正しくなくても祈って

 ラムズは彼女の脇に腕を差し入れると、床に下ろしてやった。
 茨の棘で彼女の腕は傷だらけ、スカートはあちこちから糸や布が解れて、だらしなく床に垂れ下がっている。

 ラムズのしたいことが未だにわからず、ラピスフィーネはただただ呆然として床を見つめた。
 今までずっと優しく扱ってくれていたし、たまにあしらわれることはあれど、こんな風に虐められたことはなかった。悪魔だと知ってはいたけど……自分は特別だと、そう思っていたのに。
 そもそも普段とのギャップがありすぎて、本当に彼と話しているのかわからない。あんなに怖かったことなんてない。声が怖いとか表情が怖いとか、それ以上にもっと──心臓を掴まれてそのまま握りつぶされそうになっているような……経験したことのない恐怖が身を包んでいる。
 言葉にならない思いが胸に燻っている。潰されていた喉も、恐怖に震えている心臓も、痛みに悲鳴をあげている。

 いつの間にか祭壇に座りなおしていたラムズが、足で彼女の体を押した。

「チャンスをやったんだから、早くしろよ」

 ラピスフィーネの意識が戻る。顔を上げ、息を大きく飲みこんだ。なんとか恐怖を胸の奥に押し殺し、か細い声を震わせる。

「その……。お願い。せめて優しく」

 そう言いかけたところで、ラムズがしたいのは自分を虐めることだと言っていたのを思い出した。彼女の体を求めているわけではないのだから、優しくしてと頼む意味はないだろう。

「したくない。……虐めないで。お願い、お願い。宝石を渡すから……それじゃあ、だめ?」

 彼女は上目遣いにラムズを見た。

「宝石はもちろんほしい」

 そう言った彼が、いつも自分の前にいたラムズに戻ったような気がした。だがすぐに悪魔じみた笑みを寄せる。

「だが今はその取引には応じない」

 ラピスフィーネは、痙攣する指を隠すように強く握った。

「お、お願い……。痛いことはしたくなくてよ」
「つまらん」

 ラムズが投げやりに放る。さっと手を振ると、先程の茨が床を|這《は》い進んできた。大きく鋭い棘をいくつも拵えた茨は、焦らすようにゆっくりと|蠢《うごめ》き迫っていく。
 彼女は慌てて言った。

「ご、ごめんなさい。どうしたらよくてよ。混乱していて……ラムズがなにを求めているのか、わからない……」

 茨のほうに青眼が向く。ぴたと動きが止まった。

「やめてほしいんだろ。さっさと“お願い”しろよ」

 温度のない声が体を芯まで冷やした。張りつめた不安と恐怖が全身に突き抜けていく。彼女は視線をさまよわせた。

「お、お願い……やめてください……」
「お前、王女だろ。処刑が決まった罪人が命を乞うところぐらい、見たことあんだろうが」
「は? や、いや……」

 床で|跪《ひざまづ》いて“お願い”しろと、この悪魔は言っているのだろうか? 王女である自分に?
 国の最高権力者である自分がそんなことをしていいはずがない。いくら悪魔相手だからって……たしかにラムズのことはほとんど崇拝にも似た感情を抱いてはいるが、それとこれとは話が別なはずだ。
 それにこんな……祭壇にのった悪魔に|頭《こうべ》を垂れるなど──。

「ほら、早くやれって」
「わ、私はニュクス王国の王女です。いつでも|毅然《きぜん》とした態度でいなければいけなくて、だから……。少なくともここは私的なスペースではなく、神聖な……」
「お願いしねえならいいよ。ヤるだけだから」

 止まっていたはずの茨がまた動きはじめた。

「い、嫌、お願い。お願い……お願い」

 床を這っていた茨は見えない壁を登るように浮きあがり、彼女を囲み迫った。ゆら、ゆら、と幾本もの茨が今にも襲いかからんと宙で首を|擡《もた》げている。

「わ、私がそんな……そんな|無様《ぶざま》に頭を……」

 嘲る声が上から降ってくる。

「そうだよ。無様に床に這いつくばって乞うんだよ」

 茨の一部が破れた服のあいだから彼女の太腿に巻きついた。ぎゅぎゅうと絞めつけ、棘が肉に食いこんでいく。赤黒い血が帯のように流れ、茨を|斑《まだら》に色づける。

「いっ、いた……痛い……! 痛い!」

 こんな風に誰かに傷つけられたことはない。
 ずっと王女だった。姫として宮殿内で蝶よ花よと育てられ、指を切るだけでも医者が呼ばれた。それなのに……皮肉なことにいちばん信頼していたはずのラムズに、こんな仕打ちを受けるなんて。痛い。痛い。痛い痛い痛い。

