とどめの魔法

ラムズと別れた私は、すぐに安い服屋へ向かった。目に入った服を購入し、元々着ていたものは処分してもらう。その足でメルケルの店を訪ねた。身につけていたラムズの宝石を一つ一つ外し、メルケルに預ける。これをつけていると、転移魔法でラムズに呼び出されたり、ラムズが転移してくる可能性があった。……いや、実際のところラムズがそうするとは思えないが、それを期待しながら生きていくのは惨めだった。もう、ラムズに囚われずに進みたい。

最後の宝石を渡し終わったとき、いいのですか、とメルケルに問われた。答えに詰まり、唾を飲み込む。彼の持ち物なんて踏み潰してやればいいのに、こうして律儀にメルケルに預ける時点で、ラムズに嫌われたくないという保身が働いている。捨てたり壊したりしたら、もしかしたら怒って追ってきてくれるかもしれないのに。ううん、そんなわけないか。メアリと合流したら、ラムズはあの子を上手いこと言いくるめて、すぐにドラゴンを目指すはずだ。小さな宝石の数個が、メアリに勝てるわけがない。

メルケルにも最後の挨拶をして、足早にアゴールをあとにした。とにかくラムズから離れたかった。自分の意志が変わらないうちに、少しでも遠くへ、取り返しのつかないところへ。森は相変わらず魔物だらけで怠かった。話し相手もいないのでつまらない。ニンフがすり寄ってきたので相手をしたが、当然私の頭をおかしくしようとしたので殺してしまった。月夜の中、ぼんやりと地面に横たわる。

仲間とか友達とか家族って、どうやって作るんだろう。

今の今まで気づかなかったが、私にはラムズを通した知り合いしかいない。ヴァニラたちや、シャーク海賊団の船員や、その他各国にいるラムズの知り合い。誰とでも臆せず話せたけど、それはラムズ以外に興味がなかったからだ。ラムズさえいればどうでもいいと思っていたから、何も考えずに話ができた。

私はずっと、知識を求めてラムズと一緒にいたんじゃないんだな。ラムズを求めていたんだ。

目を閉じて星々から逃げた。星を見ていると、ラムズの宝石を思い出してしまう。

ずっと自分の気持ちに気づかなかった。八十年前に出会ったヴァンピールの男や、六十年前に出会った人間のシスター、四十年前に出会った村娘、三年前に出会ったお姫様。ラムズに惚れる者は、使族問わず、性別問わずいくらでも現れた。ラムズはそれを無視することもあれば、利用することも、自ら好意をもたれるよう仕向けることもあった。私はその度に身を隠し、影からラムズを見守った。胸が痛むことはなかった。ラムズが見ているのは宝石だけだったし、数年限りの付き合いだとわかっていたから。

メアリが初めてだった。ラムズが、その人自身を見つめるのは。その人自身を大切にするのは。ラムズの目がずっとメアリを追っていることに、耐えられなかった。

気づけば夜が明けていた。夏なので朝は肌寒い。ラムズがくれたコートを捨ててきてしまったことを後悔した。だが、あの人のくれたものをいつまでも身につけているのはもっと嫌だ。

名前はどうするの?

頭の隅で誰かが囁いた。声の正体は他ならぬ自分だ。アゴールを出たあの日から、ことあるごとに疑問をぶつけてくる。うっとおしい。そんなの私が教えてほしいよ、と独り言ちた。ラムズからもらった名前だから、変えてしまいたい。でもこの名前でギルドに登録しているから、変更が面倒くさい。私はため息をつき、立ち上がった。次誰かに出会って名乗る機会が来るまでに、結論を出さなくてはならない。

体についた葉や砂を払い、太陽の位置を確認した。南東へと足を踏み出す。彼らは南西のベルンへ向かうはずだから、このまま進めば二度会うことはないだろう。胸の奥が鈍く傷んだが、無視して歩を進めた。

同じような景色を見続けて、数週間が経った。虚ももうじき終わる。そのうちフローズ山脈のふもとに着き、これ以上どう進んでいいか、何をしたらいいかわからなくなった。来る場所を間違えたかもしれない。周辺には人間の村がいくつかあったが、獣人が全く見当たらず立ち入るのは憚られた。この百年で人間に化けるのは上手くなったが、使族を偽って生きる道の険しさは、誰かのせいでよく知っていた。

