イヤーイヴ

「こっちの世界にも新年を祝う習慣はあるんだな!」
「そうね。海でももちろん祝ってたわ。わたしとしては海の中のほうが美しいけど……こっちもまぁ、悪くはないわね」

 澄ました顔でそう言うと、レオンはにかっと親しみやすい笑みをつくろった。

「へぇ! なにしろ『美の神でもあるポシーファルの海』、だもんな!」
「レオンもこの世界のこと、だいぶわかってきたじゃない」

 お酒が入っているせいか少し饒舌なレオンは、「だろっ」と言ってわたしの肩を軽く小突いた。

「海の景色も見てみたいなぁ〜」

 空を仰いでいる彼を置いて、わたしは立ち上がり船べりから身を乗りだした。
 トルティガーの港にガーネット号を寄せて、船員のみんなで新年が明けるのを待っている。港を望めば、街のあちこちから|魔法円《ペンタクル》の白い残光が上がっているのがわかる。

「あ、あの|魔法円《ペンタクル》、すんげーデカい!」

 いつの間にか隣に立っていたレオンが、海賊ギルドの上空で|魔法円《ペンタクル》がぱっと弾けたのを指さした。

「海賊ギルドだもの。きっと大規模な魔法を使っていたんだわ」
「大変だなぁ。毎年あんなふうに魔法を更新し直さないといけないんだろ?」
「そうみたい。特に法魔化した|物語《ミュトス》の魔法を使ってる人たちは、イヤーイヴの今日が始まった途端、大忙しよ」
「一年で|魔法円《ペンタクル》で元素と交わした魔法が切れちまうんだもんな。アイロスさんにも習ったぜ!」

 レオンは持っていた望遠鏡をしげしげと眺める。

「このへんの魔道具は? 一応魔法が使われてるんだよな?」
「たぶんガーネット号にある魔道具はラムズが全部なんとかしてくれてるわ。──あ! 見て!」

 トルティガーの街灯が、港から街の中心へ向かって白色から青にまたたく間に変わっていく。とびとびの街灯を光が駆け抜けていくみたいだ。

「綺麗だな〜」
「やっている人たちは大変でしょうけどね」

 くすりと笑い、今度はガーネット号の甲板のほうへ体を向けた。船員たちは色とりどりのご馳走と一緒に酒盛りをしている。お役人やお貴族様は忙しくしていても、庶民のわたしたちはこれをお祭りごとに見立ててどんちゃん騒ぎだ。
 実際、このあともっと美しい情景を見ることができる。神様からのプレゼント。年一回のこの|催《もよお》しを、神様がサボったのは数えるくらいだそうだ(ここは『一度もない』って言いたいところだけど、実際は忘れたことが何度かあるそうよ。いや、もしくは神様からの罰かも? なんてね)。

「楽しみだな〜。えっとー、最初に闇の神デスメイラが全部の光を消すんだよな?」

 レオンに向けてこくりと首を下ろす。

「そう。0時ぴったりに真っ暗になるわ。どんな街灯だって消える。魔法も使えない。一面闇の世界よ。そのすぐあとに光の神が日を昇らせるの」
「いつもは4時半なんだから、ずっと早いよな」
「明日だけよ、0時に朝日が昇るのはね。そのあとは地の神、風の神、水の神、火の神、みんなで協力して世界を彩るの」
「海はどうだったんだ?」
「海の中は、主に水の神だけが担当しているわ。水面の向こうで空の色が変わっているのは見えていたけど、水の中でも十分綺麗だったから。本当に美しいのよ!」

 レオンは微笑ましそうにこちらを見ている。わたしの顔、なにか付いてる?

「海の話をするメアリは本当に幸せそうだな」

 じっと見つめられるから、唇を尖らせ目を逸らした。

「ま、まぁ、そりゃね。海が好きだもの。でも陸から見る海も美しいって、ちゃんと知れてよかったわ」
「別の角度から見て初めてわかることって、けっこうあるからな」

 そうかも。

 船員は全員が甲板まで上がってきているけど、当の船長、ラムズは今日一日ほとんど顔を見せていなかった。ただ今回の宴の食べ物、飲み物は全部ラムズが用意したものだそうだ。ガーネット号ができてから毎年、ラムズはみんなを|労《ねぎら》ってくれているらしい。

