被害者展覧会

 ジウは助けを求めるようにロミューを見た。ロミューはジウと顔を合わせたあと、目を瞑ってこめかみをぎゅっと握った。重い息が漏れる。

「そいつは船長の味方をしていただろう。苦しめる必要は……あるのか?」
「ないね」

 ラムズは一切の悪びれなく笑っている。とそこで不意に表情を変えると、彼は左右を見渡し店の奥の扉を開いた。そのまま入っていく。惨事があったことに気づいて隠れたのか、店主の娘らしき少女が丸くなって気が触れたようにぶつぶつと呟いている。体つきからするに、12歳を下回るだろう。

「かわいそうに。あいつらが考えなしに殺すから……」

 少女の近くには小さな穴のようなものがある。店に裏口はなかったが、少女は密かに隠し扉ならぬものを使って出入りしていたようだ。
 ラムズは腰を落とし、彼女の肩に優しく触れた。少女はびくりとして顔を上げる。

「あ、ぁ、あ……。と、と、さ、ん……が」
「死んでたところ、見たのか?」

 少女は目を泳がせる。怖かったからではない。あまりに自分を大事そうに ( いたわ る穏やかな声だったからだ。
 彼女はきちんと受け答えできるような精神状態ではない。今声をかけてきたラムズも父親を殺した者たちの一味だと、そう思い込んでいたはずだった。
 だがこちらを見る目は行き過ぎるくらいに優しげで、耳に届く心地よい声は心から ( うれ えてくれているように思えた。整った顔つきに清潔感のある服は、たしかに海賊っぽくもあるがどこかお貴族様のような──。
 こくりと首を落とした。さっきの血は忘れられない。血は怖い。でも、この人は信用できるような気がする。

「や、ち、ち……血、が。お、おと……」

 さっきの光景を思い出して、少女はすぐに俯いた。何度も何度も手で耳を叩く。

「お前の父さん、生き返らせてあげるよ」

 耳を打っていた手が止まる。水膜のはった眼球が潤み、上擦った声が出た。

「ほ、本当に?」
「俺の船員がやったことだから。ちゃんと後始末はしねえと。な?」

 ラムズはふんわりと微笑んだ。少女にそっと手を差し出して立たせる。覚束無い足取りの彼女をしっかりと支えて、奥の部屋からジウたちのいる店内へと導く。
 ぴったりと寄り添ってくれる、ほどよく硬い彼の腕や体は頼もしく、彼女は密かにラムズの顔を見上げた。視線に気づいたラムズが少女を見下ろし、柔らかく目を細める。

「どうかした?」

 どきりとして目を逸らした。凄惨な光景を見たすぐあとだというのに、彼には惹き付けて離さない圧倒的な魅力がある。虜になってしまいそうだ。ラムズを見ないようにしながらゆるゆると首を振る。

 少女の歩幅に合わせるようにゆっくり歩いて、ようやく彼が立ち止まった。少女は顔を上げる。
 開け放たれた扉の向こう、店内は ( おびただ しい量の血の海だ。四肢がもげた死体や首のない体、臓器が飛び出した生首があちこちに転がっている。
 一気に初めに見た光景が ( よみがえ る。少女の足が ( すく んだ。呼吸が荒くなり、肺がひゅーひゅーと鳴りはじめる。自分の両腕を強く抱き掴む。全身が震え、床に沈み込みそうになるのをラムズが支えた。

「や。や、だ……。み、見たくない」
「一緒にいるよ」
「……や、や。や、や──……」

 ラムズは屈んで、彼女と視線を合わせた。人形のように整った顔が完璧な微笑みを作る。

「あのな、お前がいねえと生き返らせることができないんだ」
「……そう、なの?」

 彼女の視線が曖昧に揺れる。ラムズの冷たい手が少女の頭を痛ましげに撫でた。冷たくても安心できる手つきだった。快美な眼差しが彼女を気遣うようにうかがう。

「名前、なんていうの?」
「り、リリアン」
「ありがとう、教えてくれて。俺はラムズ」
「ら、らむず。さん」
「俺の言うこと、聞いてくれる? そうしたらお父さん、ちゃんと戻ってくるから」

