空っぽな理想郷

 怜苑と別れて数週間、ロゼリィはアゴールにある『異端の会』に来ていた。
 初めはラムズたちについていくことが運命で、ロゼリィとしても彼について行きたいと思っていた。なにか真実の愛≠フようなものを見ることができるような気がしたのだ。メアリの存在のせいかもしれない。メアリはサフィアを探していると聞いたが、ここで一波乱あるような……そんな気がした。
 とはいえ、ロゼリィはメアリがサフィアを愛していることも、殺そうとしていることも知らなかった。もし人魚に戻るためにサフィアを殺そうとしていると知っていれば、彼女がどんな選択をするか見届けるまでそばを離れなかっただろう。どこか後ろ髪を引かれるような思いがしたが、実際はロゼリィはメアリとサフィアと呪いの関係を知らなかったし、運命が指す道はひとまずラムズたちと離れることだった。
 ある日宿に戻ると、ラフな格好をした黒髪の男が机に座っていた。ロゼリィを見かけるとぱっと顔を輝かせ、明るく声をかける。
「ロゼリィだったよな? よろしく、ゼシルだ」彼は机に座ったままひらひらと手を振った。「ラムズのところから帰ってきたんだっけ?」
「そうですわね。もう一緒にいる必要がなかったようですから」
「これからどうするつもりだ?」
「まず……この格好をなんとかしようと思っていますわ」ロゼリィは自分の祭服を見下ろした。
 この格好のせいで怜苑に不毛な思いを抱かせてしまった。そもそも容姿で愛を抱かせるような格好をする自分の存在は、やはりいいものではない。だが、自分の言動といちばんよく似合うのはこのような聖女の姿であり、身綺麗にしていたほうが生きやすい。そういろいろと考えあぐねそうになったが──結局運命に従うほかなかった。時の神ミラームに創られた使族はみな、例外なくミラームに道を委ねられているのだ。
「せっかく綺麗なのに」
「あなたこそ……このあいだはレオンと会っていたようですが、何を考えているのです?」ロゼリィの端正な顔が少し歪む。
 ゼシルはくすりと笑って答えた。「ただ信者を増やしただけさ。レオンの価値観はここの人とだいぶん違うようでね」
「あまり外れたことをしていると、クイーンに殺されてしまいますわよ。クラーケンの件は関わっていないのですよね?」ロゼリィは咎めるように言う。
「俺が?」ゼシルはわざとらしく赤い眼を瞬いた。「まさか! 理由もなしにクラーケンを殺すなんて、そんなことはしないさ。クラーケンだって立派な神の作りたもうた存在じゃないか」
「ゼシルの宗教論は難しいですわ。クラーケンは殺さずとも、人間や獣人、他の使族は殺しているでしょう?」
「必要なときにはね」ゼシルは悪びれなく答える。「俺のいちばんの仕事は神の信仰者を増やすことだ。そのための多少の犠牲は厭わないよ。神だって望んでくれている」
 サフィアの話を聞くかぎり、神がそんなことを望んでいるとは思えなかった。だが人間の生みだす宗教は、いつも人間の都合のいいように神が利用されているものばかりだ。人間が人間らしく生きられるように、生き方の道標となるように作られている。ゼシルもそれらと変わらないのだろう。
 自分もそうだが、彼の理論も完璧ではない。矛盾も多い。でも本人が完璧であると信じている以上、否定してはいけないのだ。そうでないと破綻≠オてしまうから。
「言い換えれば……」ロゼリィは憂いのある声を出す。「自分の与えられた役目を果たすことが、神を崇めることに繋がるのですね」
「そうさ! お、ロゼリィも崇神教に入りたくなったか?」
 ロゼリィは細めた横目に笑みを滲ませる。「私が入ってしまったら不公平ですわ。あくまで私たちはどちらの味方にも付きません」
「そう言いながらもラムズと旅をしていただろう。この前はトミーたちとの戦いでラムズに手を貸していたようだし」
「それは貴方も同じでしょう。私もヴァニラも、襲ってきた敵を退けただけ。それにあの場では、どう見てもラムズが優勢に思えましたから」
「それならやはり──」
 ゼシルの言いかけた言葉をロゼリィが遮った。「ゼシル、考えたほうがいいですわ。ラムズは長いあいだ生きているだけあって、信頼している者は多い。すでにおわかりでしょうが、七歳にも満たない貴方を玉座につけようと思っている者はそういないでしょう……。表立って止めることはなくとも──。とはいえ、貴方の新しい体制に興味を持っている者がいるのは事実。むしろ魅力はそこにしかありませんわ」
「──逆に聞くが、ラムズはどうしてこのままであろうとする? こんな不自由な掟、あいつだって嫌だと思ってるはずだ」
