無垢へ堕つる
彼は今度もそう、なんでもないことのように言った。
「あ、え……、え? あ。ん、え……」
もう聞き返さなかった。同じことを繰り返されるのはわかっていたし、『もっと辛いよ』と言われて『頑張る』と言ったばかりだ。だが素直にできるかと言われれば──。父親は肉体的に死んだのかもしれないが、彼女の心はめちゃくちゃに踏み荒らされているように凄まじく傷んだ。
「ッツ。や、やだよう……。そんなの、いや、だよ……。きもちわるい、食べたくない……いやだ……」
「でもそうしないと、お父さんが戻ってこねえんだ。俺、リリアンに頑張ってほしいな」
「いや、やだ……」
ラムズは着ていたコートを脱ぐと、透明な椅子でもあるかのように宙に置いた。ラムズの横で宝石のついたコートが浮いている。
少女の腕を優しく掴むと、体を引き寄せてそっと抱きしめた。鼻をすすり嗚咽を漏らしているリリアンの背中を優しく撫でる。
「ちゃんと見てるから。心臓を取りだすところまでは俺がやってあげる」
「だけ、だけど……」
「まずいけど、食べないとお父さんの心を捕まえられねえから……。お父さんとまた、一緒にいたいだろ。な?」
「わた、わたしがやらないと、だめなの。ラムズさんじゃ、だめなの」
「俺はこの人と血が繋がってねえから無理なんだ。リリアン以外に子供がいるならその子でもいいが……」
リリアンは首を振った。
「じゃあ、頑張ろう。すべて終わったら今日のことは忘れような」
そっと彼女の肩を掴み、ラムズは体を剥がした。彼の体は冷たかったが、それでも優しい温もりに包まれていたような気がしていた。離されたせいか急に寒気がする。まだこうしていたい。もっと抱きしめていてほしい。……でも、早くやらなければ生き返れなくなってしまう。リリアンは嫌々ラムズから離れ、また父親の死骸に向き合った。
これが父親が無惨に殺されたあとでなければ、絶対にやらないと跳ね除けていただろう。だが悲惨な死に様や店内の異常な様子を見たリリアンは既に心が半分壊れてしまっていたし、お父さんを生き返らせたい気持ちがなによりも強かった。
頭の中がパニックになりかけて、胃の中の気持ち悪さのほか、釘を打ち込まれるような頭痛まで襲ってきた。それでも彼女は、涙をのんで頷く。
「偉いな、リリアンは。じゃあ心臓を取るから」
ラムズは父親の死体に近づくと、腰元からカトラスを取りだしすっと胸を裂いた。ぱっくり開いた傷に両手を差し入れ、開口方向に引っ張る。まだ温かい鮮やかな血が死体の下半身を覆っていく。彼は開いた傷の中に迷わず手を入れ、何かを掴んでぐっと引き抜こうとした。
「んー、邪魔だな」
ラムズはしばらく男の胸の中に手を入れていた。しゅーしゅーと何かが焼けるような音がする。腐乱臭がさっきよりも酷くなった。生ゴミを燃やして毒を振ったような匂いがする。
「なに、してる、の?」
「骨溶かしてんだ。邪魔だから」
「……そ、そっか」
何かが割れるような鈍い音がして、体の中から棒状のものを取り出した。肋骨だ。骨は煙を出しながら少しずつ蝕まれている。何本か死体のそばに置かれる。ラムズがまた体に手を入れると、ぶちぶちと太い血管が切れる音がした。
ようやくラムズが腰を上げた。青白かった手が真っ赤に染まり、ちょうどその掌と同じくらいの大きさの心臓がのっている。赤黒い血に塗れ、ところどころに肉片が付いている。ついさっきまでこれが伸縮していた様子がありありと思い浮かぶ。
リリアンはついに耐えられなくなり、近くの床へ胃の中のものを吐きだした。胃液で喉がやられ、口内にすっぱい味が広がる。唇や喉、胃の中がひりひりする。だが、あれを食べるのはこんなものじゃ済まないだろう。
ラムズはゆっくりと彼女のそばまで歩き、小さな両手の中に心臓を落とした。
「全部食べなくてもいいから」
いくらか救われる思いがした。こんな大きなもの全部も食べられるわけがない。それでも──自分の手にのった心臓を見て、また吐き気が襲ってくる。もはや父親のものかどうかなんてどうでもよかった。こんなグロテスクなものを口にするなんて。ありえない、おかしい。今にも失神しそうなのに、興奮しすぎているのか気絶することができない。