結局山の中で意味もなくうろうろするだけで、また一月が経ってしまった。体はこれまで経験したことがないほど汚れたし、髪には指が通らず、爪には土や魔物の肉片が詰まって取れない。浄化魔法を使えばいいが、誰にも会わないここで体を清める理由が見つからなかった。

一日に何体も魔物を倒し、夜も眠りながら魔物を警戒し続けたおかげか、戦いのセンスは磨かれた気がする。わずかな気配で相手の位置や動きがわかるし、容易に攻撃をかわせる。魔法も、焦点を絞ることでより高出力できるようになった。


「私、ラムズといない方が成長できたのかも」


倒した魔物の肉を焼きながら呟いた。最近は誰とも話せないことが退屈すぎて、しょっちゅうひとりごとを言うようになっていた。


「時間逆行魔法だって独学で身につけたわけだし……ラムズなんていらなかったのかも……」


独学で、というのは嘘だ。時間逆行魔法が使えたらラムズの役に立てると思って、人間の魔導師に教えを乞うた。何十年も前の話だ。それから長いこと練習して、やっと十数年前に使えるようになった。それをラムズが知る機会は来なかったけど。


「ラムズなんていらなかった……ラムズなんて……」


これは嘘じゃない。嘘じゃないんだ。早くラムズを忘れたかった。それなのに、魔法を使うたび、上手く魔物を殺せるたびに、ラムズの記憶が脳裏に浮かぶ。魔法も、戦い方も、全てラムズが教えてくれた。ラムズがいなければ、きっと私は早くに死んでいた。

百年一緒にいた人を、忘れるには何年かかるんだろう。

食欲が失せて肉を放り出した。あのまずい不味いブラッディーメアリーが恋しい。一人では一生作らないだろう。一杯飲みきれる気がしないから。

彼の名前を囁いた。それはすぐに風に紛れて消えてしまった。春だから風が強いのはいつものことだけど、雨が降っていないのは珍しい。どうせなら今日も降ってくれたらよかったのに。そしたら、頬を伝うこの液体も雨水に紛れて消えるのに。




突然目が眩んだ。あまりに唐突すぎて脳が処理できない。何が光っているのかもわからず、目を細めて周囲に風魔法を起こした。しかし光は弱まるどころか、ますます爛々と輝いていく。地面が光っていると気付いたときには、それは形成されきっていた。

魔法陣。

視界が暗転する。転移用の魔法陣を使われたのだと瞬時に理解した。誰が?なんで私に?混乱する頭が期待に疼きだす。はやる心臓の愚かさに、転移特有の平衡感覚に目眩がする。

ぱっと目の前が明るくなった。初めに目に入ったのは海だった。浅瀬なのか、砂浜や珊瑚礁も視界の端をかすめる。自分が船の上にいることに気づいた。見間違うはずもない。ガーネット号だ。


「後ろ」


聞き慣れた声がして耳がピクリと動いた。自分の顔が輝くのがわかる。私は振り向いた。そして、一目散に飛んでくるワイバーンの姿を捉えた。


「え」


魔法を出すのが間に合わなかったので、素手でその首を捕らえてへし折った。待って、何これ、何してんの。頭上はワイバーンだらけだった。虫のように大量発生している。滞りなくそれらを捌きながら、私を手招きするラムズは心底機嫌が悪そうだった。


「これ何!?」


なんで私を呼んだのかとか、どうやって呼んだのかとか、聞きたいことは色々あるけどそれどころじゃない。群がってくるワイバーンを魔法で斬り落としながら、大声でラムズに詰め寄った。なぜはじめから気づけなかったのか不思議なほど、ワイバーンの鳴き声がうるさい。


「嵌められた」
「それで!?」
「船員は転移魔法で飛ばされた。この島にはいると思う」
「そう!それで!?」
「……数が多すぎる」


最後のは独り言だった。この騒音の中でも、彼の声は鮮明に私の耳を捉える。辺りの海と砂浜はワイバーンの死体だらけだ。砂浜の奥には森があるが、人は見当たらない。私は電撃魔法を放ちながら、ラムズの方に駆け寄った。視界の隅でワイバーンがカッと光る。煙を立てて落ちていくそれを確認する暇もなく、別の個体に魔法を放った。


「じゃあもう全部どっかに飛ばして────」


轟音が鳴り響き、船が大きく揺れた。周囲に大きな影がかかる。何。今目の前にいるのは一体何。顔が帆の大きさほどある巨大な魔物が、宙に浮き悠々と翼をはためかせていた。姿はワイバーンに似ているが、大きさも色も全然違う。翼の動きに合わせて船が揺れ、風に煽られて体が飛んでしまいそうになる。髪の毛はぐっちゃぐちゃだ。その巨大魔物の背後からワイバーンが飛んできて、一瞬気を取られた。

