訪問者

「ねえ、お兄さん。なにをしているの? お母様たちと何を話していらしたの?」
 ラピスフィーネが扉の影からそう声をかけると、どこか異質な雰囲気をまとった男が顔を上げた。机の上には、まだ十歳に満たない彼女のふっくらした手が掴むには、あとアプルひとつぶん大きくならなければ抱えきれないくらい、重くて高そうな本がのっている。
 羽根ペンを置いて、彼は優しげな声で返す。「ラピスフィーネ殿下。ここには入ってきてはいけないと教わりませんでしたか?」
 ラピスフィーネは開けていた扉を気持ちばかり引いて、顔がわからないように隠そうとした。「入ってないわ。まだね」
「──たしかに。賢いお嬢様だ」
 彼は貴族だろうか。ニュクス王国のナショナルカラーである紺色よりも、少し明るい青の刺繍をあしらえた美しい装束を着ている。首元にはサファイアのネックレスが下がり、耳にはピアス、服や黒いブーツには宝石の装飾がついている。その中に、彼女の見覚えのある宝石もあった。
「それ! お母様の!」扉の影から飛びだし、男に向かって走りこむ。男は既のところで彼女を抱きとめ、顔を上げた彼女と目を合わせた。左側はずいぶん鮮やかな青に見える瞳だ。
「危ないですよ。眠れないのですか?」
 もう二度目の六時を回りそうな時間だった。本当なら、ラピスフィーネは広すぎるベッドで寝ている時間だ。
「スキアは貴女様の部屋のカーテンを閉めてくれなかったのですか?」
「……そ、そうですわ?」
 彼は自分の顎をそっとさすったあと、目を細めて笑った。「さて、それは困った。お嬢様の部屋にある時計を直しにいかなくてはなりませんね」
 部屋に来られるのは困る。実際は時計なんて止まっていないのだから。それにもしかすると、もう深夜を回るころかもしれない。この男が慌ただしく時計を直しになんて来れば、侍女たちに部屋を出たことがバレて怒られてしまう。
 彼女が悩んでいるのを知ってか知らずか、男が尋ねた。「どうやって部屋を抜けだしたのです?」
「簡単よ。寝たフリすればいいだけだもの」
「そんなことで抜けだせるとは、ラピスフィーネ殿下のお母様にご報告しなければなりませんね」
 それも困る。そんな様子を感じとったのか、男は「冗談ですよ」と笑った。
 ラピスフィーネは目の前の男を見た。彼は誰なんだろう? 自分の母親や父親である、女王や王と親しげに話していた。彼ほど母親や父親と仲の良い者はいないだろう。ラピスフィーネがよく世話になっている近衛兵の者たちですら、女王とあんな崩した話し方をすれば打首になるはずだ。
「あなたは、だあれ?」
 彼は彼女の腰に手を回し、腕に彼女を抱えて廊下を歩きはじめた。部屋に戻すつもりらしい。
「どなただとお思いで?」
「んー、えらいひと」
「偉くはありませんね」
 抱き上げられているラピスフィーネは、自分の目の前にきた大きなサファイアのネックレスに手を伸ばそうとした。
「殿下であっても、それに触ったら怒りますよ」
 彼女はびくりと肩を震わせて、手を引っこめた。声は優しいけど、これは本当に怒るときの声だ。
「あなたの名前を教えて。なんて呼べばいいかわからないわ」
「名前ですか。名前はたくさん持っていますので、どちらをお伝えすればよいものか……」
「名前がたくさん? そんなの、聞いたことないわ」
 ずいぶん長く感じたラピスフィーネから男の部屋までの道のりを、彼はほんの数分で戻ってきてしまった。
 これでお別れだろうか? 名前すら聞きだせていないのに。「まだ帰ったらダメよ。私はこの国の姫なんだから、貴方に命令する権利があるはずです」
 男は笑って、床に彼女を下ろした。彼女の小さな手を繋ぎ、部屋の中へ引き入れてやる。
「いいでしょう。かしこまりました、お姫様。それでは私めは何をすればよろしいでしょうか?」
「名前よ、早く名前を教えなさい」
 初めからこうすればよかったのだ。自分はこの王国の第一王女なのだから刃向かえるはずがない。母親や父親と親しくしていたとしても、『えらい人』でない以上、自分より身分が上だなんてことはない。
「そうですね……幼いラピスフィーネ殿下はたくさんの名前は覚えられないでしょうから、次に使う名前をお伝えしましょうか」
「次に使う名前? 今の名前はなあに?」
「きっと殿下と次に会うときはこちらの名前になっているでしょうから、今の名前を気にしてもしょうがありませんよ」
 ラピスフィーネは名前をひとつしか持っていない。たくさん持っている彼がそう言うのであれば、そうなのだろう。
 彼女は素直に頷いて、彼の言葉に耳を傾けた。
「次はラムズ、そう名乗ろうと思っています。ラムズ・ジルヴェリア・シャーク。これが私の正式名になります」
「らむず、じるヴぇりア、しゃーく……」
「よく言えましたね」
 彼女は少し頬を染めたが、それを隠すように近くの椅子まで座りにいこうとした。
「殿下はもうお眠りになる時間ですよ」
「……嫌よ。眠れないもの。もっとあなたのことを聞かせて」
 女王や王がラムズと話しているあいだ、ラピスフィーネはなぜか彼の正体が知りたくてたまらなかった。普段は女王に面会する者たちなどつまらない者ばかりで、顔に張りつけた胡散臭い笑顔が白々しい嘘を紡ぐのを見るばっかりだからだ。
 でもこの男は違う。彼は女王たちと気さくに話し、むしろ女王は彼を敬っているような素振りすらしていた。
「どうして私と話すときは、そんなふうに近衛兵の者たちのようになってしまうの?」
「それは、殿下のほうが『偉い人』だからですよ」
「でもお母様とお話するときは違ったわ。お母様のほうが私よりも偉いのに」
「よく見ていらっしゃいますね。ですが、貴方様のほうが偉い人であることに変わりはありません」
「それならばどうして?」
「それは、私めが人間ではないからでしょうかね?」
 ラピスフィーネはぎょっとして一歩後ずさった。人間以外の者が嫌いなわけではないけれど、何を考えているかわからないから、少し怖い。それに宗教の教えで、人間以外の使族とは関わってはいけないことになっている。
 彼女の怯えた様子を見て、ラムズは柔らかく笑った。「何もしませんのでご安心を。殿下のお母様は私のことを嫌ってはいなかったでしょう?」
