こころなし

 深夜すぎ、目が覚めた。部屋が黄色い。飴色の針金で唐草模様を|象《かたど》ったランプが机にのせられている。ランプが柔らかな|橙《だいだい》にまあるく部屋を照らす一方、カーテンの隙間から青い微光が漏れていることに気づいた。淡青の長い三角が床に落ち、フローリングの傷を白く光らせている。
 さすが高級宿屋ホスペスというべきか、部屋には簡素なバルコニーが備え付けられている。そのバルコニーに向かう窓がわずかに開いている。カーテンは室内を舐めるようにはためき、レールが苦しそうに|軋《きし》んだ。
 隣で寝ていたはずのラムズがいなくなっている。出かけたのかしら? 窓を開けたままにするなんて不用心ね。宝石が盗まれることを気にするくらいなら、ちゃんと閉めてから出ていってよ。
 布団から足を出し(寝て起きて、ベッドから立ち上がるときはどこか憂鬱な気分になる。寝てるときは足の存在を感じないけど、立つ瞬間はいやでも地面を踏みしめるのがわかるから)、カーテンのそばへ近寄った。黄色く重たいカーテンを掴むと、透けたレースカーテンが頬を撫で流れた。
「あ」
 ラムズがバルコニーにいた。外の景色を楽しむように(絶対違うわね、ごめんなさい)、柵に体を預けている。彼も船長服から着替えたらしく、コートがカジュアルな黒ジャケットに変わっている。彼の近くから、薄闇を|透《とお》したリボンの煙が這い上っていく。
 彼が右手を柵にのせた。さっき青い光が見えたの、 これだったんだ。ラムズの指には細い紙煙草が挟まれている。青白い焔が先端の葉を燃やし、闇夜に粉っぽい青を滲ませている。
「ラムズ、起きてたのね」
 彼はおもむろに体をこちらへ向け、改めて柵へ体重をかけた。目線を合わせないまま煙草を薄い唇のあいだに咥えて――そっと息を零した。紫煙が絹糸のように細く揺らめいていく。
 上の服を全部着替えたみたい。胸元が開いた紫の緩いTシャツに、銀のネックレスを二連つけている。指輪、ピアスまでさっきと違う。わざわざつけ直したってこと?
 彼の手元から青の染みた煙がくゆる。
「どうして青いの?」
 風が銀の髪をさわさわと遊んだ。「魔法で付けたから」
 魔法で付けても、ふつう煙草に付けたら火は赤くなるでしょう? まぁ、ラムズに関しては難しく考えちゃだめだ。答える気がないなら気にしないでおこう。
 夜風に当たったせいか、目が冴えてきてしまった。窓辺に腰を下ろして彼を見上げる。
 帽子を取った彼の銀髪は煙と同じように闇を透かし、遠くの街灯の淡い茜色、紫、橙、藍に色づいている。細く滑らかにくびれた指には、銀の指輪が三つずつ。Tシャツとお揃いのタンザナイトを両耳に下げて、右耳には追加でオニキスを二つ。船長服のときとはずいぶん雰囲気が違う。
 彼の漏らした煙が視界を白く遮る。ほんのり苦味のある妖しい香りがした。
「ラムズって煙草吸うのね」
「まあ」
 邪魔ではないようなので、わたしはそのまま居座ることにする。
「海賊は吸ってる人、多いわよね。そんなにいいもの?」
「……さあ?」
 彼は表情を変えないまま、また息を吐いた。白い尾のように煙が流れて、闇に溶けていく。
「さあって。好きなんでしょ?」
 煙草は嗜好品だ。嗜好どころか、好きになるとやめられなくなると聞いたことがある。麻薬などの薬と同じような依存性があるとか、ないとか。お金もかかるからわたしは手を出してないけど、|不埒《ふらち》者の多い海賊のあいだでは有名だ。
 ラムズはいつも疲れていそうだし、煙草を吸って少しでも気を紛らわそうとしているのかもしれない。
 何拍かあって、ようやく彼が答えた。「いや?」
 炎と同じ青い瞳がこちらを映すことはない。|朧《おぼ》ろに光を灯している。
「変なラムズ。好きじゃないならなんで吸ってるのよ」
 彼は吸おうとしていた煙草を唇の手前で止める。首をかしげ、白銀の髪をしなやかに流した。
「なんで吸ってるんだろうな」
 音のない声が、煙みたいに耳をすり抜けていった。|燻銀《いぶしぎん》の指輪のダイヤモンドが冷たく|閃《ひらめ》く。
 わたしはもう一度尋ねた。
「……なんで?」
 薄く開いた口が嗤い、二つの蒼が初めてこちらを捉えた。心臓を掴まれ全身がこわばる。ラムズはきゅうと眉を下げ、ほんの少し|瞼《まぶた》を|冠《かぶ》せた。
「かっこいいから?」
 え?