視界が赤に包まれた。熱い、と思ったときには、巨大な魔物の噴き出した炎がすぐそこまで迫っていた。咄嗟にラムズの背後に身を隠す。おい、と苛立った声を出したラムズは、そのまま炎を受けて燃え上がった。

ラムズを盾にしていても十分熱い。燃えちゃう、私の尻尾が、毛が、燃えちゃう。少しでも燃える部分を減らそうと、耳と尻尾を術で隠し、髪を手で押さえつけた。ああ、水魔法が使えたら。


「お前……」


炎が収まり、ラムズの手が私の肩を捉えた。気づけばこちらに振り返っていた彼は、顔も体も焼けただれている。これがラムズだってみんなに見せても、誰も信じないだろうな。彼は全身黒焦げだったが、唯一、眼帯に隠されていたはずの場所に深い青色の光があった。傷一つない宝石が、今にも飛び出しそうにこちらを見ている。


「ごめん、でも私が当たったら死んでたもん」


早口で謝りながら、ラムズを襲おうとするワイバーンを二体葬り去った。さらに一体、もう一体。巨大魔物は一撃を放つのにエネルギーを要するのか今は大人しくしているが、それが逆に恐怖を煽る。翼が動くたびに爆風が吹くのは変わらないし。

私に守られる間に、ラムズはいつもの容姿を取り戻していた。服は直せないため、上半身はほとんど裸だ。不快そうに顔を歪めながら、魔法を放つために手を上げる。そのとき、巨大魔物の鼻が膨らみ、少しだけ炎が飛び出て船のヘリを焼いた。


「レヴィ、メアリを助けに行け」


私は返事をしなかった。今の言葉は、聞かなかったことにしたかった。

空に稲妻が走る。雲が生じ、暗くなったと思えば、十を超える雷が落ちてきた。視界が一気に明るくなる。目が痛くなるほどの光の中で、ワイバーンの影が数え切れないほど海に落ちていった。雷は巨大魔物にも当たったらしく、体を震わせて海に落ちたそれは目を閉じていた。被害は敵にとどまらない。これだけの攻撃なのだから当然、甲板も真っ黒に焦げて所々火がちらついていた。


「……今の、ラムズがやったの?」
「そうだ」
「船、壊れちゃうよ」
「このままじゃどうせこいつにやられる」


ラムズは顎で巨大魔物を示した。死んだのかと思えば、鼻先で波が立っている。それに気づいて私は唇を噛んだ。ラムズの手が素早く動き、私の足元に光の円が描かれる。さっきと同じ、転移用の魔法陣だ。


「何?」
「メアリを守れ」
「なんで私が?」
「お前がこいつを倒せるのか?」


倒せるわけない。でも、よりによってあの子を守ることが私の役目なの?そのために呼んだの?……何ヶ月も放置して、呼び出す理由が、これ?考えれば考えるほど腸が煮えくり返り、まともに声も出なかった。その間にも円を縁取る文字はどんどん増えていき、光は眩く私の目を照らす。


「私、あの子のこと邪魔だと思ってるんだよ!?ラムズの宝石なんてみんな嫌い。生きてる宝石なんて大っ嫌い。そんなの壊れればいい!」
「ああ、そうだな」


海に浮かぶ巨大魔物の目が、ゆっくりと開いた。同時に、ラムズの手が空を掴んだ。魔法陣が発動する。


「私、助けな」
「レヴィ」


ラムズは私の言葉を遮り、空に上げていた手を乱暴に下ろした。そのまま私の頭をとらえ、自分の胸に引き寄せる。裸の胸に額がついて、ひやりと体温が下がった。


「お前も戻ってこい」





ラムズの声が耳から流れ込むと同時に、私はまたどこかへ転移された。さっきとは違う暗さ。森の中だということを瞬時に理解した。首を回して辺りを見回す。あの子の命なんてどうでもいいけど、魔物にやられて私が死ぬのはごめんだ。

背後で魔物の吠え声がした。心なしが喜んでいるように聞こえる。素早く振り返り、魔木の影に身を隠した。そっと顔を出し、様子を窺う。

数十歩は離れた先で、ロコルウルフィードの群れが何かを取り巻いていた。群れといっても、さっきのワイバーンほど手に負えない数じゃない。一体、二体……全部で五体。それが地面に横たわる肉体を食いちぎっていた。赤髪に白い肌。あの子の匂いが鼻をついて、脈が早くなる。