「……そうね。でも、人間でないとお母様たちと仲良くできるの? そんなの変だわ」
「それは、私めがある使族だから仲良くしてくださるんですかね?」
「──ある使族? なんの使族なの?」
 ラムズは首をかしげ、奇妙に微笑むばかりだ。
 ラピスフィーネは彼の宝石の付いていない服の部分を掴んで言い放つ。「私は王女よ、命令を聞きなさい」
 彼は観念したように腰を曲げた。ラピスフィーネの耳元まで口を寄せ、冷たい息でそれを伝えた。
「えっ! そうなの⁉ 本当に⁉」
「本当ですよ」
「……でもそんなのおかしいわ。もし本当にそうだったら──そんな格好をして、そんなふうに話しているわけないもの!」
 ラムズは困ったように眉を寄せて、彼女の頭を撫でた。「たしかにそうかもしれません。ですが、私たちも場所と時間を弁えることくらいはできるのですよ」
「そうじゃないと、近衛兵に捕まるから?」
「よくおわかりで」
 もし彼が本当にあの使族なのであれば、きっとこれを知るのは女王と王くらいなのであろう。ラピスフィーネも絶対に言わないと口を力強く結ぶ。
「でも、今はいいのよ。この部屋には誰もいないもの。私もラムズの秘密を知ったし、私に貴方らしく話すことを許します」
 ラムズは冷えた声色で「俺らしく、ねえ」と呟いたあと、暖かい目つきに戻って彼女に視線を落とした。
「それが貴方様のお望みとあらば」
 今度こそラピスフィーネはラムズに抱えられ、ベッドまで運ばれてしまった。「まだ眠くない」そう言おうとしたが、柔らかい布団の中に体を入れると、自然と瞼が閉じかけてきた。
「まだ……ダメよ。私が寝るまで」
「俺はやりたいことがあるんだが」
 胸がどきまぎした。彼は約束どおり、女王と話していたのと同じように気さくに話してくれるらしい。このように砕けた話し方をしてくれる人は他にいない。みんな自分に傅いてばかりなのだから。でも彼≠ネらば許せる。それに、こうして話してもらうのは少し新鮮で、秘密の関係みたいで楽しい。
 ラピスフィーネは彼の袖を掴んだ。「貴方はいろいろな場所をわたり歩いているのでしょう? お話しましょうよ」
「ああ。少しだけな」ラムズは彼女の枕元で腰を下ろした。侍女や近衛兵なら、絶対にこんなことはしない。姫のベッドに座るなど、きっと捕まってしまう。
 それに、そもそも王女である自分の寝室に土足で踏みこむなんて汚いはずだ。だがラピスフィーネは、ラムズであれば許せた。それに彼は汚い印象はどこにもない。今着ている服は寝衣ではないだろう。だがとても美しいし、新品同様の見た目、肌触りだ。
「明日には王国からいなくなってしまうの?」
「そうだな。やることがたくさんあるから」
「今日はどうして来たの?」
「宝石をもらいに来たんだ。君のお母様のね」
「お母様はそれを大事にしてらしたのに……」
 ラピスフィーネが顔を曇らせると、ラムズは彼女の頭を優しく撫でた。「お母様は嬉しそうに差しだしていたから、大丈夫だと思うぜ。俺のために取っておいたのかもな」
「──でも、それはお父様がお母様にあげたものよ?」
「そう言われると心が痛いな」
 そんな台詞とは裏腹に、ラムズはまったく悪いと思っていなそうな顔だった。たしかに彼の言うとおり、彼はあの使族なんだ。初めて会った。こんな近くにその存在があったのかと、緊張を覚えて袖を掴んでいた手が汗ばみはじめた。
「きっとラピスフィーネも俺に渡したくなるよ。……違う?」彼の瞳が細まる。
「──私はタダではあげないわ」
「なにをしたらくれる?」
 ラピスフィーネは少し考えた。今いちばん彼にしてもらいたいことはなんだろうか。
「もっと会いにきて、私と一緒にお話して」
「それはちと大変だな」
「そうじゃなきゃあげないわ」
「だがラピスフィーネは、今は宝石なんて持ってないだろ?」
「持ってるわ」彼女は布団からもう片方の手を出して、着ていた寝衣をラムズに見せた。袖のボタンのところにガーネットの宝石が使われていると、女王に言われたことがある。
 この宝石のついた服はたしか、ラムズが来る数日前に着せてもらったものだ。『あの人に気に入ってもらえたらラピスフィーネも嬉しいはずよ。何かあったらこれを渡すのよ』女王はそう言っていたし、この宝石をラムズに渡してもいいのだろう。
「それ、もらっていいのか?」
「私の願いを叶えてくれたらね」
 ラムズは焦がれるようにそのガーネットを見たあと、ラピスフィーネに視線を移した。
「宝石はひとつでいい。その代わり、今日はお前の望む話をしてやろう」
「ほんとう!」
 少ししか話さないつもりだったのに、今日はずっとそばにいてもらえる。もうすぐニヒルも消える時間だけれど、この機会を逃したらいつになるかわからない。寝ないように頑張ろう。
 ラピスフィーネは小さな手で布団を強く掴むと、期待を込めた目でラムズを見た。
「さて……なんの話をするか」
「さっきは何をしていたの? 本を書いていたの?」
「そんなところ」
「それなら、いろんなお話をしてくれる? ラムズが知っている話」
「わかった」
 ラムズが話そうとするのを見て、ラピスフィーネは「少し待って」と彼を止めた。
「音楽を付けて、旅人みたいに歌でお話してよ」
「それはまた難しいことを言うな」ラムズは苦笑する。
「貴方にできないことはないはずよ。だって魔法だって得意なはずだもの」
「仕方ない」
 ラムズは手を掲げると、指を弾いて魔法を使った。天蓋ベッドの上についていたガラスのランプが青白く光り、ダイヤモンドが瞬くように辺りを照らしはじめた。ランプはゆっくりと回転し、そのたびにダイヤモンドの星屑がベッドの周りを泳いでいく。
「きれい……」
 しばらくすると、そのランプから音楽が流れはじめた。本当はこのランプは、よくある橙色の蝋燭の炎のように光るだけだ。それがあんな風に輝き、音楽まで流すなんて。
「俺は美しいものが好きだからな」
「変なの」ラピスフィーネはくすくす笑う。彼が歌いだすのを、今か今かと待った。
 ラムズは溜息混じりに彼女に視線を落とすと、冷たく胸を攫うような声で歌いはじめた。

