失ったもの

「ジリアン様、本日の予定はフォーグニの散るころより始まります。どうぞ朝のお支度を……」
 そう言って侍女のカトリーンが顔をあげると、視界のすみに赤い髪が枕にのっているのが映った。カトリーンは目を瞬き、急ぎ足でベッドへ近づいた。
「じ、ジリアン様……。その御髪は……まさかご自分で染めたわけではありませんよね……?」
「ん、んん〜……」
 寝返りをひとつ打ってから、ジリアンは気怠そうに上半身を起こした。目をこすって手を出す。カトリーンは慌てて水の入った桶を渡した。
 何度か水を顔に当てたあと、ようやくジリアンはベッドから立ちあがった。不機嫌な顔でカトリーンを見上げる。
「僕の髪がどうかした?」
「その……色が……。目も……。ま、まさか……」
 ジリアンは首を傾げる。鏡の前まで歩いていった。元は深い藍色だった髪が鮮やかな赤に変わっている。目も灰色から揃いの赤になっている。
「なにこれ⁉ 何かした⁉」
 ジリアンが声を荒らげると、カトリーンはぶんぶんと首を振った。「いいえ、私は本日もジリアン様を起こそうと部屋に入っただけです。もしや巷で噂になっている赤髪赤目の依授が起こったなんて……そんなことはありませんよね……?」
「依授?」すぐに思い当たり、ジリアンの目が見開かれる。「あぁ! あれか!」
 世情に疎いジリアンだが、今回の事件には強い関心を持っていた。彼は人一倍戦うことが好きなので、もし自分が件の依授を受ければより毎日を楽しめるようになると思っていたのだ。だがこれは性格も変わってしまう化系殊人への依授だ。貴族のあいだでは恐れている声のほうがずっと多かった。
 ジリアンは試しに近くに置いてあった花瓶を手に取った。父親が寄越したものだったような気もしたが、それならなおさら具合がいい。力を込めて、片手で瓶の首を絞める。ふだんの半分の力も出していない。花瓶は掴んだ部分からみるみるヒビが入っていき、ついに二つに割れた。花瓶の底が落ち、ジリアンの足元でガラスが砕け散る。
「ジリアン様!」
 ガラスの破片でジリアンの掌に細い傷がいくつもでき、血が滲んできている。依授が起こったことは確実だ。カトリーンは恐怖心をなんとか押しとどめ、ジリアンのそばへ近寄った。
「お怪我をなされたではありませんか。まったく、突発的に花瓶を割ってみるなど……」
 手を握られていることには目もくれず、ジリアンは赤い瞳をきらきらと輝かせた。「依授されたんだ! ボクが! このボクが!」ジリアンは寝衣を破り捨てるように脱ぐ。「今日の予定はすべて中止。あの人も嫌とは言わないだろう? 早く、狩りのための服を持ってきて!」
「先に怪我の手当てをしてからです!」
「もう! カトリーン!」
「すぐに済ませますから!」
 カトリーンは少し睨むような顔でジリアンをなだめ、一目散で彼の部屋を出ていった。彼女のいなくなった自室の中、大事にしている弓矢、剣、槍が目に入る。ジリアンの唇はにんまりと弧を描いた。

 木漏れ日の差す森で、ジリアンはお付きの騎士を大きく引き離し、ひとり駆け回って狩りをしていた。
 生きてきたなかで、今日は間違いなく最高の日だ! 自分がいちばん好きなこと、戦うことや殺すことにもってこいの神力が依授されたのだから! 変わり映えのない貴族の毎日にうんざりしていたが、180度世界が変わった。誰よりも早く走れるし、誰よりも高く飛べるし、誰よりも簡単に魔物を殺せる。しかもそれが、今まで以上に心躍る行為になった。こんなに興奮したのはいつぶりだろうか? この感情も依授で増幅されたのだろうか? 依授で失う心があるなんて話を聞いたことがあったが、そんなことはどうでもよかった。失うものより得たもののほうがずっと多い。ずっと価値がある。これほど幸せな依授はない!