 情愛深い笑みが彼女を包む。橙色の蝋燭の炎のように、ほっと心に温かさが灯る。力んでいた体が軽くなった。自然と顔が綻んだ。

「……本当に?」

 尋ねたものの、リリアンに疑いの気持ちはまったくなかった。こんな優しい声色の人が、こんな素敵に微笑む人が嘘をつくわけがないし、自分を悲しませるわけがないとわかっていた。
 澄んだ青の瞳に和やかな笑みが添えられ、正面から見るその顔に釘付けになる。

「本当に。もう少しリリアンが落ち着いてからにしたいんだが、手遅れになったら嫌だろ?」
「……ん、うん。が、がんばる、よ」
「いい子だね。本当に」

 彼女の頬を冷たい指先が撫で下りていき、そっと引き寄せると額に触れるだけのキスを落とした。こんな悲惨な場所にこんな格好のいい人がいるなんて、あまりのちぐはぐさに酔いそうだ。

「お父さんも喜んでるよ。辛いけど、一緒に頑張ろうな」
「わたしに、できるかな」
「大丈夫。リリアンは優しい子だし、とってもお父さん思いだろ。神様も手伝ってくれる」
「そ、そう、かな……」

 彼に何か言われるたびにぽっと花が咲くように心が疼く。耳が熱を持ちはじめた。もぞもぞと両手を合わせた。そんなリリアンの手を一回り大きな手が包む。くびれた細い指が絡まった。皺ひとつない均整の取れた手。彼は指先まで完璧だった。

「すごく辛いけど、お父さんのところへ行ける? そばにいるから」
「ん……、がんばる」
「たくさん辛い思いをさせてごめんな」
「ラムズさんの、せいじゃない」
「俺のせいだよ」

 ラムズが一歩先に進んだ。歩かない彼女に気づき、彼が振り返った。

「おいで」

 見えない手が彼女を押しているかのように、ひとりでに足が動く。勇気がわいた。きっと上手くいく、この人の言うことを聞けば絶対に大丈夫。

 二人が店内に戻り、ジウとロミューは不審なものでも見るような目つきでラムズを迎えた。

「船長、生き返らせるなんて、ボクそんな魔法絶対ないと思う」
「俺が魔法が得意なのは知ってんだろ」

 ロミューは片眉を上げる。居心地の悪そうな顔で言った。

「だがその子に何ができるというんだ? それに店長の姿は……正直その子が目にするべきではないと……」

 ラムズは腰を落とし、真っ赤な店内で怯えている彼女にそっと話しかけた。

「リリアン、お父さんはここの店長か?」
「ん、うん……」

 ロミューが思わず声を張る。

「だ、だめだ! そいつはジウが……」

 店長はジウによって拷問されていた男だ。何度も殴られ、カトラスで傷つけられたせいで顔の原型がほとんど残っていない。もちろん体からも夥しい血が流れ、内臓やむき出しになった骨が見え隠れしている。そんな死体を娘である少女が目の当たりにするなど、どんな精神の持ち主でも壊れてしまう。
 少女はロミューの声に肩を震わせる。

「ジウ? そのひとが、わたしのお父さんを……」
「お父さんが生き返ったあと、一緒にジウをこらしめてやろうな」

 少女はラムズに視線を戻した。躊躇いがちに頷く。

「でも、怖いから……しなくても、いい。お父さんが戻ってきてくれるなら、それでいい……」

 ラムズはまた彼女の頭を撫でると、店内を見渡し、一際体が崩れている死体の元へ少女を連れて行こうとした。

「船長! やめてくれ! 俺が言うのもおかしな話だが……娘のような年頃の子供が……。ルテミスでもそれは耐えられない。頼む、俺たちへの制裁のつもりなら……」

 ラムズが振り返った。

「制裁? 関係ねえよ。ロミューはともかく、ジウに対しちゃなんら実のない行為じゃねえか。お前らの処罰は減給だけだ」
「じゃあどうして……」
「生き返らせてやるんだよ、聞いてなかったか?」
「な、なんのためにだ?」
「なんのために? そうしたいと思ったから。かわいそうな女の子を救ってあげたいと思ったから。それじゃあだめか?」

 冷たい微笑みに晒され、ロミューは顰め面で口を閉ざした。踏み出していた足が躊躇いがちに引かれる。
 ジウも言っていたとおり、本当に生き返らせる魔法があるとは思えない。だが、その魔法がなきゃ少女をここまで連れてくる意味はないはずだ。これまで数ヶ月ラムズと過ごしてきて、彼が宝石と無関係の無駄を好まない主義であるのは知っている。
 ロミューもジウも、黙って二人を見守ることに決めた。

