釘で打ちつけた甘い香水

 目が覚めると、こじんまりとした部屋で寝ていることに気づいた。天井や壁は木でできていて、黄ばんだ綿の布団を被っていた。懐かしい香水の匂いがする。蕩けるような甘さとどこか苦味のあるスモーキーな香り。
 腕をついておもむろに起き上がる。横を向くと、椅子にラムズが座っていた。
 昨日何があったんだっけ。あ、そっか。襲われたんだ。襲われて──、犯されそうに、いや、犯されたんだ。
 体はもうどこも痛くなかった。吐き気もない。太腿の傷も綺麗に治っている。でも口の中にはじゃりじゃりとした感触が残っていて、下腹部の歪な不快感は忘れられそうになかった。……舐められたし、入れられた。
 嗚咽が漏れる。肩を丸めてしゃくり上げる。痛い、痛い。痛いよ。
「パメラ」
 彼の声が聞こえる。泣きやもうとして鼻を啜っても、ツンと喉が締まり全身が震えるのを堪えられなかった。
「っツ、あ、っめ、ごめ、……ック」
「そっち行ってもいい?」
 彼の柔らかい声に、喉を抑えながら頷いた。ヒールが床を歩く音のあと、ベッドが軋んだ。
 彼のほうを見上げる。絶対顔、ぐちゃぐちゃだ。目も腫れてるし、化粧もしてない。唇の色が薄いし、睫毛も短い。かわいくない。髪も乱れてる。
「ら、む……」
「触ってい?」
 彼は右手を見せる。こくんと首を下ろすと、肩を引き寄せられた。背中をとんとんと優しく撫でられる。
「っつ、あ。ぅわぁぁぁぁあん」
 抑えが効かなくなった。首を後ろに倒し、子供みたいに泣きじゃくる。喉が苦しい、胸が痛い。体が気持ち悪い。全部全部剥ぎ取って終わりにしたい。
「辛かったな」
 彼はそっと囁く。そのあとは黙ったまま、ただ背中を撫でてくれていた。

 何分かえぐえぐと泣きつづけ、布団が涙で湿りはじめたころ、ようやくすすり泣くくらいにまで収まった。
「ラムズ、ぅ。辛いよ、痛いよ」
「そうだね」
 私は体の向きを変えて彼の胸にすがった。涙はとめどなく流れ続けていく。
「ねぇ、気持ち悪いの。ぜんぶ、触られたとこが。嫌だ、もう無理なの。気持ち悪いよぉ」
「ああ」
「ねぇ、どうにかしてよぉ。魔法で、治してよぉ。気持ち悪いの取って、お願い。記憶消して、ねぇ」
「ごめんね、魔法で気持ち悪いのは取れねえんだ」
 彼を見上げる。瞼が涙で膨らみ、頬を流れ伝っていく。「おねがい、いやだぁ。気持ち悪いよぉ」
 彼は抱き寄せ、背中に腕を回した。ゆっくりと背中を撫でていく。
「水あげるから、ちょっと待って」
 ラムズは片手を離し、眉を寄せて詠唱をする。こぽこぽと宙に雫が集まりはじめ、すべて繋がって大きな水泡に変わる。
「飲める?」
「まほ……のみず、だめ、じゃない、の」
 魔法で作った水は飲み水にできない。有名な話だ。ラムズは柔らかく微笑み、顎をそっと掬った。
「飲めるように魔法かけたから、大丈夫」
 ラムズが言うなら安心できた。口を開く。きゅうと水が縮み、細い糸のようになってちろちろと流れ落ちていく。ちょうど一口分飲んだところで彼は傾きを戻した。
「まだ飲める? 向こうからコップを持ってきてもいいんだが──」
「やだ、行かないで」
 彼は薄く笑い、「だよな」と声を落とす。
 もう一度雫が傾き、山から降りるように垂れていく。泣きつづけたあまり相当喉は乾いていたようで、休みなく水を飲んだ。

「もぉ、いい」
 彼は宙に浮いた水泡を掌に包んだ。霧のように消えていく。
「まだ気持ち悪いか?」
「ん、うん」
 さっきよりはマシになった。でも、ざらついた舌の口を舐めた感覚は消えなかった。あのときの男の眼、唇、唾液の味、ありありと頭に浮かぶ。
「えっ、ぉえっ」
 思わず嘔吐き、掌に唇を寄せる。さらさらの胃液が零れただけだった。ラムズはいつものようにさっと洗ってくれる。
「どうしたい?」
「か、ゎかんない、よぉ……」
 ぎゅうと肌を寄せる。甘い香りが体を包み、心がほんの少し和んだ。彼の心拍音が心地いい。
「お前が怖くねえなら、上書きしようか?」