「神様、ありがとう! 初めてこんなに神に感謝したよ!」
 森の中を走りながらジリアンはそう叫んだ。ジリアンが走っていくたびに、風が勢いよく舞い上がり梢がかさかさと音を立てた。
 いくら公子とはいえ、貴族のジリアンの日課の狩猟は一時間割ければいいところだ。だが今回は森にこもっていろとでも思っているのか、いくら待っても父親からの呼び出しは来なかった。
 もう貴族として生きる必要はなくなるかもしれない。こんな姿になった自分に、世間体を気にする両親が今までどおりの生活をさせるはずがなかった。社交会には出なくていいだろうし、それなら勉強する必要もない。誰かが嫁ぐことも、婿入りすることもなくなるかもしれない。一生狩猟生活をしていられる。部屋や服、装飾品は没収されるだろうが、もともとそんなものに興味はない。最低限の衣食住さえあればよかった。生きて、ただ何かと戦えればいい。何かを殺せればいい。
 仕留めた魔物の数はいつもの四倍を超えた。赤髪赤目の依授が起こった者は、身体能力が飛躍的に上がるという話だ。ふだんと違う体の感覚に初めは戸惑ったが、持ち前の運動センスでぐんぐん力の加減を学んでいった。足が早いおかげで助走の勢いが倍になった。筋力が増え体が身軽になったおかげで、どんな木にでも軽々と登れるようになった。バランス感覚が研ぎ澄まされ、宙返りも逆立ちも自由自在、どんな離れ業でもできる。あらゆる武器を人並みに使えたが、ジリアンはついに素手で魔物を殺しはじめた。
 素手で殺すほうがずっと楽しい。魔物が絶命する瞬間を直に味わえる。いつまででも狩りをしていられる。それに、実際どんなに走っても疲れなかった。いくら怪我をしても痛くない。そしてどんなに殺してもこの高ぶった気持ちが収まらない。父親たちが自分についてどう話をつけているか気にならないわけではなかったが、今は神に与えられた贈り物で遊ぶのに夢中になった。

 *

 人払いをした部屋で伯爵夫人──ジリアンの継母がこつこつと机を指で叩いている。ついに声を荒らげた。
「どうするのですか⁉ あの子、もとより人外公子人外公子と呼ばれていましたが、本当に人外になってしまったではありせんか!」
 ジリアンの父親──クルスティ伯爵はこめかみに手を当てて唸った。「どうしたものか……今回こそ取り返しがつかないぞ」
「デスメイラの影に隠しましょう。それしかありません」
 平然と言ってしまった継母に、クルスティ伯爵は慌てて魔道具を発動させた。誰かに聞かれていたら一大事だ。「本気で言っているのか? あれでも息子だぞ」
「卑しい平民との子でしょう!」咎めるような顔で伯爵を見る。「幸い、他の子らはみな優秀です。あの子ひとりがいなくなっても家は安泰。神にあのような力を依授されたのがなによりの証ではありませんか。人ではないと、そう烙印を押されたのですわ」
「いや、……しかしだな」
 クルスティ伯爵は反論の言葉を発しようとしたが、なにひとつ思いつかなかった。否、そもそも探す気が起きない。今までもジリアンにはひどく手を焼いていたのだ。もう限界だ。
 妻はもちろん、伯爵自身もジリアンは気味が悪くて仕方なかった。齢六才で惨殺したケットシーの体をにこにこ笑って見せられたときから、ほとんど息子だと思えなくなっていた。今までなんとか関係を保っていられたのは、ジリアンの母親──死んだ娼婦の女に未練があったから、貴族の狩猟大会で好成績を取っていたから、政略結婚の駒として利用できるから、そんな理由ばかりだ。
 だがもう、今回の依授でそれらの価値は消え失せた。もともとジリアンのせいでクルスティ家への悪い噂は絶えなかったのだ。彼が家にいるだけで害を産む、隠し生かしておくことだって、この貴族社会ではとうていできまい──。

 *

