道化のかぶった仮面

 彼女の心に小さな希望が戻ってきた。これで最後だ。優しく唇を噛む。虚ろだった表情がわずかに色を取り戻し、ラムズのほうを見る。

「これ貸してやるから。自分で手首を切って、その血をお父さんに飲ませてあげて」

 それならできる。飲むよりずっといい。リリアンはカトラスを受け取った。自分のほっそりとした手首を見る。青白い線が何本か薄く浮かんでいる。急に切るのが怖くなって、視線をちかちかと揺らした。

「いた、いたい?」

 リリアンが尋ねる。ラムズは彼女に近づいて、背中を何度か摩ってやった。ラムズの手についていた血がべっとりと張り付いたが、彼女は気づかなかった。

「痛いが、それは切れ味がいいから。怖くないよ」

 ラムズが「怖くないよ」と言うと、本当にそんな気がした。安心できる声だから。彼の声も顔も、すごく美しくて慈悲の心に溢れていて、わたしを大切に、大事に大事にしてくれていて……そういうものが伝わってくるから。
 リリアンはカトラスを強く掴んだ。すうっと手首に長い傷をつける。痛い。

「悪い、もう少し深くやらないと……血が足りねえと思う」

 リリアンは頷いた。痛みを堪えて手首に強くカトラスを当てた。力を込めてぎゅっと横に引く。びりびりした痛みが走り、鮮やかな血玉が流体となって湧き出していく。

「った、たい! いたい! い、いたい!」

 あまりの激痛にカトラスを床に落とした。からんからんと金属が音を立てる。先ほどの吐き気や頭痛も相まって、視界がぐるぐると回った。

「血がなくなっちゃうよ」

 倒れそうになった体をラムズが支えた。リリアンは朦朧とした頭で、急いで父親の歯のない口に手首を押し当てた。醜い血肉が見える口の中へ、鮮やかなリリアンの血が流れていく。父親の唇の隙間から血が漏れだし、彼女の袖を生温かく濡らした。
 しばらく痛みに呻いていたが、だんだんと鼓動が落ち着いてきた。体が慣れたのかもう痛みは感じない。

「ちょ、ちょっとこぼれてるけど……大丈夫?」

 なにかの魔法で死体が勝手に吸ってくれると思い込んでいた。だがそんな様子はない。死体には歯がないせいで、またそもそも死体であるせいで、だいぶん血が無駄になってしまっている。ラムズが優しい声で答える。

「ああ。それでいいよ」

 最後の仕事は、最初のふたつに比べればよっぽど簡単だった。少女は父親の死体にもたれかかるように体を落ち着ける。最初は怖かった父親の姿も、もうすぐ生き返ると思えばなんとも思わなくなった。

「お父さん……。わたしが戻してあげるからね……。あと、あと少しだから……」



 どのくらいのあいだそうしていただろうか。普通ならある程度血が流れれば凝固するはずだが、今もこんこんと湧き出している。
 一瞬意識が落ちそうになったところで、リリアンはラムズに話しかけた。

「あ、あ、と……どれ、くらいかな?」

 声が掠れて上手く喋れない。血が流れすぎたせいか、思うように口を動かせない。

「なにが?」

 小さな違和感を覚えて、リリアンは体の向きを変えてラムズのほうを見た。か細い声が、絶え絶えに漏れる。

「もう、血……あげなくていいかな? あとどれくらい……あげたら、おとう、さん。生き返る?」

 凍えるような青の視線が注がれた。ラムズは目を細め、くくと喉を震わせる。

「全部あげたらいいよ」
「……え?」
「全部あげれば、お父さんと同じところにいけるから」
「え?」

 彼は笑った。だが今まで自分に見せてくれていたような優しい笑顔じゃない。化け物が取り憑いているような、ぞっとする笑顔だった。

「かわいそうなリリアン」
「お。と、とう、さん、は」

 彼女を見下し、軽く鼻で笑った。

「いや、そんなんで生き返るわけねえだろ」

 嘲る声が何度も何度も脳内で木霊した。
 生き返るわけない? そんなんで……? え……? うそ、なの……? リリアンはぼうっと首を回し、死んだ父親の顔を見た。
 ラムズは壁にもたれかかっていたジウのほうへ近づいた。彼の腕を掴み、肩に手を回す。

「なあジウ。お前は忠告してたよな? 生き返る魔法なんてあるわけないって」
「え? あ、あぁ、うん。そうだね」

 思わず声が裏返った。されるがまま、ラムズと足並みを揃えてリリアンのほうへ近づく。

「そうだよな。事実、俺、一度も魔法なんて使ってねえし」

 ラムズは軽く笑った。ジウから体を離し、氷のような憫笑がリリアンを見下ろす。指についた血を少し舐めとった。不自然に赤い舌が唇を拭い、頭が傾いた。

「阿呆だな? あんな方法で……。綺麗にするって……本当に信じたのか? 本当に?」

 声こそあげないが、ラムズはさも滑稽だとでもいう風に笑っている。だが、次の瞬間すうと瞳が底冷えする藍に変わった。

「まあ、こんなもんか」

 部屋の温度が一気に下がる。嘲笑も憐憫もない。無感情の仮面が少女をただ捉えているだけだった。
 自分が騙されていたことにようやく気づき、リリアンは父親の体から離れようとした。