 わたしが瞬きしたときには視線は外れていて、彼はジャケットを脱ごうとしていた。魔法がとけたように自由が効くようになった体を不審に思いながらも、ぼんやりとラムズを見つめる。
 脱いだジャケットがこちらに放られた。「寒いんだろ」
「……あ、どうも」
 寒そうにしたつもりはなかったのに。実は立っていた鳥肌を隠すように腕を|摩《こす》った。ジャケットはわたしが持っているどの服よりも肌触りがよく、これも高級品みたいだった。でも、貸してくれた以上気にしなくていいんだろう。
 わたしは遠慮なく腕を通すことにした。長い袖で手が隠れる。ジャケットの丈もサイズが合っていないせいで、床に裾がついた。微かに煙草のしっとりとしたシニカルな香りがする。自分が煙草を吸っていたわけじゃないのに、なんだか悪いことをしたような気分になる。
「煙草がかっこいいとか言ってたけど……。ラムズってそういうの気にするのね」
 さっきと同じようにわたしの正面で柵にもたれかかり、首を傾げたまま答えた。
「そういうのしか気にしないよ」
 ラムズは肘を柵にかけると、指輪のついた掌をゆっくりと回した。きらきらしたダイヤの|煌《きらめ》きを確かめるように視線を送っている。
「でも、煙草をかっこいいと思わない人もいるでしょ?」
「……じゃあ、匂いをつけるため?」
 いつかラムズに匂いがないと伝えたことを思い出した。ジウも同じように言っていたけど、意外と気にしていたのかしら?
「つけてどうするのよ。匂いがないって言ったの、気にしてるわけじゃないでしょう?」
 彼はこちらを見ると、目を細め、柔らかく笑った。「気にしてるよ」
 陶器然とした肌、|屍《しかばね》を思わす青い眼球、毒々しい紫がちらつく銀の睫毛、冷たいプラチナのアクセサリー。そのどれにも合わないはずの甘い笑みは、あでやかにこちらへ溶け込もうとする。
 これは絶対嘘の顔だ。見ていちゃいけない気がして、今度はわたしのほうが彼から顔を背けた。
「どうせ嘘でしょう? 本当は?」
 喉の奥でくくと笑う声が聞こえる。
「何もないよりあったほうが、覚えててもらえんだろ」
「……覚えてて? 誰に?」
 白い煙が宙でもつれ、綿のようにちぎれる。風にさらわれて掠れていく。
「誰でも」
 視界が陰る。顔を上げると、ラムズがこちらに近づきカーテンを閉めようとしていた。青の炎から|燻《くすぶ》る煙が直接鼻に届いて、わたしは小さく咳き込んだ。
 閉め終わったラムズが、わたしの口元を見つめている。
「どうかした?」
「煙草の匂い、嫌いか?」
「いえ、別に。海賊でも吸ってる人はたくさんいるもの。ただ海では嗅ぎ慣れないから、得意ではないみたい」
 彼はふっと笑う。「じゃあ、いらねえな」
 煙草の先端の蒼がゆっくり上がっていく。指の隙間まで炎が移ろい|耀《かがよ》い、ついにすべてが青の灰に変わって宙へ|失《う》せた。そのあと彼を大きな水泡が一瞬囲み、見るまに弾けて消える。
「え? なにしてるの? なにしたの?」
「消した。匂い」
「付けるために吸ってたんじゃないの? ……バカなの?」
「だよな」軽く笑みを落とす。「でもお前が苦手なら、――今はもういらない」
 眉をひそめて彼を見る。「わたしのため? ……変なの」
 ちょっと考えを巡らせたけど、すぐにやめた。たぶんまた変なことを言ってからかっているだけだ。
「煙草って、吸ってる人はやめられないって聞いたわよ。大丈夫?」
「俺はそういうの、関係ねえから」
「そんなの余裕だってこと?」