「意外だよな。ラムズがみんなに食事を奢ってくれるなんてさ」

 わたしが船長室を見ているのに気づいたのか、レオンがそう呟いた。

「そうね。意外と船員を大事にしてるのかも?」
「うーん。そんな簡単な話か?」

 いまいち納得がいかないらしい。わたしは美味しいものが食べられるだけで十分。難しい話は嫌い。



 あと30分で年が明ける。宴もたけなわに、ようやくラムズが船長室から出てきた。船尾楼甲板まで上っていく。遠目で見ても相当疲れていそうなことが目に取れる。肩は猫背気味、普段より重そうな足取りだ。
 ラムズは難しい魔法をたくさん使っているし、たぶん朝から魔法の調整で忙しかったんだろうな。彼も食事でもして少し体を休ませることができたらいいのに。

「遅くなって悪い」

 ラムズが手すりに片腕を引っ掛け、こちらに話しかけた。普通に話しているだけに見える彼の声は、潮が引くように船内を静寂へ導いた。酔いで赤らんだ頬を冷たい風が優しく撫でる。

「こうして我がガーネット号にお前らが集っていること、神と俺の幸運に感謝する」

 みんながどっと笑った。ラムズはラムズだ。そう、こんなやつだった。まったくいつも通りね。
 ラムズは少し笑ってみせて、すっと手を前に掲げた。

「死せる者に弔いを、生ける者に祝福を」

 甘く澄んだ声が鼓膜を揺らした。はっとするような声の美しさに全神経が惹きつけられる。
 彼は目を瞑って(おそらく)古代語で長い詠唱を唱えはじめた。船には魔法をかけているだろうから、それを更新するつもりなんだろう。
 ラムズの立っているところ、茶色の木板がぽっと一枚金に光った。暗い静けさにぽつぽつと金が灯りはじめる。水面の波紋のごとく、飴色の光がみるみる床を移ろっていく。床全体が金色に染まると、まるでわたしたちが黄金の草原で座っているように思えた。
 眩い金粉は三本のマストをゆっくりと螺旋を描いて昇り、赤い帆まで達した。帆を括っていた縄が軽やかに解け、闇夜に真紅の垂れ幕が降りた。帆が大きくうねり音を立てる。船を覆い尽くした金の星屑は、ついに帆からこぼれるようにわたしたちの上に降ってきた。
 歓声が上がる。

「よい|明《あ》け|景《がけ》を」

 ラムズは帽子を外し、二、三度帽子を回しながら丁寧に腰を折った。船員たちは口笛をひゅーひゅー鳴らし、辺りを喝采で包む。
 なかなか粋なことをやってくれる。けっこうラムズはエンターテイナーなのかもしれない。

 彼が階段から降りていく。飲んでいた酒瓶を床に置いて、わたしは駆けて行った。

「ラムズ!」

 甲板についてラムズが止まる。あんな見事な魔法を使った立て役者とは思えないくらい、無機質な瞳、色の抜けた表情がこちらを捉えた。疲れているからとかそういうことではなくて──。話しかけていいものか一瞬悩み、わたしは首を振った。

「その、ずいぶん綺麗な魔法を使ってくれるのね」

 すっと目が細まる。消えていた表情を戻すように、唇が笑った。

「お気に召していただけたのであれば、なにより」

 彼はまた上品に微笑み、三角帽子をそっと外して戻した。

「船の魔法の更新をしたのよね? あんなに素敵になるものなのね」
「んー、ちと手を加えたから」

 わたしから視線を外し、その場を立ち去ろうとする。慌てて話しかけた。

「ラムズは見ないの? 明け景」
「なんで?」
「なんでって……。みんなで見たら楽しいんじゃない?」

 ラムズはくくと笑った。

「俺がそういうタイプに見える?」
「ん、ま。まぁ……見えはしないけど」

 でも、せっかく綺麗な景色だもの。ラムズだってきっと感動するわ。それに海の上で明け景を見るのは……。

「そうよ! 海の上で見てみない? 船じゃなくて、もっと向こう!」

 わたしは地平線を指さした。わたしなら波を操って、周りになんにもない、一面青の海の真ん中まで連れて行ってあげられる。船の上だって悪くないけど、きっと海にいれば海面に映った景色でもっと楽しめるはずだ。

