欠けた鱗

 メアリとラムズが宿屋『異端の会』からいなくなって、ジウはつまらなそうに唇をすぼめた。
「ボクも二人についていけばよかったかなー」
 まだ部屋には先ほどの香水の匂いが漂っている。戦いの匂い―みなまで言わなかったが、これはきっと『シャーク海賊団で戦ったときの匂い』だ。
 ジウは、ルテミスになる前より今のほうがずっと感情があるような気がしていた。他人を殺すこと、拷問することに対しては快感しか覚えないが、この船を思うような気持ちは以前になかったものだ。
 船員を殺されても相手を悪く思うことはない。だが、このシャーク海賊団を気に入っている。仲間とまで言わずとも、困っている船員がいれば助けてあげようと思うくらいには、シャーク海賊団が壊れないよう努力するくらいには、ここが好きだ。
 以前はどうだっただろう。ジウ・エワードという名前に変える前―貴族だったころ。あのときは家族も友達も恋人も、自分の名誉や地位さえ大事にしようだなんて思わなかった。むしろすべてが壊れてしまえばいいのにとさえ思っていた。煩わしい貴族のやり取りだとか、戦いや血に異常な反応を示すジウへの冷遇だとか、色恋沙汰を持ちこむ幼なじみだとか、すべてが嫌になっていた。自分が依授されたこと、そしてラムズに拾ってもらったことは、これまでの人生においてこれ以上ない救いだ。
 ジウは椅子から立ち上がり、二階の部屋へ戻っていった。自分が助けることをメアリは強く感謝していたようだが、そんなたいそうな感情は持ちあわせてない。ただ船長に元に戻ってほしかっただけ、船長がまた落ちこんでしまったら困るだけだ。
「早く船に乗りたいなー!」
 部屋の扉を閉めると、ジウはベッドに体を投げだした。

 *

 ラムズがメアリと歩く夜道、二人のあいだに会話はなかった。とはいえ、メアリはひとりで考えごとをしているようだったし、ラムズは口を開くのが億劫だと思っていた。そもそも歩くのもそんなに好きではない。疲れるからだ。足場が悪くないのがなによりの救いだ。
 十五分ほど歩いたころだろうか。ふらふらと酒に酔った海賊がメアリの体に迫ってきたので、ラムズは彼女を自分のほうへ引き寄せた。これで三度目だ。
「どうかしたの?」
 冷たい視線で彼女を見下ろす。「ぶつかりそうになったから」
「あぁ、またそれ? 大丈夫なのに。鱗は痛くないから」
 やはり見当違いの方向に感謝している。なんの手応えもない。
「お前さ……恋愛はしたことねえのか?」
「は?」
 まず彼女は、ラムズの口から『恋愛』という言葉が出たことに驚いているようだった。そのあとぱっと目を伏せ、放るように答える。
「いや……それなりにはあるけど。別に話すようなことはないわ」
 ただならぬ恋をしていたらしい。初恋の相手が死んだとか、何かどうしようもないものに仲を引き裂かれたとか、愛してはいけない人を好きになったとか。もしくは、人間になったせいで嫌われてしまったのかもしれない。ともあれ、少なくともまったくその毛がないということではないらしい。
「ラムズこそ、そんなの絶対ないでしょう」
 一瞬口を噤んだ。運命が敷くが早いか、自分の意思で答えるが早いか、再び言葉が落ちる。「ねえかな」
「やっぱりね」
「酷い評価だ」
「だって……宝石以外を大事にするの、想像できないもの」
 ラムズは首を傾げた。「この船のことも船員のことも、大事にしてるけどな」そのあと彼女に視線を合わせる。「メアリのことも」
 メアリは、むむむと眉間の皺をゆっくり寄せていき、そのあと顔を背けた。どういう意図でラムズが喋ったのか考えているんだろう。
 振り向いたときには、開きなおったような顔をしていた。「まぁ宝石だものね」
 やっぱりそうはなるよなと思いながらも、ラムズは曖昧に頷いた。どうせなら船長として会わないほうがよかったかもしれない。だが貴族として会うことはまずなさそうだし、そもそも神の為せる運命である以上、どうこう言っても仕方あるまい。