「……ん。うわが、き……」彼の胸のシャツを掴む。「でもぉ、それで。ラムズとちゅうして、気持ち悪いって思っちゃったら、どうしたら、いいの」
 ヒックヒックと嗚咽が戻ってくる。喉を叩き、脈拍の早い胸の奥で気持ち悪さがぐるぐると渦巻く。
「じゃあ少しずつしよう、な?」
「けどぉ」彼の胸を叩いた。「きたない、よ。汚いの。気持ち悪い、汚いの。ごめんね、もうやだ? ごめん、ごめんね」
「汚くねえよ。大丈夫」
「やだぁ、だって。汚い、他の人に犯されたんだよ。それにさぁ……」
 ぐずぐずと胸底をどす黒い塊が覆い尽くしていく。女の子たちに言われた言葉、客に言われた言葉、自分で考えたこと、すべてが頭の中をめちゃくちゃに掻きまわす。
「娼婦じゃん。ね。昨日だってさぁ、他の人としてきたんだよ、してないときもあるけどさぁ、でもしてるの。ねえ、みんなの舐めてヤってるの。何回も何回も何人も何人も……。ラムズはきれい、汚くない、きれい。いやだ、やだ。ごめんね、ごめんね」
 手首を摩った。治してくれたのか、すべて綺麗になっている。でも切りたい。切りたい。楽になりたい。苦しい。喉が痛い。
「切ってやろうか?」
「……え?」
「手首摩ってるから」
「ん、あ……」
 彼が優しく腕を取り、なされるがままその腕をぼうっと眺めた。手首に爪を突き立て、すっと横に引く。
「あ、……」
 疼痛がじんじんと滲みはじめる。彼の細長い手の中、自分の手首を見つめた。赤の糸から雫が垂れ、帯のように手首の裏へ回りはじめる。
「舐めてい?」
「え、うん」
 腕を持ち上げ、柔らかい舌が手首の裏をぺろりと舐め上げた。ちらと視線を絡めたあと、舌が傷口をゆっくりとなぞる。裂け目を開くようにじゅくじゅくと愛撫する。痛い、痛いけど、ぞくぞくする。気持ちいい。痛い、痛い。
 手首を切るときの痛みは慣れている。でもそこを何度もなぞられると、熱を帯びた皮膚が疼き、びりびりとした快楽が体をめぐり始めた。
「ぁ、や……い、た」
 彼は腕を離し、首を傾げた。「やめようか」
「だいじょ、ぶ。気持ちい、い」
 彼はそっと嗤い、また口をつける。青い眼がこちらを見下ろし、妖しい舌が手首の影から見え隠れするたびに心がきゅんと鳴った。腕から肩に鳥肌が立ち、甘美な刺激が体を支配する。
「やぁだ。次するとき、足りなくなっちゃ、う」
 彼はくくと笑い、腕を外した。急に寂しくなって、腕がすうすうと餓える。まだ癒えない傷口を彼はじっと見下ろしている。
「もったいねえ」
「そぉ、かな。美味し、かった?」
「ああ」
「前より?」
 彼は妖しく笑った。「ああ」
 もう一度腕を持ち上げる。「垂れたとこだけ、だよ? 傷舐めてたら、乾かなくなっちゃうもん」
「たしかに」
 彼は流れてきた血をそっと舐めとった。何度かそれを繰り返し、ようやく血が止まり始める。傷周りに力を入れなければ出なくなった。
「ラムズが、切ってくれた」
 ハスキーな声が落ちる。「嬉しいの」
「ん、うん。ちょっと、嬉しい」
「また切ってやるよ」
「ん……」
 また重く沈んだわたしの顔を見て、彼はそっと体を寄せた。「汚くないよ。気持ち悪くもない。汚いと思ったことねえよ」
「……ん、うん……。でも、汚いよ。嘘だよ」
「本当。汚いと思ってたら助けてない」
「そぉ、だけど」
「大丈夫。何回でも洗ってあげる。綺麗にしてあげる」
 髪に触れ、指を通される。冷たい指が頭皮をくすぐり、ゆっくりと撫でていく。甘く蕩けるような声が鼓膜を震わせる。
「お前は優しくて強くていい子だよ。ちゃんと頑張ってて偉いね。俺よりもずっと心が綺麗だから、俺のことをきれいだなんて思う必要はねえよ」
「んなこと、ない。ラムズも優しいもん」
 彼はからかうように答える。「俺が最初お前に足乗せたの、忘れたの?」
「それは、え、と……」
 しっとりとした声が耳を濡らす。「お前のほうがずっと綺麗だよ。大丈夫」
 体を離し、頭をとんとんと撫でられる。上を向いた私と、青い眼がぴったり重なった。「信じて。大丈夫だから」