 リリアンとラムズが死体の前までやってくる。少女の体はわなわなと震え、吹きだすように冷や汗が流れはじめた。死体から目を逸らそうと、俯いてラムズの服を掴んだ。

「リリアン」

 耳元で急な爆音を聞いたように体がびくっと跳ねた。

「ちゃんと見てあげて」
「ど、どう、して。や、やだ。怖い。と、とうさん、が」

 少女の髪を滑るように冷えた指爪が降りていく。恐怖に凍える体を慰撫するように、まろやかな声を落とす。

「見ないとだめなんだ。これからやることを考えたら、それくらいできねえと……。お父さんが戻ってこなくていいのか?」
「や、やだ」

 あくまで少女の心を慰めるように、だが、たしかに畳みかけるように言った。

「お父さんのために頑張れないか?」
「が、がんば……」少女は薄目を開けた。ぼろぼろと涙が零れる。「がんばれ、る」
「頑張れるよな。リリアンのおかげで生き返ったって知ったら、お父さん、きっと喜ぶから。大丈夫。今が少し辛いだけだ」

 リリアンは掴んでいたラムズの服を放した。グロテスクな屍に顔を向ける。唇が震え、雨のように涙が頬を何度も何度も伝っていく。

「と、とうさ、ん」

 酷い死に方だ。関節が不自然な方向に折れ曲がり、壊れた人形のように足がねじれている。腫れて膿んだ目元、歪にこそぎ落とされた頬で、顔は化け物にすら見える。頭の一部が潰れて髪の毛ごと崩れ、脳みそが見えている。目が不自然に見開かれ、広すぎる白目の中で黒点が虚空を眺める。歯の抜けた口の中は、永遠に続きそうな深淵を思わせた。死体の胸元や床には、抜き取られた血みどろの歯や爪の破片が肉の筋と一緒に落ちている。

「泣いてる暇はないぜ、早くしねえと」ラムズに軽く背中を叩かれる。「時間が経つと腐敗が進んで、体が戻れなくなっちゃうんだ」

 リリアンは鼻を ( すす って、涙や鼻水でぐしょぐしょになった顔を ( そで で拭いた。自分がやらないと生き返らない。しかも早くやらないとだめなんだ。めげそうになる心を懸命に奮い立てて、リリアンは頷いた。
 どんなに怖い姿でもお父さんだ。お父さんだったモノだ。大丈夫、大丈夫。まだ頑張れる。わたしが頑張るんだ。
 また彼女の頭をラムズが撫でてくれる。無意識に期待していた行為を彼がしてくれたことに安堵を覚えた。ラムズさんがいてくれたらきっと上手くいく。いくらでも頑張れるはずだ。

「それじゃあ──、まずはお父さんを綺麗にしようか。生き返るには、体が綺麗じゃないといけねえから」
「きれいに?」

 店長の顔だった部分、腫れ上がった目元や頬、歯の落ちた口をラムズが手で指し示す。

「血まみれだろ? お父さんに、元の姿で生き返ってほしいよな?」
「……うん」
「だから顔を綺麗にしよう」
「どうやるの? お水を持ってくるの?」
「いやいや、水じゃだめだ。リリアンはこの人と血が繋がってるんだよな? 生まれたときから一緒?」
「うん。いっしょだよ」
「よかった。リリアンの体に意味があるんだ。お父さんの顔、舐めて綺麗にして」

 難しい言葉を使われたわけではない。だが、リリアンは何を言われたのか理解できなかった。

「え。……え?」

 ラムズがリリアンを見下ろす。さっきよりもずっと甘い声が囁いた。

「リリアンの舌で舐めて、血を取ってあげて?」

 聞き間違いではなかった。リリアンは美しいラムズの顔と、死んだ父親の顔を見比べた。

「おと……、おとう、さん。のこと、わたしが、舐めるの?」
「そう言わなかった?」
「そうしないと……だめ、なの?」

 リリアンは死体になった父親の顔を見た。歪に膨らんだ顔には黒ずんだ血や涙、砂、得体の知れない体液がついている。あまりに恐ろしい死体だ、触れることすらしたくない。そもそも死んでいなくとも、汚れていなくとも、父親の顔を舐めようなんて思ったことはない。