「お前が連れて行くって?」
「そう!」

 ラムズは首を傾げた。

「それはデートのお誘い?」
「は?」

 つい心の声がそのまま漏れた。なに言ってるの?! デートとか、そんなわけないでしょ?
 いや、ん……。た、たしかにわたしたちのあいだでもイヤーイヴに恋人同士で出かけることはある……けど……。今回はただわたしもラムズを労ってみようかな、なんて。ただの、そういう……。

「冗談。それより、明け景のときの宝石もとても美しいんだ。お前こそ、一緒に見るか?」

 ラムズはダンスに誘うように、そっと掌を天に向けた。

「いえ、その……」
「まあ、お前らにとっては空の景色のほうが綺麗だと思うが」

 嫌味のない声だった。断られるのを承知で聞いたんだろう。小さな笑みを唇から外すと、彼は背を向けて船長室の扉へ手をかけた。
 甲板から聞こえてくる船員たちの明るく賑やかな声が、後ろ髪をひくように耳を掠める。でも────。明け景の景色は昨年も一昨年も見た。宝石が好きなラムズが言うんだもの、きっと本当に綺麗なんだろう。

「わたしも見る」

 ラムズは何も言わず、ただ扉を開けてわたしが入るのを待った。


 船長室に踏み入れると、嘘のように外のざわめきが消えた。いつもより暗く見える船長室で、サファイアのシャンデリアが淡く光っている。あちこちの宝石が息を潜めるようにちらちらと瞬き、こちらを注意深く伺っている。
 いつもは殻になっているベッドの上に宝石が整然と敷き詰められている。このときのためにラムズが並べたのかもしれない。

「どこで見ればいい?」
「扉の前でいいと思う」

 隣のラムズを見上げる。表情の読み取れない顔だ。シャンデリアで浮かぶ色の抜けた皮膚、ガラス細工のような瞳孔、すっと通った鼻筋に青白く薄い唇、そこから漏れる透明な吐息。横顔がゆっくり回って、碧眼がこちらを見下ろす。長い睫毛が瞳に影を落とした。

「どうかした?」
「いえ……」

 あんまり綺麗な顔で見られると恥ずかしい。動悸がして何度か瞬きをする。机の上のダイヤモンドのチェスに視線を移した。

「毎年宝石を見て過ごすの?」
「ああ」
「ひとりで?」

 わたしはぼんやりとチェスの駒を眺めつづけた。ときおり、返事をするように駒の中でダイヤの煌めきが瞬く。

「……気にしたことなかったな。んー……だいたい、ひとりだったと思う」
「明け景は見たことある?」
「ねえかな」
「え、一度も!?」

 思わず彼と目を合わせた。あんなにたくさん生きてるのに、ただの一度もないなんて。

「生まれたときから宝石だけを見てたの?」

 柔らかに笑った。

「そうだよ。生まれたときからずっと」

 わたしは少し唇を噛んで右手の指で左腕を叩いてみる。

「案外、見てみたら綺麗だって思うかもしれないわよ?」
「思わないよ」

 彼は微笑んだままだ。

「どうしてわかるの?」
「そう、決まってるから」

 え?
 聞き返そうとしたとき、ラムズの冷たい手がそっとわたしの手を握った。
 部屋に暗闇が落ちる。心臓が止まる。呼吸が止まる。全身が固まった。そのあと体の感覚がすべて消え去る。この数秒間はすべての命が止まるのだ。闇の神、死の神デスメイラの明け景──。どんな魔法も、生き物も、植物も、何もかもがなくなる時間。静寂。無。何も聞こえない、何もない。
 気が遠くなりそうな暗闇のあと、じんわりと暖かい太陽が海から顔を出した。窓の向こうに地平線が見える。柔らかな太陽光のはずが、目が眩んで視界がちかちかする。

「ッ、ハア……」

 息ができる。さっきまでの完璧な静寂のせいか、鼓動の音がものすごくうるさい。まるで爆音だ。脳がやられそう。
 光の神フシューリアが起こす命の音、命の色が現れ、モノクロだった世界が色づいていく。