「ん……、うん、うん……」
 視界が潤み、彼の顔がぼやける。熱い涙が目尻を伝い、胸元に落ちる。小さく鼻をすする。
「辛かったな。もう少し早く助けられたらよかった」
「……な、んであそこにいたの?」
「お前、『がらん堂』で酒飲んでたろ。俺の知り合いが『ラムズラムズって騒いでる子がいる』って言うから店に行ったんだ」
「あ……そ、か。うん」急に恥ずかしくなって俯いた。あのときはお酒が入ってることもあり、わりと大きな声でライネルと惚気けていたんだった。
「俺が来たときにはいなくなってたから帰ろうと思ったんだが、叫び声が聞こえて」
「そうなの。そっか。叫んで、……よかった」彼の胸元を摩る。「会おうと……してくれたの?」
「ああ」
 彼は腕を離し、腰を少し上げた。いい?と優しく尋ねたあと、ベッドから立ち上がる。机にのっていた小さな包みを持ってくる。
「やるよ。それぼろぼろだろ」
 首筋に指を当てる。私の首には黒いチョーカーがついていた。ずっと前に元彼にもらったもので、これしかアクセサリーを持っていないからプライベートでつけることが多かった。特に大事にしているとかこだわっているとかはなかったけど……気に入っているデザインだったし、何も付けないよりいいかなって。
「ありがとぉ」
 おそるおそる手を伸ばし、彼から受け取る。柔らかい生地、包んでいる白い布も高級品だとすぐにわかった。開くと黒いレザーのチョーカーが入っていた。
「かわいい……」
 慎重につまみ上げる。尾錠は銀で、ベルト穴のように微小なダイヤモンドが間隔を空けて並んでいる。プラチナの細い鎖が下で流れるようになっており、黒い艶消しのステッチと滑らかな皮がお洒落だ。シンプルで媚びてないデザイン、私の好みだ。
 元彼にもらったものより高そうだ。同じチョーカーだけど、こっちのほうが凝ってる。このダイヤ……本物かな。指で摩る。
「それは俺がつけた。魔石を加工してる」
「え、そうなの?」
「宝石のついたアクセサリーは渡せねえんだ、悪い」
 “渡せない”だって。なんとなくおかしな言い方にほんの少し笑った。彼は首に腕を回し、元々ついていたものを外す。
「どうして知ってたの? これ付けてたの」
「お前が気づいてねえだけで、たまにすれ違ってたよ」
「え? 本当? 全然気づかなかった……」
「魔法かけて誤魔化してるから」
 私から新しいチョーカーを受け取り、首にベルトを回す。彼がつけ終わってから皮を撫でてみた。ベルトの長さは丁度よく、先が出すぎていることはない。
「鏡見るか?」
「うん……、ある?」
 彼は宙で指をくるりと回した。どこからともなく水が湧き上がり、平べったい楕円形に伸びる。揺らめいていた水が次第に落ちつくと、私とそっくりの顔が浮かび上がった。
「わぁ、……すごい」
 裏側は透けている。私が二人いるみたいだ。首を傾げれば向こうも同じように傾けた。指でチョーカーに触れる。かわいい。前よりも好きかも。しばらくチョーカーを眺めていたあと、嫌でも充血して腫れた目元に目がいった。
 お化粧、してないからあんまりかわいくない。唇を摩る。なんだか荒れている気がする。あの人にキスされた、から、かな。
 そっと手を伸ばし鏡の自分に触れようとした。水が弾け、宙に消えてしまう。
「うぐッ……。あた、し。もうお仕事、できないよ」
 俯いて自分の指を見つめる。どんなキスをしてもアレを思い出す。それに下だって……。汚らしい舌で舐められた感覚がまだ残っている。無理やり挿入されそうになったことも。
「仕事できなくなったら、どうなんの」
「わかんない。そもそも……抜けられない、かも」
 この街から出ていかない限り、きっとオーナーに探されるだろう。無理矢理でも仕事をさせられる。オーナーはそんなに酷い人ではないけれど、やめるのを許してもらえるとは思えなかった。
 人気な遊女になったおかげで待遇はよくなったし、融通を聞いてもらえるようにはなった。でもそれも……仕事ができないとわかれば酷い扱いを受けるかもしれない。