「まだいくつかやらないといけねえことがあるから、早く決めないと手遅れになっちゃうぜ」

 絶対に嫌だ。そんなことしたくない。あんなの舐めたくない。絶対嫌だ。

「リリアン」

 じりじりと後ずさったところで、後ろにいたラムズにぶつかった。

「それじゃあ、お父さんとお別れしようか? あまり見たくねえだろうし、燃やすつもりだったんだ」

 ラムズは何気ない顔で宙を望み、掌に青白い焔を灯した。美麗な彫刻のような顔が青く光り、長い睫毛の影が不自然に伸びていく。

「だ、だめ。だめ」
「お別れしねえの?」
「やだ、……やだ」

 ラムズは炎を消した。

「がんばる?」
「や、やる……」

 リリアンの膝ががくがくとした。よろめくように前に進み、死体の前で跪く。こぼれていた血で膝が濡れて、服が湿った。父親の死骸のそばに近づくと、強烈な腐乱臭を覚えた。目眩がして慌てて手で床をつく。だが床だと思ったところは父親の曲がった足で、皮膚を抉られ露出された肉の部分を掴んでしまっていた。

「っつ、ひゃ。あ」

 なんとかバランスを取り戻す。すごく臭い、チーズや食肉が腐った匂いよりも凶悪な臭いが鼻や口、肺に襲いかかる。でもやらないとお父さんが生き返らない。このまま死なせたくない。
 何度か息を整えて、リリアンは父親の肩を掴む。手が血で汚れたが見ないふりをした。救いを求めるようにラムズのほうへ振り返る。

「すべて終わったら、お父さんとまた遊べるよ」

 助けてはくれないらしい。血が繋がっていないといけないのだ、仕方ないんだろう。少しショックを受けたが、それでも心から自分を支えようとしてくれる声はリリアンの心を動かした。
 できる、ラムズさんができるって言ってくれた。大丈夫、お父さんにまた会いたいもん。……会いたい、もん。
 噎せ返るほどの臭いを我慢して、短く舌を出した。涙がでてきた。でもその涙でまた汚してしまったら意味がなくなる。血のついた手で目元を拭う。鼻じゃなくて口で息をするように気をつけながら、ついに舌の先を父親の頬に付けた。苦い。苦い。まずい。まずい。舐めていいような味じゃない。吐きそうなほど臭い。

「にが、い。……美味しく、ない」

 また涙が出てきた。こんなに辛い思いをしないとお父さんを助けられないなんて。

「あとで美味しいもの、たくさん食べよう」

 リリアンの背中をラムズが撫でてくれている。これを我慢すれば……そうしたら……。
 少女は心を無にして舐めはじめた。じゃりじゃりとした砂と血の味や、腐った肉のようなぶにぶにの皮膚の感覚に、絶えず吐き気が喉元をせり上がる。昏倒しそうなほどの暴力的な臭いに何度も噎せた。
 だがそのたびに後ろで待ってくれているラムズが声をかけ、めげそうになった心を励ましてくれた。

 ひととおり顔全体を舐めたところで、うしろから声がかかる。

「もういいよ」

 やっと終わった。
 リリアンは大きく息を吐く。父親の死骸から少し離れる。たしかに血がなくなったおかげでさっきよりはマシな見た目になっている。だがその代わりに、リリアンの口の中はすごく臭いし、胃がひっくり返りそうなくらい気持ち悪い。胸の奥がぐるぐるする。
 具合の悪そうなリリアンに気づいたのか、ラムズが彼女を覗きこんだ。

「もうやめるか? おそらく……この次はもっと辛いよ」

 これ以上辛くなるの⁉ 思わずそう叫びそうになった口を必死に閉ざした。今諦めたら、頑張った意味がなくなる。死んでしまったお父さんを生き返らせるんだ、それくらい辛い思いをしないとだめなんだ。
 リリアンは泣きそうになって答える。

「だ、だいじょ。あ。っう、うぇ……。大丈夫。が、がんばる」
「本当に強い子だな。きっと上手くいくよ、リリアン」

 彼は心からそう言っているようだった。頑張っている自分への同情の気持ちや尊敬している気持ち、そんな心を込めた『リリアン』だ。