 結局、ジリアンは一日中森で狩りをしていた。まだ戦いたい気持ちは収まらなかったが、日は暮れて夕餉の時間すら過ぎてしまっている。ジリアンは大広間でひとり食事をとった。家族はみんな、赤髪になった自分の顔など見たくないのだろう。いつもなら愚痴を零すところだが、今日は気分がいいせいか気にならない。勉強や結婚の話を持ちだす親がいない夕食はとても心地よかった。
 体を清め終わり、自室に戻ろうとしたときだ。幼い妹のルーシーが廊下の飾り棚の影に隠れているのを見つけた。
「ルーシー!」
「おにいさま!」
 ルーシーは辺りを見回したあと、ジリアンのそばに駆けよった。赤い髪に目を止める。「きいたの。おにいさまが……赤色になっちゃったって」
「このとおり、なんにも問題ないよ」ジリアンはその場でくるりと回ってみせる。
「どこもいたくない?」
「もちろんだよ。ルーシーこそ、またお母様に怒られてしまうよ」
 兄弟の中で、末っ子のルーシーだけはジリアンを慕ってくれていた。そんな彼女をよく思わない継母から守るように、ジリアンは唯一彼女を大事にしていた。
「でも……おにいさまがしんぱいで」
「大丈夫だよ。ほら、見て!」ジリアンはルーシーの体を抱き上げると、宙に向かって高く放った。「いつもよりこんな軽々高い高いができる!」
「わああ!」
 依授される前も、筋力に自信のあるジリアンはよくこうして彼女と遊んでやっていた。彼女はこれが大好きなのだ。
 ルーシーはいつもより少し高くなった景色に頬を緩ませている。ドレスの裾がひらひらと舞った。
「おそらがちかぁい」ルーシーは天井に触れようと手を伸ばした。
 何度か彼女を宙に投げていたところで、ジリアンの背後から侍女カトリーンの声が聞こえた。
「ジリアン様! その遊びは危ないからおやめになってくださいと何度言ったらわかるのですか!」
 彼は首を少し曲げてカトリーンに返事をしようとする。だがそこで手元が狂った。猛スピードでルーシーが天井にぶつかった。宙で鈍い音がして、彼女はジリアンの腕の中へ落ちていく。力の加減を覚えたとはいえ、依授されたのは今朝だ。故意に半分に落としていた力を、意識が乱され元に戻してしまったのだ。
「ルーシー! ルーシー!」血の気が引いた。冷や水を浴びたように体じゅうが冷えていく。嘘だ。嘘だ。こんなの夢だ。だがルーシーの首はぐったりと折れている。
「ルーシー……、ルーシー……」
 目をつぶったままだ。返事をしない。ジリアンは何度も揺すって、彼女の頬を優しく叩いた。
「起きて! ねえ! ルーシーってば!」
 一部始終を見ていた侍女のカトリーンは、一瞬自分も心臓が止まってしまったような錯覚に囚われた。だがすぐに気を奮い立たせる。自分がしっかりしなくてどうする。カトリーンは彼の腕を掴み、すぐさま二人をジリアンの部屋へ押し入れた。
 ジリアンは腕の中のルーシーに目を縫いつけたまま、震える声で尋ねた。「か、カトリーン……どうしよう……。い、医者を。医者を呼んで……」
 カトリーンはジリアンからルーシーを受け取ると、そっとベッドへ寝かせた。息を確かめ、脈を見る。
 カトリーンは顔を上げると、はっきりした口調で放った。「……ジリアン様。城からお逃げください」
「どういうこと⁉ ルーシーは⁉」
 ジリアンが詰め寄り、カトリーンはゆるゆると首を振る。重々しい声が降りた。
「……フシューリアの手からは離れてしまいました」
「つまり……」ジリアンの足がわなわなと揺れる。芯が消えたように床に崩れ落ちた。「死んだって……こと」
 カトリーンは唾を呑みこんだ。彼女も酷くショックを受けていた。産まれたときからルーシーを知っている。ジリアンと同じくらい彼女を大事に思っていた。重い気持ちを隠そうとしゃんと背筋を伸ばす。声が震えないよう、懸命に言葉を紡いだ。
「今回の依授のこともあります。奥様も旦那様もジリアン様を許しはしないでしょう……」
