いつだったか世界がまだ半熟だったころ

獣人になってすぐに人間に捕まった。奴隷として売られて、買われて、首輪のように短い鎖で首を縛られる。鎖には大粒の石が付けられていた。触り心地のいい革を持たされ、匂いの元へ行くよう命じられる。フクを着せられ、チズとカネも一緒にもらった。このクニのものらしい。なぜフクを着るのか、なぜチズやカネが必要なのか、クニとはなんなのか、何一つわからないまま、私は知性を持った生き物の世界を歩み出した。

地図や国のことを知らなくても、標的の男を見つけることができた。後から知ったことだが、国境を一度越え、もう一度越えてまた同じ国に戻っていたらしい。検問所では、フォクシィの耳と尻尾を隠していると捕まって、出していると通された。人間の前に出るときは人間の姿をするよう教えられていた私は混乱した。しかし理由を知る術がなかった。魔物とは会話ができないし、獣人には出会えなかった。人間には獣人であることを明かせない。結果として、誰とも話ができなかった。

私が見つけたとき、彼は人間の市場にいた。彼もこの通りにいる人も、どこからどう見ても人間にしか見えない。私は少し迷った末に人間に化けた。こっそりと近づき、後ろから男の腕を掴む。男に見つかる前に掴めと命じられていた。

手のひらが冷え、振り向いた視線に射抜かれて背筋まで凍る。男は健康そうな顔色なのに、ぞっとするほど冷たい体温と、無機質な目をしていた。一瞬固まってしまったが、次の命令を思い出して気を取り直す。主人に教えられた言葉を口にしようとした。


「待て」


男は面倒そうに私の口を押さえた。大きな手のひらは私の顔の下半分を覆ってしまい、冷たさに身を引きたくなる。しかし、男を掴んでいたはずの私の手は今や男に掴み返されていた。左手で私を捕らえたまま、彼は右手で私の首に触れる。


「サファイアか」


首につけられた石は、サファイアというらしい。そんなことはどうでもよかった。口が解放されたので、言霊を唱えようと唇を動かす。だが、声は出てこなかった。打ち上げられた魚のように、意味なく口を開閉する。

うろたえる私の前で、男は容易に鎖を切った。私が何をしても、絶対に切れなかったそれを。手のひらでサファイアを転がし、男は目を細める。もったいねえ、と呟き、強く握りしめた。

男の手の中で、サファイアが光り出した。指の間から真っ直ぐに漏れ出る光が、目に刺さって眩しい。視線を逸らしたいのに、目の前の光景に違和感を覚えてしまってできなかった。あれだけの光を受けているのに、なぜか男の指の縁は白いままだ。私が太陽に手を透かすと、指は赤く見えるのに。

次第に光は弱まっていき、完全に消えてから男は拳を開いた。そこにあったサファイアは、粉々に割れていた。色も黒っぽくなっている。男は雑に手を振り、欠片を地面に落とした。


「お前の主人は、他にも宝石を持ってんのか?」
「宝石?」
「さっきお前がつけてたような石だよ」
「大きな石ってこと?」


男は首を横に振った。声に苛立ちが滲んでいる。


「獣人に成り立てなのか。ハァ、面倒だ」
「獣人?」
「お前みたいな、知性を与えられた魔物のこと」
「……私、魔物じゃない!人間だよ」
「そうか。じゃあこれはなんだろうな?」


男は私の頭に手を乗せた。すっと滑らせ、いつの間にか出ていたフォクシィの耳を撫でられる。冷たい指でこねられて、首筋がぞくぞくし、尻尾がぴんと立った。あれ、尻尾まで出ちゃってる。はっとして尻尾を押さえた私の姿を、通行人がじろじろと見ていた。


「傷も隠してたんだな」


え、と驚いて上げた私の顔を、男の手が捕らえていた。男は小首を傾げ、大して興味もなさそうな目を私に向けている。頬を包む冷たい手のひらから嫌悪感が走り、強く首を振って逃れた。

一歩下がって深呼吸し、再び人間に化けた。耳を消し、尻尾を消し、体中の傷を消す。この傷は主人や、道中出会った魔物からつけられたものだった。私はこの姿────獣人になってから、純粋なフォクシィの頃より傷の治りが悪くなっていた。


「あいつは奴隷の扱いが悪いからな」
「私の主人を知ってるの?」
「ああ。俺のもとに送り込まれた奴隷はお前で……十…あー、覚えてねえ。大体そんくらいだ」
「なんで送るの?」
「殺したいんだろ」
「……私、あんたを殺すの?」
「そういう役割だよ。失敗したけどな」
「失敗?まだ何もしてないのに?」


