地獄に咲いた花

 ラムズは服を着替え終わると、椅子に座って宝石箱を開けた。ネクタイを付けるときはネックレスはやめたほうがいい──エゼキエルに昔言われたことを思い出す。着飾る宝飾品が減るのは悲しいが、宝石のためだと思えば折り合いは付けられた。
 箱にはピアスや指輪などの小ぶりなアクセサリーがいくつか入っている。カーキのジャケットを着ているからエメラルドを使うのは悪くないだろう。少し太めのリングを手に取る。オニキスとエメラルドがクロスするように並べられ、くすみをまぶしている。銀や金は使い勝手がいい──プラチナ、ゴールドの細やかな|彫金《ちょうきん》細工の美しい指輪を人差し指、中指に通した。

「んー……」

 この指輪は違う手につけたほうがいいかもしれない。ラムズは金の指輪のほうを外すと、僅かに魔力を込めて指の腹で撫でた。指輪から小さな若草が何本か生まれるとくるりと首をもたげ指輪を包んだ。緑草が消え、ひとまわり小さくなった金の指輪が残る。
 ラムズはそれを優しく掴み、右手の小指に|嵌《は》めた。サイズはぴったりだ。

 さて、次は……。
 宝石箱に目を落とす。その宝石箱すら、いくつものダイヤで彩られた豪華な品だ。慈しむように箱の蓋を撫でたあと、ゆっくりと開いた。
 何度見ても胸が高鳴る。こんなにたくさんの宝石を持っているなんて。全部自分のものだ。この箱も、中で並ぶこの小さな煌めきたちも──。美しい、愛している。これほど心惹かれるものはない。|眩《まばゆ》く、|麗《うらら》らかで、|煌《きら》びやか、|快美《かいび》、|爛漫《らんまん》、|玲瓏《れいろう》……ああ、なにを言っても足りない。こんなに愛おしく思うものが他にあるか。
 恍惚の熱い吐息が降りる。あまりの美しさに酔いそうだ。世界が違って見える、心も体も陶酔で溶けて|蕩《とろ》けてもおかしくない。
 幸せだ。きらきら輝きながら、使ってくれるのを今か今かと待ち望んでいる。本当に美しい──。こんなに多くの宝石が……いや、でもまだほしい。もっとほしい、まだ足りない。ほしい、足りない、足りない。足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい。
 幸福を蝕むように酷い飢餓感に襲われた。だが、どんなに強く醜い欲求に心が犯されても、彼の表情は|雫《しずく》も変わらなかった。

 ラムズは一度目を|瞑《つむ》り、すうっと開き、そして目の前の宝石に意識を|凝《こ》らした。奥で盛んに|喚《わめ》きたて泣き叫ぶ欲望に無視を決めこんだ。
 大丈夫だ、また手に入れる。それに、今あるものもちゃんと大事にしたい。
 流れてきた横髪を耳にかけた。

 ラムズは細い指を慎重に箱へ差し入れると、エメラルド、ヴァイオレットスピネルのピアスをそっと掴んだ。ふと思い立って金具に持ち直す。窓から差す光のほうへエメラルドをかざした。

「はあ……」

 エメラルドは裏から光が|透《とお》り、生き物のごとく|煌々《こうこう》と|閃《ひらめ》いた。角度を変えるたびに白い瞬きがカットに合わせて息づく。エメラルドの中には、息を呑むほど神秘的な世界が広がっている。
 なんて美しいんだろう。至高の時間。いくら見ていても飽きない。永遠に服に合う宝石を探していたい──否、それを名目に宝石を触っていたい。愛でていたい。

 しばらくピアスを持ち上げ眺めていたラムズだったが、 名残惜しそうに手を下ろした。
 今日はこれから出かけなければならない。本来はあまり目立つ宝飾品を付けないほうがいい場所ではあるが、何も付けないで過ごすことはもちろんできなかった。
 これもすべて宝石のためだ。新しい宝石を手に入れるため……。
 ラムズはそう言い聞かせると、ジャケットと合わせてエメラルドのピアスを付けることに決め、慣れた手つきで耳に飾った。

 席を立つ。
 幾億もの宝石の取り囲むこの空間を後にするのに、耐え難い悲痛がまた心を覆い尽くしていく。何度味わっても慣れることはないし、年々この異常な欲望が高まっているような気すらした。だが、これが常だ。生まれてから今日この日まで、ずっと最上の欲と戦ってきた──。
 まったくそれらを思わせない足取りで、彼は部屋を出ていった。