 ロゼリィはほうっと息を吐いて椅子に座った。「そうですわね……。ラムズも煩わしいとは思っているでしょう。しかし、彼は経験者ですから……」
 ゼシルは苦々しい顔で首を振る。「そもそもすべては神の思し召しじゃないか。自由にして何が悪い?」
「……神の考えることは、私にもわかりませんわ」
 ゼシルは一度口を閉ざした。しばらく無言の時間が流れる。
 ロゼリィがしなやかに体をまわし立ち上がろうとして、ゼシルがぽつりと話しかけた。「前は、俺≠ェ死んだんだな?」
「そうです。だから貴方≠ェ生まれたんですから」
 階段を上っていったロゼリィを、ゼシルはなんともいえない気持ちで眺めていた。

 *

 ずいぶん老いてしまった。ロゼリィは自分の皺だらけの掌を見て小さく溜息を落とした。自慢の美しい金髪も、今はうなだれるように萎れている。頬が痩け、色の落ちた碧眼が重い瞼に隠れている。もはやロゼリィと名乗るのはやめてしまった。
 美しかったころに比べて、自分に対する扱いはひどく厳しいものに変わった。物乞いのような真似をしているわけではないのに、見た目のせいでそう勘違いされ野次を飛ばされたり唾を吐きかけられたりする。だがロゼリィはまったくかまわなかった。自分という存在に間違った愛を向けられるくらいならば、愛されていないほうがずっと心地よかった。
 だが、このような姿だと他者と関わるのに苦労する。前は自然と人から受け入れられ、楽に彼らの社会や人間関係を観察することができた。だが今は話しかけることすらままならない。それでも、ときおりこのような老いた姿の自分を快く受け入れてくれる者もいて、そのたびにロゼリィは心が温まった。
 そのひとり、貧民街で出会ったみすぼらしい女性の掘っ建て小屋で、ロゼリィは三日ほど過ごしていた。ロゼリィは人間でないとバレない程度に少し魔法で彼女の生活を助け、逆に女性からは食事や寝床をいただいていた。
 あるとき、その女性の子供がロゼリィを見上げて言った。
「ねぇお母さん、どうしてアモルガおばあちゃんはこんなにボロボロのお洋服なの? あたしたちより酷い人なんていないと思ったのに」
「こら、レイディ。そんなこと言うものじゃありません」
「でもー!」レイディと呼ばれた少女は口を膨らませる。「お手てはしわくちゃすぎるし、お顔もいくら洗っても汚いまんま!」
「ごめんなさいね」女性は朗らかにロゼリィへ笑いかけた。本気で謝っているわけではない。それがロゼリィは堪らなく嬉しかった。
 女性はレイディと目線を合わせるようにしゃがむと、力強く言った。「綺麗だとか汚いだとか、そういうことはあんまり大事じゃないの。よおーく見てみて。アモルガさんはレイディよりもずっと食べ方が綺麗だし、腰を曲げていても自信があるのが伝わってくるわ」
「じゃあー。内面がきれいってこと?」レイディが首を傾げる。
「そうね。そうかもしれない。でもいちばん大切なのは、どんな人のことでも許し、愛し、認めてあげることよ。いいところも悪いところもね。レイディもそうなれたらいいわね」
「もしかしてリュガートがあたしを転ばせたことも許せっていうの⁉」
 女性は微笑み、レイディの髪を優しく撫でた。「そうよ。だってすべてを受け入れられたら、もう何にも悲しまなくていいでしょう? 悩まなくていいの。相手を受け入れれば受け入れるほど、自分の幸せは増えていくし、不幸せは減っていくわ」
 レイディはまだよくわからないという顔で母親を見ていた。ロゼリィは何も言わず、ただ二人を眺めていた。

 一週間過ごしたあと、ロゼリィは二人の家から立ち去った。だが、それからもときおりこの二人の様子を見に家に寄ることがあった。そのたびに女性はロゼリィを歓迎し、レイディのほうは微妙な顔でロゼリィを見るのであった。
 それから五年ほど経ったころだろうか。ある日ロゼリィが二人の家へ訪れたとき、母親の死体の前で蹲っているレイディが見えた。死んでから数日は経っているのだろう、死体から腐乱臭がしている。貧民街であるせいか誰も気に止めていなかったようだ。
「レイディ、お母様の体を片付けないと」
 ロゼリィはそう後ろから優しく声をかけた。レイディはわずかに肩を震わせたあと、すくりと立ち上がる。前に見たときよりもまた背が伸びていた。
「あなたのせいだ! あなたがお母さんを止めてくれないから……」
 ロゼリィは怪訝な顔をする。「何があったのです」
 レイディは俯いて、硬く拳を握った。