 しばらく歩いて、今度はあからさまにメアリを狙う輩があとをつけてきていた。ジウに殺された者の仲間だったのかもしれない。
「あいつだ! あれが人魚だ! グラディたちはルテミスにやられたそうだが……」
 三人の男は背後の物陰からラムズたちを覗き見ている。風に運ばせれば、少しの距離なら声が聞こえやすくなる。
「だが……あの船長、シャーク海賊団の海賊の王子様じゃねぇか? 怒らせたら怖いって噂じゃ……」
「いや! あの船長だって人魚と知らねぇのかもしれない!」
 噂はおなしな方向に歪んでしまっているようだ。正しいのは『赤髪の少女が人魚である』、それだけなのだろう。無視することも、このまま即座に殺すこともできたが、ラムズは男たちが表に出るのを待っていた。
 ついに一人が、背後からツタの魔法を放った。猛スピードでメアリの足へ迫っていく。ラムズは一瞥もせず男のツタを風元素の刃風で切り刻んだ。敵の魔法は粉々になって消える。
「えっ!? なに!?」
 ようやく気づいたメアリが後ろを振りかえる。男は三人とも道に躍りでてカトラスを構えた。
「船長さんよ、そいつは人魚らしいぜ! 一緒にこいつを―」
 ラムズの腰元からカトラスが宙へ浮きあがり、すっと飛んで喋っていた男の喉へ突き刺さった。残りの二人は、仕切りなおさんとばかりに一目散に逃げようとする。ラムズは宙で風を操り、小さな竜巻を出現させた。風は剣のような形に変わっていき、風剣は狂いなく二人の男の心臓を貫く。
 男たちが現れて、ほんの数秒だった。三人とも地面に伏して死んでいる。
「見られると面倒だから」
 呆気に取られているメアリの腕を掴み、歩を進ませる。
「あの……えっと。よかった。……ありがとう」
 彼女は言いにくそうに呟いた。人を殺すくらいいつもやっていることだ。それほど感謝されるようなものではない。
「そのために俺が来たんだろ」
「まぁね。でも……こう真っすぐに助けられるのって、あんまり慣れてなくて」
 そこからか、と心の内に呟く。助けられることに慣れていないのであれば、心を開くなどもっと難しいだろう。
「ひとりで生きる必要はねえよ」
「んー……まぁ。でも、人魚はだいたいそうだったから」
 突き放そうとして言ったのではない。ただ思い出しているのだろう。ラムズはメアリを横目で見る。彼女のなかでもう既に変化しているようだ。これ以上は何も言うまい。自分で答えを出すだろう。

 そのあとしばらく、また二人のあいだには沈黙が流れていた。
 結局ほとんどが空振りだった。人魚でいるときに体験しそうにないことは概ね鈍感なのだろう。自分のお下がりの服を渡すことになったが、こんなことなら普段から何がしかの香水をつけていればよかった。何も匂いがないよりはマシなはずだ。
 とはいえ、ジウに「かわいい」と言われたときは思うところがあったようだし、鱗を褒めたときも照れていた。だが「抱きしめる」という台詞だけであんなにも動揺するとは、どこか違和感を覚える。試しに抱きしめてみてもよかったが、あの様子からしてやらないほうが正解だったのだろう。
 人魚のことはそれほど多く知らない。しかも陸に来た人魚なんて初めてだ。手探りで関わってみるしかない。

「沖のほうまで行ってきていい? 来てくれたのに申し訳ないけど……ちょっとひとりになりたくて」
「ああ。向こうで待ってる」
 ラムズは砂場から岩場まで歩いていき、盛り上がった平たい岩に腰を下ろした。コートの内ポケットから魔石を取りだす。光の元素が扱えれば、一も二もなく明かりを付けることができるが、鍛錬する気もなくてまだ扱えないままだった。
 ぼうっと灯る青白い魔石の光の下、しばらく自分の服についている宝石を見つめていたが、重い腰を上げ、脇に抱えていた本を手に取った。視線が文字を追いはじめる。魔法のこと、使族のこと、神のこと、さまざまな事象について解説してある本だ。さすがソフィヤが書いたもの、ラムズの知らない情報も多い。本など十五分もあればすべて記憶してしまえるが、それより宝石を眺めているほうが好きなのだ。だからこそ読めていないものが多い。だが、情報のおかげで自分の思うように宝石を集められるのも事実―あまり蔑ろにするわけにもいかなかった。
 ふと視線を上げる。自分の意思じゃない。運命のせいだ。目を眇めると、海の真ん中でメアリが岩に座っているのが見えた。ここからじゃ遠くて鱗の焦げた様子は見えない。見えないが―、むしろ青く輝いているような気がした。耳もとも青色に光っている。目の錯覚ではないだろう……海に映る淡い水泡が煌めくのと、ただならぬ寒気のようなものを感じて、正体に思い当たった。罪滅ぼしとばかりに少し神が悪戯をしたらしい。馬鹿馬鹿しい。メアリも気付いていないし、自分もよく見えない。鱗を多少綺麗にしたところでいったい誰が得をするというのか。だがそれが神だ。こちらの気持ちなどまったく考えておらず、勝手によかれと思ってやっている。ほとんど毎度のごとくから回っているというのに。
 ラムズはまた本に視線を戻した。しばらくして、メアリが自分のもとへやってくるのがわかった。ページを一枚めくる。
 ―今じゃない。今じゃないが、きっと近いうちに……。あとは運命に従うだけ。彼の心の中、時計の針の音がかちかちと鳴っていた。