「どぉ、しよ。わかんない、わかんないよ」
 生きていけない。辛い。犯されそうになったときは死にたくなった。彼に会えない四ヶ月もすごく悲しかった。
 でも……。ぎゅうと手を握る。今は死にたくない。彼はここにいるし、チョーカーだってくれた。ラムズとまたお話してたい。
「辛いよ……。でも、ラムズとまたお話したい」
 彼は笑って髪をすいた。「きっと今日のことは何度でも思い出すよ。でもお前が頑張るなら、助けてあげる」
「助けるって、なに、してくれるの?」
 彼は仄かな微笑みを漂わせる。「なにしようか。なにしたい?」
 もっと会いに来てほしい。お店の外でもいいから会いたい。喉から出かかった言葉を必死に呑み込んだ。こんなことを言ったら彼を困らせるような気がした。ここまでしたのにって軽蔑されたらどうしようと、そっちの不安が擡げる。
 私は首を振って、彼の腕を掴んだ。
「うわがき、する」
「辛くねえか?」
 碧眼の奥が淡く光っている。綺麗な瞳だ、私も髪とお揃いの青眼ならよかったのに。
「……たぶ、ん。がんばる」
 目を瞑る。瞼を閉じた瞬間、あの男の気味の悪い笑顔が現れた。呼吸が一気に荒くなる。
「っは、ハァ、はあ。らむ、ず。目閉じると、見える。見えるの……」
 雫の垂れた目尻をそっと撫でる。「目開けたまましよっか」
「え、は。恥ずかしいよ」
「俺は閉じようか?」
 くるくると視線を泳がせる。「わか、った。うん。開いたままする」
 彼は私の顎に手を置き、唇に指をのせた。やわやわと下唇を撫でられる。銀の睫毛がサファイアに蓋をする。あんまり綺麗な顔に心が惹き付けられ、気づかないうちに彼の唇がわたしのそれに触れていた。冷たい。
 すぐに離される。
「大丈夫?」
「ん、うん。別の意味で緊張する」
 くつくつと笑い、首を傾げる。「なんで」
「だって……目瞑ってるのかっこよくて」
 そっと視線を逸らし、柔らかく口角を上げる。「そればっかりはどうしようもできねえ」
「わかってるよぉ」
 彼は頬に指を当てた。「もっかいする?」
「……うん」
 彼はもう一度目を閉じ、顔を近づけた。啄むようなキスのあと、少し顔を離して薄く目を開く。ふっと笑い、角度を変えて唇を重ねた。
 柔く唇を食まれ、湿った舌が滑らかに唇のあいだをぬると差し入った。体が強ばる。頭をゆっくりと撫でられ、優しい手つきに心が落ち着いていく。しっとりとした舌が口腔を丁寧に味わう。
 そこでまたキスが終わった。
「……あんまり、練習になんないよ」
「なんで」
「だって……ラムズのキスは特別気持ちいいもん」彼の服の裾を掴む。「他のお客さんにされたら、気持ち悪いってなるに決まってる」
 彼は顔を崩した。「それは困るな、どうしようか」
「下手なキス、して」
「下手なキス?」彼はくくと笑う。「難しいこと言うな。これ以外知らねえよ」
「え〜」
「下手かはわからんが、なるべく気持ちよくないようにしてみる」
「できるの?」
「……たぶん」
 顎がくいと上を向き、整った顔立ちが視界に映る。唇が合わさり、そっと開けられた。私の舌を吸い、雑に回される。硬くしたり柔らかくしたりして、粘膜をゆるゆるとくすぐった。
「ぁ、は……ん……」
 唾液の糸が甘く絡み合い、顎の裏をぬるとつつく。腰を引き寄せられ、甘美なキスの雨が降る。息が苦しくなって開いた口を彼が覆い、舌の根元へ粘ついた液を染み込ませるようにぎゅうと押した。
「ん、ぁんっ……はぁっ」
 優柔な舌が焦らすように歯茎をなぞる。
 気持ちいい。気持ちいいじゃん。下手じゃないじゃん。知らぬまに私は目を閉じていて、彼から与えられる濃厚な快楽に酔いしれた。
 くにくにと舌を回され、そのたびにぴちゃと濡れた音が立つ。息を呑まれ、苦しくなっても体を離してくれない。唇の裏に緩急をつけて添わされ、ぞくぞくと淫らな感受が溢れた。
 ようやくキスが止んだ。
「悪りい、無理だった」
「……っねぇ〜!」