楽観的自殺論

 彼を見たのは、鉛のように重く陰鬱な雨が降る冬の昼下がりのことだった。灰を重ねた分厚い雲が空に幕をかけ、むしろこの汚らしい路地裏──ここらの人は裏リーゲンと呼んでいる──がいくらかマシに見えるくらい光の失せた日だった。

 挫けたように傾いた家々、屋根のない廃墟の瓦礫が挟む砂利道に、朽ちて穴だらけになった誰かの古着や布団がまだらに転がる。男はそんな裏リーゲンの街並みにひどく不釣り合いだった。服だけは着替えているのか、緩いTシャツを着流しジャケットの袖を少し捲っている。だが裏リーゲンの者にしては足や腕は皮と骨以外のものがちゃあんとあるし、顔は陶器を磨いたよりも白い。さらに男はガラの悪いアクセサリーを身につけている。お貴族様のつけるアクセサリーとは違うものの、こんなところにいたらいっぺんに標的にされるくらい、嫌味にきらきら輝いている。
 それでもこの男を襲う者がおらず、みんな積み上げた煉瓦や立て付けの悪い扉の隙間から覗いているのは、男の銀髪があまりに犯しがたかったからだろうか。それとも、ここが俺の庭だなんて、そんな風に気取った足取りをしていたからだろうか。

 大きめのボロ布にくるまって、息を詰め心拍を押し込んだ。人間とは違って、ワタシは限界まで気配を消すことができる。その上耳もいい。ここからあの男まで五キロルは離れているが、彼の雫を繋いだような声はしっかりと届いていた。

「何日?」

 そう問うた男の前で、皮と骨だけになった浮浪者が膝を左右に踊らせている。怖いからじゃない、中毒のせいだろう。

「ご、ご。いつか、五日分だ!」

 最後の声は思ったよりデカかった。砂を擦り合わせたような不快な声に、ワタシは思わず耳を折る。耳の黒い毛並みを二回ほど撫でつけてから、またピンとそれを立てた。
 布団の隙間から目を凝らす。垢や砂で黒ずんだ手を広げ、浮浪者が男へ小粒の宝石を見せた。男の表情は見えない。

「いいよ。五日ね」

 男は宝石を掴み、代わりに浮浪者は色ガラスの小瓶をひったくるように受け取った。魔物の群れか何かに襲われるとでも思っているのか、大事そうに胸に抱えて猫背気味に倒けつ転びつ駆けていった。
 ──男が戻ってくる。
 気配を探れば、ワタシ以外にこの取引を見た者はいないようだった。さっきの路地には人がいたのに。夢中になって男を追いかけているうちに、見慣れないところまで来ていたみたいだ。

「ッニャァアアッ!」

 思わず口を抑える。尻尾は痛い。痛い。しかも三本同時に掴まれた。え? もっと遠くにいたはずだろ。しかも近づいていたことにまったく気づかなかっ──

「ケットシー……いや、カクタスシャットか」

 わかってるなら話が早い。ワタシは途端に全身の毛を逆立てた。黒くしなやかな毛並みがぴいんと張って、数センチル伸び釘のように硬く鋭くなる。尻尾を掴んでいた男の掌を長い棘が数十本貫通し、手首の骨が割れる。尾を振って取れた手首を振り落とそうとすると、逆の腕で腕を掴まれた。
 なに考えてんの? 両手失ってもいいわけ?

「お前が聞いてたんだろ。殺されたくねえなら来い」

 殺されたくない? 手首を折ったのはワタシのほうだ。首を捻って声のほうへ視線を合わせた。痛みをまったく感じていない人形みたいな顔。その下で、折れて千切れたはずの手首が地面で腐り炭と化し、逆に彼の腕には新しい手がついていた。

「ッヒ! な、なに。|獣人《ジューマ》? どこの? なんの?」
「力、持て余してんだろ。食わせてやるから来いよ」
「い、いい。金なんていらない」
「金はいらなくとも、食いモンは必要だろうが」

 ワタシは左右を見渡した。やっぱり人はいない。急にこの男が怖くなってきた。もちろん初めからいけ好かないやつだとは思っていたけど、どうにもおかしい。
 |獣人《ジューマ》? でも獣の匂いはしない。魔植の|獣人《ジューマ》かもしれない。もしくは海の? 海の匂いもしない。いや──そもそもこの男、匂いがない。
 爪を限界まで鋭く伸ばすと、指の二倍ほどの長さになったその鋼で彼の顔を勢いよく引っ掻いた。2センチルは爪が埋まったはずだ。
 彼の青白い皮膚、碧眼の上から顎の下まで真っ直ぐに赤い切り傷が三本。ずいぶん整った顔だと思ったけど、それを汚した後悔よりも、男への恐怖心のほうが勝った。

「だから意味ねえって」

 彼はわたしの首根っこを掴む。そこはだめだ、一番魔力が、痛いし、棘を生やすこともでき────。



 目が覚める。風がない。いつもの吹きさらしの地面じゃない。体にかかっていた毛布から腐ったゴミの匂いはしなかったし、そもそもこんな毛布なんてなくても、十分暖かい場所だった。
 起き上がると、いつかに怪我をして膿んでしまっていた脇腹の傷が癒えているのに気づいた。

