ラプラス
「ほら、もう交代の時間だよ。お寝坊さん」
ラプラスは軽く頬を緩ませた。真っ白のストレートの髪の毛が首筋を流れていく。後ろに付いている羽に似合う、美しい顔つきをしていた。
ジウは目をこすって小さく欠伸をすると、体を起こした。
「わたし、これからラムズに浄化魔法を使ってもらうんだけど。ジウも一緒にする?」
「え〜ボクはいいよ。どうせ汚れるじゃん……」
そんなことならもう少し寝かせて欲しかった、回らない頭でそんなことを思いながら、しぶしぶ立ち上がる。ラプラスは楽しそうに階段を上り、甲板に出た。迷いなくラムズの部屋をノックする。
「ラムズー! 入るねー!」
入る必要もなかったのだが、なんとなく流されるようにラプラスと一緒に船長室へ踏み入れた。ラムズは顔を上げると、席を立ってラプラスの元へ向かう。
「またいつもの?」
「そう! お願いします!」
ラムズが軽く手を掲げると、わっと水が飛び出した。ピルコンクの|獣人《ジューマ》である彼女は、水浴びをするように気持ちよさそうな目でそれを受け入れる。三秒もしないうちに水が消えた。
「ありがとう。今日も綺麗?」
──また聞いてる。ジウは彼女を横目で見上げる。ラプラスはこうして毎日ラムズに尋ねるのだ。自分がいちばん綺麗じゃないと気が済まないらしい。特に、ラムズにそう思ってもらわないと。
「綺麗だよ。よろしくな」
ラムズもラムズで、そう言ってくる彼女をそれほど邪険に扱わない。ラムズより背の低い彼女の頭を軽く撫でて、薄く微笑んだ。
ジウは密かに溜息をついた。誰かに恋をする女の子は少し苦手だ。見ていて楽しいものじゃない。
「じゃあジウ、行こっか」
ラプラスは船長室を出た。
「ラプラス〜、この名前、本当に使っていくの?」
「当たり前じゃん。だってラムズがくれたんだよ? しかも前の名前よりかっこいい」
「そうかな……」
最初は怒ってたくせに。
彼女は船に来た直後、ウェスィアという名前だった。だが、つい最近ラムズに頼んで新しい名前をもらったのだ。ラプラスとはよく『ラプラスの悪魔』などという言葉で有名であるため、彼女は初め泣いたり怒ったりして大変だったのだ。
『ひどい! 悪魔の名前を付けるなんて! 綺麗な名前にしてって言ったじゃん!』
基本的に彼女は、ラムズの前だと物凄く我儘なのだ。ラムズは困ったように笑う。
『実際はそれ、悪い意味じゃねえんだぜ。現在におけるすべての状態を解析できる能力を持ち、その能力によって未来を決定できる者のことをいう』
『それがラプラスの悪魔?』
『そんなことをできる者がいるわけねえから、悪魔ってついてしまったんだろうな』
『ふうん……』
『お前は賢いからラプラスって言ったんだ。これ以外は思いつかない。嫌なら今の名前を使え』
『やだ! じゃあこれにする!』
説明を聞いたあとは彼女は有頂天になり、しばらくは何度も自分の名前を唱えていた。美しいだけじゃなく、自分の賢さも買ってくれている、それがよほど嬉しかったのだろう。
実際彼女はラプラスの悪魔のように、何かを予測することが得意だった。ラムズが自分の運命について話すと、その運命と周りの状況、敵の境遇も照らし合わせて何が起こるかを予測した。ほとんど彼女の言う通りになったのだ。ラプラスは、そう名付けられるに相応しいくらい勘がよかった。
ジウは船長を慕っていたし、それと同じくらい賢くて強いラプラスを慕っていた。だがそれでも、彼女が羨ましいと思うくらいに船長はラプラスを大事にしているように見えた。
例えば宝石。敵から頂戴した積荷の中に宝石があると、最初にラムズが自分がほしいものを選んでいた。その残りを等分になるように船員たちに分け与える。だが、決まってラプラスはラムズにお願いしていたのだ。
『船長が選んだやつがいい。さっきのそれ、そのダイヤモンド。絶対こっちのほうが綺麗だもん。私、今回頑張って戦ったよね? しかもこっちの犠牲者はゼロ。船長より仕事したと思わない?』
ラプラスはラムズに対抗したいのではない。宝石の価値だってさほどよく知らないだろうし、興味もないだろう。ただラムズが選んだ宝石をもらいたいのだ。自分だけ船長の特別になりたい……そう思っていることをラムズ自身もわかっているようだった。
初めは断っていたラムズだったが、そのうちあるタイミングで彼女に渡した。
『え、いいの!? 本当に!?』
『ああ。ほしいんだろ。まあ……たしかに助かってるし、いいよ。お前なら』
その日の彼女の機嫌が最高潮だったのは言うまでもない。何度も何度も自慢された。
『ラムズがくれた。私のために! いちばんいい宝石!』
ラムズのこととなると、途端に彼女は馬鹿になる。ジウは引き攣りそうになる顔をなんとか抑えて、『よかったね』と言っていた。