風に揺れる緑の木々に取り囲まれて、その血の海は、酷く鮮やかで美しかった。ロコルウルフィードの毛も、赤黒く染まって鈍い光沢を放っている。一体の魔物が、また肉体に口を寄せた。腕に噛みつき、いとも簡単に引きちぎった。体から離れたそれに、別の魔物たちが大喜びで集まる。ガツガツと貪るその姿を見ながら、私は舌を打った。

死んでるの、あの子じゃないじゃん。

ロコルウルフィードに食われているのは、ルテミスの船員だった。名前は覚えていないが見覚えがある。赤髪とはいえ肩よりも短く、体格はあの子よりずっと大きい。すでに片腕と腹を食われていたが、メアリじゃないことは明らかだった。でも、確かにあの子の血の匂いはする。すん、と鼻を動かして辺りの匂いを探った。

次の瞬間、ロコルウルフィードが鋭く吠えた。吠え声が重なり、数多の脚が地を蹴る音が、空気を震わせる。見つかった。即座に斬撃魔法を放ち、周囲の魔木を切り倒す。一体のロコルウルフィードは容易にそれを飛び越えたが、無防備に宙を浮くその隙をついて体を引き裂いてやった。

目の前で胴体の別れた仲間を見て、別のロコルウルフィードが痛々しい声を上げる。そういえばこいつら、仲間意識が強いんだっけ。変に煽ることはしないで、一気に方をつけた方が良さそう。私は両手を胸の高さに上げ、手のひらを空に向けた。右手には炎、左手には風を出現させる。そしてロコルウルフィードに向かって右手を突き出した。口元に持ってきた左手に、そっと息を吹きかける。

増幅された風と炎が混ざり合い、広範囲に火の波を生み出した。そのまま体を一回転し、四方から飛びかかってきたロコルウルフィードをまとめて炙る。魔物は地面を転がり、火から逃れようと体をこすりつけていた。こちらに背を向けて逃げようとするものもいたが、仲間を呼ばれると厄介なので首を切らせてもらう。あとに残った魔石を回収し、火の広がる森の中でぴんと耳を立てた。

ロコルウルフィードと魔木の燃える臭いで、鼻がほとんどきかない。あの子はどこにいるんだろう。声も呼吸音も聞こえてこない。守れって言うなら、ちゃんとあの子のところに飛ばしてよ。頭の中でぼやきつつ、とりあえずルテミスの方に足を向ける。

こいつがいるってことは、シャーク海賊団はルテミスと合流して再結成できたらしい。私がいない間にどんな楽しい冒険をしたんでしょう。苛立ちに顔を歪めながらも、血溜まりに手をつき鼻を動かす。やっぱりこの血、あの子のものが混じってる。周囲を見渡すと、木の枝が折れて何本も落ちているところがあった。立ち上がってそこに近づく。よく見ると葉に血が付着していた。

あの子に木を飛び越えるほどの跳躍力はないから、おそらくこのルテミスが投げたんだろう。ロコルウルフィードから逃すために。あの子は枝を折りながら魔木の群れを飛び出し、どこか離れたところに落ちた。ルテミスの位置と枝の位置を照らし合わせれば、大体の方向がわかる。

念のため足音を殺して歩を進めた。やはりあの子の匂いが強くなってくる。血と肉の匂い。自分の喉が、獲物を見つけたフォクシィのように鳴っていることに気づいた。

視界に赤がちらついた。髪の毛だ。今度こそあの子の髪の毛。私を取り巻く空気がそれを証明している。辺りはあの子の匂いでいっぱいだった。ゆっくりと近づいてその全身を目にしたとき、私は悠然と微笑んだ。

どうやらルテミスに投げられたときこの子はすでに気を失っていて、受け身なんてとれなかったようだ。仰向けに落下して地面に頭を打ちつけ、じわじわと血溜まりが広がっていた。未だ血は止まっていない。ロコルウルフィードの爪痕が両腕や胸元を裂き、美しい鱗をズタズタに剥いでいる。爪と爪の間に入り難を免れた鱗は、血塗られてはいたものの私が最後に見たときよりもずっと綺麗になっていた。数ヶ月でこんなに立派に生えるなら、何度壊しても無駄じゃん。






(中断。あと最低一話、多くて三話予定)