「ひど、ひど──⁉ 離れな、い、あれ」

 腕を掴んで手首を死体の唇から離そうとする。何度も引っ張ったが、父親の上半身が持ち上がるだけで死体から自分の体が離れる気配はない。

「そのまま死ぬんだよ。お前は」冷淡な声が聞こえる。「いやしくも父親の死体をもてあそび、実の親の心臓を食って、いずれ血を枯らして死ぬ」

 表情のない仮面に、あどけない微笑みが張り付いた。形だけの甘い声が店内の静寂を破る。

「全部自分でやったことだもんな?」

 リリアンは目を伏せた。隣の父親が視界に入る。

「ちが……、だって。ラムズさん、が」
「俺が?」

 彼女は唇を噛んだ。鼻の奥がつんとして、涙が滲みはじめる。疑いなく彼は優しかったし、いい人だったし、素敵な人だった。そのはずだったのに。
 消え入りそうな涙声が落ちる。

「うそ、ついた」
「そんな泣くなよ。同情したくなっちまうだろ?」

 困ったような顔を見せるが、冷眼に同情の文字はない。

「どうして、ひどいよ。ひどい」
「ひどい? 俺が?」
「ひどい、よ」

 ワントーン低くなり、強い軽蔑を込めた声が穿った。

「お前がやったんだろ?」

 突き放したような冷たい声は、彼女の奥の奥まで重く響いた。『お前がやったんだ』。わたしがやった。わたしがお父さんを、お父さんの────。

「ちがう、ちが、ちがう……」

 少女から眼が逸れる。首をかしげ、ラムズは自分の首に手を添えた。独り言のように零す。

「つまらん。もういいや。 児戯 ( じぎ にもならねえ」

 リリアンは掠れた声で懸命に叫んだ。

「ね、た、たすけて⁉ 助けてくれるって言ったじゃん!」

 煩わしそうな声で答える。

「後始末をしようって言ったんだ。生き残りがいたらあとで噂になるだろ。殺すついでにちと遊ぶくらいはしたけどさ」

 ラムズは彼女から背を向けた。彼の全身を一瞬水が包み、消えたころにはさっぱり血の汚れが消えている。初めに会ったときと同様、美しい姿だ。血まみれで死体の臭いのするリリアンとは大違いだった。
 彼は宙に浮いていたコートを羽織りなおし、宝石の入った袋を手に取った。気絶して倒れている青年には一目もやらず、扉のほうへ歩いていく。

「ねぇ! 助けて! たすけて……たすけてよ! 体が……、冷たくなって、るの。血が、ずっと……。おねがい、おねがい。さむ、さむいの。ラム、ラムズ、さん。おねが、い」
「いいよ。わかった」

 少女ははっとして顔を上げる。期待を込めた眼差しでラムズを見た。
 ラムズは部屋の隅で背を向けていたロミューに声をかける。

「ロミュー、ジウも。早く店から出ろ」

 二人は言われるがままに扉から出る。ラムズもそれに続くと、眩い太陽が彼の髪を煌めかせた。振り返ってリリアンへ声を放る。

「それじゃあお嬢さん、どうぞ幸せな最期を」

 ラムズは掌を上に向け、そっと指を開いた。ぼうっと青い焔が現れると、氷が溶けるように焔が掌を移動していき──店の周囲にわっと燃え広がった。と同時に入口から店内へ炎が這い進んでいく。
 店を呑み込むように炎が唸る。青い炎は赤に変わり、ラムズたちよりもずっと背が高くなる。

「やだ! やだ! た、たすけて! たすけ──。ッホ、ゴホッ。ッ、あ、あぁああ! ぃやぁああぁあああ!」

 店の中から少女の泣き叫ぶ声が聞こえる。元々たいした作りでなかった家は、猛烈な炎の勢いで屋根が崩れ傾いた。既に一部は灰に変わり、黒い塵が宙を彷徨いはじめる。

 少し歩きロミューとジウを追い越したあと、ラムズは立ち止まって声を投げた。

「で、なんの話だっけ?」
「あ、えっ、と……」

 ジウはラムズの感覚に理解が及ばなかった。あれだけのことをしておきながら、たった今見てきたことが夢だと疑いそうになるくらい、彼は何事もなかったような素振りなのだ。
 狼狽しているとか、後悔しているとか、そういう話じゃない。凄かっただろと自慢することも、本当におかしかったよなと高らかに笑うこともしない。……本当に、ただ少し、気まぐれでちょっとした玩具を使って遊んでいただけのような、そんな──。
 自分はここまではおかしくない。

