無題

「鱗、一枚あげようか?」


爪が手のひらに食い込み、血が滲み始めた。部屋中のものを壊したい衝動を、今すぐここから飛び出したい衝動を堪えた自分を褒めてあげたい。ふかふかのベッドに身を埋めて、固く固く目を閉じた。薄い壁を挟んですぐ隣の船長室から、嫌でも声が聞こえてくる。


「メアリのことは俺が命をかけて守る」
「あ、ありがとう……」


殺してやりたい。二人とも。私はラムズに守られたことなんてない。そもそも、私が死んだってラムズは痛くも痒くもないだろう。あの子もなんなの?どぎまぎした声出しちゃって。"サフィア"が好きなんじゃなかったわけ?怒りで呼吸が荒くなる。

日中、私はいつも、船長室の裏の隠し部屋で寝ている。普段の船長室はラムズしかいなくて静かなものだし、誰か他の人が来たってすぐに出ていくからまた眠りにつける。それなのに今日はあの子がやってきて、鱗がどうのこうの大騒ぎだ。実際のところ騒いでいるのはあの子よりもラムズだけど、それがより私を苛立たせた。

ラムズがあの子の鱗に高い価値を見出していることは知っている。だからこそ会わせたくなかった。例の移乗戦であの子がジウに見つかる前に、私が殺して海に捨てるべきだった。それなのに私はのんきにここで寝ていて、気づいたときには、あの子はガーネット号の一員に────いや、ラムズの宝石になっていた。

突然、部屋の外でバチッと大きな音が鳴った。薄っすらと目を開き、ぼやけた視界のまま様子を窺う。部屋の外は、さっきまでと違いやけに静かだった。微かにラムズの声が聞こえる。


「鱗が。俺の宝石が……」


勢いよく体を起こした。俺の宝石が?あの子がどうしたの?ベッドを下りてこっそり扉を開ける。カーテンの隙間から覗くと、船長室の扉の前に煙が上がっていた。震えるラムズの背の奥に、黒く焦げた物体が見える。

わあ、面白いことになってる。

私はベッドに戻り、にんまりと笑みを浮かべて仰向けに寝そべった。隣室から足音やら壁にぶつかる音やらが聞こえる。ラムズが我を失って動き回っているんだろう。私に助けを求めてきたらどうにかしてやらないこともないけど、今私のことなんて頭に浮かぶわけがないもんね。大人しくあの子が息絶えるのを待ってやろっと。


「おい!船長!おい!どうしたんだ!」


またうるさくなってきた。今の声は甲板長のロミューだ。あっという間にジウまでやってきて、部屋はさらに騒がしくなる。ため息をついて寝返りを打った。眠たくて頭がぼうっとするのに、彼らの話に耳を傾けてしまう。どうやらトルティガーであの子を治療するらしい。一時間で間に合うとは思えないけど、と胸の中で毒づく。ロミューが獣人の船員に声をかけるようジウに頼み、ジウは軽快な足音を立てて出て行った。ロミューがラムズを励ます声が聞こえる。


「宝石は、俺の鱗は……、俺の鱗は大丈夫なんだな?」
「ああ、大丈夫だ。船長が魔法を使えば!」
「わかった、行ってくる」


あーあ、ラムズが魔法を使えば間に合っちゃうじゃん。私は枕を思い切り頭上に投げた。それは宝石の埋め込まれた天蓋に当たり、バキッと柱を折ってしまった。あ、いけないいけない。むくりと起き上がり、ベッド上で爪先立ちをして折れた断面をくっつけた。すっと息を吸い込んで、時間逆行魔法をかける。

虹色の光が断面に走り、柱全体へと広がった。眩しさに目を細める。光がおさまったとき、柱は元通りに繋がっていた。宝石も傷一つないことを確認し、ふんと鼻で笑う。私は十数年前から時間逆行魔法が使えるけど、ラムズはそれを知らない。私に欠片も興味がないようだから、わざわざ教えてやらなかった。


「レヴィ、いるんだろ」


隠し扉がノックされる。ロミューだ。寝たふりをしようかと思ったけど、さっき天蓋が落ちた音が聞こえただろうから諦めて返事をした。案の定、出てきて船を動かすのを手伝えと言われる。


「嫌だよ。私、昼間は眠いの」
「大体の獣人がそうだろ。今起きてるなら手伝ってくれ」
「嫌。絶対嫌」
「……メアリに妬いてるのか?」


妬いてる?私が、あの子に?唇が吊り上がっていくのを感じた。


「ラムズはメアリを宝石として大事にしてるんだ。女として扱ってるわけじゃないと思うぞ」


ベッドから腰を上げ、隠し扉へと歩いた。ギ、と音を鳴らしながらそれを引く。カーテンを開けると、すぐ目の前にロミューが立っていた。


「どいてくれる?」


爪を食い込ませながらロミューの体を押す。部屋の隅に置かれた長椅子に、少女が寝かされていた。無言で歩み寄ってちりちりに丸まった髪を梳く。そのまま頬に触れ、首に触れ、肩に、腕に触れた。オパールのようだった鱗は今や黒に近い銅(あかがね)色となり、剥がれ落ちたり割れたりしている。ふっと息を吐いた。


「あんたが見てなかったらな」
「……ラムズに殺されるぞ」
「そうだね。でもこの子をラムズの側に置いておくなら、一緒に死んだ方がずっとマシ」


細い首に指をかける。一本、二本、そして手のひらをかけた。ぐっと力を込めて締めつける。すでに死にかけの少女は、何の反応も示さない。


「レヴィ!」


ロミューが私の手首を掴んだ。さすがルテミス、凄い力。骨が軋むのを感じながらも、私はメアリの首を離さなかった。徐々に顔面が変色していく。


「レヴィ、やめろ!」


今までよりも強く引かれて、体が吹っ飛んだ。空中で一回転し、とんと壁を蹴って床に着地する。血が止められ真っ白になった手首をさすりながら、宝石にぶつからなくてよかったーと呟いた。ロミューがメアリの呼吸を確かめている。


「殺してないよ。人魚なんだから、これくらいで死ぬわけないでしょ」
「今は怪我をしてるんだぞ。万が一があるかもしれない」
「万が一を起こすならロミューの前ではやらないから安心して」


隠し部屋に戻ろうとすると、後ろから肩を掴まれた。振り返り、鋭い視線を受け止める。


「わかった、船を動かす手伝いはしなくていい。だが船長室からは出てくれ」
「なんで?」
「お前とメアリを二人きりにはできない」


当然の答えが返ってきた。私はしばらく黙っていたが、最終的にため息をついて了承を示した。ロミューについて船長室を出る。


「甲板で寝ててもいい?」
「ああ、好きにしてくれ。もうトルティガーも見えてるしな」


光の差し込む砲台穴から外を覗いた。輝く海原の先に、懐かしのトルティガーが小さく浮かび始めていた。