それから、ラプラスはラムズが船長室から出てきたときはふいと腕を絡ませることがあったし、誰かに『船長と付き合ってるの?』と聞かれると顔を赤くして肯定とも取れるような素振りをしていた。ラムズも特に否定するつもりもないようだった。それもそのはず、ジウの目から見ても、二人はお似合いだった。
ラプラス以外にもラムズをかっこいいと言う女船員はいたが、能力、頭、容姿、どれをとってもラプラスに勝てる者はいなかった。彼女がラムズのいちばんであると、誰もがそう認めていたのだ。
「ラプラスさぁ、船長のこと好きなのはわかるけど、船長はラプラスのこと好きじゃないよね?」
「え、ジウ酷いなぁ〜。でも、船長は私のこと、大事にしてくれるじゃん」
「まぁ」
「前もねー、船長助けてくれたんだよ。かっこよかったなぁ」
ラプラスはにまにました顔を抑えられないという感じで、頬を手で覆っている。とそこで、ぱっと顔を上げて目を細めた。
「船が来た。あの船……木版の色を見る限り出航してからそんなに時間が経ってないね。吟遊者の数は少ないけど……、たぶん先鋭ばっかりだ。船の統率が取れてる。うん、きっと高価なものを積んだ船だ。絶対取らなきゃ」
まだ地平線に見えたばかりだというのに、彼女は視覚聴覚にも恵まれている。さらにその観察眼、持っている知識から予測する地頭の良さ。
「でも、なんか……旋回してない? ボクたちに気づいたんじゃないの? 今からじゃ間に合わないよ」
ラプラスは腰から地図を出すと、書き込みのいっぱいしてあるそれを眺めた。
「ここに小さな島がある。このへんに追い込めたら上手くいくかも。今から逃げればガーネット号は向こうの視界には入らなくなるよね。で、そこをカモフラージュになる魔法をかけて近づいて、この島に追い込めば……上手くいくんじゃないかな」
「そんな上手くいくかなぁ……」
「それに……」
彼女はぺろりと指を舐めると、目を瞑って息を凝らした。風を読んでいるようだ。
「もうすぐ風向きが変わる。空を見るに、たぶん雨も降るね。嵐になるかもしれない。向こうの船には優秀な航海士がいたようだったから、絶対この島に寄ろうと考えてると思うよ」
「どうして向こうの船に優秀な航海士がいるなんてわかるの? 顔見てわかるもの?」
「んー。顔でもわかるかも。まず、普通に船が他と比べて綺麗だからね。使われてる木の種類が違ってたよ。金をかけてるってことは大事なものを運んでるってことでしょ。大事なものを運んでるなら、ちゃんと仕事のできる人を選んでると思う」
「そう言われてみれば、そっかぁ」
「あとは船長の判断に委ねる、だね!」
ラプラスは地図を持って階段を降りていった。
基本的に彼女は優秀なのだ。彼女が「宝石がありそう」と言ってなかったことは一度もないし、それどころか豊作だったことのほうが多い。おそらく似たようなことをラムズもできるのだろうが、代わりに彼女がやってくれるのであればそれに越したことはないのだろう。ラムズ自身は、船長室に篭って宝石を見ているほうがやりたいのだから。
ジウはやれやれと首を振った。
「まぁ、ラプラスやる時はけっこうやるし、拷問にもわりと容赦ないし、好きは好きなんだけどね」
ジウは彼女が戻ってくるまで舵を握っている。おそらくこのあと、彼女の指示で突風を発生させて船を追いかけることになるだろう。魔法で出した勢いのある風に合わせて的確な指示でヤードを回させ、彼女自身も舵を上手くコントロールする。操舵手としての役目も、魔法の担い手という役目も、彼女は十分に果たしていた。
ラプラスはすぐに戻ってきて、腕を頭の上で結んだ。ラムズの許可が出た、そういう合図だ。
ラムズも船長室から出てきた。船員たちに指示を始めている。ラプラスはジウの元に戻ってくると、親指を立てて得意そうな顔を見せた。
「はいはい、よかったね」
「うん! よし、頑張るぞー」
彼女は甲板で歩いているラムズを見て、愛おしそうに微笑んでいる。
「あんな冷たい船長の、どこがいいの?」
「えー、冷たいからかっこいいんじゃん。それに、たまに優しいもん」
「絶対わざと優しくしてるだけだと思うけどな……」
「そうかな〜。船長は宝石が大好きだけど、いつか私のことも好きになってもらえるように頑張るんだ!」
「そのために利用されててもいいの?」
「え〜。利用じゃないよ。私も船長に色々貰ってるから」
彼女はぱっと顔を緩めて美しい微笑みを見せる。
普通の人なら、こんたけ綺麗で頭が良くていい子だったら、好きになると思うけどさ。ジウは他人事のように考える。ただ最近は本当にラムズが彼女に優しくしているように見えたし、本当にいつかは好きになるのかもしれない。