お人形さんごっこ

「ヴァニはジウがふつうの人間だったなんて信じられないの」
 甲板下の武器庫で剣やカトラスの整理をしていたジウは、顔を上げてヴァニラを見た。砲弾の隙間からは陽光が差している。今はまだ昼、酒を飲むには早い時間だ。だが彼女は階段に体を預け、重そうな杯を手にしていた。
 ジウはてきとうな調子で答える。「そーお? けっこう普通だと思うけど、ね」
「ヴァニが思うにジウは……もともとおかしいの!」
 ヴァニラの浅紅色の瞳は、彼女の使う毒魔法のように禍々しい光を宿している。さして暗い場所ではないはずなのに、彼女の爛々とした眼球は、暗がりの魔眼のように宙で浮いて見えた。
「ボクはヴァニラがそこまで他人に興味があるなんて知らなかったよ」ジウは冷たく放った。彼女から視線を外し、手元の剣を磨きはじめる。
「だって暇なんだもの。ヴァニはたしかにお酒が好きだけど、こうして口があるの」ヴァニラはにんまりと唇を曲げ、深い笑みを作った。
 見ずともわかる。彼女は恐ろしい。どこぞの魔物やルテミスより狂気的な存在だ。気付いていない者もいるだろうが、ジウはそう本能的に悟っていた。
「ボク、キミとは関わりたくないんだけど」
「そんなに邪険にしないでなのー。ジウは戦いが好きって聞いたの!」
「今は機嫌悪いからあっち行って」
 ガーネット号にレオンやアイロスさんが乗ったことで、より自分の好きなように振る舞うのが難しくなった気がした。ラムズがわざわざ誘ったくらいだ、ラムズにとってレオンは普通の人間よりは多少なり価値のある者なんだろう。レオンが嫌いだとかそういうことはないが、ことあるごとにレオンとぶつかっていたらラムズに何か言われそうだ。
 ジウはよくラムズの宝石を盗もうとした輩を拷問することがあるが、そう数は多くない。本当なら敵船の船長を甚振って殺したっていいし、敵船全員を皆殺しにしたっていい。本当は一人くらい奴隷として連れ帰り、自分の玩具にしたい。船を襲うたびにそう思っているが、無駄に恨みを買う必要はないとラムズ船長に反対されていた。海賊ならば多少無慈悲でもいいだろうに、ラムズは最低限のことしかやろうとしない。
「誰か拷問したいの?」
 威嚇を湛えた目が彼女を捉えた。
 ジウは木箱から出したカトラスを、なんとはなしに眺める。このカトラスで脅せば少しは黙るだろうか? ふっと湧いた疑念を払い微笑を零す。無理だろう。彼女はカトラスも剣も、魔法も、ルテミスの力も、少しも恐れていない。
 それでも、鬱屈した気持ちをぶつけるようにむんずとカトラスをふり投げた。カトラスは回転しながら宙を切り裂く。正確に彼女の瞳を狙った。外れることはない。だが──当たらないだろう。
 ジウの想定どおり、ヴァニラは即座に顔を横に背けた。初めからそこに投げられるのをわかっていたみたいだ。彼女の蒸気した頬をカトラスが掠め、赤い傷が滲んだ。
「ヴァニと遊びたいってことなの?」
「邪魔だってことだね」
 頬の傷はもう治っていた。そういう使族なんだろう。魔法だけじゃなく使族についてもよく知らないし、知りたいとも思わなかった。
「ヴァニはちょっと遊び」
「邪魔って言ったの、聞こえなかった?」
 一刹那のあいだに、ジウはヴァニラと数メトル離れていた距離を詰めていた。腕を左手で拘束した上で、カトラスの切っ先を彼女の瞳の上に掲げる。
「ボクがキミを傷つけるのと、キミの傷が治るの、どっちが早いんだろうね?」
「んー、ジウだと思うの!」
 手を縛っていれば魔法も使いづらいはずだが、彼女に怖けた気色はまったくない。抵抗する気もないようだ。それなら自分の興味に付き合ってもらうのもいいかもしれない。
 ジウはそう考えると、迷いなくカトラスを眼球に突き刺した。膜が割れ破裂するような感触のあと、二つに裂けた目玉がどろりと溶けていく。赤黒い血が流れる様子は、愛玩人形のようなヴァニラの顔にはひどく不釣り合いだった。
「痛いの」
「痛くないくせに」
 その証拠に、彼女はピクリとも動かない。痛みを感じていれば、どんなに拷問に慣れていたって何がしかの反応をするはずだ。ジウはそう確信できるほど人を殺してきた。
 治ってしまうのはつまらないが、彼女が血に濡れるのは少し面白い。
「へえ。目玉が治るとき、そうなるんだ」
 ジウがカトラスを突き刺したままだからか、そのカトラスが刺さったまま目玉が形成されてしまっていた。数分前に潰したはずの淡い桃色の瞳が、生き物のように淡く光った。
 右手を離しても、カトラスは眼球に刺さったままだ。滑稽な格好に、ジウはくすりと笑みをこぼす。
「お酒、飲みたいの。手を放してほしいの」