「お母さんは……盗みに入られて死んだの。そのときもなにひとつ抵抗せず、お金を奪われたあとは陵辱されて……。──それで殺されたの。私が仕事から帰ってきたらもうこの有様だった」レイディは淡々語っていく。「お母さんがいい人だってみんな知ってる。だから狙われたんだよ」彼女はロゼリィを睨んだ。「……アモルガさんが言ってくれればよかったのに。苦しいことは苦しいって言っていいって。嫌なことは嫌だって言うんだって。子供の私が言っても聞いてくれない。でもあなたが言えば少しは……少しはわかってくれたかもしれないのに……」ちらりと母親のほうへ視線を走らせたあと、今度は叫ぶように放った。「それに……お母さんを見て最初に言うことが『死体を片付けろ』って、あなたに心はないの⁉」
 レイディはしゃがみこんで泣きはじめた。ロゼリィはゆっくりと彼女に近づいていく。
「ですが……彼女は最後、何も不幸を感じずに死ねたのでしょう? 何を悲しむことがあるのです?」
 レイディはロゼリィと母親の死体を見比べた。ごくんと唾を飲み、瞳孔を震わせる。
「──人間じゃない。お母さんも、きっともう人間じゃなかった。お父さんに酷い裏切り方をされてからああなった、人間じゃなくなったの。みんなにいい人だって、優しいって言われていたけど、いい人であることが本当に正しいことだったの? こんな目に遭っているのに?」黙ったままの醜い老婆を見て、レイディはさらに声を荒げた。「酷いことをされても受け入れて死ねたから幸せだなんて、そんなの人が考えることじゃない! きっと……きっともう化け物になっちゃってたんだ。そうだ、きっと悪魔に憑かれたんだ! あなたも悪魔憑きだ! 化け物! 出てって!」
 『悪魔に憑かれた』、『化け物』……最悪最低の侮蔑の言葉だ。胸が痛むように疼いた。ロゼリィは落ちついた声音で諭す。
「悪魔はもういませんよ。彼女はただ、すべてに対して愛を持っていただけ……。それは別に、化け物だと卑しめるようなことではないはずです」
「そんなことない。嫌なことを嫌と言えず、幸せなことを幸せだと言えず、辛いことも酷い人も受け入れて、何が起こっても微笑んでいる。そんな当たり前なことができないお母さんは……」彼女は力なく肩を落とした。「もう抜け殻だったんだよ。ずっと笑ってたもん」母親の死体を見下ろし、唇を噛みしめる。「私にも何も言わなかった……。それが愛だってお母さんは言っていたけど、そんなの違う。私もみんなみたいに叱られたかった。道を正してほしかった。お母さんの思う道を私にも見せてほしかった。私の『お母さん』であってほしかった」レイディは汚い服の袖で涙を拭った。「もう……お母さんはいないから。あなたも来ないで」
 ロゼリィは彼女の死んだ姿をもう一度視界に入れた。腐りかけてしまってはいるが、安らかに眠っている。なんのしがらみにも囚われることなく、後悔も憂いもなく彼女は死ねたのだろう。きっとレイディという子供を残して死んだことだって、何も思わなかったはずだ。きっとわかってくれるはずだと信じて死んでいった。
 ……あぁ、レイディがもう少し母親に似ていれば、愛が完成したのに。
 ロゼリィは彼女の家を出ていった。
 陵辱されようが、ものを盗まれようが、その相手を愛していれば苦に思うことなどない。彼女はすべてを愛していた。いちばん最高の愛の形だ。最高の死だ。周りも彼女を受け入れればいい。みなが互いを受け入れあえば……。あのレイディという少女も母親の死に悲しんでいるようだが……そうではなく受け入れられたら、もっと心が安らかになるのに。
 だが、ロゼリィがそれを彼らに望むこともまた愛≠ナはなくなってしまう。理想の愛の形はあれど、これを誰かに強要するべきではない。誰かに何かを望む時点でもう愛ではないのから。
 嫌だという心も、苦しいと思う心も必要ない。こうなればいいのに、ああだったらいいのに、こうしてくれればいいのに──そんなふうに相手に何かを望むのは間違っている。
 ロゼリィはレイディの家から帰る道すがら、何度も何度も首を傾げた。
 自分が化け物だなんて……化け物はどちらだろう? 誰かに何かを絶えず渇望し、何かを変えようと必死にもがき、自分の身に起こったことに憤怒し悲嘆し絶望する。自分の感情をまざまざと示す、それも多面的で矛盾だらけの感情を──そんな姿のほうがよっぽど悪魔的ではないか──。
「悪魔が人間だけに憑依することができたのも、人間がいちばん悪魔に近かったからかもしれません。私は……人間よりも悪魔よりも、ずっと崇高でいるというのに」
 容姿に似合わぬ透きとおった声は、貧民街の喧騒に紛れて消えていった。