「どこ」

 視界には冷たい鉄格子の柵が見える。あぁ、奴隷として売られるんだ。あの男に捕まったんだ、ワタシ。ついに上がっちまったか。ひとまず叫ぼうとして、柵についた格子状の扉が空いているのが見えた。錠が外れている。

「空いてる」

 閉め忘れたようには見えなかった。おそるおそる手で押しこむと、ぎぃ、と錆びた音を立てて牢屋が口を開けた。これで廊下に出られる。
 両側の牢屋はどこも抜け殻で、誰かがいたような形跡もほとんどなかった。地下室なのか、窓はなく青白い光を灯すランプが等間隔に並べられている。湿っぽい匂い、面白みのない刺々しい床、黒を敷き詰めたような鬱屈した空間。ふつうの人なら嫌がりそうだが、カクタスシャットの|獣人《ジューマ》であるワタシとは存外調和がとれた。
 真っ直ぐ歩くと大きく開けた場所に出る。やっぱり灯りは青を透かしていて、年一のプラチナムーンを思わせる。その部屋の奥、黒鉄の肘掛椅子に男が座っていた。

「起きたか」

 顔に付けたはずの三本の傷跡は、綺麗さっぱり消えていた。顔を見ないようにしながら、端的に返す。

「なに。何がしたいの。なんの用」
「見られたから。取引。殺さないといけない」

 ワタシは眉を鋭く吊り上げ、金の瞳孔をきゅうと眇めていく。でも違和感に気づき、無意識に前で構えていた腕を下ろした。

「でも殺してない」
「カクタスシャットだったから」
「それがなに」
「強いだろ、お前」

 あんたには捕まったけどね。皮肉を飛ばそうとした口を急いで噤む。下手にジョークを打つのはまずい。

「だから」
「仲間になったほうが話が早いと思って」
「……ナカマ?」

 こいつが一生涯使わなそうな言葉だ。あの『仲間』と同じ意味の単語を口にしたとは思えない。
 男の前には椅子と揃いのアイアンテーブルがある。縁は錆びて赤黒くなり、机上は擦れたせいで銀の細かい傷が奇怪な模様を残している。その親しみゼロの机の上、男は小瓶をひとつずつ置いていった。さっきの青い色ガラスでできた瓶だ。

「なにかわかる」
「……フシューリアの、生き血」

 これは俗称だ。光の神フシューリアの血を飲むように、どんなことでも成し遂げられるようになる──下世話な言い方をすれば、自分が最強になったように思える。だからそう呼ばれている。依存性が強い薬のひとつだ。

「そう。これを売ってる」
「で?」
「あの路地、行きたくねえんだ。お前みたいなやつが多いから」

 だったら売らなきゃいいのに。だいたいどこから薬を仕入れてるか知らないけど、こういうのって、もっと大きいお貴族様、人間様が関わっているんだと思っていた。
 ワタシの考えを読み取ったように、彼は続けた。

「金を稼ぐためだけにやってるわけじゃねえから」

 それ以上は聞くな。歯切れのいい彼の台詞は暗にそう伝えていた。

「やる理由がない」
「じゃあ死んでもらう」
「拒否権なしってこと」

 彼は首を傾げ、初めてこちらを見た。人形みたいな造形が薄い笑みを生む。

「まあ、そういうことになんな」

 ワタシは憎々しげに机の小瓶を見つめた。こういうものがあるから変な輩が裏リーゲンに増えたんだ。絶対に関わりたくないと思っていたのに、まさか売る側になるなんて。

「知らないよ、ワタシ、いつ裏切るかわかんないよ」
「裏切る理由、あんのか?」
「手伝う理由がない」
「ここで寝泊まりしていい。食いたいもん食わせてやる。それ以外に必要?」

 金をやるとか、言わないんだ。
 なんとなくそれがしっくりきた。こういう取引でだいたい持ちだされるのは『金』だ。金なんていらない。必要だったら今ごろ吟遊者にでもなってる。
 ワタシは牢屋の並ぶ廊下へ目を移した。あそこなら暗いし、風や雨に当たる心配もない。昼の光を気にする必要も、寒さに凍えることもないだろう。霧がかったランプの灯りも気に入った。

「床、痛いし冷たい」
「意外だな、いらねえと思ったのに」彼は軽い調子で笑う。「次来たときには用意しとく」

 ワタシはゆっくり頷いた。

「……あと。あそこの鍵、壊して」

 彼は椅子から立ち上がった。透明な息を零す。「いいよ」

 二人で廊下を歩き、最初にいた牢屋へ戻ってきた。男は扉にかかった錠に手を当て、小さく何かを呟いた。錆びた錠が鋭い音を立てて床に転がる。殺風景な廊下を、わん、わん、わんとこだましていく。

「名前は」

 ワタシは顔を上げる。聞かれると思ってなかった。

「必要?」
「ないと呼びづらい」
「ガネリア。ワタシは。ご主人サマとか、呼ばなきゃいけないわけ」

 男は喉の奥で怪しく笑った。

「呼んでくれるとは思ってなかった」彼は背を向けて廊下を歩いていく。「ラムズ」そっと手を上げてひらひらと振った。「よろしく、ガネリア」