「お酒くらい飲ませてあげるよ」
 ジウは彼女がまだ手に持っていた杯を掴む。
「ほら、口開けて」
 ヴァニラは言うとおり口を開けた。薄ピンクの小さな舌が見え隠れして、ジウはその舌を引き抜きたい衝動に駆られた。
 だが酒を飲ませなければ、この遊びも終わってしまうだろう。ジウは彼女の口元で杯を傾けた。
「おいしいの」舌が唇を舐め、てらてらと艶めいた。
「そんなに美味いか? この酒」
 ジウが杯に目をやると、ヴァニラから燃えるような殺気が溢れた。慌てて目を離す。
「飲んだら殺すの」
「はいはい、困ってないから大丈夫」
 ヴァニラが持っているお酒は何があっても飲んだらダメ。心にそう刻んで、残りのお酒もすべて彼女の喉へ流してやる。
「で、お礼にその舌引き抜いていい?」
「お礼って、もう眼はやらせてあげたの」
「暇だから絡んできたんでしょ? ボクと話しても、こういうことでしかコミュニケーション取れないよ?」
「メアリとか他の船員とは普通に話してるの」
「まぁね。だってあいつらはヤワじゃん」
 ヴァニラは心底納得したという風で、優しく微笑んだ。「たしかに。みんなすごく脆いの」
「わかってくれる?」
「まあ、ジウも同じだけどの」
「そうだね。ボクも脆いよ。キミみたいにすぐに治んないし」
「でも痛みは感じられるの?」彼女が首を傾げると、目に刺さったままのカトラスが揺れた。
「キミは感じられないの?」
「うーん、心の痛みは感じられるの!」
 そっちのほうが信じられないんだけど。ジウが顔を顰めると、ヴァニラはけらけら笑った。
「嘘じゃないの。お酒がなくなったら辛いの」
「キミが好きなことはお酒を飲むことだけ?」
「そうなの。ジウは? 人を殺すことかの?」
 そう言われると少し考えてしまう。ジウは思考を巡らし、自分が今まで何に楽しさを見出したのか思い出そうとした。
「単に戦うことも好きだよ。船を操るのも楽しいね。この船にいるのも、けっこう好き。あとはまぁ、キミみたいな女の子をかわいがれたら、それも楽しいだろうね。悲鳴をあげないのが面白くないけど」
 彼女の姿に似つかわしい、それでいてどこか不自然な笑い声が響く。「できないって、わかってるの?」
「そりゃあわかるよ。キミはボクより強いじゃん」ジウは彼女に負けないくらいあどけなく笑った。
「ヴァニの体、好きなように切り刻んでいいの」
「……その代わり?」
 条件付きなことはわかっている。彼女もそう聞きかえされるのを待っていたかのように、自然に言葉を零した。「ヴァニがお酒を飲むの、手伝ってほしいの!」
「……手伝うって、毎回飲ませろってこと? それとも飲ませてあげないといけないくらい、痛めつけていいってこと?」
 ジウはそう冗談を言いながら、ヴァニラの両手を掴んでいた手をさらに強く握った。手首の骨が軋んでいく音が伝わる。
「手を折るのはいいけどの、すぐ治るからそういうことじゃないの」
「まぁ、だろうね」
 そう言った瞬間、ヴァニラの手首が折れた。だらしなく両手の掌が垂れる。
「見てのとおりヴァニは疲れやすいからの、酒樽を運ぶのも、酒樽からお酒を汲むのも、ちょっと大変なの。だからジウがそのお世話をするの!」
「その世話係を探すために、ボクに話しかけたわけ?」
「うーん」ヴァニラは唇をつんと尖らせて首を傾げた。「そういうつもりではなかったの。こうなったのはヴァニも予想外なの!」
 ジウは寄せていた体を離し、彼女の瞳からカトラスを抜きとった。自由になったヴァニラは、手を叩いて服の埃を掃った。カトラスの傷がついていたはずの瞳は、もう元通りになっている。
「まーいいよ。けど、あんま人に言わないでね」
「どうしてなの?」
「対外的によくないでしょ。ルテミスのボクが女の子を痛ぶってたら。同じ船の船員だしね。ボクが恐れられちゃう」
「なるほどの、そういうものかの」
「船にいられなくなるのは困るからね。船長は気にしないだろうけど」
 ジウは武器の木箱の元まで戻ると、それぞれ樽の上に置いて片付けた。就寝前の仕事はこれで終わりだ。交代制で就寝時間が決まっているため、こんな昼間からでも寝床に行くことがある。操舵手と言っても、そのローテーションから外れることはできない。
 振りかえって、まだ突っ立ったままのヴァニラを視界に捉えた。
「キミは? これから寝るの?」
「そうなの。ヴァニも今は仕事をしなくていいってラムズに言われたの」
「そっか。じゃあボクと遊ぼっか?」
 ジウは無垢に笑いかける。彼女の小さく柔らかな手を繋ぎ、船員の寝所まで降りていった。もちろん数本の酒瓶は忘れずに持って。