 ジリアンは虚ろな目で床を見つめている。「だけど……」
「もうおわかりでしょう。奥様は……この機にジリアン様をデスメイラに供えてしまおうと考えておいでです。どうか、……お逃げください」そんなこと、本当は言いたくなかった。彼が死ぬまでお仕えするつもりだった。カトリーンは力強い視線を向ける。「大丈夫です。貴方様は強いお方です。貴族に生まれたくなかった、そう何度も仰っていたではないですか」薄い笑みを見せる。
「そう、そうだけど……。そんな突然」ジリアンは目を泳がせる。「お金は? 魔物は狩れるけど、そのあとどうやって食べればいいんだ? 寝るところは?」ジリアンの声が震える。「それに、……ルーシーは? ボクは……唯一愛していた妹を……」ジリアンは項垂れ、手で顔を覆った。不思議と涙は出ない。だが胸が締めつけられるように苦しい。
 カトリーンは腰を落とし、ジリアンの顎を掴んだ。顔を上げさせる。
「ジリアン様。お聞きください」
 彼の瞳がかろうじて彼女を捉える。
「ジリアン様のその神力は、これから貴方が生きる助けとなるでしょう。ですが、力に呑みこまれてはいけません。それは権力でも魔力でも、そして貴方様の神力でも同じこと。今日ジリアン様はその力を依授されて喜んでいたかと思います。それは構いません。ですが、こうして大切な方を傷つけてしまう力でもあること、それを覚えておいてほしいのです」
 カトリーンだって、今すぐにでもルーシーが死んだことを嘆きたかった。だが、最後の仕事をするまでは我慢しなくてはいけない。今やるべきことは、ジリアンと一緒に泣くことではない。
 彼女の瞳に潤んだ膜が張る。ジリアンの両手を取って、優しくそれを包みこんだ。「貴方様の手は人を簡単に死なせてしまう。易々と命を奪ってしまう。そういう手なのです。よく考えて使ってください。命の尊さを、そして命を奪う重さを学んでください。それで……」彼女は鼻をすすった。「ルーシーは笑ってくれるでしょう」
 カトリーンは立ち上がり、部屋にある換金できそうなものをいくつかシーツに包んだ。そのあと自分の着ていた侍女の服を脱ぎはじめる。
「カトリーン? お前は一緒に来ないのか?」
「食い扶持が増えてしまうだけです。それに私はジリアン様のように鍛えておりませんので、足でまといになります」
 下着姿になったカトリーンを見て、ジリアンは気まずそうに目を逸らした。カトリーンは脱いだ服を差しだす。
「お嫌でしょうが、こちらに着替えてください。女中が使う裏口をお伝えします」
 あれよあれよという間にジリアンは着替えさせられ、荷物を持たせられた。まだ覚束ない足取りのジリアンの背中を、カトリーンが何度も摩る。
「道は覚えましたね? 私はここに篭って時間を稼ぎますから、できる限り走って逃げるのですよ」
「わかったよ」ジリアンはルーシーの眠るベッドに目をやる。肩を落とした。「カトリーン、ありがとう。でもお前は……」
 狩猟ばかりにかまけて勉強が苦手。魔法の才もない。言動は攻撃的で、魔物の殺し方が残虐──ジリアンがクルスティ家で疎まれている理由は、娼婦との子であるという理由以外にもあった。家の中でも貴族社会でも腫れ物扱いであるが、幼い妹のルーシーと、子供のころから面倒を見てくれたカトリーンだけは、自分のことを蔑ろにしなかった。
 ジリアンはカトリーンを信頼していたし、カトリーンも自分が自分らしく生きていることを賛同してくれている、そう思っていた。
「本当は僕に、──もっと普通になってほしかったの」喉を潰したような声が出た。
 魔物を殺しても楽しい気持ちが勝るばかりで、命の尊さなど考えたこともない。剣術の訓練では誤って師を刺したことがあったが、本当は生死を懸ける戦いがしたかった。戦争の話にはとくだん興味を示したし、誇り高い騎士などではなく、自分より強い戦士とただ戦いたい、傭兵となってとにかく多くの敵を斬り殺したい……依授される前からそう思っていた。