「いや、文字通りの意味」
 わたしは一度口をつぐみ、顎に指を当てる。「うーん、ラムズにはそういう効果がないってこと?」
「そんなとこ」
「……嗜好品なのに。変なの」
「嗜好してねえもん」彼はそっと笑い、また銀髪を風に揺らした。「タバコを吸ってる姿が好きだって、そう言うやつもいるだろ。だから吸うだけ」
「へぇ……。じゃあ、人からの評価のために吸ってるってこと? 匂いもそういうこと?」
「ああ」
「ふうん……。誰かのために吸うの」
 湿った声が優しく囁く。「それしかないよ」
 ラムズが他人の評価のために生きているなんて、すごく意外だ。彼は自分がしっかりある人だと思っていたのに。どこかがっかりしたような、呆気ないような。
「……宝石は?」
「宝石に関わることはやるが、宝石は俺の見た目も匂いも気にしねえだろ」
「まぁそうね。じゃあ宝石以外は誰かのためにやるの?」
「……容姿に関しちゃ、付けたい宝石に相応しい格好をと思ってるが」
「まぁ……そうなると、そうなるわよね」
 わたしはもう一度彼の服を見た。たしかに今つけている燻銀のネックレスや黒艶のピアスは、これくらいカジュアルな服に似合うだろう。逆にいつもの船長服でこの宝石を使っていては、服のほうが目立ってしまう。
「ふうん……そっか。そういう理由でオシャレをする人もいるのね」
 伺うように彼の顔を見上げ、「でも」と続けてみる。「誰かに格好いいと思ってもらうために選ばなくても、ラムズは十分容姿に恵まれているでしょう?」
「まあ」口から外れるように言葉が落ちた。色のない声、心のない台詞。
「だから……好きなのを選んだらいいじゃない? わたしは煙草を吸っているのが嫌だとは思わないし……吸いたいなら、別に吸っていいのよ」
 なんとなく言いづらくなって、上がった語尾の声が震えた。
 ラムズは微かな笑みを見せると、硝子玉の蒼を瞬かせた。
「吸いたいなんて思ってないよ。気にしないで」
 彼とは思えないくらい優しい口調――でも、空洞の瞳の奥に気持ち悪さを覚えて、体を縮こめ自分の膝のあいだに視線を落とした。
「メアリは?」
 取ってつけたように尋ねられた。興味がなさそう、ただ会話を円滑に進めるために聞いただけみたい。……もしかしたら、ラムズは自分のことを尋ねられるのが苦手だったのかもしれない。
 わたしは静かに答えた。
「そうね……。服はよくわからないし」喋りながら自分のことを考えてみる。わたしもわたしで服や嗜好品については興味がない。ラムズにはああ言ったものの、案外似たようなものなのかしら。
 でも、途中で思い立った。
「着飾らなくても人魚は綺麗でしょう? 海では何もつけないもの」うん、これならしっくりくる。自分で頷きながら、ふと視界にある脚に気づいた。「まぁ……海賊でいるとき、ああいうボロボロの服を着たり髪が汚れたりするのは――」
 人魚らしくないのかしら。口で言うのははばかられて、途中で切ってしまった。
「俺はあのままでもいいと思う」
 ラムズのほうを見た。片眉を上げる。「……綺麗にしたのはラムズなのに?」
 高級な宿屋であるホスペスに入れるよう、わたしの髪を魔法で洗い、高級な服を着せたのはラムズだ。いつもならあの麻のボロ服のまま海で寝ているはずだった。
「それはこの店に入るためであって――。そうやって自分のために生きているのは、お前らしいよ」
「わたし?」
「人魚らしい」
「……そうかしら?」
 ラムズは柵にもたれかかったまま、宙へ透明の声を垂れ流した。
