一巻あとがき

「なあ、この本を読んでみないか?」
 白いチョークで書かれた魔法円の上で、彼はそう言った。『バーティミアス』シリーズを愛してやまない私が何度も召喚を試み、唯一成功した魔法で現れたのが、この世界だった。
 素敵な魔法の言葉、『星の王子さま』、『ナルニア国物語』、『オズの魔法使い』、『アーサー王伝説』。これらを愛した者は、どきどきしながらまだ見ぬ異世界の扉を開くだろう。この『愛した人を殺しますか?―はい/いいえ』も寝食を忘れて読みふけった。そうして読後の胸に沁みいったのは、言いようのない虚無感と美しさだった。
 リアリスティックでありながら、神秘的で不可思議な世界。こんなに面白いファンタジー(そういうのは間違っているかもしれない。彼らにとってはリアルなのだから)は見たことがない。わくわくする夢と冒険のあいまに、運命の虚しさや自己と他者の存在意義、正義と悪、愛という重いテーマが見え隠れしている。天使の羽のように心躍る御伽噺でいて、悪魔の牙のように深く胸につき刺さる。きっと私も時の神ミラームの運命に魅せられてしまったのだろう、使命感に駆られて日本の読者の心にも爪痕を残そうと奮闘している。
 『愛した人を殺しますか?―はい/いいえ』、原題は『Her Real Myth』に近い意味のタイトルだ。『Her』とはもちろんメアリのこと。『彼女の本物の神話』という矛盾したタイトルの本作は、陸に上がったメアリの人生を描いている。
 呪いで姿を変えられてしまったメアリは、呪いを解くため―初恋の男を殺すために旅をしていた。そんな彼女の物語は、ラムズ・シャークという海賊の船長との出会いから始まっていく。クラーケンや消える無人島、メアリとラムズの正体など、さまざまな謎を残しながら紡がれるストーリーの面白さには舌を巻く。
 登場人物も魅力的だ。斜に構えたメアリは、主人公とは思えないような問題発言をするし、人間の読者の目には傲慢にも生意気にも映るかもしれない。宝石をこよなく愛するラムズは狂気的でありながら紳士的、ニヒルな雰囲気も併せ持つ謎の多い男だ。そんな人間でない二人も、神によって性格を変えられてしまった船員たちも、皆チグハグで、人ならざる者の恐ろしさの片鱗を見せている。それでも憎めないキャラクターであるのは、「自分と違うから、理解できないから、美しいと思う」からだろうか。
 ストーリーにも歪な影が潜んでいる。無人島の道中では、メアリたちが「魔物の知性」について話している。だがこの会話はどこかブツ切れで、読者に疑問を投げかけたまま、真実や結論を導かないままに終わっている。作者に意図を尋ねると、「ここで話が終わったからやめた」というまるで『不思議の国のアリス』に登場する王様のような台詞が返ってきた。「物語としての脚色を施さないのか?」と聞けば、「これがこの世界の物語だから」とのこと。
 胸を打つ正義を唱えるような登場人物はおらず、むしろ悪≠セと思わせるような何かがまかりとおる物語に首をかしげながらも、知らぬ間にこの世界の常識に囚われてしまう。はたして歪んでいるのはこの世界か、私たちか―答えるのはこの本じゃない。これを読んだ者だ。メアリの皮肉の効いた注釈の甲斐あって、読者さえ『人間』として舞台の役者に選ばれている。
 実際にある世界だからこそ、細部にわたる世界観の密度はとても濃い。神、使族、魔法に始まり、魔物や道具、季節など地球との多くの違いが伺える。
 異世界の旅に憧れる方はぜひ期待してほしい。特にただの王道ファンタジーではなく、歪なキャラクターたちが織りなす幻想的で哲学的、大人のための児童文学、そんな本を求めていた方にぴったりの世界だ。

 翻訳にあたり、日本の読者により易しく楽しんでいただくため多くの改変をしている。例えば宝石は一番近しい宝石の名前を翻訳に当てただけで、地球にある宝石と同じものはない。登場人物の名前は実際の発音に近いものもあれば、名前の由来に沿って改変したものもある。魔物は地球上の動物とはかなり生態が異なるゆえ、似た動物の名前を使って改めて付け直した。魔法の名称は日本語や英語では発音の再現が難しく、言葉の意味も考えながら翻訳した。そのほか、地球上の読者にとって理解の難しいシステムやシーンも、作者と相談しながら編集・改変を行っている。なるべく原作を尊重し、作者の意図を活かすことを意識した。
 作者シェヘル・グリムは、実話に基づいた童話、神話、小説を多数書いている。もちろん今回の物語も本当にあった出来事で、登場人物はすべて実在している。そんな彼の作品の中から『愛した人を殺しますか?―はい/いいえ』の翻訳を最初に選んだ理由は、第二巻『転移者』を読んでいただけばおわかりいただけるだろう。ひょんなことからこの世界へ旅立つ切符を掴んだ川戸怜苑がどんな形でシャーク海賊団に関わっていくのか、神の思惑やメアリの呪いも巻き込んでさらに舞台が広がっていく。

 最後に、この本の出版にあたり多くの方に助けられた。プロローグ翻訳のほか、本文の訳出において貴重なアドバイスをくださった野々さん、訳者からの細かい質問に眉を顰めながら答えてくれた作者のシェヘル、そしてこの本を手に取ってくれたあなたに心からの感謝を込めて。