声を高くする私を前に、男はため息をついた。知りたがりだな、と独り言のように呟く。その目は私に向いているのに、私を見ている気がしなかった。明るい"茶色"をした彼の目は、まるで私を透かして遠くを見ているかのように、ぼうっとして焦点が合わない。黙ってしまった男に続きを急かしたくて、ねえ、と声を上げた。


「教えてよ」
「お前、これから主人のところに帰るのか?」
「えっ……わかんない。何も命じられてないし」
「じゃあ俺に協力しろ。お前の知りたいこと全部教えてやるよ」
「ほんと?全部?」
「ああ。それが俺の運命だからな」


運命。大袈裟な言葉だ。男の唇が薄っすらと弧を描く。顔に貼り付けられた表情の不穏さを見て、私の胸に不安の影がちらついた。この人についていっていいんだろうか。ついていったらどうなるのか、何をするのか、私はまた何も知らない。


「悪いようにはしねえよ」


私の怯えを読み取ったのか、男はそう言って肩を叩いてきた。くるりと体の向きを変えさせ、肩を組んだまま歩き出す。初めは足を踏ん張り、抵抗してみたが、なぜか流れるように前に進んでしまった。周囲の人間たちの視線が刺さる。気づけばまた変装が解けていた。慌てて化け直そうとする私の耳に、男の冷ややかな声がすっと流れ込んだ。


「そのままでいい。姿を偽るのは面倒だろ」


瞬きし、彼の顔を見上げた。澄んだ瞳は真っ直ぐに前を見ている。この人も姿を偽ってきたのかな。私の主人に狙われて、隠れざるを得なかったのかもしれない。

私は体の力を抜いた。そよ風が耳を撫でていく。人に尻尾が当たるのなんて久しぶりだ。体中の傷も気にならない。


「あなたの名前はなんていうの?」
「名前?」
「全部教えてくれるんでしょ?」


尻尾を振りながら答えを待った。男の目が私を捉える。前を向いていないのに、誰にもぶつからずに歩けるのが不思議だった。


「俺は────」





考え込んでいたラムズの目に光が宿った。顎から手を離し、顔を上げて遠くを見る。


「メアリを追いかける」


ぎり、と奥歯が鳴った。大きめの犬歯が唇から飛び出すのを感じる。そんな私に目もくれず、ラムズはあの子が向かった方へと歩き出した。


「……待ってよ。わざわざあの子に合わせて生きるの?」


ラムズは答えなかった。我ながら愚問だ。ラムズはあの子に合わせようとしてるわけじゃない。ただ、自分のお気に入りの宝石を手元に置いておきたいだけ。わかってる。それはわかってるけど。

事の発端は、ジョーカーの策略にはまってシャーク海賊団が崩壊してしまったことだった。ラムズが船員を売ったという嘘に騙され、多くの船員はラムズの下を去った。彼らを追いかけて誤解を解こうと言ったメアリに対し、ラムズは彼らなしでドラゴンに会いに行くと譲らず、両者は決裂した。メアリが涙ぐみながらラムズから離れていく様を、私は近くの屋根の上から見ていた。

メアリが行ってしまったあとのラムズは、魂が抜けたようだった。私が近寄っても無反応で、ぼんやりと遠くを見たり、うつむいて固まったりしていたが、次第に表情が変わり始めた。眉間にしわが寄り、不機嫌そうに歪んだかと思えば、穏やかに顔の力を抜いて微笑みを浮かべる。目尻を垂らして憂いを帯びた表情をしてみたり、わかりやすく口角を上げて笑ってみたり。

唇を噛んでラムズを見つめる私の存在は、彼の目には映ってない。目の前にいるのに。ずっと目の前にいるのに。ラムズがこうやって"人作り"をするとき、その心はとうに決まっている。何度も見てきた。ラムズがラムズじゃない誰かになって、誰かに甘く取り入るのを。

真っ直ぐにメアリを目指す彼の歩幅は大きい。私は小走りでその隣に並んだ。ねえ、と腕を掴む。


「ほんとに、ほんとにずっとあの子といるの?」
「ああ」
「あの子が死ぬまで?」
「そのつもり」
「それって何十年もあるよ?ずっと一緒にいるの?」
「俺にとっては一瞬だ。知ってんだろ」