「ジリアン様の生き方を否定する気はありません」カトリーンは優しく微笑む。「ですが、ジリアン様はもうわかったはずです。親しい者が殺される悲しみも、その虚無感も……。誰かの命を奪うとき、奪われるのはその者の光だけではないのです。その者と関わる人すべての心で、光がひとつ途絶えてしまうのです。私はずっと貴方様の味方でおります。ですが──、これを忘れてしまったら、貴方様はいつか心を苛まれてしまう。あるとき突然、今までの自分を否定したくなってしまう──」
 ジリアンは強がっているだけで、兄弟から疎まれていることに苦しんでいた。幼いころ、父親に褒められたい一心で仕留めた魔物を見せたときの父親の顔、それが忘れられないのだとジリアンは語ってくれた。
 ジリアンが狩りで自分の心を慰められるのならそれでいい。光神教の教えでも、なにより光の示すがままに生きるのが正しいとされている。行き過ぎたところもあったかもしれないが、少なくともカトリーンはジリアンを恐ろしいとは思っていなかった。
 ジリアンはルーシーをたしかに大事に思っていたし、侍女のカトリーンを理不尽に扱ったこともない。彼にはちゃんと人を思う心があるのだ。優しい心を持っているのだ。だが、だからこそいつか彼の心が破綻してしまうのではないかと心配していた。ほんの少しのきっかけで、今まで嬲り殺してきた魔物に、人に、そしてなにより、その行為を楽しんでいた自分の存在に苦しめられてしまうのではないか、カトリーンはそれを恐れていた。
「私は貴方に生きてほしい。強く生きていってほしい。心も体も、なにものにも侵されず生きてほしい。ジリアン様が幸せに生きていらっしゃるのであれば、それ以上に望むことはありません」
 ジリアンはカトリーンを見て強ばっていた肩を下ろした。
「そっか……。うん……そうだね。ルーシーを死なせてしまったこと……すごく辛い」干からびた声が落ちた。「苦しいよ」
「ジリアン様ならば乗り越えられます。貴方様は強いお方です。四歳のころから貴方様を見ていた、この私が保証いたします」カトリーンは心なしか胸を張った。「これから、考える時間は十分にあります」彼女は手を叩く。ぱっと砕けるような笑顔を作った。「さあ、お話は終わりです。行ってください!」
 ジリアンは扉に近付いた。立ち止まる。重い気持ちが心にのしかかっていく。愛する妹を殺してしまった罪悪感、家族と別れることになった戸惑い、未来への不安。いろんなものがぐちゃぐちゃになって全身を覆い尽くしている。頭の中が真っ黒だ。そしてなにより、ルーシーと、カトリーンと別れることが悲しかった。
 ジリアンの目尻に涙が溜まっていく。流れないよう、必死に目を瞬いた。泣くなんて格好悪い。心臓も喉も、誰かに締めつけられているようだ。苦しい。心が痛い。
 ルーシーに見せたい景色がいっぱいあった。話したい物語がいっぱいあった。カトリーンともっと過ごせると思っていた。軽口ばかり叩かなきゃよかった。ちゃんと言うことを聞けばよかった。もっと一緒にいたかった。もっと話したかった。
 肝心なときになって、なにを話せばいいのかわからない。どこから、なにから言えばいい。少しでも話したら泣いてしまいそうだ。口がからからに乾いて声が出ない。でも、これだけは言わなくちゃいけない。
「今までありがとう、カティ」
 カトリーンは目を瞬いた。幼いときに呼ばれていたあだ名だ。彼女はスカートの裾を広げるような素振りをして、丁寧にお辞儀をした。
「さようなら、ジリアン様。いってらっしゃいませ、ジウ様」
 ジリアンは出ていった。最後になる廊下を踏みしめるように力強く歩き、二度と後ろは振り向かなかった。