「リリアンも魔物の肉を食べるだろ。それと同じだと思えばいい。ちと血で汚れてるし生で食うことになるが……」
リリアンはまれに、魔物の肉を狩り取る仕事についていったことがある。あの仕事は見ているだけで嫌だったしとても苦手だった。だが……リリアンはなるべく父親の姿を見ないようにして、心臓だけを見つめた。
大丈夫、そうだ。あのとき殺したオークやベヤー、それと同じ。あれの肉を焼いたときと……。ちらちら父親の顔が脳裏に浮かぶ。同じ、同じじゃない。これは父親の心臓だ。わたしはお父さんを食べようとしてるんだ。お父さんを食べようと──。
「生き返らせるためだから。大丈夫。リリアンはいいことをしてるんだよ」
リリアンはラムズの声を頭の中で復唱した。心にも頭にも言い聞かせるように。生き返らせるため、いいことをしている、食べてるのは魔物の肉でお父さんの体じゃない、大丈夫、大丈夫──。
少女はついに心臓を口に含んだ。さきほど舐めた血よりも腐った匂いが喉や鼻を強く刺激し、生温かい肉の感触が気持ち悪い。歯で噛みちぎろうと肉が引っ張られる。心臓に残っていた血がじんわりと口に広がる。ねっとりと口内を汚した。
だめだ、だめだ。考えちゃだめだ。味わっちゃだめだ。ただ喉の奥に通すことだけ考えればいい。大丈夫、できる。できる……。
少女が一心不乱に心臓を食べている姿から、とうとうジウは目を逸らした。
あまりにも酷い光景だ。散々拷問はしてきたが、実の父親を生き返らせるために食わせたことなどない。食わせようと思ったことすらない。人の肉を食べるなんて常軌を逸している。顔を舐めるところから既におかしいと思っていたが、もう耐えられなかった。自分が食べるところを想像して、ジウまで吐き気がしてきた。
ロミューはとうに二人から背を向けていた。耳で塞いでも、ラムズの声は脳に直接響くかのように聞こえてきた。重いトラウマになりそうだ。ラムズは二人への制裁などではないと言っていたが、実際どうなのだろうか? 彼は何を考えているのだろう?
ルテミスはひどく暴力的で戦闘に飢えている。ジウは血を見るのが好きだし、好んで凄惨な拷問をする。それでも、……この光景は耐えられなかった。まだ10かそこらの子供が父親の顔を舐めて、心臓を食べているのだ。しかも死体を。
いくら生き返らせるためとはいえ、それを平気で求めるラムズの精神はおかしいし、その少女を優しく励ましたり見守ったりできる平静な態度も異常だ。ルテミスの戦闘狂など……異常性など……彼と比べればよっぽどマシに思えた。
少女の
そのあと少し視線を上げ、ジウはラムズのほうを見た。
横顔しか見えない。横顔しか見えないが、たしかにラムズは笑っていた。泣きながら父親の心臓を食べる彼女を見て、歪んだ嘲笑を唇の端にのせていた。
ゆっくりとラムズの顔が回る。目が合った。
ジウは背筋が凍った。見てはいけなかったはずだ。絶対に。見ていなかったことにしたくて俯こうとしたが、あまりの恐怖に体が動かない。ラムズは笑ったまま、自分の唇にそっと人差し指を当てた。
『静かに』
そういう合図だ。笑っていたことを少女に言うなと、そういうことだろう。
ラムズが自分から目を背けて初めて、ジウは呼吸が戻ってきた。肩で大きく息をする。
言えるわけがない。おそらくあれは少女のためでもなんでもなく、拷問の一種で──否、ただ楽しんであれをやっているだけ、だなんて。
そもそも喉が引き攣って声が出ない。なんて男に
リリアンが半分ほど心臓を食べたところで、ラムズがそっと彼女の肩に手を置いた。
「頑張ったな。もういいよ。元のところに戻してあげて」
少女はふらふらと父親の死体のところまで歩いた。倒れるように死体の前で膝をつき、大きく裂かれた胸の傷のほうへ手を伸ばす。無理やり傷を開いて、心臓をぐいと押し込んだ。その拍子に大きく血が吹き出したが、もう気にも留めなかった。
リリアンは虚ろな瞳で戻ってくる。顔の周りから乾いた血がぽろぽろと落ち、歯の隙間から噛みきれなかった肉が見え隠れしている。
魂の抜けたような声が落ちた。
「……次は?」
「次で最後だ」