「お前はいつも自分のために選んで生きてんだろ。人間は両方あるが、メアリは後者のほうが強い。そこは、人魚らしいんじゃねえか」
「……ふうん」
 自分のために選んでいたのかしら。まぁ今も気にしたのは「人魚らしい」かどうかで、たしかに誰かのためというよりは、わたしが人魚らしいかどうかで判断しているかもしれない。
「ラムズにはそう見えるのね。陸に来ると、たまにどうしたらいいかわからなくなるわ」
「いろんなものが影響を与えるからな」
「……それじゃあわたしは、何にも影響されないように生きるべきかしら」
 陸がわたしにとって別世界なら、陸の価値観は全部受け入れないほうがいい? かといって、そんなことしたらきっとここでふつうに生きられなくなる。でももしそっちのほうが人魚らしいなら。正しいのなら――。
「いや。お前がいいと思ったなら、それは受け入れればいいんじゃねえか」
 脳を覆っていた靄がぱっと消える。
「え?」
 ラムズの瞳は部屋の奥のランプを映し、飴色と青が混ざりあっている。
「お前が出した答えなら、それでいいよ。それはつまり、自分のために生きてるってことだろ」
「そうなのかしら」
 彼の喉が息を吸い込む。横目でこちらを見た。「俺が服を着せても、お前は『人魚は着飾っていなくても綺麗だ』と言った。誰かや何かのせいで外側が変わったとしても、中身が変わることはない」
 ……つまり、わたしの下半身が、――わたしの姿が人魚じゃなくなったとしても、わたしの中身は人魚のまま?
「多少何かに影響されて普段と違うことをしたとしても、お前の中になんらかの意思があるなら……。人魚らしいとか、人魚らしくないとか、考える必要はねえよ。お前が好きなように生きていれば、それがもう人魚らしいってことだろ」
 くすっと笑ってみせる。「なんだかわたしを全肯定してくれるのね」
 ラムズは頭を傾け、薄く笑った。
「全肯定されるほうが嬉しいだろ?」
「それも、さっきの『誰かのため』ってやつ?」
 彼は一瞬視線を横に流し、また唇に笑みを寄せた。
「……嘘は言ってないよ」
「そう?」
「まあお前は、俺にどうこう言われなくても好きに生きんだろ」
「んー……そうかもね」
 わたしは黙り、柵の向こうの街を眺めた。後ろでカーテンのレールがかたかたと音を立てている。風が吹くたびにラムズから貸してもらったジャケットから、さっきの煙草の匂いがする気がした。褪せたビターに甘ったるい蜜を添えた、とらえどころのない妖しい匂い。……でも、彼に合わないような気がした。

「わたしのために言ってくれたの?」
「なにが?」
「いろいろ」
「俺のためだよ」
 わたしは呆れたように笑う。「さっきと矛盾してるわ」
 ラムズは少し眉を寄せると、指輪についた宝石を逆の指で何度かこすった。「んー、嘘はついてない」
「でもチグハグだわ」
 曖昧なことを言ってはぐらかされたような気がする。ラムズは窓を大きく開けて、わたしの横を通り部屋に入った。
「今夜はお終い。ミラームは喋りすぎだ」
 わたしも腰を上げ、部屋に足を踏み入れる。ラムズは早速机に座って宝石を愛でている。
「ミラーム? 今話したのはラムズでしょう?」
 カーテンを閉めたあと、ラムズに借りていたジャケットを戻す。彼はまた浄化魔法でジャケットを綺麗にしてしまった。
「もうおやすみ。いい夢を」
 |腑《ふ》に落ちない気持ちを残しながら、わたしは布団に入った。埃っぽい布団の匂いは、不思議な煙草の香より心が安らぐ気がした。