ラムズが喋るたびに、氷水を被っているような気になる。私は一層強くラムズの腕にしがみついた。冷たい腕を抱いているはずなのに、胸と目は熱さを増す一方だ。


「私にとっては、長いよ」
「だから?」
「……そんなに長い間、私はあの子に隠れて生きてなくちゃいけないの?」
「好きにしたらいい」
「好きにって」
「いつまでも俺といる必要はねえよ」


溜まった涙が零れ落ちた。それはラムズの腕を伝い、線を残して地面へと落ちていった。ラムズが歩みを止めないから、もうどこへ行ったかわからない。

私もすぐにそうなる。ラムズから離れたら、もう、二度と思い出してもらえない。


「嫌だ。私ラムズと一緒にいる」
「好きにしろ」


何の感情もこもらない声でそう繰り返した。本当にどうでもいいんだ。ラムズにとって私は。

私はラムズの邪魔をしたことがない。メアリと"初めて会った"ときも、再会してからも、私は身を隠していた。ラムズがメアリを手に入れるのに、私の存在は邪魔だからだ。メアリに限らず、ラムズが女に取り入るとき、いつも私は隠れていた。その方が上手く事が進むとわかっていた。

どうしてわかるんだろう。どうして女が嫉妬する気持ちがわかるんだろう。どうして、恋する女の気持ちがわかるんだろう。

そんなの、ラムズには教わってないのに。


「……もういい」


口をついて出た言葉に驚いた。もういい?もういいって何が?


「一人で生きる」


ラムズは止まらない。振り向かない。


「さよなら!」


声が震えた。彼の"名前"を呼びたかった。あの日彼が教えてくれた言葉を口にしたかった。だが、さよならと言ってもなお、彼は私の方を見ない。名前を読んだところで、彼が私を見てくれることはない。

足が重くなり、半開きの口の中で歯と歯がぶつかった。ラムズの腕を離し、独り立ち止まる。ラムズは最後まで振り返らなかった。靴音を響かせ、人通りの多い路地を闊歩していく。その後ろ姿は、私が知るラムズのものよりたくましく見えた。颯爽と石畳を踏む足取りのせいだろうか。それとも背筋が伸びているせい?どちらにせよ、今のラムズはもう、メアリのためのラムズになっている。





あの日、彼に初めて会った日。彼は約束通り、私の問いに答えてくれた。あのサファイアが魔道具だったこと、主人に教えられた詠唱で爆発すること、それに巻き込んでラムズを殺すのが、私の任務だったこと。だからその後の命令をされなかったのだ。成功しても失敗しても、死ぬはずだったから。ラムズがサファイアを握りしめてやっていたことは魔道具の機能を止める魔法だそうで、おかげで私の命は助かった。

私はラムズが主人を殺す手引きをし、ラムズは多くの宝石を手に入れた。どうやら二人には宝石を巡る確執があったらしい。それから百年以上、私はラムズに付いてこの世界を回った。彼のもたらしてくれる膨大な知識にときめき、溺れ、虜になった。私はラムズを必要としていた。

だって、ラムズがいなかったら、私は誰と話をするの?わからないことを、誰に教えてもらうの?……どこに帰るの?

私は生きるためにラムズを必要としている。ただそれだけ。多くの生物が食べ物を必要とするのと同じ。ただそれだけ。ただそれだけだと、思っていた。


「そういえばお前、名前は?」


ラムズは私の主人を殺した後、血塗れの指輪を拭きながらそう聞いてきた。私が名前なんてないと首を振ると、少し考えてから口を開いた。


「レヴィはどうだ」
「レヴィ?」


小首を傾げて繰り返す。初めて聞く言葉だった。答えを出せずにぱちぱちと瞬きする私を前に、彼は軽く頷いた。


「レヴィ。ん、似合ってるな」


彼は笑っていた。わずかに歯の覗く、満足気な表情。彼は自分のセンスを褒めたのであって、私を褒めたわけではない。それはわかっているのに、胸の奥をくすぐられたような気がして、密かに目を逸らした。

彼がくれたものはたくさんあるけど、一番大切なのは、この名前に違いなかった。あのとき名前をもらったから、縛られてしまったのかもしれない。……好きに、なってしまったのかもしれない。離れたくなかった。一緒にいたかった。いつまでも、私の名前を呼んでほしかった。

ラムズのいなくなった路地で、私は静かに鼻をすすった。唇の上で止まった涙をぺろりと舐める。海の味がした。味のしないラムズの唇が、脳裏をよぎった。