「俺は痛めつけるほうでもいいんだぜ」

 耐え難い苦痛に、彼女はとうとう床に膝をついた。茨が体から離れる。大きく傷つけられたのはまだ太腿だけなはずなのに、体じゅうが何かに|蝕《むしば》まれていくような気分になった。
 どうしてこんなことさせるの、どうして嫌だとわかることをさせるの。今までこんなに……酷い目に遭わせたことはなかったのに。
 瞳から涙が滲み頬に跡を作った。先程の爪で切れた傷の血と混ざる。歯がぐらぐら震えた。呼吸ができないくらい、喉が痛い。鼻の奥がつんと痺れる。
 こんなこと、したくないのに。しなくてもいい関係だと思っていたのに。

「お……お願い……します……。やめて……。やめてください……」

 俯いたまま、ラピスフィーネは弱々しい声を落とした。これでどうか終わってほしいと、そう強く願いながら。

「お願いします……。助けて、助けてください……」

 ラムズは組んでいた足を解き、片方のつま先で|項垂《うなだ》れている彼女の顎を上げさせた。

「足りない」

 手を合わせて文字通り|乞《こ》い|縋《すが》れと、そういうことか。瞳に涙をいっぱいためて、冷たく嗤うラムズを力の限り睨んだ。
 胸の前で指を絡め、上目でラムズに訴えかける。

「お願いします……このまま見逃してください……」乾いた喉が音を立てる。「もう、もう……何も望みません。許してください。助けてください」

 冷たい眼光が彼女の全身を舐めるように見る。

「足りない」
「お、お願いします。助けてください、やめてください……。助けて……ラムズ、助けて……」

 彼は首を傾げた。視線を逸らし、曲がった角に細い指を這わせている。

「神に祈るときはどうすんの」
「え、えっと……。あの……。ごめんなさい……。それは、いや……。許してください。お願い、します」
「床に這いつくばえって、俺言わなかった?」

 彼は眉をきゅうと動かし、明るい声で笑みを繕った。

「で、でも……ラムズは……」

 彼は何も言わない。彼の背中についた羽が二度ほど大きく羽ばたき、月光が瞬くように影が動いた。
 ラピスフィーネは泣きながら腰を曲げた。
 昔七神への礼拝姿勢として行っていたことだ。いくら悪魔を神聖視するようになったとはいえ、彼にすることじゃない。しかも、王女である自分が。
 少し頭を下げたところで、異形の黒い足で頭を押された。

「高いって」

 笑っている。尖ったつま先の爪が頭皮に傷をつける。

「ほら、なんて言うの?」
「た、助けてください……。お願いします……。痛いことは、しないで、ください……」
「見下げ果てたやつだな。悪魔に平伏してるなんて」

 けらけら嗤う声が聞こえる。
 ラピスフィーネがわずかに首を上げようとして、ぐいと足で押された。

「まーだ」
「お願い、です。助けてください……。ねぇ、ラムズ、お願い……」
「ラムズじゃねえだろ。頼んでんだから」

 彼女は唇を噛んだ。
 どうしてわかってなかったんだろう、彼がこんなに酷い人だって──。いや、知っていたはずだ。自分以外の人にはいつもこうだった。彼から目を背けていたのは自分だ。

「ら、ラムズさま……。お願いしま、す。助けてください。お慈悲を、ください……」
「足りない」
「お願いです、助けてください……。お願いします、ラムズさま。もうなにも望みません。ゆるして、許してください…………」
「足りないよ」

 額を床につけるまで、頭を下げなければいけないらしい。泣きたい気持ちも、怒って逃げだしたい気持ちも知らないフリをして嚥下する。冷たい床に額が当たった。

「おね、おねがい……です。たすけて、くだ、さい……ラムズさま……。許してください……。ごめんなさい、ごめん、なさい……」
「なにに謝ってんの?」ラムズが笑う。「どうでもいいけど」

 自分でもなぜ謝っているのかわからなかった。謝っている理由も、ここまで“お願い”しなければいけない理由も。
 逃げるのが無理なのは自明だ。殺すことはしないだろうが、服の上からではわからないところに傷をつけ続けるだろう。リジェガルに告げ口できないよう、心すら殺されるかもしれない。
 もう、ラムズがわからない。

 ラピスフィーネはただただ目の前の冷たい床だけを見ることに意識を凝らし、同じ言葉を繰り返した。

「お願いします……。お願いします……。助けてください……。ラムズさま、お願いします……」

 彼女の瞳からまたも涙が落ちた。こんなことをするくらいなら、いっそのことあのまま体を許したほうがよかったかもしれない。でも怖かったのだ。何をされるのかわからなくて、いつも彼じゃないみたいで……言うとおりにするしかなかった。