「むかしむかし あるところ
 可憐な少女の赤い家 竜巻ぐるぐる飲みこんだ
 悪い魔女を下敷きに お婆さんとは離れ離れに

 少女は歩く 銀の靴
 故郷へ戻る その旅路
 魔法使いに会いに行かんと
 魔法使いよ 郷に帰してくれようと」

 彼女はじっとラムズを見続けていたが、ランプを見る彼の目は瞬きひとつせず、歌う喉はぴくりとも動かなかった。
「その歌は……ラムズの身に起こったお話?」
 彼はちらりと彼女を見やり、先ほどの歌声のように心地良い声で答えた。
「俺は魔法使いの役」
「あら、悪い魔女じゃないの? この子のことを助けてあげたの?」
「助けてあげたさ、もちろん」
 ラムズは薄く笑い、また歌いはじめた。美しくも悲しい声は、羽根が心を擽るようにいたましげに心へ触れた。耳の奥にまで声の響きが届き、眠りに落ちていくラピスフィーネの夢の中を彩った。

「最初にカカシ 少女は出会う
 カカシの話 わらの詰まった僕の脳
 馬鹿と言われず生きていきたい
 もっと賢く生きてみたい

 錆びたブリキ 少女は出会う
 ブリキ語りき 変わってしまったこの体
 愛するがため 心が欲しい
 心があったら幸せだろう

 臆病ライオン 少女は出会う
 吠えれば逃げらん だから知らない
 だけども自分はわかってる
 臆病弱虫 王たらぬ僕

 心があれば 気をつけなくてもすむはずなのに
 哀れな虫は 靴底の裏 玉絶えん
 知恵があれば 考えなくてもすむはずなのに
 思いつくのは 衆愚な意見 ありきたり
 勇気があれば 二の足踏まずにすむはずなのに
 ヒーローなるは 真にまさしく 百獣の王

 少女とカカシ ブリキにライオン
 故郷へ戻るその旅路
 魔法使いに会いに行かんと
 魔法使いさ 夢を叶えてくれようぞ

 だけども彼らは知らんのさ 
 魔法は魔法、呪いは呪い
 魔法はすべては叶えない」

 ラムズが歌い終わるころには、ラピスフィーネは深い眠りについていた。ラムズは彼女の袖から優しくガーネットを外すと、静かに去っていった。