもないからだ。
「早く降りてください」
一段だけ片足をかけると、彼女は手を伸ばしてラムズを掴もうとする。
「“|忌《い》むべき悪魔”に触ってくれんの?」
ラムズはラピスフィーネのほうに少し身を乗り出して、彼女の手を取ろうとした。
ラピスフィーネははっとして腕を引っ込める。フィアーユ派ならばやらないはずのことだ。悪魔に触るなど恐ろしくてできるわけがない。
「これは……その」
もし誰かに見られていたらおかしいと思われたかもしれない。彼女は視線だけを左右に回して辺りを伺う。
「俺が魔法かけたせいだから、気にしなくていい」
なんの話だろう。ラムズが自分に魔法をかけたことなんてないはずだ。
「かわいいお姫さま。前に俺に抱かれたときのこと、覚えてる?」
思わぬことを言われ、ラピスフィーネは驚愕のあと酷い羞恥心に襲われた。しかも、こんな場所で話すようなことではない。
「し、知りません。早く帰ってください。私は告解室に行きます」
彼女が去ろうとしたのを見て、ラムズはさっと腕を掴んだ。冷ややかな温度が体を巡る。
「離してください。やめてください」
「話すだけ」
「せめて別のところで……。祭壇には乗ってはいけません」
ラムズは腕を離すと翼を大きく動かした。軽く飛んで床に降りる。
彼の青白い上半身はネックレスやピアスを付けているだけで、何も着ていない。近くなった距離に動悸を覚えて、ラピスフィーネは一歩後ずさった。
「あと三回するって言ったろ」
こんな話を聖域でするなんて、誰かに聞かれたらまずいのに。彼女は首を縮めながら辺りを見渡した。幸い、シスターがいるような気配はない。
声を潜めて答えた。
「もういいって言ったでしょう? リジェガルとも仲は良いし……」
結婚式を上げてから一ヶ月経った。既に初夜は済ませたし、そのあとの関係も概ね良好だ。もちろん今もラムズに憧憬の念を抱いていることは否定できないが、リジェガルとの関係を壊すようなことは極力避けたいと思っている。
「彼との時間も十分楽しいの。だから──」
不意に体を引き寄せられて、首の後ろに手が回された。抵抗する間もなく唇を奪われる。ラピスフィーネが手で彼の胸を叩こうとすると、背中に回っていた腕が腰に降りた。ぐいと体が近付く。
逃げようと体をよじったが、がっちりと固定されている。
唇を割って冷たい舌が歯茎をなぞる。ぞくぞくと鳥肌が立っていき、体を強ばらせた。その隙を狙ってか口内まで侵され、くちゃくちゃと水音を立てて舌が弄ばれる。彼の舌とは打って変わって熱い唾液が送られ、思わず飲みこんだ。
喉がヒリつく。熱い。唾液のせいか彼とのキスのせいか、全身の力が抜けはじめた。酷い疲労感に襲われ、体の芯を失ったように傾きそうになる。
身を離される。
「すぐ戻る。抵抗されないのもつまんねえから」
ラムズは彼女を横抱きにすると、祭壇の上に座らせた。長いドレスのスカートの裾を掴み、鋭い爪で引っ掻くと臍のあたりまで破いていく。びりびりと糸が裂けていく音が聞こえる。
ラピスフィーネはラムズの腕を掴もうと体を傾けた。
「……っと」手が滑り、自由の効かない体は彼に抱きつくような形で倒れた。「すぐ解いてあげるから。今は大人しくして」
「ねぇやめて。こんなこと頼んでなくてよ。嫌」
「知らねえ」
無残に破られたスカートをラムズは捲りあげ、ショーツに手をかける。
「……ねえ、怖いわ。どうして? 私何かした? お願い、今でなくてもよくてよ。やめて」
ラピスフィーネは彼の手を止めようと腕を伸ばす。さっきよりも体が動くようになっている。本当に一時的に力が抜けていただけのようだ。
腕に触れられ、ラムズの動きが止まった。彼女が安堵の息を零すよりも早く、顔を上げたラムズの青眼に心臓が止まりそうになった。
「大人しくしてろっつったろ」
底冷えする声が耳を穿つ。恐怖に身が竦んだ。こんな声出されたことない。こんな顔で見られたことない。
彼は祭壇に手をついた。手をついたところからみるみる茨が生え広がり、ラピスフィーネの両腕を掴むように伸びた。手首に棘だらけの茎が絡まる。
「嫌だ。わ、わかったわ。抵抗しないから。お願い……怖いの。お願い」
彼は舌を打ちながら小さく零した。
「悪魔を飼ってるのはお前だろうが」
「前みたいに……してよ。どうして今回は……。ねぇ」
ラムズは顔を上げて愛らしい微笑みを見せる。
「気付いてねえようだが、俺が薬盛ったんだぜ? 抱いてほしいって、そう思ってもらえるように」
「は? え? そんな……そんなことなくてよ」
「そりゃ盛られてんだからそう言うだろうよ」
ラムズがなにを言っているのかわからない。宝石を用意したのも、バージンを差し出したのも自分だ。ラムズに操られてやった行為ではない。
「宝石を没収されたら困るから優しくしただけで──悪魔があんなふうに抱くわけねえだろ」
「じゃ、じゃあ何がしたいの!? 私となんてしたくないでしょう!?」
「そりゃそーだ。面倒くせえよ」
ラムズは宝石に対する欲求以外、なんの感情も持ち合わせていない。もちろん性欲もなく、食欲や睡眠欲などほぼすべての生理的欲求が欠けている。
会話をやめれば今すぐにでも犯されるような気がした。ラピスフィーネは懸命に言葉を投げかける。
「り、理由があるなら私がなんとかしましてよ。お願いだからおやめになって。もうリジェガルを裏切るつもりもなくてよ……」
「理由? 理由理由理由……」
しばらく考えるような素振りをしたあと、にこりと微笑んだ。
「お前を虐めたい。壊したい。傷つけて痛めつけて辱めたい」
「は? え、嘘よ……。うそ、うそ……」
「本当」
ラムズは彼女の頬に指を滑らせた。いつもより鋭く尖った黒い爪がつうと皮膚を傷つける。首筋まで冷たい指爪が降りると、喉を潰すように爪を押しつけた。
「泣き叫ぶ声が聞きたい。苦痛に歪んだ顔が見たい。咽び泣き助けてくれと乞い縋るお前が見たい」
首を傾げ、艶やかに微笑む唇から冷え冷えとした声が紡がれる。
呼吸ができない。視界が白んで意識が落ちそうになったところで、手が外された。
「そうだな、頼んでみなよ。うまくできたら解放してやるから」