 わたしは船長室の変化に気づいた。食い入るように見つめた。窓から差した光のそばから、真っ黒の炭の塊のようになっていた宝石の色が変わり始めるのを。

 ダイヤモンド、ガーネット、サファイア、エメラルド、トルマリン。光が宝石たちを照らすたびに色が戻っていく。戻るだけじゃない。宝石の中の光彩が、夜空に広がる銀河のようにきらきらと明滅している。いつもの数倍美しい。宝石をふだん見ていないわたしだってわかる。
 今は生の時間だ。この世界に存在するすべてのものが“生きる”時間。宝石が本当に生きているのか、死んでいるのか、それはわたしにはわからないけど、今はわかる。今この瞬間だけは、この宝石たちは生きている。

 そのあと、地の神、風の神、火の神がすべての宝石を讃え彩った。数多の植物が宝石の周りを進み飾り立て、宝石は実をつけた花のように茎を擡げる。装飾品が右に左にゆっくりと風に揺れ、宝石の色が紅葉し、落ち葉になり、地に帰っていく。炎がそれをすべて呑み込んで、火花の代わりに宝石がちらちらと浮かんでは掠れ消えた。
 水が炎を洗い流すと、いつもの船長室に戻ってきた。でも宝石はまだ光っている。さまざまなカットを光が撫ぜるたびに、眼が覚めるような瞬きを見せた。美しい、そんな言葉じゃ足りない。あまりの神々しさにくらくらした。──あぁ、これは、水の神ポシーファルだ。
 徐々に部屋は戻っていった。特別な煌めきは時間をかけて緩やかに色を失い、部屋には最初の静けさだけが残った。

 そこで我に返って、繋がれていた手を見た。力が抜けたように、彼の手が外れる。

「ラムズ? どうしたの?」

 顔を上げる。綺麗な横顔が見える。ラムズはまだ部屋を見ていた。
 泣いているように見えた。今まで見たことないくらい、美しい顔で、柔らかい表情で──きっと彼は誰よりも優しい顔をしていた。泣いてないのに、泣いているように見えた。ダイヤモンドにも劣らない涙の雫が、彼の目尻からいくつも生まれている。瞳が膜を張って、ゆらゆらと動いている。そう錯覚させられるくらい、彼はあの情景に陶酔している──。
 ラムズを見ているだけで、あまりの心酔ぶりにわたしまで胸がきゅうと傷んだ。

 ……そんなに、好きなんだ。

 たしかにすごく綺麗だった。わたしも感動したし、ちょっと目が潤んだ。でも彼はそれ以上に、何倍も、何百倍もあの情景が好きなんだ。

「俺はね、明け景は綺麗だと思えない」

 ここに存在していないような彼の声が、静謐な部屋の空気を割った。

「でも、いいんだ。この身を恨んだことはない。どんなに心が苛まれようと、どんな地獄を通ろうと。この幸せがある限り、永遠に生きていたいって思うんだ。永遠に宝石を愛していたいって、思うんだよ」

 わたしは自分の掌を何度か開けたり閉じたりした。

「好きなのね。わかるわ、あんなに美しいもの」

 小さく唇を噛んだ。言って後悔した。きっと、これは“好き”なんて言葉でも“美しい”なんて言葉でも表せないものだ。それに、わたしはちっともわかってなんてない。

「いいんだ」

 わたしが悔やんでいるのに、ラムズは気づいているみたいだった。

「……来年も」

 同じように宝石を見るの? 言いかけた口が閉じる。

「ああ。一緒に見れなくて、悪い」

 今度はもう、誘わない。ひとりでも、誰も知らない景色でも、ラムズは宝石が見ていたいんだ。わたしが死んだあとも、きっと、ずっとずっと、毎年同じ一日を過ごすんだろう。
 さっきまで触れていた手に、指を伸ばしかける。ラムズがこちらを向いた。

「日は昇ったが、まだ深夜だ。メアリは──」
「ここにいていい?」

 わたしはぱっと手を後ろで組む。

「寝る場所、ねえよ?」
「起きてる」

 ラムズはからかうように薄く目を細めた。でも、思い直したのかすうと青眼が外れる。

「わかった」

 彼は部屋の中央まで歩いていくと、肘掛椅子に座っていつものように宝石を触りはじめた。わたしは向かいの長椅子に腰掛ける。
 宝石や彼を見ていたつもりがいつの間にか眠りに落ちて──、朝起きたときには、ハンモックの上、綿の小さな布団が体にかけられていた。