 何も言わないジウに、少し振り返ってラムズが言う。半分ほど彼の顔が見える。逆光で銀髪の下、顔が黒く陰った。

「罰は一ヶ月減給。船長命令さえ聞いてれば、誰を殺そうと 甚振 ( いたぶ ろうと、俺は気にしねえよ」

 ロミューはなんとか声を出す。

「お、おう。わかった。次は必ず、船に戻る」

 大柄で筋肉質な体は小さく丸くなり、ぎゅっと引き締まって全身を苦しくさせた。
 ジウはごくりと唾を飲み、低めた声を落とした。

「ボ、ボクが拷問したいって最初から言ってたら……」
「許したよ、もちろん」
「ボクたちがたくさん殺したのも」
「どうでもいいよ。聞かれればそう言った」

 ジウはもう一度店があった場所を振り返った。炎火はまだ上がっている。少女の泣き声はもう聞こえてこない。

「本当に、ただ命令に従わなかったから……それで減給するだけ?」
「ああ。ジウの言うとおり、結果的に宝石は手に入ったし、金は使わずにすんだ。それとも、もっと重い罰をお望み?」

 その質問には無視をした。怯えた心を抑え、さらに声を低くしてジウは尋ねる。

「さっきのは脅し?」

 ラムズはくくと笑った。二人より先に歩きはじめる。

「それが好きだなあ。したくてしたって言って、信じてもらえねえのか?」
「でも次にボクが……」
「不満がありゃ船から降りればいい。引き止めやしない。どうでもいいよ、あの子と同じくらい。お前らが何を考えてるかも、あの店がどうなるのかも。命令に背けばルール上の罰は下す。それでおしまい。俺個人の理由で船員を殺しやしない」

 ラムズは「ああ」と付け足した。一度だけ立ち止まる。

「宝石に手を出せば話は別だが」

 また歩を進め、ジウは後を追った。

「わかったよ。それがこの船にいる条件ね」

 拷問で叫び声は聞き慣れているはずなのに、件の少女の最後の絶叫は嫌にジウの耳に残っている。ジウはできるだけさりげなく、なんでもない風を装って尋ねた。

「本当に……ただ、あの子をいたぶりたくてやったの?」
「そうだよ」
「それにしては……あんまり、楽しそうじゃないね」

 ラムズは首をひねってジウのほうを見た。軽く笑う。

「だって、ただの遊びだろ」

 ならなぜやったんだと問い詰めたかった。

「……まぁ、ね」
「お前らがいなきゃもうちっと楽しめたかな?」

 これ以上に何をすることがあると言うんだろう。ジウは再び話しかける。

「魅了魔法、使ったの?」
「いや? 残念ながらその出番はなかったんだ」

 ぞっとした。近くで聞いていただけのジウでさえ、あの少女に話しかけているラムズは、別人かと思うくらい完璧な「優しい王子様」であったというのに。途中までは本気であの ( むご たらしい方法が生き返る魔法だと思ったのに。

「いろいろ……趣味、悪すぎだよ。食わせてなんの意味があんの」
「嫌だろ? 食べんの」
「……そうだ、ね。ていうか、わざわざ火なんて付けなくていいじゃん。……どうせ死ぬのに」
「寒いって言うから」
「はぁ。わざとでしょ。焼死って、かなり痛いもん」

 棒読みの声が返ってくる。

「そうだっけ」
「一番酷い死に方だと思うよ」
「そりゃ悪いことしたなー」

 ラムズはわざとらしく首を傾げた。確実にとぼけている。
 ジウはとぼとぼとラムズの後ろで足を運んでいく。ルテミスであるおかげか、いくらか心に平穏が戻ってきた。投げ捨てるように言う。

「とにかく、船長が思ってたよりやばかったのはわかった。ボクたちより強いかどうかはともかく、ボクたちより異常だよ」
「お褒めに預かり光栄です」

 ラムズは前でひらひらと手を振った。

 ロミューとジウは顔を見合わせた。ラムズが何をしたかったのか、本当にわからなかった。あれは脅しではないと言う。今後もルール上の罰を下すだけだという。
 さっきの拷問が自分たちへの制裁目的などではなくただの思いつきで始まり、自分の快楽のためにやっていたのだとしたら──。
 よくわからないが、ともかくラムズは異常だ。ルテミスとは比べものにならないくらいにおかしい。海賊らしいといえば海賊らしい……そうだ、たしかにこの異常性なら、ある意味ルテミスの上に立つに相応しいのかもしれない。ラムズがあそこまで酷い拷問をするのだ。自分らルテミスがいくら人を甚振って殺そうと、拷問をしようと、戦いに飢えていようと、本当に彼は気にしないし、自分たちを無碍に扱うこともないのだろう。ルテミスを他の人間と同じく化け物のように差別することはないはずだ。
 ──だって他ならぬラムズが、いちばん化け物みたいなのだから。